魂は柱の様に

ROSE

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理不尽な父

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 家に帰っても異母妹が一緒というのは少し落ち着かない。普段であれば工房に逃げ込んで自分の作業に没頭してしまうのだが、アマンダに楽器を譲る約束をしてしまったのだから仕方がない。
 早く終わらせようと、完成した楽器をいくつか作業台の上に乗せる。
「今あるフルサイズはこれで全てです」
 全部で七本。意外と作っていたと言うべきか、意外と少ないと言うべきか。先日殿下に譲ってしまったものと、宮廷楽団の方に頼まれて二本譲ってしまったものがあっただろうか。他はヴィオラと分数サイズ、あとは気まぐれで作ったチェロがいくつかある程度だ。コントラバスは誰も弾かないし大きすぎるのでヴィオラとしては制作したことがない。
「わー、これかわいいです」
 迷うことなく側面に花を彫った装飾ヴァイオリンに手を伸ばすアマンダ。けれど初心者にそれは薦められない。
「ヴァイオリンの経験は?」
「ありません。ですがこれから習いたいとお父様にお願いします」
 やっぱり全くの初心者だ。だとすれば癖が少なくて鳴りやすい楽器の方が長続きするだろう。殿下みたいなタイプが特殊なだけでああいった楽器は人を選ぶ。
「初めてなら、これかこの辺りが鳴りやすいかと」
 特に大きな音が出やすい楽器を選んで渡す。
「……なんというか地味、ですね」
「一般的なヴァイオリンの形よ。ここの板が少し厚めだから響きやすいと思うわ。上達したら楽器を取り替えなくちゃいけなくなるけれど、最初のうちは音が出ることの方が大事だし、鳴らない楽器だとやる気が続かないわ」
 そう言えば前世で一番初めに触った楽器は酷い物だったと思う。思えば魂柱が倒れていたのだろうけれど、音楽室で忘れ去られていた楽器だった。チューニングすら知らない生徒と、そもそも弦楽器なんて扱ったことのない教員。まともな音が鳴るはずがない。弓に松脂すら塗っていなかったはずだ。
「弓の持ち方はわかる?」
「い、いえ」
 アマンダは少し緊張した様子を見せる。これは良くない。変に力が入ると余計に音が鳴らなくなってしまう。
 まずは弓に松脂を塗るところから始めさせた方がいいかもしれない。
「じゃあ、まずは弓に松脂を塗りましょう。これは私の使いかけだから塗りやすいと思うわ。毛を変えたばかりの弓だから時間を掛けて丁寧に塗って」
 最初の数回だけ実演して見せ、弓と松脂を渡す。
 たどたどしい手つきでかなり苦戦しているように見える。
 殿下は……松脂の塗り方を教えなかったななどと考えてしまう。
 本当に気まぐれだった。ただ、遊びに来た男の子が、工房を見て目を輝かせていたから、自信作をあげたくなってしまったのだ。
 しばらく、弓に苦戦するアマンダを眺める。この子はどんな音を奏でるのだろう。ヴァイオリンを習いたいと言うことは教養課程で音楽を選択するのだろうし、きっと専門にヴァイオリンを選ぶつもりなのだろう。なら良い楽器を持たせてあげたい。
「うん。いい感じ。じゃあ、楽器の構え方。顎と肩と鎖骨で支えるのだけれど、最初のうちは大変かも。肩当てを探したら少し楽になると思うわ」
 尤も、私は肩当てを使わないし、殿下も使わない。だから工房には置いていない。
「肩当て?」
「楽器を支えるための道具です。楽器店で購入できます」
「ここにはないのですか?」
「私も殿下も使わないので。殿下は、なんというか、ある種の天才です。初めて楽器に触れた僅か数日後には難曲を弾きこなしていましたから」
 あんなに弾き込んでもらって、あの楽器は幸せだっただろう。
 そう言えば、あの分数楽器は弦の交換を頼まれたことはあっても一度も損傷を与えられたことがなかったかもしれない。そんなに丈夫な楽器だっただろうか。
「あの人が使わないなら私もそんな補助道具使いません」
 アマンダはどうしても殿下に張り合いたいようだ。
「そう? じゃあ、まずは左手をこうやって……肩と鎖骨と顎で支えて」
 アマンダに楽器を握らせ、持ち方を教える。うん。一応持つことは出来た。
「次は弓をこうやって持って」
 弓を右手に持たせる。
「この角度で弦に当てて……そのまま動かして」
 初めて会った日、殿下にも同じように教えたかもしれない。
 初めの音が響く。
 あの日の殿下と同じように、アマンダも目を輝かせた。
「鳴った!」
 本当に嬉しそうに喜ぶ姿。職人としての誇りね。
「他の子も試す?」
 そう訊ねると、一瞬ぽかんとした表情を見せ、それからはいと頷く。
 最初の楽器を回収し、もう一つ、比較的鳴りやすい楽器を選びその手に持たせた。
 最初に渡した楽器よりやや色が暗い。この辺りは好みの問題かもしれない。木材は同じ。けれど少しだけ表板の厚さが違う。指板のカーブは押さえやすいように工夫したつもりだ。
 まだ少し補助が必要のようだから、弓を正しい角度で弦に添える手助けをする。
 この響きの違いが彼女に理解できるだろうか。少しばかり不安が残る。
 けれども、彼女は嬉しそうに笑った。
「さっきより柔らかいです」
「そう。この子も良い楽器だと思うわ。さっきの楽器より強弱の表現が付けやすいからある程度上達しても楽しめる楽器だと思う」
 自分の作品をこんな風に語るのは少し気恥ずかしい。けれども心を込めて作った楽器だ。大切にしてもらえたら嬉しい。
「お姉様は、どちらが合うと思いますか?」
 控えめに訊ねられる。
「え?」
「お姉様が選んで下さい」
 そう言われると困る。どちらも私の作品だ。
 けれども……。
「長く続けるならこっちの楽器の方が楽しめると思うわ。上達して不満になったらもっと良い楽器を探したら良いと思う。その時私の作品じゃなくても、もっとあなたに合う楽器を探したら良いと思う」
 そう告げるとアマンダは少し驚いた顔を見せ、それから本当に嬉しそうに笑んだ。
「では、この楽器を下さい」
「はい、その弓も差し上げます。あとは、松脂は私の使いかけだけど、たぶん使いかけの方が塗りやすいと思うわ。新しい松脂を買ったらヤスリで少し削ると塗りやすくなると思うわ。それと、演奏中に弦が切れてしまうこともあるから、一応予備の弦も一組。でも、弦はとっても好みがあると思うから楽器店で自分の好きなのを選ぶべきよ。これは殿下がいつも練習用に使っているナイロン弦で……少し慣れたらガット弦も試してみたらいいかも」
 必要な物をケースの中に詰める。
「あの人、いつもここに?」
「ヴァイオリンの点検や弦の交換は私の仕事だと思っているみたい」
 一度も賃金を貰ったことはないけれど。それでも構わない。ただの趣味だもの。
「お姉様はご自分で演奏はなさらないの?」
「私は演奏より作る方が好きだから。でも、作る途中に試奏くらいはするわ」
 ニスを塗る前に音を確かめたり、完成した時に少し弾いてみることはある。
「お姉様の演奏、聴いてみたいです」
「人に聴かせられるような腕前じゃないの」
 見られていると思うと緊張して指が動かなくなってしまうから。
「お姉様のお薦めの弦はありますか?」
 参考にしますとメモを取り出す。どうやら本気でヴァイオリンを勉強するつもりらしい。そのことに少し安心する。
「こればかりは好みになるから一概には言えないけれど、私もこの弦の組み合わせがお気に入りよ。華やかな音が出るの。もう少し柔らかい音が好みだったら、こっちのメーカーの弦がいいかしら」
 スチール弦は扱いやすいけれど、やっぱりナイロン弦の方が良いと思う。
 そう思ったところで、なぜか昔殿下に弦の交換を頼まれた時を思い出す。

「ヴィオラ、ヴァイオリンの弦が切れた。なんとかしろ」

 人に物を頼む態度ではない。しかもその場に居たブルースが笑い出したのだ。なにがおかしいのか訊ねたら、ヴァイオリンの弦交換をヴィオラに頼むのがおかしかったようだ。楽器と同じ名前というのがややこしさを産んだのだろう。
 大体、殿下は自分で弦の張り替えくらい出来る。駒の調節だって自分でやろうと思えばできるはずだ。なのにわざわざ私にやらせる。
 たぶん甘えたいだけなのだろう。そう思って言われるままにしてきたけれど、やっぱり時々噴き出しそうになってしまう。
「お姉様?」
 不思議そうなアマンダに覗き込まれた。
「きっと良い先生が付くと思うから、弦の交換の仕方は先生に習って」
「え? 交換はお姉様がして下さるのでは?」
「ヴィオラにヴァイオリンの弦の交換をさせるの?」
 ブルースが言っていたことをそのままアマンダに言うと、彼女はぽかんとした顔をしている。ああ、通じなかったのか。
「冗談よ。私と同じ名前の楽器があるの。気にしないで。気に入った弦があったら持ってきて。交換だけならすぐに済むから」
 そう言って一揃いをアマンダに持たせる。
「ありがとうございます。ふふっ、早速お父様に自慢しよう」
 アマンダは嬉しそうに楽器ケースを持って屋敷へ向かう。
 やれやれやっとくつろげる。
 広げた楽器を片付けながら息を吐く。
 たぶんもうすぐ夕食だ。ニスを塗るような時間はない。
 今日は大人しくここで宿題を広げることにしよう。


 
 自分で言うのも妙な話だけれど、私は根暗で、それでも真面目な方の人間だと思う。宿題は早い段階で終わらせるし、宿題をしている最中に殿下が邪魔をしに来ても殿下に付き合った後で宿題を終わらせる程度には真面目な人間だ。それに忍耐力もある方だと思う。なにせ八歳の時からずっとあのわがまま殿下に付き合っているのだし、あの理不尽な父にも耐えている。一歩間違えれば殺人事件に発展していてもおかしくないほどの理不尽さがあるとは思うけれど耐えている。けれどもそれは単に臆病なだけなのだろうか。
 夕食の席、私はいつも通り無言で食事を取っていた。アマンダは嬉しそうに父にヴァイオリンの話をしていたが、その話を聞いて父は私を強く睨んだ。
「アマンダにヴァイオリンを? お前の中途半端な出来の楽器を持たせるなど我が家の恥だろう」
 なんという暴言。これでも前世は弦楽器職人だ。それ一本で食べていた。今だって十分な品を作っていると自負している。
 そして更に続けてとんでもないことを口にする。
「アマンダ、週末に新しい楽器を買ってやろう。そんな不出来な物は捨ててしまいなさい」
 私の作品を、不出来だから捨てろと?
 この人はなにを言っているのだろう。音も聴かずに、それどころか実物に視線を向けることさえなく、不出来なヴィオラが作る物は不出来だと決めつけている。
「お父様、私が無理を言ってお姉様にお譲り頂いたのです。私はこの楽器がいいです」
 アマンダが慌てて父を宥めようとする。
「だがアマンダ。専門の職人が作った楽器の方が優れているに決まっている。宮廷楽団員が多く通う専門店がある。そこで新しい楽器を買おう」
 なんという暴言。専門の職人わたしが作った品を確認もせずに決めつけるなんて。
 物の価値がわからない父はきっとぼったくられて終わるだろう。
 宮廷楽団員が多く通う王都の老舗楽器店は確かに良い楽器がある。しかしそれと同じくらい粗悪な楽器もある。運が悪ければ客を見て足下を見るような店員に当たってしまうかもしれない。値段さえ高ければ良い物だと思い込んでいる父のような男はまさにカモにされるだろう。
 しかし、週末は殿下が同行して下さる。彼が一緒なら良い楽器が手に入るかもしれない。実際私自身他の職人の作品に興味がある。
 けれども……あの物の価値がわからない父が職人達を怒らせないかが不安だ。下手なことをするとアマンダが今後のメンテナンスを受けられなくなる可能性がある。
「そうだ、週末はお姉様の婚約者の方も同行して下さるの。とてもヴァイオリンがお上手なのだとか」
 アマンダが話題を変えようと殿下の話を持ち出すと、父はあからさまに不快を示した。
「なぜ殿下が。ヴィオラ、なぜお誘いした」
 殿下が居ると媚びを売るので忙しくなってしまうのが気に入らないのだろう。
「申し訳ございません……ですが、殿下が相手では断ることもできません」
 そもそもは殿下とアマンダが言い争って殿下を拗ねさせてしまったことが原因なのだが、父にはそんなことは関係ない。
 父はまるで殿下のように拗ねた仕種を見せる。
 不快だが逆らうことが出来ない。私に当たり散らしたいが、殿下が出てきては厄介だというところだろうか。
 しかし、父を見ていると思ってしまう。殿下がこのまま大人になれば父のようになってしまうのではないかと。
 不安を誤魔化すように水を飲み、それから無理矢理食事を詰め込んでその場をなんとかやり過ごした。



 週末、家族揃っての外出とは言っても私は一人他人のような居心地の悪さを抱いている。予定時刻より少し早く現れた殿下はお忍びのつもりなのだろうけれど隠しきれない美しさと一流の職人の仕立てで誰がどう見ても高貴な方にしか見えない。
「ふふっ、どうだヴィオラ! これなら王子だとは気付かれまい」
 当の本人はドヤ顔で完璧な変装だと思い込んでいるようだが。
「よくお似合いです、殿下」
「殿下は止せ。今日はお前も僕をクレムと呼ぶことを許す」
 どうだ呼んでいいんだぞとまたドヤ顔を見せられると反応に困る。
 このおつむが弱い子供じみた殿下にときめいているなんて私はどうかしている。
「クレム様、今日は妹の楽器を選びに行くのですが、彼女に良い楽器を選ぶコツを伝授して頂けないでしょうか」
 馬車の中でそう告げると殿下は呆れたような顔をする。
「楽器自体のことなら僕よりお前の方が詳しいだろう」
「しかし、父は老舗楽器店で良い楽器を選ぶべきだと。私の未熟な楽器ではアマンダの成長を妨げることになってしまうかもしれないと」
 思い出しただけで悲しくなってしまう。私の楽器は、音さえも確認されずに捨ててしまえと言われてしまったのだ。
「ヴィオラ、国一番の演奏家である僕が保証する。お前の作る楽器は最高だ。国宝にだって劣らない。実際僕は、おじいさまの楽器より、お前の作品の方が好きだ」
 力強く手を握られ驚いてしまう。
 普段からは想像も出来ないほどの逞しさ。
「たとえ、お前が僕の妻になることを拒んだとしても、僕は演奏家として、お前のような職人を手放したりはしない」
 それは、励ますために言ったつもりなのだろうか。
 けれども、今の私はその言葉に傷ついてしまう。
 それはつまり、婚約を解消しても構わないと彼に言われたようなものだ。
 不安が過る。
 いや、既にこれは決定事項なのかもしれない。
 私は既に知っている。私が惹かれたこの人は……きっと異母妹アマンダと結ばれてしまう。そんなこと、わかりきっている。卑屈で根暗な楽器職人より、愛らしく溌剌とした彼女の方が殿下に相応しい。
「……そこまで認めて頂けるなんて……職人として誇らしい限りです」
 涙を飲み込むように、そんな言葉をひり出すのが精一杯だ。
「ヴィオラ?」
 泣いてはいけない。泣いてなんかいない。
「あー、その……今のは少し強がりだった……僕はお前に拒まれたらお前を誘拐して閉じ込める自信がある。大体お前みたいなへろへろが僕の身体能力に勝てるはずがない。なにせ僕が唯一アドルフ兄上に勝てるのが足の速さと体力だからな」
 そこは胸を張ってしまっていいのか。もっといろいろ誇るべきことを身につけて欲しい。仮にも一国の王子だ。
「もう一つ、ヴァイオリンの腕をお忘れですよ」
 そう告げれば照れくさそうに頬を染める。
「ま、まあそうだな」
 それから、珍しく賑やかな殿下が黙り込んでしまい馬車の中はただ馬の足音と車輪の音だけが響く。どうしてか、彼の表情が時折切なそうに見えてしまうけれど、それは単に私の心境を反射してそんな風に感じさせているだけなのかもしれない。
 父と継母、異母妹の三人は別の馬車で隣を走っている。
 正直なところ、殿下の馬車はとても目立つのですぐにでも降りたい気分だけれど、あの家族の馬車に同乗出来るほど私は図太くない。
 ただ一つ、言いたいことは、侯爵家の馬車より華美な馬車に乗ってくるなんて忍ぶ気が全くないだろうということだ。つまり殿下の残念な頭ではそんなことを考えることすら出来なかったのだ。



 楽器店に入ると、店主はとても緊張した様子だった。それもそうだろう。殿下は演奏家としてとても有名だ。この規模の楽器店の店主であれば演奏会で殿下の姿と演奏の腕を知っていてもおかしくはない。
「今日はプライベートだ。僕のことはクレムとして扱ってくれ」
 殿下は店主にそう告げ、店内の楽器を見渡す。
「ヴィオラ、アレはなんだ? お前の工房で見たことがないぞ」
「コントラバスですね。大きすぎるので私は作りませんが興味深い楽器ですよ」
 チェロと似ているのに起源は別物というのが面白い。前世では何度か作ったことがあるので構造としては知っているがヴィオラとしては身近に奏者がいないので作ったことがない。もし祖父が奏者だったらきっと夢中になって作っただろうと思えるほど私を魅了する楽器の一つだ。
 殿下は子供のようにはしゃぎそうになったのをなんとか耐えようとしている。それもそうだ。プライベートとは言え大勢の人が居るのだから。
 この楽器店はとても従業員が多い。宮廷楽団御用達ということもあり平民の演奏家さえ足を運ぶ。価格は少し高め。相場にしても高い方だろう。けれども庶民も頑張れば手が届きそうな低価格帯の商品もある。大抵は粗悪品だけれども安くて良い品もあるから侮れない。
 殿下はショウケースの中の楽器をいくつか眺めているが特に惹かれる品はないようだった。
「クレム様、試奏だけでもいかがでしょうか」
「新しい楽器を貰ったばかりなんだ。今はこれ以上の楽器とは出会わないと思う」
 殿下は大切そうに楽器ケースを抱き上げた。その姿が少し意外に見える。
 なるほど。外ではこのように振る舞っているのか。完璧な王子に見える。
「娘に楽器を選びたいのだが、侯爵家の娘に相応しい楽器を用意してくれ」
 父が割り込んで尊大に言う。少しは恥じるべきだ。
「ではお嬢様、こちらへ」
 店主が私に声を掛ける。
「いえ、私ではなく、妹に。アマンダ、こちらの店主さんに良い楽器を選んで貰って」
 アマンダに声を掛けると、彼女は少し不貞腐れた様子だった。
「私はお姉様に頂いた楽器が気に入ったのに、お父様ったら絶対ここで良いのを買えとおっしゃるのよ」
 店主に愚痴ったところで父の態度が変わるわけでもあるまい。
「ヴィオラの楽器? 見せてみろ」
 殿下の方が反応を示した。アマンダは未練がましく昨日渡したヴァイオリンを持ってきたらしい。おそらく専門家に見せて父を説得しようとでも思ったのだろう。けれども残念な頭の父は専門家の意見なんかに耳を傾けない。そんなことが出来るような人間ならあんな風にはなっていないはずだ。
 ゆっくりとケースを開けるアマンダ。興味深そうな店主。その二人よりも早く楽器を手に取ったのは殿下だった。
「これ、弓もヴィオラのか?」
「はい。一応。毛も変えたばかりで昨夜アマンダが頑張って松脂を塗りました」
 そう告げると殿下は一瞬首を傾げ、それから当然のように楽器を構える。
「少し重いな」
 そう言いながらも先日聴かせてくれたばかりの難曲を奏でる。ああ、いい音だ。殿下の演奏にも十分ついて行けている。悪くない楽器どころか、きっとアマンダが子を産んだとして、その子が大きくなったときにも使ってもらえるような楽器になるはずだ。
「んー? これがあるなら新しい楽器はいらないんじゃないか? 良く鳴るし、メリハリも付けやすい。これなら宮廷楽団の試験にも使えるだろ」
 殿下は不思議そうに首を傾げる。
「なんでこれがあって新しい楽器を買いに来たんだ? 入門には勿体ない、と言いたいところだが、これだけの楽器を使えば真面目に練習したくもなるだろう」
 真面目な顔でそんなことを言われてしまうと照れるものがある。
「一体どこの職人の品ですか?」
 店主が慌てて楽器を確認しようとする。
「どこの職人って……僕の婚約者が作った楽器だ。ヴィオラは楽器作りが趣味で、僕の一番最初の楽器を、そもそも楽器を弾くきっかけをくれた素晴らしい楽器職人だ」
 よくもまあ、本人が居る前で真っ直ぐべた褒め出来るものだ。きっと今の私は茹で蛸みたいになってしまっているだろう。
「なんと……個人の趣味制作とは思えない……これは弾き込めば更に良い楽器になりそうですな」
 店主が感心したように言う。
「この楽器を手放すのであれば是非買い取らせて頂きたい」
「手放しません! お姉様が私に下さったのだから、私はこの楽器がいいんです」
 アマンダは意地になっている。けれども父はそんなやりとりを面白くないと思っているのだろう。
「店主、私は娘の楽器を選べと言ったはずだ。侯爵家の娘に相応しい楽器を」
「しかし、この楽器を超える物となると……」
 店主は少し困惑を見せ、それから後ろのショウケースに視線を向ける。国宝級楽器が並ぶこの店で一番高級な価格帯の一角だ。
「こちらからこの辺り……年代物でお値段は張りますが良い楽器です」
 初心者のアマンダに国宝級の楽器を勧めようとするなんてどうかしている。それを買うつもりになったらしい父はもっとどうかしているだろう。
「おい、店主、これネックが下がってるぞ。あとそっち、ちゃんと修繕したのか? 罅入ってるぞ」
 殿下はショウケースの中の楽器を見て不満そうに言う。
 言われてよく見れば、かつては国宝級だったと言うべき楽器達が陳列されていた。まあ、直せばなんとかなりそうではあるけれど、このままではちょっとした問題がありそうな子たちだ。
「この子、駒の角度おかしいです」
 思わず口を挟んでしまう。
「も、勿論お渡しの際にはきちんと調整してお渡しします」
 店主は慌てた様子で言う。
 ああ、つまり父に腹を立てて使い物にならない楽器を高額で売ろうとしたのか。たぶんこの楽器店の店主は物の価値がきちんと理解できる人かどうかこの一角で試し、彼が納得する相手でなければ金を積まれても国宝級の楽器は渡さないのだろう。普段なら、本当にこの楽器を売ったりはしなはずだ。もし本当に売ってしまうのであれば軽蔑する。
「この子、全くの初心者だから楽器のこともよくわかっていないと思うの。だから、店主さん、初心者でも扱いやすい良い楽器を選んであげて下さい」
 店主に頭を下げれば、彼は自分の行いを恥じたような様子を見せる。
「はい。勿論です。こちらに。鳴りやすく扱いやすい楽器がいくつかありますから」
 店主はアマンダを連れて行く。
「……あいつ、ヴィオラの楽器よりこのネックの下がった楽器の方が良い楽器だって? こんな店に宮廷楽団を任せて大丈夫なのか?」
 殿下は本気で呆れている様子だった。
「クレム様、店主さんは父の態度に腹を立てて父を試そうとしただけです。私ならお引き取り下さいと言ってしまうような場面でしたし」
 実際前世の私ならそのくらい言ってしまっただろう。人に教えを請うなら謙虚になるべきだ。
 父は不機嫌に、継母はどこか気に入らなさそうに店主の後を追う。
「あの女がお前の新しい母親か?」
 殿下は忌々しそうに継母の背を睨んだ。
「はい。ローズマリーさんとおっしゃるそうです。本名かは存じ上げません」
「名前が疑われるって余程だな。ちょっと気に入らない」
 珍しい。殿下が直接本人にではなく気に入らないなどと口にするなんて。
 良くも悪くも素直で一直線な殿下は大抵思ったことすぐ本人に口にしてしまう。いつもは無駄にきらきらと輝いている碧い瞳が少し翳った気がする。
「……ヴィオラ、お前は……僕との婚約をどう思っている?」
 少しだけ緊張した様子で訊ねられた。
 急にどうしたのだろう。いつもなら過剰なまでの自信で「僕の妻にしてやるのだから光栄に思え」くらい言ってしまう人なのに。
「一生殿下の楽器のメンテナンスを担当させて頂けるなんて光栄です」
「……そうじゃない」
 殿下は不満そうな様子を見せる。
「お前は、相手が僕で不満はないのか?」
 そんなことを訊ねられるなんて考えもしなかった。むしろ、自分は不満なんて口に出来ない立場だと思っていたからこそ、考えないようにしていたのかもしれない。
「……不満……不満というか……もう慣れてしまいました」
「なっ、お前! この僕に不満があるのか?」
 まさか本当に不満があると言われるとは思わなかったという反応はやはり彼らしく、可愛らしい。少しからかおうなどと思ってしまった。
「あ、留年されるようでは困ります」
「ぐぬぬっ、だったらお前が僕に勉強を教えろ! 大体教師の話し方が退屈すぎるのがいけないんだ。ヴィオラが教えてくれたら僕だって集中する」
 なんという身勝手な。先程の少ししおらしい態度はなんだったのだろう。
 けれどもこれでこそ殿下だ。
「……殿下のそういうところ……嫌いではありません」
「は?」
「身勝手でわがままな酷い人だと思うこともありますが……なんというか、その勢いというか、思ったことをそのまま口にしてしまうような素直なところ……一緒に居ると安心します。それに……殿下の演奏、本当に好きですよ。あなたのきっかけになれたことを私は生涯の誇りに思います」
 あの気まぐれが素晴らしい奏者を生み出したのだから。
「……僕は……お前が聞きたいならいつだって演奏してやる……」
「楽しみにしています」
 そう答え、アマンダ達に合流しようかと思った。けれども、それは殿下によって止められてしまう。
「ヴィオラ……確かに、僕は頭は悪いとは思う……けど、直感力は悪くないはずだ。それに一度惚れ込んだら一途な性格だと思う。そうじゃなきゃ、こんなにヴァイオリンを続けたりなんてしない」
 突然抱きしめられ、困惑している。それに、彼の声が少し苦しそうに聞こえる。
「正直、ヴァイオリンより剣術の方が好きだし、乗馬も好きだ。体を動かすことが大好きだから、お前を誘って遠乗りに行きたいと思うこともある。お前は引きこもりがちだし、目立つのが嫌いで人前でなにかをするのが苦手だから、きっと誘ったら落馬してしまうのだろうななんて思って実現していないけど」
 突然何の話をしたいのだろう。困惑してしまい、どう答えるべきかわからず相槌さえ打てずにいる。
「……あの日、お前が僕にヴァイオリンをくれなかったら、僕は一生楽器に触れずに過ごしたと思う。けど、今はヴァイオリンが好きだ」
 強引に彼の方を向かされる。
「けど、それ以上にお前が好きだ」
 大声で。それも公衆の面前で一体なにを言い出すのだろう。
「僕はお前以外を妻にする気はないからな! どんなに嫌だと言ってもどこに逃げても絶対捕まえてやるから覚悟しろ!」
 いやいやいや、途中まで少しロマンチックとか思ってしまったが、これは脅迫だ。
「……殿下、それは最早脅迫です」
「いいだろ。お前は僕のなんだから」
 なんであなたの方が照れるのだろうか。
 店員や客の視線が集まって痛い。
「……帰りたい」
 私は見世物になんてなりたくないのに。また殿下に振り回されてしまっている。
「お、お前……僕が覚悟を決めて……口説いてやってるのになんだその態度は……」
 あ、口説かれていたんだ。
「殆ど脅迫でした」
「なっ……」
「……でも、その……私が生涯出会うであろう演奏家の中で、最高の演奏家だとは思っています……」
 私も素直じゃない。
 けれども、見世物にされてしまった中でそれ以上言ってあげるつもりはない。









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