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10、テオドルの願い

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 テオドルは、セシリアの部屋に残った。
 窓から射しこむ光が、割れ残ったガラスに反射して、天井は皮肉なことに煌めく光を宿している。

 セシリアはよく眠っている。
 ベッドの脇に置いた椅子に座ったテオドルは、王女の手を取った。

 華奢な手だ。指も細い。
 けれど昨夜は、セシリアひとりでイーヴァル殿下をお守りした。

「こんなにも頼りない、あなたなのに」

 セシリアは突然の異変に怯えることもなく、冷静に力を発現させたと、イーヴァルは話してくれた。
 テオドルは、王女の手をぎゅっと握りしめた。
 力を入れれば、折れてしまいそうなほどに儚い。

「手の大きさも逆転してしまいましたね。ビアンカ」

 小さな呟きは、朝霧のなかで鳴く鳥の声と重なった。

 セシリアが聖女ビアンカであった頃は、こんな風に彼女に甘えるのは自分の方だった。
 生まれ変わったセシリアは、元の凛々しいビアンカとは似ても似つかない少女だった。愛らしいがおとなしくて、自信がない。

 確かにビアンカの魂は戻って来た。けれど、彼女自身が帰ってきたわけではないと、セシリアが成長すると実感せざるを得なかった。

 だから、必要以上の会話は控えた。
 王女と護衛、ただそれだけの関係に徹した。

 セシリアが過去を思い出さないのなら、そのまま王女として生きてほしい。此度の生は、ただ守られるだけでよいではないか、と。

 聖女であるカイノが、神官長を追放して、その座に収まったことも。カイノが「寄進」と称して、有力な貴族から財をまきあげていることも。
 どうでもよいことだ。
 元の神官長も神官たちも、ビアンカを救ってはくれなかったのだから。

 ビアンカは、たとえ魔力が消えたとしても、神殿を追放されたとしても、つらい表情を見せることはなかった。
 それほどに強い人だったのだ。

(けれど……本当に?)

 熟睡していてもなおテオドルの手を離さないセシリアを見ていると、迷いが生じた。

(あの頃の私は十歳だった。そんな道理もわからぬ子供に、聖女であるビアンカが泣き言をこぼすだろうか)

 誰も信頼できない状況で、ビアンカは生きてきた。

(ビアンカは強かったのではなく、ただ我慢していたのではないか?)

 だとすると、自分を守ってくれていた聖女の背中は、ひたすらに悲しいものに思えた。
いずれにしても、セシリアはビアンカの力を発現させた。

「それに。あなたは私のことを『テオ』と呼びましたね」

 ビアンカにしか呼ばれたことのない愛称を、たしかにセシリアは口にした。

◇◇◇

 セシリアが目を覚ました時、そばにテオドルが座っていたことにまず驚いた。瞼を閉じて、眠っているらしい。
 確か昨夜は、兄のイーヴァルが部屋を訪れて。そして不審者が森に入って、瘴気がこの部屋を襲ったのだ。

 それが夢でなかった証拠に、窓はやはり割れている。
 机に置かれた時計を見ると、八時をとうに過ぎている。王女としてあるまじき寝坊だ。

 腕を動かそうとして、それができないことに気づく。

「え? まぁ、大変」

 セシリアの右手とテオドルの左手は、ぎゅっとつないでいたからだ。
 おそらくは利き手の右が自由に動かせるように、テオドルは左手でセシリアの手を握っていてくれたのだろう。

(これは、わたくしが握りしめたのよね)

 そうに決まっている。でないと、おかしい。
 王女である自分が目覚めるまで側にいるのは、護衛騎士の任務だとしても。手を握るのは、騎士の務めではない。

(でも、逞しくなったのね。テオドル)

 頭に浮かんだ言葉に、セシリアははっとした。
 決して知らないはずの、少年だった頃のテオドルの面影が、今の彼に重なる。
 一度も訪れたことのない神殿が、今よりも若いカイノ神官長の姿が、鮮明に浮かんでくる。

(これは誰の記憶なの?)

 頭が混乱する。

 誰かがセシリアのことを「ビアンカさま」と呼んでいる。今のセシリアと同じ淡い金髪にラベンダー色の瞳の大人の女性が、人々に囲まれている。
 彼女は聖女の白い服をまとっていた。

 ビアンカが耳に手をやり、ピアスを外す。石は薔薇水晶だ。

(わたくし、知っているわ。この薔薇水晶を)

 聖女は片方のピアスを、少年のテオドルに渡した。切ないほどの感情をこめた瞳で、テオドルがビアンカを見つめる。

(ああ。この方が、テオドルの大切な女性なのだわ)

 ふと、気づいた。
 もう二度とテオドルと会うこともないから、ビアンカは水晶を託したのだと。この聖女はもう存在しないのだと。

(そうよ。わたくしは、もう殺されると分かっていたわ)

 かつてはアグレル王国随一の聖女と呼ばれていたのに、年を経るごとに魔力を失ってしまった。
 後輩であるカイノが憐れむたびに、いっそう惨めになっていった。

 神殿から追放され、ビアンカは森で賊に襲われた。
 少年だったテオドルの泣き顔を覚えている。それが、ビアンカとしての最期の記憶だった。

 大人になり、ベッドの傍の椅子で眠るテオドルの手を、セシリアはきゅっと握りしめる。

(ただいま。テオ)

 言葉にはしなかった。
 あなたの元へ戻ってくるとの約束は果たしたのに。
 ビアンカの記憶が戻れば、何も知らない呑気な王女のままではいられない。

(わたくしは、どうすればいいの?)
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