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三章
3、月の光でいっぱいで
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「また来ますね。無理をなさっては嫌よ」
「ああ、健康のためにちゃんと牛乳も飲むわ。三合は厳しいけど、そうやな頑張って一日二合は飲もかな」
「ええ。滋養のある物を召しあがって、よくお休みになってね」
背伸びをした朱鷺子さんが、俺の耳元にそっと唇を寄せる。
あまり近寄って、病気をうつしたらあかんと身を引いたのだが。彼女はそれを許してはくれんかった。
「朱鷺子と一緒に船に乗って上海に行くんですのよ。約束です」
外はしんと冷えきっているのに。ふわりと夏の匂いがした。天花粉やった。
部屋を出ていく朱鷺子さんの背中に「そういえば」と、さも今思い出したかのように俺は切りだした。
「この間の鈴之介の手紙なんやけど。朱鷺子さんをモデルに描きたいらしいで」
ゆっくりと振り返る朱鷺子さん。赤いふらんねるの袂がゆらりと翻る。
さっきまで笑顔だったのに、その笑顔のままで彼女は時を止めた。
その強張りを見た時に感じた喜びを、なんと形容したらええんやろ。
朱鷺子さんは、たとえ絵のモデルでさえも鈴之介を選ばへん。俺だけを見ている。
あかん、この病室は。このサナトリウムは。
日を追うごとに己が嫌な人間になっていくのを、まざまざと見せつけられる。
どこかの病室から咳の音が聞こえた。
「銀之丈さん。鈴之介さんにお断りのお返事をしてくださいますか?」
「あ、ああ」
「申し訳ございません」と、朱鷺子さんは深々と俺に頭を下げた。謝るべき相手は俺ではないやろに。
鈴之介の専門は日本画や。もし話が進んでいたのなら、当世の女学生と古い美人画を融合したような、端正で清々しい朱鷺子さんを描いてくれるやろう。
その絵を見たい気持ちはある。だが、我慢ならないのだ。
外に出ることもできへん俺の知らんとこで、彼らが二人きりになることが。
「早く治りたいなぁ」
ぽつりと零した言葉は、白い形となって廊下に消えていった。ぼんやりと広がって聞こえてくる船の汽笛の音。その音に朱鷺子さんも気づいたのだろう。
「銀之丈さんとわたしの二人の絵を描いていただきたいです」
「それは肖像画か記念写真やな」
「ええ。一緒がいいの。絵の中でもよ」
にっこりと微笑んだ朱鷺子さんの顔は、もう強張ってはいなかった。
ああ。夏のあの日、足を挫いたあなたに出会えてよかった。
けど、弟に優越感を抱いてしもた報いやろか。
朱鷺子さんを見送ったその日の夜、俺はぐぁらぐぁらと体の中で潰れた罐が擦れあうような音を聞いた。
咳が止まらない。
苦しい、右も左も、前も後ろも、上も下も分からない。ああ、床が目の前にある。そうか、俺は床に倒れたんか。
ぐぁらぐぁらという音はさらに酷くなり。塊がせり上がってきた。
ああ、また血痰か。
だが違った。
てのひらに溢れた鮮血が、指の間からぼたぼたとこぼれ落ちる。床が赤に染まる。
立ちあがろうとしても、床に落ちた温かな血で手がすべった。
「おいおい。しゃれならんで」
笑おうとした。なのに咳が……咳が止まらない。
知らんかった。血は鉄の匂いがするんか。あまり怪我をしたこともなかったから。
口から吐く血が止まらへん。
嘘や、嘘や。こんなん嘘や。誰か嘘やてゆうてくれ。
ああ、こんなにも苦しいのに、血だまりができているのに。なんて冴えた月なんや。
冗談みたいな血だまりと、虚構みたいな月や。
朱鷺子さんの好きな朱欒に似た月が、窓の向こうで煌々と耀いている。
背を丸めてうずくまり、力なく横臥した俺を月は照らす。
――お月様でいっぱいで、お月様の光でいっぱいで、それはそれはいっぱいで。
朱鷺子さんの声が聞こえた。
せやな。こんな月明りの中で死ねるんやったら、悪ないかもしれん。
珍しく赤い着物を着た朱鷺子さんにも出会えた。あの人の香りも感じることができた。気持ちを知ることもできた。
満足やけど……。
「朱欒が生るまではもたんかったか」
上海へ行く約束を守れんかった。
ほんまに駄目な男やで、俺は。
廊下を走ってくる音が聞こえる。ばたばたと。
いつもは部屋の前を通り過ぎてゆく看護婦や医者の足音が、今日はこちらに向かってくる。
ばたばた、どたどた。濁って醜く騒々しい音の塊が迫ってくる。
俺の病室の前で足音は止まり、勢いよく扉が開かれた。
「静海さん。大丈夫ですかっ」
ああ、とうとう。俺の処に来てしもた。
強く瞼を閉じるが、己の赤が目に染みて。鉄の匂いが苦しくて。
こちらに向かってくるんやったら、朱鷺子さんの足音がよかったのになぁ。
知らせが家に届いて、あの人が此処に来るまで俺はもつやろか。存在していられるやろか。
月が滲んでゆく。ぼやけて、黄水晶が夜に溶けてゆく。
月……朱鷺子さんも今夜の月を見ているかなぁ。
俺と同じに。
「それは……それは、いっぱい、で」
「ああ、健康のためにちゃんと牛乳も飲むわ。三合は厳しいけど、そうやな頑張って一日二合は飲もかな」
「ええ。滋養のある物を召しあがって、よくお休みになってね」
背伸びをした朱鷺子さんが、俺の耳元にそっと唇を寄せる。
あまり近寄って、病気をうつしたらあかんと身を引いたのだが。彼女はそれを許してはくれんかった。
「朱鷺子と一緒に船に乗って上海に行くんですのよ。約束です」
外はしんと冷えきっているのに。ふわりと夏の匂いがした。天花粉やった。
部屋を出ていく朱鷺子さんの背中に「そういえば」と、さも今思い出したかのように俺は切りだした。
「この間の鈴之介の手紙なんやけど。朱鷺子さんをモデルに描きたいらしいで」
ゆっくりと振り返る朱鷺子さん。赤いふらんねるの袂がゆらりと翻る。
さっきまで笑顔だったのに、その笑顔のままで彼女は時を止めた。
その強張りを見た時に感じた喜びを、なんと形容したらええんやろ。
朱鷺子さんは、たとえ絵のモデルでさえも鈴之介を選ばへん。俺だけを見ている。
あかん、この病室は。このサナトリウムは。
日を追うごとに己が嫌な人間になっていくのを、まざまざと見せつけられる。
どこかの病室から咳の音が聞こえた。
「銀之丈さん。鈴之介さんにお断りのお返事をしてくださいますか?」
「あ、ああ」
「申し訳ございません」と、朱鷺子さんは深々と俺に頭を下げた。謝るべき相手は俺ではないやろに。
鈴之介の専門は日本画や。もし話が進んでいたのなら、当世の女学生と古い美人画を融合したような、端正で清々しい朱鷺子さんを描いてくれるやろう。
その絵を見たい気持ちはある。だが、我慢ならないのだ。
外に出ることもできへん俺の知らんとこで、彼らが二人きりになることが。
「早く治りたいなぁ」
ぽつりと零した言葉は、白い形となって廊下に消えていった。ぼんやりと広がって聞こえてくる船の汽笛の音。その音に朱鷺子さんも気づいたのだろう。
「銀之丈さんとわたしの二人の絵を描いていただきたいです」
「それは肖像画か記念写真やな」
「ええ。一緒がいいの。絵の中でもよ」
にっこりと微笑んだ朱鷺子さんの顔は、もう強張ってはいなかった。
ああ。夏のあの日、足を挫いたあなたに出会えてよかった。
けど、弟に優越感を抱いてしもた報いやろか。
朱鷺子さんを見送ったその日の夜、俺はぐぁらぐぁらと体の中で潰れた罐が擦れあうような音を聞いた。
咳が止まらない。
苦しい、右も左も、前も後ろも、上も下も分からない。ああ、床が目の前にある。そうか、俺は床に倒れたんか。
ぐぁらぐぁらという音はさらに酷くなり。塊がせり上がってきた。
ああ、また血痰か。
だが違った。
てのひらに溢れた鮮血が、指の間からぼたぼたとこぼれ落ちる。床が赤に染まる。
立ちあがろうとしても、床に落ちた温かな血で手がすべった。
「おいおい。しゃれならんで」
笑おうとした。なのに咳が……咳が止まらない。
知らんかった。血は鉄の匂いがするんか。あまり怪我をしたこともなかったから。
口から吐く血が止まらへん。
嘘や、嘘や。こんなん嘘や。誰か嘘やてゆうてくれ。
ああ、こんなにも苦しいのに、血だまりができているのに。なんて冴えた月なんや。
冗談みたいな血だまりと、虚構みたいな月や。
朱鷺子さんの好きな朱欒に似た月が、窓の向こうで煌々と耀いている。
背を丸めてうずくまり、力なく横臥した俺を月は照らす。
――お月様でいっぱいで、お月様の光でいっぱいで、それはそれはいっぱいで。
朱鷺子さんの声が聞こえた。
せやな。こんな月明りの中で死ねるんやったら、悪ないかもしれん。
珍しく赤い着物を着た朱鷺子さんにも出会えた。あの人の香りも感じることができた。気持ちを知ることもできた。
満足やけど……。
「朱欒が生るまではもたんかったか」
上海へ行く約束を守れんかった。
ほんまに駄目な男やで、俺は。
廊下を走ってくる音が聞こえる。ばたばたと。
いつもは部屋の前を通り過ぎてゆく看護婦や医者の足音が、今日はこちらに向かってくる。
ばたばた、どたどた。濁って醜く騒々しい音の塊が迫ってくる。
俺の病室の前で足音は止まり、勢いよく扉が開かれた。
「静海さん。大丈夫ですかっ」
ああ、とうとう。俺の処に来てしもた。
強く瞼を閉じるが、己の赤が目に染みて。鉄の匂いが苦しくて。
こちらに向かってくるんやったら、朱鷺子さんの足音がよかったのになぁ。
知らせが家に届いて、あの人が此処に来るまで俺はもつやろか。存在していられるやろか。
月が滲んでゆく。ぼやけて、黄水晶が夜に溶けてゆく。
月……朱鷺子さんも今夜の月を見ているかなぁ。
俺と同じに。
「それは……それは、いっぱい、で」
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