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三章
4、新しい生
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確かに死んだはずの俺は、その十年後に生を得た。
ぼんやりと意識が生まれ、朧な視界に見慣れた和室が映った。
そう、まず最初に温かな気持ちが胸いっぱいに広がったんや。胸などまだなかったのに。
いや、もしかしたらぬくもりを感じたから、まず胸から俺はできたんかもしれん。
天花粉の匂いがする。
夏になると「子どもみたいなんですけれど」と、この香りをまとっている人がおった。
「時季外れなんです」と恥じらってもいた。
あまりの懐かしさに、これ以上は吸えないというほど息を吸った。
そうして俺に嗅覚が、鼻ができた。
思い出した。俺は大事な人を置いて逝ってしもたんや。
最期に見たのは月で。煌々と冴えわたる月に手を伸ばして。
その先は覚えてへん。
次に視界の端が見覚えのある赤をとらえる。茫とした赤、それが何かは分からへん。
触れてみると、たいそう柔らかくて。あまりにも柔らかくて切ないから。ぽたぽたと水の雫が、目から零れるのを知った。
「朱鷺子……さん」
せや、朱鷺子さんや。
衣桁に掛けられた赤いふらんねるの着物。赤の縞に白と紺の色。朱鷺子さんが着ていたものだ。
指で触れると心にしみて、てのひらで撫でると心が震えた。
頬を伝い落ちた雫は、畳の上で一瞬盛りあがり、すぐに染みこんでゆく。
「朱鷺子さん、朱鷺子さん」
声を出すたびに、苦しくなる。なのに名を呼ぶたびに嬉しくてたまらなくなる。
そうして俺は触覚と視覚を、そして体を得たんや。
文机にある原稿用紙に目を向ける。夜の色をしたインクで書かれた文字の連なり。
繊細で、けれど弱々しくはない。
「静海銀之丈……」
記された名前に覚えがある。何度か繰り返しその名を読み、あまりにもしっくりとくるので、自分の名前だと気づいた。
「わたし」が転んでしまい、日傘が坂道を転がって、それを拾ったのが初めての出会いと書いてある。
お気に入りの日傘が折れてしまい、しかも初対面の男性に「泣いたらあかん」と一喝されたこと。怖そうに思えたのに、その人は「わたし」を背負って家まで送ってくれた、と。
思い出した。
俺は目を見開いた。
鮮やかな夏の風景が、あまりにも明瞭に蘇る。
海風も、鹹のにおいも、点燈夫が瓦斯燈を灯す音も。しなやかに風に揺れる凌霄花の橙色に、入道雲に似た白いサルスベリの花。
俺や。俺と朱鷺子さんの日々や。
見ればもやもやと輪郭の定かでなかった手が足が体が、はっきりとした形を成す。
神が生き返らせてくれたのかと、一瞬思った。
「まぁっ」
しゅっと衣擦れの音を立てながら、こちらへやってくる人がおった。
俺はふり返った。
目頭が燃えるように熱くなり、涙が溢れて。明瞭になった視界がまた滲んだ。
朱鷺子さんや。
俺の知っている彼女よりも、もっと大人びて。身長も高くなってはいるが。見間違えるはずがない。
どれほどあなたに会いたかったやろ。どれほどあなたに恋い焦がれたやろ。
俺は両腕を広げた。
愛しい人を抱きしめるために。
「朱鷺子さん。俺、帰ってきたで」
だが、朱鷺子さんは俺の隣をすっと行き過ぎた。
天花粉の匂いが残る。
朱鷺子さんは俺を見ることもなく、縁側に立った。柱に手をかけて身を乗りだして。今にも、庭に駆け下りそうや。
「すごいわ。朱欒の実が生っているわ」
感嘆の息と共に発せられた言葉は、とても嬉しそうやった。
俺も縁側に向かった。緑の硬そうな実が、確かに実っている。あの大きくて黄色い朱欒とは似ても似つかんかったけど。しだいに大きくなっていくんやろ。
「銀之丈さん。ほら、ご覧になって。お空の上から見えますか? あなたがくださった朱欒が実を結びましたよ」
深く青い空を仰いで、朱鷺子さんの目尻に涙が浮かぶ。
ああ、俺のことは見えへんのか。
けど不思議と失望はせぇへんかった。今も朱鷺子さんは俺のことを想ってくれていると分かったからや。
十年前に夢見た世界には、俺はおらへん。
けれど十年後も、朱鷺子さんは俺を忘れないでいてくれる。
俺は生き返ったんやない。どうやら幽霊でもないらしい。
線香の煙は死者の食べもんやゆうけど。俺には線香は煙いだけやった。
今の俺を生みだしたんは、朱鷺子さんや。その万年筆の先から、俺を形づくってくれたんや。
鏡朱鷺子先生は、俺のことを書いていた。
どこにも発表することのない、書き手である朱鷺子さんだけが読者である物語や。
主人公が男性の小説なんか、朱鷺子さんは初めて書いてるようやった。
原稿用紙に書いては、線を引いて消し、書いてはまた消してを繰り返し。その日々のなかで、俺は確かに彼女の手により形作られていったんや。
かつての静海銀之丈として。
彼女は知らんかった、俺が弟の鈴之介に対して抱いていた気持ちを。
よかった。ずっとひた隠しにしてきた醜い気持ちを、朱鷺子さんには知られてへん。だから原稿用紙には、俺の嫉妬は書かれてへん。
俺はこの気持ちを覚えたまま、こうして形づくられたけど。
なんやろな。やっぱり朱鷺子さんを先に置いていってしもたことへの悔恨が、よっぽど強かったんかもしれへんな。
ふと文机の端に懐かしい箱を見つけた。
茶色で描かれた金字塔と椰子の木と、駱駝に乗る人。俺が喫っとった『ナイル』や。
結核になった時に、すべて捨てたと思ってたのに。
「なんや。朱鷺子さん、こんな煙草を大事にしとったんか」
せやな。初めて会ったときに、ナイルの箱を見せたよな。日傘が壊れて泣いてしもた朱鷺子さんの気を逸らせたよな。
ぽたり、また涙が落ちた。てのひらに受けた涙は一瞬温かく、すうっと広がっていく。
人やのうなったのに。朱鷺子さんの想いが生んだ存在なのに。感じる心も温かい涙を流すことができる。
ああ、そうや。
静海銀之丈にふさわしい匂いは消毒薬やない。この煙草の匂いや。あなたの天花粉の匂いや。
「朱鷺子さん……」
想いとしての俺は残り、一年後あなたは消えた。
かつて俺があなたを残して消えたように。
ぼんやりと意識が生まれ、朧な視界に見慣れた和室が映った。
そう、まず最初に温かな気持ちが胸いっぱいに広がったんや。胸などまだなかったのに。
いや、もしかしたらぬくもりを感じたから、まず胸から俺はできたんかもしれん。
天花粉の匂いがする。
夏になると「子どもみたいなんですけれど」と、この香りをまとっている人がおった。
「時季外れなんです」と恥じらってもいた。
あまりの懐かしさに、これ以上は吸えないというほど息を吸った。
そうして俺に嗅覚が、鼻ができた。
思い出した。俺は大事な人を置いて逝ってしもたんや。
最期に見たのは月で。煌々と冴えわたる月に手を伸ばして。
その先は覚えてへん。
次に視界の端が見覚えのある赤をとらえる。茫とした赤、それが何かは分からへん。
触れてみると、たいそう柔らかくて。あまりにも柔らかくて切ないから。ぽたぽたと水の雫が、目から零れるのを知った。
「朱鷺子……さん」
せや、朱鷺子さんや。
衣桁に掛けられた赤いふらんねるの着物。赤の縞に白と紺の色。朱鷺子さんが着ていたものだ。
指で触れると心にしみて、てのひらで撫でると心が震えた。
頬を伝い落ちた雫は、畳の上で一瞬盛りあがり、すぐに染みこんでゆく。
「朱鷺子さん、朱鷺子さん」
声を出すたびに、苦しくなる。なのに名を呼ぶたびに嬉しくてたまらなくなる。
そうして俺は触覚と視覚を、そして体を得たんや。
文机にある原稿用紙に目を向ける。夜の色をしたインクで書かれた文字の連なり。
繊細で、けれど弱々しくはない。
「静海銀之丈……」
記された名前に覚えがある。何度か繰り返しその名を読み、あまりにもしっくりとくるので、自分の名前だと気づいた。
「わたし」が転んでしまい、日傘が坂道を転がって、それを拾ったのが初めての出会いと書いてある。
お気に入りの日傘が折れてしまい、しかも初対面の男性に「泣いたらあかん」と一喝されたこと。怖そうに思えたのに、その人は「わたし」を背負って家まで送ってくれた、と。
思い出した。
俺は目を見開いた。
鮮やかな夏の風景が、あまりにも明瞭に蘇る。
海風も、鹹のにおいも、点燈夫が瓦斯燈を灯す音も。しなやかに風に揺れる凌霄花の橙色に、入道雲に似た白いサルスベリの花。
俺や。俺と朱鷺子さんの日々や。
見ればもやもやと輪郭の定かでなかった手が足が体が、はっきりとした形を成す。
神が生き返らせてくれたのかと、一瞬思った。
「まぁっ」
しゅっと衣擦れの音を立てながら、こちらへやってくる人がおった。
俺はふり返った。
目頭が燃えるように熱くなり、涙が溢れて。明瞭になった視界がまた滲んだ。
朱鷺子さんや。
俺の知っている彼女よりも、もっと大人びて。身長も高くなってはいるが。見間違えるはずがない。
どれほどあなたに会いたかったやろ。どれほどあなたに恋い焦がれたやろ。
俺は両腕を広げた。
愛しい人を抱きしめるために。
「朱鷺子さん。俺、帰ってきたで」
だが、朱鷺子さんは俺の隣をすっと行き過ぎた。
天花粉の匂いが残る。
朱鷺子さんは俺を見ることもなく、縁側に立った。柱に手をかけて身を乗りだして。今にも、庭に駆け下りそうや。
「すごいわ。朱欒の実が生っているわ」
感嘆の息と共に発せられた言葉は、とても嬉しそうやった。
俺も縁側に向かった。緑の硬そうな実が、確かに実っている。あの大きくて黄色い朱欒とは似ても似つかんかったけど。しだいに大きくなっていくんやろ。
「銀之丈さん。ほら、ご覧になって。お空の上から見えますか? あなたがくださった朱欒が実を結びましたよ」
深く青い空を仰いで、朱鷺子さんの目尻に涙が浮かぶ。
ああ、俺のことは見えへんのか。
けど不思議と失望はせぇへんかった。今も朱鷺子さんは俺のことを想ってくれていると分かったからや。
十年前に夢見た世界には、俺はおらへん。
けれど十年後も、朱鷺子さんは俺を忘れないでいてくれる。
俺は生き返ったんやない。どうやら幽霊でもないらしい。
線香の煙は死者の食べもんやゆうけど。俺には線香は煙いだけやった。
今の俺を生みだしたんは、朱鷺子さんや。その万年筆の先から、俺を形づくってくれたんや。
鏡朱鷺子先生は、俺のことを書いていた。
どこにも発表することのない、書き手である朱鷺子さんだけが読者である物語や。
主人公が男性の小説なんか、朱鷺子さんは初めて書いてるようやった。
原稿用紙に書いては、線を引いて消し、書いてはまた消してを繰り返し。その日々のなかで、俺は確かに彼女の手により形作られていったんや。
かつての静海銀之丈として。
彼女は知らんかった、俺が弟の鈴之介に対して抱いていた気持ちを。
よかった。ずっとひた隠しにしてきた醜い気持ちを、朱鷺子さんには知られてへん。だから原稿用紙には、俺の嫉妬は書かれてへん。
俺はこの気持ちを覚えたまま、こうして形づくられたけど。
なんやろな。やっぱり朱鷺子さんを先に置いていってしもたことへの悔恨が、よっぽど強かったんかもしれへんな。
ふと文机の端に懐かしい箱を見つけた。
茶色で描かれた金字塔と椰子の木と、駱駝に乗る人。俺が喫っとった『ナイル』や。
結核になった時に、すべて捨てたと思ってたのに。
「なんや。朱鷺子さん、こんな煙草を大事にしとったんか」
せやな。初めて会ったときに、ナイルの箱を見せたよな。日傘が壊れて泣いてしもた朱鷺子さんの気を逸らせたよな。
ぽたり、また涙が落ちた。てのひらに受けた涙は一瞬温かく、すうっと広がっていく。
人やのうなったのに。朱鷺子さんの想いが生んだ存在なのに。感じる心も温かい涙を流すことができる。
ああ、そうや。
静海銀之丈にふさわしい匂いは消毒薬やない。この煙草の匂いや。あなたの天花粉の匂いや。
「朱鷺子さん……」
想いとしての俺は残り、一年後あなたは消えた。
かつて俺があなたを残して消えたように。
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