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三章
2、鈴之介の頼み
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帰っていく朱鷺子さんはその姿が小さくなっても、療病院の門が近づいても、何度も何度も振り返っては手をふった。
俺は、やっぱり笑顔で窓から手をふり返した。
「読まんとしゃあないよな」
ため息をこぼしつつ、封筒にペーパーナイフを入れる。かすかに鈴之介の部屋の臭いがした。日本画で使う膠や。
案の定やった。
手紙に目を通した俺は「ははっ」と乾いた笑いを洩らした。
夕暮れの色に染まった海から、湿った風が吹きこんでくる。しきりに鳴き交わす鳥の音が「わぁ、かわいそう」「あわれよね」と言っているように聞こえてしまう。
「なんでやねん。なんで今やねん」
――兄サン、オ加減ハ如何デセウカ? ナカナカ見舞ヒニ行ケズ、申シ訳御座イマセン。突然デスガオ願ヒシタキ事アリテ、筆ヲトリマシタ。朱鷺子サンニ繪ノ持特兒ヲ頼ミタイト思ヒマス。
「絵の持特兒」
読まんかったらよかった。
この内容を目にしたら、承諾するか拒否するかのどちらかしかない。
「朱鷺子さんは何も言うてへんかった。鈴之介から聞いてへんのか」
モデルの件を俺に黙っていたり、隠せるほど朱鷺子さんは器用やない。
鈴之介かて、直に朱鷺子さんにモデルを頼むこともできたやろに。
婚約者である俺の許可を得てから、と考えたんやろ。
「そんな生真面目で、筋を通すところが……いやや」
俺は便箋を強く握りしめた。
鳥は今も「あわれよね」と囀っている。西の空はまだ明るく、東の空にも夜の気配なんかないのに。
俺の病室だけ、すでに宵の薄暗い闇に沈んどうようやった。
絵の返事は、後日訪れた朱鷺子さんの意向を聞いてからにした。
その日は花冷えやった。桜の花が咲いとうのに、雪が舞っとった。
久しぶりに寝台の布団の中には湯たんぽが用意された。
金属のそれは、布でくるまれてじわりと温かい。
冷えきった足にも手にも、そして体にも温もりが染みてゆく。少し動かせば、たぽんと湯の揺れる音。
なんか温泉みたいやな。元気になったら有馬にでもいこかな。
空は灰色に重く、その色を映して海までも濁ったように見える。普段は立たない白波が、病室からでも分かる。
「大変ですよ、春なのに雪です」
大変と言いながら、肩にかかる雪を払う朱鷺子さんは楽しそうだった。赤い縞模様のふらんねるの温かそうな着物を着ている。
「珍しいやん。朱鷺子さんが赤を着るやなんて」
「派手で恥ずかしいです」
今更なのに、朱鷺子さんは左右の手で着物の袖や衿の辺りを隠そうとする。
「珍しいから、もっとちゃんと見せてくれへんか?」
「無理です。できません」
「なんでやねん」
ここまで普通に赤いふらんねるを着てきたやろに。
汽車には乗客もおるし、停車場かて、人がおるやろ。
このサナトリウムに入っても、顔見知りになった看護婦と挨拶をかわしたやろに。
「なんで俺には見せてくれへんの?」
「だって、銀之丈さん、笑ってるんですもの」
「へ?」
俺は自分の頬に触れてみた。ほんまや、笑てる。
「ちゃうで。これは微笑んでんねん。かわいいなぁって思てるんやで」
「……だから、恥ずかしいんです」
待て待て。それは俺にだけ感じる羞恥なんか。俺は特別っていうことやんな。
確かに朱鷺子さんは、俺のことを好いてくれとうから婚約が成立したけど。でも、朱鷺子さんから愛の告白をされたことはない。
俺もしてへん。
うわ、なんやろ。なんてゆうたらええん?
今になって、急に恋心に気づいたみたいやんか。それもお互いに。
なごりの雪が窓硝子についたと思うと、溶けて流れる。
朱鷺子さんは俺に背中を向けた。
手を伸ばせば簡単に届く距離や。
ふらんねるの着物は赤い縞もようや。その縞を引き立たせるように紺と白の細い筋が入ってる。
音もなく雪を降らせる鈍色の雲を背に、朱鷺子さんはとても鮮やかに目に映った。
「このお着物、いつの間にか天花粉の匂いが移ってしまっていて。夏でもないのに、時季外れなんです」
確かに、仄かに天花粉の甘い香りがする。
「樟脳のきついにおいよりはええやろ。ヘリオトロオプっていうんやろ? 香水に似てるやん。俺は好きやで」
朱鷺子さんはそのまま俺に背中を向けて、今度は頬を両手で押さえている。耳たぶが、ほんのりと赤く染まっとった。
しんと冷えた窓硝子に、彼女がはにかんだ笑みを浮かべているのが映ってる。
愛おしい。心の底から、そんな気持ちが湧きあがってきた。
俺は彼女の肩に手を掛けた。
そうせずにはおられんかった。
柔らかなふらんねるの生地のその奥に、確かに朱鷺子さんの薄い肩を感じた。
朱鷺子さんはやはり両頬に手を添えたままで、ちらっと俺を見上げてくる。
耳も頬も、そして目許までもほんのりと赤い。
「おかしいですね。鏡台の前で着せ替えをするみたいに、今日はどのお着物で行こうかしらと迷ったんですよ。空が灰色で薄暗いから、派手でも少しはいいかしらと思ったの。銀之丈さんに見ていただくために、このお着物を選んだのに」
今にも消え入りそうな声やった。雪の降る音のように。
真夏の粉雪の香りもまた、すぐにも消えてしまいそうやった。
俺は、やっぱり笑顔で窓から手をふり返した。
「読まんとしゃあないよな」
ため息をこぼしつつ、封筒にペーパーナイフを入れる。かすかに鈴之介の部屋の臭いがした。日本画で使う膠や。
案の定やった。
手紙に目を通した俺は「ははっ」と乾いた笑いを洩らした。
夕暮れの色に染まった海から、湿った風が吹きこんでくる。しきりに鳴き交わす鳥の音が「わぁ、かわいそう」「あわれよね」と言っているように聞こえてしまう。
「なんでやねん。なんで今やねん」
――兄サン、オ加減ハ如何デセウカ? ナカナカ見舞ヒニ行ケズ、申シ訳御座イマセン。突然デスガオ願ヒシタキ事アリテ、筆ヲトリマシタ。朱鷺子サンニ繪ノ持特兒ヲ頼ミタイト思ヒマス。
「絵の持特兒」
読まんかったらよかった。
この内容を目にしたら、承諾するか拒否するかのどちらかしかない。
「朱鷺子さんは何も言うてへんかった。鈴之介から聞いてへんのか」
モデルの件を俺に黙っていたり、隠せるほど朱鷺子さんは器用やない。
鈴之介かて、直に朱鷺子さんにモデルを頼むこともできたやろに。
婚約者である俺の許可を得てから、と考えたんやろ。
「そんな生真面目で、筋を通すところが……いやや」
俺は便箋を強く握りしめた。
鳥は今も「あわれよね」と囀っている。西の空はまだ明るく、東の空にも夜の気配なんかないのに。
俺の病室だけ、すでに宵の薄暗い闇に沈んどうようやった。
絵の返事は、後日訪れた朱鷺子さんの意向を聞いてからにした。
その日は花冷えやった。桜の花が咲いとうのに、雪が舞っとった。
久しぶりに寝台の布団の中には湯たんぽが用意された。
金属のそれは、布でくるまれてじわりと温かい。
冷えきった足にも手にも、そして体にも温もりが染みてゆく。少し動かせば、たぽんと湯の揺れる音。
なんか温泉みたいやな。元気になったら有馬にでもいこかな。
空は灰色に重く、その色を映して海までも濁ったように見える。普段は立たない白波が、病室からでも分かる。
「大変ですよ、春なのに雪です」
大変と言いながら、肩にかかる雪を払う朱鷺子さんは楽しそうだった。赤い縞模様のふらんねるの温かそうな着物を着ている。
「珍しいやん。朱鷺子さんが赤を着るやなんて」
「派手で恥ずかしいです」
今更なのに、朱鷺子さんは左右の手で着物の袖や衿の辺りを隠そうとする。
「珍しいから、もっとちゃんと見せてくれへんか?」
「無理です。できません」
「なんでやねん」
ここまで普通に赤いふらんねるを着てきたやろに。
汽車には乗客もおるし、停車場かて、人がおるやろ。
このサナトリウムに入っても、顔見知りになった看護婦と挨拶をかわしたやろに。
「なんで俺には見せてくれへんの?」
「だって、銀之丈さん、笑ってるんですもの」
「へ?」
俺は自分の頬に触れてみた。ほんまや、笑てる。
「ちゃうで。これは微笑んでんねん。かわいいなぁって思てるんやで」
「……だから、恥ずかしいんです」
待て待て。それは俺にだけ感じる羞恥なんか。俺は特別っていうことやんな。
確かに朱鷺子さんは、俺のことを好いてくれとうから婚約が成立したけど。でも、朱鷺子さんから愛の告白をされたことはない。
俺もしてへん。
うわ、なんやろ。なんてゆうたらええん?
今になって、急に恋心に気づいたみたいやんか。それもお互いに。
なごりの雪が窓硝子についたと思うと、溶けて流れる。
朱鷺子さんは俺に背中を向けた。
手を伸ばせば簡単に届く距離や。
ふらんねるの着物は赤い縞もようや。その縞を引き立たせるように紺と白の細い筋が入ってる。
音もなく雪を降らせる鈍色の雲を背に、朱鷺子さんはとても鮮やかに目に映った。
「このお着物、いつの間にか天花粉の匂いが移ってしまっていて。夏でもないのに、時季外れなんです」
確かに、仄かに天花粉の甘い香りがする。
「樟脳のきついにおいよりはええやろ。ヘリオトロオプっていうんやろ? 香水に似てるやん。俺は好きやで」
朱鷺子さんはそのまま俺に背中を向けて、今度は頬を両手で押さえている。耳たぶが、ほんのりと赤く染まっとった。
しんと冷えた窓硝子に、彼女がはにかんだ笑みを浮かべているのが映ってる。
愛おしい。心の底から、そんな気持ちが湧きあがってきた。
俺は彼女の肩に手を掛けた。
そうせずにはおられんかった。
柔らかなふらんねるの生地のその奥に、確かに朱鷺子さんの薄い肩を感じた。
朱鷺子さんはやはり両頬に手を添えたままで、ちらっと俺を見上げてくる。
耳も頬も、そして目許までもほんのりと赤い。
「おかしいですね。鏡台の前で着せ替えをするみたいに、今日はどのお着物で行こうかしらと迷ったんですよ。空が灰色で薄暗いから、派手でも少しはいいかしらと思ったの。銀之丈さんに見ていただくために、このお着物を選んだのに」
今にも消え入りそうな声やった。雪の降る音のように。
真夏の粉雪の香りもまた、すぐにも消えてしまいそうやった。
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