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第三章
《 一 》※
しおりを挟む華やかで甘い香りが室内を満たす。くゆる煙が天井付近で漂い、絵を薄く濁らせた。
遊楽道士の格好もそのままに、怯えきった蓮雨を抱き寄せて寝台に腰かける。片手を振って、上がっていた紗を下ろしてしまうと広い寝室の中に幾重にも包まれた繭のような小さな小部屋ができた。
「あの男が嫌いか? 仙家の中ではわりと評判は良かったはずだが……いや、その前に、あの男を知っているのか?」
穏やかだが、有無を言わさぬ声音に、髪を梳かれながら小さく、途切れ途切れに答える。
華夏雲はかつて、皇客として城に招かれていた際、蓮雨が大のお気に入りで一日たりとも傍から離さなかった可笑しな男だ。母の薔香が何と言おうとも、笑みを浮かべてすべての文句を受け流し、絶対に蓮雨を離そうとしなかった。
「恋だの愛だの、そういうのじゃないんです。ただただ、あの男の私を見る目が恐ろしい……あれは人を見る眼じゃない、怖くて、どうしようもなく怖いんです」
底知れない感情ほど恐ろしいものはない。心が、体が欲しいわけじゃないのだと言っていた。ただそこにいるだけでいいのだと。存在しているだけで私は嬉しいのです、と。心底気持ち悪かった。できる限り離れて距離を保ちたいのに、皇族してもてなさなければいけないから酷く苦痛だった。
花仙の胸元に頭を預けて、何も視ないように目を閉じてしまう。とくんとくん、と少しだけ早い鼓動に耳を傾けて気持ちを落ち着かせる。人よりも、精霊の類いに近い存在だからだろうか。花仙といると、とても心が穏やかになる。母と一緒のいるのとは違う安心感に包まれて、張りつめている気がついうっかり緩んでしまうのだ。
「貴方が、人でないからなのでしょうか……」
「なにが?」
「早く、次の呪符を探しに行かなければいけないと、分かっているのに、ずっとこうしていたいと思ってしまうんです。……外は、とても恐ろしいモノでいっぱいだから」
声がほのかな甘さを含んでいた。弱みに付け入るようで気は進まないが、せっかくの機会を逃してしまうほど花仙も優しくはなかった。
「明日でも明後日でも、呪符なんていつでも探し出せる。今日くらい休んだってかまわないさ」
蓮雨を抱きかかえたまま寝台に寝転がり、額に口づけを落とす。
「……お前は、俺の庇護下にいるんだから何も恐れることなどないよ。それでも怖いと言うのならお守りをあげよう」
するり、と。指に冷たい感触がして目を開けた。
「…………これ」
「そう。指輪だ。別に、美仙のやつがうるさく言っていたからじゃないぞ。お前が来てからちゃんと用意したものだ。魔除け、厄除け、まぁなんか、いろいろ適当に加護を詰め込んでおいたから、何かあってもそれが小花のことを護ってくれるよ」
キラキラと、右手の薬指に嵌った繊細な銀の指輪飾り。銀の蔓が絡み合い、中央に淡く輝く白金の宝石がはめ込まれていた。
「もらって、いいんですか?」
「むしろもらってくれないと困る。俺が端正込めて創ったんだ。持っているだけでご利益があるぞ」
指輪のはまった手を掬い上げて、恭しく手の甲に口づけられる。
花仙は、人は嫌いだと言いながら人である蓮雨に優しくしてくれる。自身に捧げられたモノだから、とその一言ではとてもおさまらないくらい、優しくて親切にしてくれる。この人なら、何をしても許してくれるのではないかとすら思ってしまうのだ。
胸中に湧き上がったほろ苦い、けれど甘い感情が照れくさくて胸元に額を擦りつけた。
「……花仙のそばは、とても安心します」
爽やかな、甘さを含んだ花仙の香りは穏やかな眠気を誘ってくる。
「そう。俺が、お前の安らげる場所になれるのならとても嬉しいよ。小花、口吸いをしよう。そうすれば、俺の仙気をお前に分け与えることができるから」
もっともらしいことを言って、脱力しきった体に覆いかぶさってくる。小さな唇を食むように合わせて、拙く触れるだけの口付けを繰り返した。
「花、仙……もっと、もっとください」
熱に浮かされた蒼い瞳は色味を増して、光の届かない深い水底のようだ。暗い蒼に映し出された花仙がまばゆく輝いて、まるで蓮雨にとっての光に見える。
薄く開いた唇から舌を差し込んで、絡め合い、どちらともない透明な糸が二人を繋ぐ。
舌先を軽く吸われて、上顎のでこぼこをなぞられると背筋から甘い痺れが全身に広がった。宿での一夜が思い出されて、胎の奥が疼いてしまう。
花仙は身に纏う香りは重厚で優美な奥深さのある甘さだが、唾液はいつまでも口吸いをしていたいほど蜜のように甘美だ。花も、花の香りも好きじゃなかったのに、この人と一緒にいるとそれほど悪くないんじゃないかと思ってしまう。母さえいればいいと思っていたのに、母と蓮雨しか存在しない小さな世界に花仙はたやすく足を踏み入れてきた。
「いいよ、いくらでも」
ちゅ、ちゅ、と小鳥の囀りのように可愛らしい音を立てて唇を吸われる。唇を舐められて、舌を吸われて、歯型をなぞられる。はじめは優しいのに、しだいに荒々しく口内を舌が蹂躙していった。
息苦しくて呼吸がままならず、唇を放されると息も絶え絶えに顔を真っ赤にして胸を上下させた。耳のすぐそばに両手をついて見下ろしてくる花仙は、自分とは違って余裕綽綽な様子で腹立たしかった。息苦しさで涙を滲ませた瞳を緩ませて、悪戯に垂れた白金の一房を掴んでグイと引き寄せる。
「いッ……!?」
ガリッ、と白い喉に噛みついて、完璧なこの男に傷をつけてやる。
「っ、ふはっ、はは、貴方は、肌が白いから赤色が目立ちますね」
誰も傷をつけることなんて許されない、尊い神仙に傷をつけてしまった。後悔もなにもない。ただ、優越感と征服欲に心地よくなった。この人を傷つけられるのは自分しかいないのだ。
くっきりと、喉仏を囲う歯型に思わず笑みがこぼれてしまう。とても小さい些細な悪戯だ。神仙である彼にしてみれば、こんなかすり傷一晩と立たずに癒えてしまうのだろう。それを少しだけ寂しく思いながら、ぷつりと浮かぶ赤い雫に舌を伸ばした。きっと、この人なら血液すら甘い味がするに違いない。
舌が喉に触れ、赤い雫を掬い取る。傷口にわざと触れるように舐めると、ビクリと一瞬震えて体を硬直させた。いつも、好き勝手に触れてくるのに蓮雨から触れると体が強張るのがなんだか面白かった。
「――小花、それ以上は駄目だ」
「ふふ、嫌だ、やめないですよ、ぁッ!」
最後の忠告を無視したのだから、もういいだろう。散々煽られて我慢したんだから。乱暴にしないように、手つきは優しく穏やかなのに、どこか性急で荒々しい。
下衣を手早く脱がして、大きな手のひらでそこに触れた。中途半端に開いたままの口に被りついて、飲みこみ切れないほどの唾液を送り込む。口の端から溢れた唾液が顎を伝い、首筋を濡らしていった。
柔く握って上下に扱き、先を指先でぐりぐりと刺激されるととろりと先走りが溢れた。
真っ白な肢体を乱して、咲いたばかりの花を散らす背徳感に花仙の気分は高揚していくばかり。蒼い瞳を独り占めしたい。美しい真っ白な体に自分を刻み込みたい。男であるとか、女でないとか関係なかった。蓮雨が蓮雨である限り、それだけで良かった。心も体も、全てこの腕の中に閉じ込めて囲って自分だけの物にしたい。
仙道には「欲をかくべからず」とあるけれど、こと蓮雨に関しては無欲ではいられない。だって、目を放したらすぐにでも取られてしまうんだもの。それなら目を離さないで、ずっと一緒にいればいい。人間はどうでもいいけれど、蓮雨は別だ。――花びらで包み込んで、蜜に溺れさせて、俺がいなければ生きていけなくなればいいのに。
蜂蜜色の瞳を妖しく光らせて、深く深く口づけを交わした。
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