第三皇子の嫁入り

白霧雪。

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第三章

《 二 》

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 太陽に手を伸ばし、空に透かして右手の薬指に嵌った指輪を見る。

 武神仙が住まう剣雀けんじゃく楼閣にて門前払いを食らった花仙と蓮雨リェンユーは、牛が引く荷車の後ろに乗せてもらいながら、おう州で一番大きく栄えている町を目指していた。

「話も聞かず、門も潜らせないなんて酷いだろ。アイツ、俺のことが大嫌いなんだよ」

 かつて面と向かって言われたのだと面白おかしく口にしているが、もうちょっと悲しそうな顔をしたらどうなんだ。毛ほども気にしていない花仙に、そういうところなんじゃないかとはわざわざ指摘しなかった。

 遊楽道士という設定は思いのほか馴染んでおり、見目麗しい(自分で言う)青年が二人だけで旅をしていても、金持ち仙家のお坊ちゃんか、とそれだけで納得してもらえる。

 黄州にはあまり来たことがない花仙と、もちろん来たことなどあるわけがない蓮雨リェンユー。分かれ道でどちらに行こうか、と相談をしていたところを牛を操っている主人に声をかけられたのだ。人の多い町に行くなら右、田舎の村に行くなら左。右に行くなら乗せてやるよ、と言うので好意に甘えることにした。正直なところ、歩き疲れていた。

哥哥兄さんは、嫌いなんですか?」
「いいや、別に。何にも思っていないよ。まぁ、強かな女性だな、とは思うけど」
「え、女性なんですか!?」

 おもわず驚いて大きな声を出してしまった。チラ、と後ろを振り返った男性に、口を噤む。

 武神仙というのだから、てっきり屈強な仙人を想像していた。というよりも、花神仙を調べるにあたって他の神仙についても調べたのだが、武神仙は確かに七尺(約二百十センチ)を越える筋肉隆々の大男として描かれていた。

 何度でも言うが、花神仙は花の如く美しい天女として描かれている。そのせいで蓮雨リェンユーは花神仙に婿入りすることになってしまったのだ。

小花シャオファは強い女性が好きかい?」
「……そういう哥哥兄さんは?」
「どうだと思う?」

 花仙は、意外と好きそうだ。ちょっと強気で、自分に自信があるけど、たまに弱いところを見せる女性が好きそう。もしこれを声に出していたなら、花仙は笑いながら「自分のことを言ってる?」と言っただろうことに蓮雨リェンユーは気づいていない。

 他の神仙にさして興味のない蓮雨リェンユーは、かつて学んだ記憶を頼りに黄州の地理を思い出す。いくら娼婦の子とは言え、皇子であった蓮雨リェンユーには学ぶ権利が与えられていた。学を得ると兄皇子たちに口で勝つことが増え、武芸を身に着けると姉皇女たちが悔し気な顔で押し黙るのが爽快だった。天賦の才とまではいかずとも、それなりに才能があったらしく六芸をある程度身に着けることができた。特に皇族の中では楽を奏でることと弓を射ることに関しては右に出る者がいないほどの実力であった。ほかの芸に関してはあくまでも身に着けた程度で、実践せよ、となれば話はまた別だ。

 国を創った五人の始祖。神仙と呼び敬い尊ばれる存在が、皇宮では嫌われ者で厄介者だった自分の隣に座っているなんて信じられなかった。特に、神仙の熱狂的信者ファンだった第二皇子を思い出すとこの状況が面白くてしかたない。

 ここ最近は、どうにも心に余裕ができたのかいろいろなことをゆっくりと落ち着いて考えることができた。

 ところで、蓮雨リェンユーは「婿入り」と称して梦見楼閣に送り出されたわけだが、予定していた祝酒も飲んではいないし、夫婦(花神仙は男だったので夫夫になるな)の契りも交わしていない。ただの生贄となってしまった自分は、どうなるんだろうか。まさか本気で、母の元へ帰れるとは思っていない。どうしても母と共にいたいのなら、蓮雨リェンユーは皇宮では暮らすことができないので母に外に出てきてもらわなければいけなかった。

「どうしたの、難しい顔をしているね」
「……哥哥兄さんには関係ないことですよ」

 そう、花仙には関係のないことだ。今は目先の呪符のことだけを考えてもらわなければ。蓮雨リェンユーでは呪符を浄化することもできないので花仙の協力が必要不可欠だった。

 花仙の見立てだと呪符はあと三つ。七つの子供でもできる簡単な結界陣である。各州に配置された呪符を点と線で繋ぎ合わせると五芒星になり、ひとつだけでは瘴気を発するだけの代物でも、陣として完成させてしまえば効果は二倍どころか何倍にも膨れ上がる。そして、国を護る御神木を穢し犯すことで、国全体にも及ぶ効果を発揮したのだ。

 呪符を施した犯人の目的は国家転覆か、征服か、どうでもいいが見つけ次第ブン殴ろうと決めていた。母と子を引き離した罪はとてつもなく重い。

「おーい、お前さんたち、そろそろ町に着くぞ」
「あぁ、ありがとう、ご主人。……ところで、あっちの先には何があるんだ?」
「あっち? ……あぁ、悪いことは言わん。向こうには行かんほうがいい。異境徒の墓穴があるんだ。時々、邪鬼が見かけられるらしくってな、町の近くにあんなのがあるなんて薄気味悪いったらないよ」

 忌々しく吐き捨てた男に顔を見合わせる。

 蓮雨リェンユーが生まれるよりも前の話だ。

 現皇帝がまだ生まれてもいない頃、海を超えた異境から美しい国を支配しようと見知らぬ人間たちが攻め込んできた。国全体を巻き込んだ戦へと発展し、向こう三千の兵に対し、こちらは四百の兵に五百の道士合わせて九百。多勢に無勢。勝利を確信する異教徒たちだったが、どうやら外国とつくにには『仙術』が存在していないようで、道士たちの仙術に対応することができずに思わぬ苦戦を強いられることとなる。

 紆余曲折を経て華蝶国が戦に勝利をするのだが、当時の皇帝は冷血冷酷・血で血を洗う真紅の皇帝と言われ、捕虜として捕らえていた異境の民たちをひとり残らず処刑してしまう。もちろん、入れる墓もないために大きな穴を掘ってはそこに死体を投げ入れた。穴の中は暗く、覗き込んでも下を見ることはできない。怨念や未練、後悔――負の悪感情の吹き溜まりとなっているからだ。身を乗り出して覗けば最後、怨念に引きずり込まれて墓穴の住人の仲間入りをすることになる。この国で生まれ育った子供ならば、「墓穴には近づくな、引きずり込まれるぞ」と言われて育つ。

「だからお前さんたちも――……って、ありゃ、いない……」

 親切心で忠告をする男だったが、振り返った荷台には荷物しか乗っておらず、見目麗しい二人の青年の姿はいつの間にか消えていた。



「こんだけ怪しいのに、行かないわけがないな」

 整えられた道を外れ、ぬかるんだあぜ道を歩いて行く。粘着質な音を立てて、足を踏み出すたびにかすかに沈む感触に眉根を寄せた。衣が汚れてしまう。む、と口を引き結んで、できる限り泥を跳ねさせないように歩いた。

 二刻ほど歩いただろうか。日の位置が傾き、身体は疲労を訴えている。優雅な引きこもり生活を送っていたもので、真面目に武術を会得しようと体を鍛えていたわけでもない。二の腕は柔らかだし、ふくらはぎだってふわふわだ。蓮雨リェンユーの重くなる足取りに気づいた花仙は、逡巡してから「おぶろうか?」と提案をした。

「……結構、です」

 とても魅力的な提案だが、いい歳をしておんぶをされるなんて恥ずかしすぎる。たとえ誰に見られることがないとしても、皇子としての自分が許さなかった。

 仙道を極めるために修行を積み、道士の力の源である「練丹」を練っていたわけでもない。才能も質も申し分ないのに、蓮雨リェンユーの体がそれらについていけていないのだ。

「そう。残念だな。あぁ、けれどもう着くようだ。ほら、頑張れ」

 いつの間にか前を歩いていた花仙は、蓮雨リェンユーの気だるげに垂れた手を掴んで引いて歩く。体が少しだけ軽くなった気がした。

 足がもつれて転んでしまいそうになるのを意地で耐えると、すぐに開けた場所に出た。あぜ道から、渓谷の谷底のような場所に辿り着き、澱んだ空気に口を押える。

 左右を覆い隠す岩肌で日の光が当たらず、日中だというのにも関わらず夜のように影に覆われてひんやりと空気が冷たい。ある所から先には草花や雑草が一本も生えておらず、土は黒い色をしている。風通しは良さそうなのに、空気は滞ってどこか淀んでいた。あまりにも雰囲気の悪い場所に、繋いだ手をきゅっと握りしめた。

「怖い?」
「いいえ。ただ、気持ちの悪い場所です」
「そうだな。俺も、こんなにも心地の悪い場所がこの国にあるとは思わなかった。武仙にあとで伝えておかねばな」

 見ろ、と長い指が岩肌に囲まれた中心を指し示す。いくつもの札が張られた大きな岩が見えた。――墓穴の蓋だ。あの下に、無数の死体が放り込まれているのかと思うとゾッとする。

 札は古びてはいるが、封印や結界に綻びがあるようには見られず、来ただけ損か、とさっさとこんな居心地の悪い場所から立ち去ろうとした花仙は、大きな岩の奥に小さな祠があるのに気づく。そして、その祠の前で蹲る小さな影を視界に納め、さりげなく蓮雨リェンユーを背後に隠した。

「花仙?」
「こら、今は哥哥兄さんだろ。……見ろ、岩に隠れて気づかなかったが人がいる」

 掴まれた手は決して離れず、花仙の陰から奥を見た。

 祠の前に蹲り、何か小声でブツブツと呟いている。それほど遠くないはずなのに、何を呟いているのか聞き取ることができなかった。その人物は、祠の前で両手を組み、背中を丸めて頭は地面に着いてしまいそうな恰好をしている。蓮雨リェンユーより小柄なのは明らかだが、男なのか女なのか、老人なのか子供なのか見分けることができなかった。なぜなら、その人物はすっぽりと全身を覆う襤褸を被っていたため、はっきりと顔が見えなかったのだ。祈りを捧げているにしてはとにかく不気味な雰囲気だった。

「何……? 何と言っているか聞こえますか?」

 耳を澄ますばかりに、つい体が前のめりになってしまう。眉を顰めて呟きを拾っていた花仙は、それの意味を正しく理解すると同時にカッと目を見開いて蓮雨リェンユーを抱き寄せ、蹲った人物へとを止めるべく術を放った。

「うがっ、ぎゃっ!!」

 あくまでも止めるつもりで放たれた風術は呪詛を呟く人物に命中し、祠の前から転げ回った。地面にうずくまり、奇声を発しながらガリガリと土を掻く手は骨と皮でできており、黒いシミが斑点のように見える。頭までかぶっていた襤褸が外れ、顕になった顔はやはり性別も年齢も判別することができなかった。痩せて肉の削げた頬に、落ち窪んだ眼は焦点が合っておらずどこを見ているのかわからない。歪んだ口元から覗く歯は黄ばみ、所々が欠けている。白髪混じりの髪は艶もハリもなく、枯れて萎びた雑草のようだ。

 頭のおかしい者で終わればよかったのだが、その人物は口元から血泡を溢れさせながら言葉として理解できない音を叫んだ。すると、ぬかるんだ地面がボコボコと蠢き、泥人形が生み出されていく。

「邪教の者だ……! 小花シャオファ、決してそばを離れるでないよ」
「は、い」

 邪教道士と二人の間にはすでに十体を超える泥人形が不気味に佇んでいる。道士は花仙が邪魔をしてこないのを見ると再び祠の前に戻ってブツブツと呪詛を吐き始めた。

 邪教の術は、術士自身の血液を媒体にして様々な術を行使する呪術である。最もわかりやすいのが土人形や泥人形の使役だ。仙位の高い道士になれば、魔獣の使役や、それこそ呪符に効果を付与することもできるようになる、邪道だ、下劣だ、と言われるがひとえに馬鹿にはできない。破滅の道を歩むことになるが、それと引き換えに強大で強靭な力を手に入れることができるのだ。だからこそ、邪の道に堕ちる者が後を絶たない。

 昇火の術で泥人形を焼き払いながら、「まるで虫のように湧き出てくるな」と花仙が嘲笑う。倒しても倒しても、とめどなく生まれてくる泥人形にきりがない。

 泥人形に意識を割く花仙に変わって周囲に目を光らせる蓮雨リェンユーは背後から近づく影に気づいてとっさに術を放った。

!」

 対象物を爆破させる至って簡単だが割と派手で過激な術だ。爆発で跳ねた泥土が衣の裾に跳ねて、面布の下で不機嫌に表情を歪ませた。

 身軽にくるりと宙を回転して避けた道士は、攻めの姿勢を見せながら呪符を構える。――遠目だが、御神木に貼られていたいた札と同じように見えた。禍々しい気が呪符から溢れている。おそらく、この邪教道士は泥人形の道士よりもよほど腕が立つ。

 嗚呼、弓か扇でもあれば、と思わざるを得ない。弓ならばたとえ相手が動いていても眉間に命中させる自信があった。

 道士ならば修士であれ仙師であれ、剣を佩く。剣とは己の誇りである。けれど蓮雨リェンユーは道士ではないので自身の剣を持っていない。皇子であれば例外なく、物心つく頃に剣を与えられて共に育つのだが、蓮雨リェンユーは剣を与えられなかったのだ。対抗する術は己の仙術のみ。仙位の高い道士ならば、己の霊力で武器を構築することができると聞いた。花仙もできるのだろうか。

「五拾番から六拾九番まで。おいで」

 夢蝶モンディエを呼び出す。ふわり、と。蓮雨リェンユーの周囲に蒼い翅を広げて無数の夢蝶モンディエが現れる。

「任せていいんだな」
「はい。花、……哥哥兄さんはそちらに集中してくださって構いません」

 大口もいいところだった。子供騙しと言ってもいい、この術で、手練れの道士を退治するなんてできると思わなかった。だけど、守られるだけではそこらへんの皇女と一緒じゃないか。奥歯を噛み締めて、蒼い瞳で道士を食い入るように見つめる。

 背中に、花仙の熱を感じる。それを意識すると、浅くなっていた呼吸が落ち着いて行った。

「五拾番から五拾五番、行って」

 ヒュン、とそれはまるでギリギリまで引き絞り放たれた弓矢の如く鋭く飛んでいく。飛び散るのは鱗粉ではなく、パチパチと音を立てる火花だった。

 四拾番以降の夢蝶モンディエは、蓮雨リェンユーが改良をした特別仕様の蝶たちだ。経験が浅く、信頼のおける護衛もいない自分が敵だらけの皇宮で身を護るために編み出した。

 夢蝶モンディエはどこからでも現れる。蓮雨リェンユーは攻撃を避けることはできても、仕掛けることはなかなかに至難の技だと自身の実力を驕ることなくきちんと理解している。だから夢蝶モンディエを式神化させて、術の効果を付与した。四拾番から結界の術。五拾番から炎術。七拾番からは風術。

 夢蝶モンディエはたとえ消えてしまったとしても、『夢幻(無限)の蝶』だからまたどこからともなく現れるのだ。

 なぜか呪符を構えたまま動かない邪教道士に突進した夢蝶モンディエたちが次々と爆ぜていく。

「随分派手じゃないか」
「簡単でいいでしょう。爆発させるだけなんですから。うまくやれれば塵も残りません」
「ははっ、怖い怖い。……だが、相手はだいぶタフなようだね」

 土煙が晴れると、頭まですっぽりと羽織を被ったまま道士は立っている。腕の一本も持っていけなかったようだ。

「すぐに加勢しよう」
「……すみません」
「謝るなよ」

 泥人形はもはやドロドロと人型を形成することも出来ず、泥土の塊と化している。術士は祠の前で蹲ったまま微動だにしない。

 丹田で練られた仙力が放出される。花仙を中心に、清廉な空気が渦巻き、淀みを祓い吹き飛ばしていった。

「ッ!」

 そこで初めて道士が動く。守りの陣を蝶たちに指示を出すが、高く飛び上がった道士は二人の頭上を飛び越えて祠の前に着地をすると泥人形の道士の襟首を掴んで持ち上げた。

 けれど、だらりと四肢を垂らし、力無く持ち上げられる様子に訝しげに首を傾げ、何かに気づくと術士を花仙たちに向かって放り投げる。

「五拾六番っ!」

 パンッ、と軽い破裂音を立てて術師が弾き飛ばされた。

 もはや動かない泥人形だった塊にぶつかって、仰向けに倒れた術士は見開いた目から黒い血を流し、すでに事切れていた。

「――蓮雨リェンユー皇子?」

 その時、彼の道士から小さく確信を持った呟きが聞こえる。

小花シャオファ、下がって」

 余裕に浮かべていた笑みを消し去って腕を引かれて、背中に隠される。

 蓮雨リェンユーの頭の中には疑問符でいっぱいだった。面布で顔は隠しているし、皇宮の外にはほとんど出ていないので顔が割れているわけもない。――皇宮の関係者か? そうであるなら、非常にマズイ事態だ。生贄に差し出されたのに、楼閣の外で生きていることがバレてしまったことになるのだから!

光縛藤こうばくとう

 金色の鎖が、道士を捕らえようと伸びる。

 溢れた声からして男だろう道士は軽々と紙一重に交わし、目深く布を被っているのに視線が花仙を通り越して蓮雨リェンユーを凝視しているのがわかる。視線から逃れるようと花仙の背に隠れるが、道士が苛立ったのがわかった。

「知り合いか?」
です」

 蓮雨リェンユーの言葉に焦れた道士が、黒く燃える呪符を投げ捨てた。

 見掛け倒しのそれをただの仙気の塊で打ち消した花仙は、黒炎の影に隠れて放たれていたモノに目を見張り、蓮雨リェンユーを左の衣の袖の中に隠して右腕で顔を庇った。

 ジュウ、と布の繊維と、肉の焼ける臭いがする。血の臭いに衣の中で目を見張るが、強く抱き寄せられてしまっているために外側で何が起こっているのか把握することができない。

 炎の影に隠してかけられたのは呪血じゅけつだった。呪符を書くために使い、泥人形や魔獣を使役するために使う邪教道士の呪詛や怨念、負の感情が詰め込まれた道士本人の血である。呪いと穢れの塊と言っても過言ではないそれは、呪いの質が高いほど溶解性があり、衣服はもちろん人の肉や骨まで溶かしてしまう。

 幸い、摂取したばかりの血液だったのか、それほど呪いは込められておらずに皮膚をジクジクと焼くまでに留まった。

「……哥哥兄さん?」
「もう、出てきていい」

 そ、と衣の中から外へ出る。邪教道士の姿は無く、無残に崩れた泥人形だった塊が残っているのみだ。事切れた道士の躯も無くなっている。

 逃げられたのか、花仙があえて逃がしたのかは些細なことだ。逃げられたのなら相手が相当の手練だっただけで、花仙が逃がしたのなら何か策があるからだ。

 なによりも今、蓮雨リェンユーが気にすべきは花仙の怪我だった。

「花仙、花仙っ、怪我をしたんですよね? すぐに楼閣に戻りましょう。怪我の治療をしないとっ」

 蒼い双眸は不安と混乱に揺れ動き、花仙の一挙一動を気にしている。

 なんだか、こうして蓮雨リェンユーに心配されていることが不思議で、それでいて新鮮で思わず笑いがこぼれてしまう。「何笑ってるんですか!」と厳しい声音が飛んでくるのはわかっているのに、花仙は面白くて仕方なかった。

「いや、その前に呪符を浄化しないと」
「怪我してるのに!?」
「こんなのかすり傷だ。見た目は酷いが、血は出ていないしそれほどでもないよ」

 それが痩せ我慢なのか本当なのか蓮雨リェンユーにはわからなかった。

 呪血を浴びた右腕は皮膚が溶けてジュクジュクと赤黒く血が滲んでいる。袖口は繊維が溶けてしまい大きくその部分に穴が開いていた。不格好になってしまった袖を強引に引き千切って、適当に腕に巻いていくのを見てぎょっとした。

「よし」と頷くけれど何も良くない。かといって包帯も手元に無く、あったとしても蓮雨リェンユーは上手く巻けるだろうか。

 泥の塊を避けながら、祠の前に立つ。道士は一体、この祠で何をしようとしていたのだろうか。

「私が開けます」
「何が出て来るかわからない。俺が開けよう」
「いいえ。貴方は怪我をしているんですから、私が」
「……それなら、一緒に開けようか」
「…………まぁ、それなら」

 ここが妥協点かな、と頷いて祠の扉をふたりで開いた。鬼が出るか蛇が出るか。ギィ、と鈍い音を軋ませながら開いた扉の中は埃っぽくて湿気が酷く、黴臭かった。一切の灯りが無く、真っ暗闇だ。この中に足を踏み入れる勇気が出せずにいると、花仙が口元に手のひらを寄せ、「ふぅっ」と息を短く吹く。すると、真っ暗だった祠の中にあった燭台に温かな光が灯った。

 ぼんやりと照らされた中は、思いのほか奥行きはなく、小さな祭壇があるのみ。人が訪れなくなって暫く経つのだろう。空の盃や、小鉢がいくつか置かれているものの大分劣化が激しかった。

「なるほど、あれが御神木か」
「もしかして、あの枝ですか?」
「かすかに霊気が感じられる。……この土地じゃあ、樹が育たなかったんだろう」

 祭壇の一番高い所に、腕くらいの長さの枝が置かれていた。白く細長い紙が結ばれている。元々は葉もついていたのだろうが、祭壇の下に落ちて茶色くなっていた。

「呪符、ありませんね」
「やはり来ただけ損だったか」

 本当にそうだったかもしれない。衣は汚れるし、花仙は怪我をするし。じっくりと見渡すが、祭壇以外に特に目立つ物は見当たらなかった。

 だがそれなら、なぜ邪教道士はこんな場所にいたのだろうか。腕を組み、考え込む。泥人形の道士は、祠に向かってまるで祈るように呪詛を吐いていた。てっきり、この祠の中に呪符があり、それの効果を高めるためだと思っていたが違うらしい。他に、どこか呪符がありそうなところは――

「蓋をしてる、大岩?」

 ハッとして、祠の外へ目を向けた。




 
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