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第三章 貫通式

9 おれは煙草、ぼくは犬笛

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「森先輩——」康太は云いかけて、一瞬、たじろいだ。「ここ、禁煙じゃないんですか?」

 ——後始末を手早くすませた大樹がベランダに出ながら、
「康太、ちょっと風に当たらないか?」
 と誘った。
「今、行きます」康太は、汚れを拭ったウェットティッシュを足許の屑入れに捨てて、急いであとを追った。ベランダに出ると、大樹は手すりに両腕を乗せ、外向いて風を浴びていた。口に何かを銜えている。犬笛ではなく、煙草だった——。

「ああ、これか?」大樹は煙草をゆっくりと吸って煙を吐いた。「ここは寮内じゃないだろ。外だ」悪戯っぽく笑い、康太のほうを向いた。銜え煙草のまま右手の人差し指を鉤の形にする。「こっちに来い」
 康太は反射的に近寄った。大樹は、向かいあわせに立つ康太の口に、胸にぶら下がる犬笛を咥えさせた。「おまえは未成年だから、これで我慢しろ」
 康太は素直に犬笛を口に含んだ。ただ凝っと大樹の顔を仰ぎみる。所在のない両手は自然に腰の後ろで組まれた。
「喫煙セットはベランダの隅に隠してある。あそこだ。おまえも覚えておけ」
 大樹が目配せをした。康太も同じほうを向いた。
 ——確かに規則ルールに風穴を開けようって云ってたけど……。
「不安そうな顔してるな。さっきまでの堂々とした姿はどうした?」
 大樹が手すりに置いていた携帯灰皿を手に取り、煙草を押しこんだ。携帯灰皿を手すりに戻すと、耳に挟んでいた煙草を一本取り出し、左手に隠し持っていたジッポのライターをカチャリと鳴らす。大樹は少し顔を斜めに傾けて、両手で風を避けながら銜え煙草にを点けた。
 康太は、この大樹の仕草にすっかり見惚れてしまった。大樹とは学年ふたつしか離れていないはずなのに、ずいぶん大人の男に見えたのだ。特に焔の揺めきが大樹の顔に光と影を描くようすは、昼の顔と夜の顔、人間の顔と狼の顔といった大樹の二面性を、しっかりと印象づけた。
「康太、真似事でも好いから並んで吸おうぜ。連れモクだ」
 ふたりは手すり壁に並び立ち、外を向いた。下の階から笑い声とも悲鳴ともつかない騒々しい音がする。ふたり部屋と大部屋で同じように貫通式が行われているのだろう、と康太は思った。
「貫通式のことだけど——」白い煙を吐いて、大樹が云った。「メイン・イベントはもうすんだ。あとは大野さんのチェックを受けて、朝まで素っ裸かで寝るだけだ」
 康太は右に立つ大樹の顔を見あげた。
 ——本当に大丈夫なのかな……。
 大樹は余裕の表情で煙草を喫んでいる。
「康太、心配するなって」
 大樹と目が合った。大樹は筋肉質の左腕を回して康太の肩をがっしりと抱いた。素裸かでいることすら忘れさせるくらい自然な行動だった。
 ——大丈夫だと好いんだけど……。
 突然、隣りの掃き出し窓が開く音がした。康太は、あっ、と声を上げた。するとその拍子に犬笛が口から離れた。
「デカ猪のお出ましか……」大樹が音のした方に巨軀ごと向きなおり、即席の壁が出来た。「康太、後ろに隠れろ」
 康太は、さっと身を屈めた。顔をちょうど大樹の腰のあたりまで沈め、両手をその腰まわりにそっと添える。大樹は、左腕を手すりにもたれさせ、隣りのベランダを窺いながら煙草を吹かしつづけた。
「よう、ウルフ」武志の声だった。
「何ンや、生きとったとや」大樹が鼻を、ふんっ、と鳴らした。「杉野の寝技で一本取られて、今ごろ伸びとるやろうと思うとった」
「何ンば云いよっとや? 寝技で一本決めたのは、おれのほうたい」カチッと音がする。ライターの音のようだ。ほどなくして、ふぅっ、と息を吐く音がした。「ああ、ひと仕事えたあとの煙草はうまかあ。ん? 康太、それで隠れているつもりか?」
 見つかってしまった。康太は観念して、大樹の背中越しに顔だけを出して、
「今井先輩、こんばんは……」
 と頭をぺこりと下げた。両手はまだ大樹の腰に添えたままだ。
 康太の目が武志の裸かの上半身を捉えた。朝のチェックまでは素裸かなので、下半身も丸出しなのだろうと康太は思った。大樹と武志は、まるで脱衣場で団欒だんらんするかのように、一糸まとわぬ姿で、ごく自然に語りあった。
「杉野は?」
「もう先に寝とる。煙草は吸わんって云いよった」武志は煙草を深く吸い込み、夜空に向って煙を解き放った。「なかなか根性あるぜ、あいつ。気に入った」
「おれの康太もなかなかのもんだぞ。朝まで延長線だ」
 大樹がこう云って腰を突き出すようにして二、三度振ってみせると、武志が苦笑いをしながら云いかえした。
「何ンが『おれの康太』か。康太は、硬式野球部の新人やろうが。股間のバットしか振ったことのなかおまえとちがう」
「せからしか」
 仲の良い男同士にありがちな悪態の応酬、そしてハッタリのましあい——激しい口論に発展することもなく、大樹と武志の談笑は、風のようにおだやかに続いた。
 康太はふたりの会話を、うわの空で聞きながら考えた。学生コーチも兼ねる武志は練習のときは厳しいが、後輩に暴力を振るったりするようなことない。だから下の階のふたり部屋や大部屋の新入生はともかく、健司は無事なのだろう。
 武志が大樹に訊いた。「おい、煙草持っとうや?」
「おまえ、セスタやったろうが」携帯灰皿に吸い殻を押しこみながら、面倒くさそうに大樹が応える。
「吸えりゃ、何ンでん好か」
 大樹が笑った。「女と同じってわけか」
「何ンば云いよっとや!」武志は大樹に云うと、こんどは慌てて康太に向って弁明した。「おい、康太。このバカちんの云うことは信じるな」
「はいはい」
 大樹はベランダの隅に隠してある煙草を取りに行った。康太は隠れる場所がなくなったので、その場しのぎで後ろを向いた。
「おい、康太。先輩にケツ向けるのか?」武志がドスを利かせた。 
「あ」
 固まったまま動けなくなった康太に、武志が云い足した。
「野球のケツしてんな。さすがリトル・ウルフだ。バットとボールだけじゃねえんだな」
 そこへ煙草の箱を手にして大樹が戻ってきた。「ほらよ。一本だけばい」そして康太に云った。「部屋に戻っていろ。おれはこのデカ猪と話がある」
 部屋に戻った康太は掃き出し窓を閉め、カーテンを引いた。大樹のベッドに腰を下ろし、ヘッドボードのライトを点ける。カーテンの隙間から大樹と武志のようすをそっと窺うと、素裸かの狼と猪が、蹴破り板を挟んでまるでマフィアの取引のように顔を寄せて何やら話しあっていた。
 ――貫通式のことかな?
 耳をすませても、聞きなれない博多弁が飛び交うだけだった。
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