相談室の心音さん

阪上克利

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感謝の気持ち

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 目の前には……不安気な表情の若い女性。
 彼女は若く、その人生経験の浅さのせいで知らないこともある。

 プライベートな『育児』の問題を会社に頼るのが不安なのだろう。
 通常の時期ならまだ言えた話なのかもしれないが、この忙しい時期に言い出すのは確かに不安な内容であることは理解できる。
 しかし、不安だろうがなんだろうが、この手の問題は直属の上司や同僚に協力してもらわないとどうにもならないのだ。そのためには正直に自分の状況を話して理解してもらう必要がある。

 言い方さえ間違わなければ、普段真面目に仕事している者をこういう状況で邪見じゃけんにすることはない。

『練習……ですか?』
 芳川さんは少しピンと来ていない様子だった。
 しかし実はこの方法、意外と効果的なのである。
 あたしも言いにくいことを誰かに言わなければいけないときは考えを整理して一人で口に出しながら『練習』したりする。
 あれこれ考えながら『練習』しておくと実際に話すときには自分が思ったよりもうまくいく。
『そうそう。練習』
『はあ……じゃあ……え――っと……。すみません。あの……家庭の事情でしばらく残業しないで早く帰りたいんですけど』
『ダメ』
『え??』
 いきなりのダメ出しに芳川さんは驚いた様子だった。
 でもダメなものはダメ。
『だってそんな帰らせてもらって当然……みたいな顔で言ったらみんな気分よくないでしょ』
『そんなつもりは……』
『もちろん芳川さんにはないと思うんだけど、外から見た印象を大事にしないと』
『外から見た印象?』
『そう。どうやって言えば気分よくOKだしてもらえると思う??』
『え? そんなのどんなふうに言おうが一緒じゃないですか』

 総務にいた頃の彼女はどんな仕事でも気持ちよく引き受けてくれる子で、あたしだけでなく他の社員からも評判が良かった。
 ただ彼女が何かを頼むことは、あたしの知る限りはない。

 仕事というものは3種類に分けられる。
 自分でやらなければいけない仕事と他人を助ける仕事。
 そして……

 他人にやってもらわなければならない仕事。

『甘え下手』な人というのはけっこう世の中には多い。
 仕事ができて自分のことは基本的にはなんでもできる女性はこの『甘え下手』になるケースがある。
『甘え下手』な人は物を引き受けるときは愛想がいいのだが、自分が物を『お願い』する場合は愛想がないことが多いのだ。それは彼女らが基本的には人に物を頼むのがキライで自分で解決できるものであるならばなんとか自分で解決したい、人に物を頼みたくない、と思っているからに他ならない。

 しかし、生きている以上……そういうわけにはいかない。
 自分一人では生きていけないのだ。

 人は一人で生きているように見えて、実はいろんなところで人の力を借りている。
 そういうことを自覚できるようになるべきだとあたしは思う。
 そして自覚が芽生えれば感謝の気持ちも出てくる。
 感謝の気持ちが出てくれば、自然と人にものを頼むのもうまくなるというわけだ。

『それが一緒じゃないのよね。例えば、Aという仕事をぬかりなくちゃんとやってほしいときに……『失敗すんなよ!』というのと『ぬかりなくやってください』というのと『いつもありがとうございます。今回もよろしくお願いしますね』というのと……頼まれる方としてはどれが一番気分良くできる??』

『一番、最後の言葉ですね……』
『そう。仕事であってもあくまでお願いする立場なら丁寧に『お願い』した方が頼まれた方も気持ちよくできるでしょ』
『そうですね……。じゃあ、こういう感じでどうでしょうか? 『忙しい中、すみません。実は家庭の事情がありまして、ご迷惑おかけして大変申し訳ないのですが、しばらく残業せずに帰宅させていただきたいのですがよろしいでしょうか?』
『うん。いいかも。あと、部署のみんなには安いものでもいいから何かプレゼントをあげるといいわよ』
『分かりました。ありがとうございます』

 ここに来たときよりも明るい顔で芳川さんは相談室を出ていった。

 頭のいい彼女はこの会話で、おそらく悩みの解決につながる手ごたえみたいなものをつかんだのだろう。
 小さい子供がいるなら、実家のお父さんやお母さんの状況に関係なく、早く帰ってあげてほしい。
 子供には母親が必要だし、母親にも子供は必要で、双方はかけがえのないものなのだ。
 あたしは心からそう思った。

 実に晴れやかな気分だった。
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