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エピローグ
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1年とは早いものだ。
気が付けばカレンダーは2月になっていた。
あれから……丸1年……
考えても仕方ないので、流産のことも子供のことも自然に考えなくなっている。
あんなに泣いて、あんなに悩んだのが嘘のようだ。
もちろんまったく忘れてしまったわけではない。今でも思い出して、ため息の一つもつくことはあるが、そんな時はほかのことをして気を紛らわせたりしている。
以前のように夜、眠れないということもないし、悪い夢も見なくなった。
時の流れは、傷の痛みを癒してくれる。
その傷はなくなることはないが、痛みは少しずつ消えて行っている。
悩みがのしかかっているときには分からないが、痛みが消えてくるとそれが分かるようになる。
それでもたまに1年前を思い出すとチクリと胸が痛むのはやはりまだ傷の痛みが癒えていないのだと思う。
芳川さんはうまく立ち回り、残業を免除してもらったらしい。
そもそも彼女は仕事もできるし、愛想のいい子だから、あたしの言ったこともすぐに理解したのだろう。
毎日、早めに家に帰って子供の顔を見れているようだ。
たしかに育児には苦労もあるのだろうけど、仕事が終わって子供の顔が見れればつらいことがあっても癒されるだろうし、育児でつらいことがあれば今度は仕事に逃げられる。
適度な距離がとれるといいな……と思う。
そういえば……。
山本夫婦と石岡くん、志保ちゃんの4人は、よく遊びに行ったり呑みに行ったりしているらしい。
あたしは……と言うと誘ってはもらえるのだが、予定が合わなかったりなんだかそんな気分になれなかったりで、3回に1回ぐらいだろうか……彼らの中に混じらせてもらっている。
相談室は今日も、定期的にこちらから面談を持ちかけている人以外の相談は今のところない。
山本さんと杏奈に関してはうまくやっているらしい。
『ここちゃんに言われたとおり、相手に求めることは3回に1回ぐらいにしたら、イライラしなくなったわ』
杏奈はあれからしばらくしてあたしにそう言っていた。
夫婦というのは違う環境で過ごしてきた二人が突然家族にならなければいけない。
そうなれば、今までの環境の中での自分のやり方を殺さなければいけないことがどうしても出てきてしまう。これが『相手にあわせる』という行為なのだが……。
『自分を殺して……』と言う言葉はまさしく適当な言葉であるな……とあたしは思う。
相手のやり方に合わせることは自分を否定してまで相手のやり方を尊重しなければいけないのである。だからこそ夫婦の間では亀裂が起こりやすいのだ。
だから……
自分を否定するのは2回まで。
2回自分を否定してあなたに合わせたんだから、今度はあなたがあたしに合わせる番でしょ。
ということで3回目は相手に求めることを指摘するのだ。
そこで重要なのは言葉遣い。
相手に求めるということは、相手に『自分を殺し、自分を否定』するように求める行為なのである。
自分がそうするのにかなり抵抗を覚えるのと同じく、相手もそうであることを十分に理解するなら言葉遣いも自然と丁寧になる。
夫婦は家族である。
ただ家族であっても恋人でもあり、実は赤の他人でもある。
だからこそ言葉遣いは注意しなければいけない。
結婚すると男性も女性もどうあれ物柔らかになると言われているのはその辺が原因なのかもしれない。
結婚して数か月……。
あたしより数倍有能な杏奈は早くそのことに気づいたせいか、最近では随分、物腰が柔らかになったように感じる。
いずれにしても新婚における夫婦間の大きな危機は回避できた様子で、山本さんも、杏奈もすっかり元気に仕事している。社内に共通の新しい友人ができたのも良かったのかもしれない。
そうなると……
どちらかといえばあたしの出番は終わりである。
気が付けば相談室には彼らが顔を出すことは少なくなっている。
もっとも志保ちゃんは相変わらずお弁当を持ってやってくるが……。
それにしてもあたしは役になったのだろうか。そもそも相談なんてものは本人があらかじめ答えを用意していることが多く、あたしはその答えに対して背中を押しただけだったような気もするのだ。
あたしはなんだか少しさびしい思いをしながらもパソコンの前で書類を作る毎日だ。
『迎春』とお正月には言うが、2月になっても春はまだ遠く……ずいぶんと寒い日が続いている。
気が付けばあたしが流産したことなんか遠い過去のようだ。
誰もいない相談室で一人、仕事をしていると……なんだか、ふと寂しく感じることがある。
もともと寒い季節は苦手で、妊娠する前からキライではある。
よく考えてみれば、2月といえばプロ野球もようやくキャンプが始まり、昨シーズンも優勝を逃した阪神タイガースのキャンプ情報を見ながら、今年に期待を寄せるという季節でもあるのだが……。
あれから……丸1年……。
どうもあたしの周りには何もなくなっているような喪失感を覚えるときがある。
やはり寂しいには寂しいのだ。
相談室の扉をたたくノックの音。
あたしはそれを『運命の扉をたたく音』と自分の中でよんでいた。
相談室にきてあたしの運命は変わったのかもしれない。
人生と言うものが自分で切り開いていくものであり、そういったものを運命……と呼ぶのは少し違うのかもしれないけど……。
ただ、相談室の扉をたたくノックの音は、あたしが自分自身を見直す良いきっかけになったと思っている。
人生において……その場その場でいろんな悩みが生じ、人はその場その場で本気で悩む。
だけど……ひとたびその悩みが解決してしまうとそのことは忘れて行ってしまうのである。
あたしはそのことを忘れていた。
大きな壁にぶつかると世界の終わりのように感じてしまうものであり……その壁を乗り越えるのにはやはり『時間』が必要ということなのだ。
相談室の扉をたたく人にとっては扉の向こうは自分の『運命』を変える出来事が待っているのかもしれない。
あたしはつらい経験をした。
冷静に考えれば同じ経験をする人も少なくないらしい。
もちろん、だからと言って寂しさやむなしさがないわけではない。程度の違いこそあるだろうけどこの気持ちとは一生向き合っていかなければいけないのかもしれない。
だけどこれを経験しなかった人より、あたしは人に優しくなれたと思う。
相談室の扉をたたく人にとってあたしの存在が少しでも救いになってくれれば……。
冬の物悲しい街路樹をオフィスの窓から眺めながら、あたしはゆっくり背伸びしつつ深呼吸をした。
長い冬はいつか終わり、過ぎ行く時間と共に春が来る。
もしかしたらあたしにも何かいいことがあるかもしれない。
(了)
気が付けばカレンダーは2月になっていた。
あれから……丸1年……
考えても仕方ないので、流産のことも子供のことも自然に考えなくなっている。
あんなに泣いて、あんなに悩んだのが嘘のようだ。
もちろんまったく忘れてしまったわけではない。今でも思い出して、ため息の一つもつくことはあるが、そんな時はほかのことをして気を紛らわせたりしている。
以前のように夜、眠れないということもないし、悪い夢も見なくなった。
時の流れは、傷の痛みを癒してくれる。
その傷はなくなることはないが、痛みは少しずつ消えて行っている。
悩みがのしかかっているときには分からないが、痛みが消えてくるとそれが分かるようになる。
それでもたまに1年前を思い出すとチクリと胸が痛むのはやはりまだ傷の痛みが癒えていないのだと思う。
芳川さんはうまく立ち回り、残業を免除してもらったらしい。
そもそも彼女は仕事もできるし、愛想のいい子だから、あたしの言ったこともすぐに理解したのだろう。
毎日、早めに家に帰って子供の顔を見れているようだ。
たしかに育児には苦労もあるのだろうけど、仕事が終わって子供の顔が見れればつらいことがあっても癒されるだろうし、育児でつらいことがあれば今度は仕事に逃げられる。
適度な距離がとれるといいな……と思う。
そういえば……。
山本夫婦と石岡くん、志保ちゃんの4人は、よく遊びに行ったり呑みに行ったりしているらしい。
あたしは……と言うと誘ってはもらえるのだが、予定が合わなかったりなんだかそんな気分になれなかったりで、3回に1回ぐらいだろうか……彼らの中に混じらせてもらっている。
相談室は今日も、定期的にこちらから面談を持ちかけている人以外の相談は今のところない。
山本さんと杏奈に関してはうまくやっているらしい。
『ここちゃんに言われたとおり、相手に求めることは3回に1回ぐらいにしたら、イライラしなくなったわ』
杏奈はあれからしばらくしてあたしにそう言っていた。
夫婦というのは違う環境で過ごしてきた二人が突然家族にならなければいけない。
そうなれば、今までの環境の中での自分のやり方を殺さなければいけないことがどうしても出てきてしまう。これが『相手にあわせる』という行為なのだが……。
『自分を殺して……』と言う言葉はまさしく適当な言葉であるな……とあたしは思う。
相手のやり方に合わせることは自分を否定してまで相手のやり方を尊重しなければいけないのである。だからこそ夫婦の間では亀裂が起こりやすいのだ。
だから……
自分を否定するのは2回まで。
2回自分を否定してあなたに合わせたんだから、今度はあなたがあたしに合わせる番でしょ。
ということで3回目は相手に求めることを指摘するのだ。
そこで重要なのは言葉遣い。
相手に求めるということは、相手に『自分を殺し、自分を否定』するように求める行為なのである。
自分がそうするのにかなり抵抗を覚えるのと同じく、相手もそうであることを十分に理解するなら言葉遣いも自然と丁寧になる。
夫婦は家族である。
ただ家族であっても恋人でもあり、実は赤の他人でもある。
だからこそ言葉遣いは注意しなければいけない。
結婚すると男性も女性もどうあれ物柔らかになると言われているのはその辺が原因なのかもしれない。
結婚して数か月……。
あたしより数倍有能な杏奈は早くそのことに気づいたせいか、最近では随分、物腰が柔らかになったように感じる。
いずれにしても新婚における夫婦間の大きな危機は回避できた様子で、山本さんも、杏奈もすっかり元気に仕事している。社内に共通の新しい友人ができたのも良かったのかもしれない。
そうなると……
どちらかといえばあたしの出番は終わりである。
気が付けば相談室には彼らが顔を出すことは少なくなっている。
もっとも志保ちゃんは相変わらずお弁当を持ってやってくるが……。
それにしてもあたしは役になったのだろうか。そもそも相談なんてものは本人があらかじめ答えを用意していることが多く、あたしはその答えに対して背中を押しただけだったような気もするのだ。
あたしはなんだか少しさびしい思いをしながらもパソコンの前で書類を作る毎日だ。
『迎春』とお正月には言うが、2月になっても春はまだ遠く……ずいぶんと寒い日が続いている。
気が付けばあたしが流産したことなんか遠い過去のようだ。
誰もいない相談室で一人、仕事をしていると……なんだか、ふと寂しく感じることがある。
もともと寒い季節は苦手で、妊娠する前からキライではある。
よく考えてみれば、2月といえばプロ野球もようやくキャンプが始まり、昨シーズンも優勝を逃した阪神タイガースのキャンプ情報を見ながら、今年に期待を寄せるという季節でもあるのだが……。
あれから……丸1年……。
どうもあたしの周りには何もなくなっているような喪失感を覚えるときがある。
やはり寂しいには寂しいのだ。
相談室の扉をたたくノックの音。
あたしはそれを『運命の扉をたたく音』と自分の中でよんでいた。
相談室にきてあたしの運命は変わったのかもしれない。
人生と言うものが自分で切り開いていくものであり、そういったものを運命……と呼ぶのは少し違うのかもしれないけど……。
ただ、相談室の扉をたたくノックの音は、あたしが自分自身を見直す良いきっかけになったと思っている。
人生において……その場その場でいろんな悩みが生じ、人はその場その場で本気で悩む。
だけど……ひとたびその悩みが解決してしまうとそのことは忘れて行ってしまうのである。
あたしはそのことを忘れていた。
大きな壁にぶつかると世界の終わりのように感じてしまうものであり……その壁を乗り越えるのにはやはり『時間』が必要ということなのだ。
相談室の扉をたたく人にとっては扉の向こうは自分の『運命』を変える出来事が待っているのかもしれない。
あたしはつらい経験をした。
冷静に考えれば同じ経験をする人も少なくないらしい。
もちろん、だからと言って寂しさやむなしさがないわけではない。程度の違いこそあるだろうけどこの気持ちとは一生向き合っていかなければいけないのかもしれない。
だけどこれを経験しなかった人より、あたしは人に優しくなれたと思う。
相談室の扉をたたく人にとってあたしの存在が少しでも救いになってくれれば……。
冬の物悲しい街路樹をオフィスの窓から眺めながら、あたしはゆっくり背伸びしつつ深呼吸をした。
長い冬はいつか終わり、過ぎ行く時間と共に春が来る。
もしかしたらあたしにも何かいいことがあるかもしれない。
(了)
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