相談室の心音さん

阪上克利

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気づき

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沈黙が続く……。
 と言ってもものの数分の沈黙。
 だけど何も話さない時間というのはやけに長く感じる。

 ピアノの音が部屋に響き渡る。
 ショパンの曲。
『幻想即興曲』は終わって次の曲が流れている。
 なんという名前の曲だったかは思い出せない。

 話しをしていれば耳に入ってこないピアノの音は沈黙になった瞬間、やけにはっきりと聞こえてくる。
 不思議なものだ。

『……子供です』
 しばらく考えてから芳川さんは言った。
 本来なら即答したいところなのだろうけど……そう簡単にいかないのが生きていくことの難しさなのかもしれない。
『だよね。だからこんなに悩んでるのよね』
『はい……。子供は大事です。だから早く帰りたいけど仕事も大事。今の部署での人間関係も大事にしたいです』
『どれか一つを選ぶことができれば問題はないのだけど、そういうわけにはいかないもんね』
『はい……』
 でも……
 この問題の答えは一つしか選べない……
 そして何を選びたいかは彼女自身が良く分かっている。

『じゃあ、角度を変えて考えてみようか』
『角度??』
 角度を変えて物事を考える……
 つまり正攻法で考えずに、少し見方を変えてみるのだ。
 この問題は、子供のために早く帰りたいが、仕事が忙しくて早く帰れない、と言う問題だ。

 まあ……自分の仕事が終われば問答無用で帰ればいいのだが、周りが忙しく働いている中、無言のプレッシャーが襲い掛かるわけで……なかなか帰宅することができないというのが問題の根本である。
 つまりこちらが調整できないのなら、職場の方に調整してもらえばいいのである。

『上司に言ってみて、そのあと、部署のみんなにも協力してもらうってのはどうかしら?』
『え……それは……』
『やりづらい??』
『はい……』
『ちゃんと言えば大丈夫よ』
『そう……ですか……?』
『それでもダメかな??』
『う――ん……。あたしにはちょっと……』

 彼女は何か違うイメージを持っている様子だった。
 みんなに協力してもらうというところを何か勘違いしている。
『協力してもらうというのは迷惑をかけることになると思ってる??』
『はい……そうですね……結局はあたしができない分の仕事は他の人に割り振ることになりそうですし』
『じゃあさ……仕事って本来だれが責任もってやるものだと思う?』
『え? 自分の仕事だから自分じゃないんですか?』
『どうだろ? その仕事が自分に割り振られる前はどこが仕事を請け負ってるの?』
『それは会社ですよ』
『だったら芳川さんの仕事も、もちろんあたしの仕事もそうだけど、基本的にできなくなったらほかの社員が受け持ってやるのが当たり前じゃん』
『そういうもんですか?』
『そういうもんじゃない? 違うかな??』

 違わないと思う。
 つまり仕事とはそもそも会社が請け負ったもので、それを社員が分担して行うからこそ、得られた売上の一部は『給料』としてもらえるのだ。つまり自分に分担されている仕事をしっかりこなすことができてさえいれば誰かに遠慮する必要などない。
 無駄な残業などせずに帰ればいい。
 そして自分に分担されている仕事でも事情があってできない場合は助けてもらえばいいのだ。
 そもそも芳川さんだって他の人の仕事を助けたことがあるはずだ。
 そういうのはお互い様なのである。
 困ったときは遠慮なく助けてもらえばいいのだ。
『う――――ん……』
 どんな名案でも悩みの解決には本人のやる気がなければ役には立たない。
 芳川さんは……
 彼女の中では結論が出ている問題に対して、一歩踏み出せないでいる。

 いくら悩んでも彼女の悩みの解決は仕事を終えて早く帰るか、子供をどうにかするしかない。子供をどうにかするといっても保育所などはそう簡単に見つかるものでもない。
 したがって基本的には早く帰るしかないのだ。
 それに彼女自身、子供のために早く帰ることを望んでいる。

 他に方法があれば悩む必要もないのだが、他に方法がないから悩んでいる。
 そしてその悩みには解決方法もはっきりしている。
 本人が気乗りしない解決方法だ。
 しかし気乗りしなくてもやらなければいけない。人生とはそんなことの繰り返しではないだろうか。

 思えば……
 あたしだって……
 子供が欲しくてもそれがかなわなかった。
 流産したくてしたわけではない。
 そこから立ち直る方法は分からなくて……現実を見つめたくない日ばかりだったけど、なんとか前を向いて歩いてきた。

 自分がやりたくないこと、目を向けたくないことを避けて通れるほど人生は甘くないのだ。

 相談室に来てもらった以上、解決できる悩みは解決してすっきりして帰ってほしい。
 芳川さんのこの悩みは解決できる悩みだ。
 問題はどうやって本人にやる気になってもらうか……。

『じゃあ……今言っちゃおうか』
『え?? 言うんですか?! いやそれはちょっと……』
『だって先延ばししても解決しないでしょ。あたしが言ってあげるわよ』
 少々強引な手に出た。
 ただ彼女がそれを望まないことは分かっていた。分かっていたからこそ『言ってあげる』と言ったのだ。
 真に受けて『言ってくれ』と言われてしまったらこれはこれで問題なのだが、99%それはないという自信がある。

 こうでもしないと何も進まない。

 子供のためにも、彼女自身のためにも、この問題を先延ばしにすることはよくない。
『いや……本当に……ありがたいんですけどそれはちょっと……』
『じゃあ……どうする??』
『……』
『一人で言うのは言いづらいでしょ』
『そうなんですけど……人に言ってもらったってことになったら余計に……』
 そういうことなのである。
 芳川さんがあたしに『言ってくれ』と言わない理由は、こういうことは自分で言うことであり、他人に言ってもらうことではない、ということを彼女自身が良く理解できているからだ。
 この手の話は、よほどの場合でない限り、第三者が話してもろくなことがない。結局、問題がもっと複雑なるだけ。

 それで、もうひと押し。
『じゃあ……あたしは何も言わないで一緒に行くだけにしようか?』
『いや……それも……』
 そう。
 子供じゃないのだ。
 彼女は立派な社会人なのだ。自分のことは自分一人で言うべきだ。

 それで、ダメ押し。
『じゃあ……自分で言ってみる??』
『……。』
 芳川さんは下を向いて黙り込んでしまった。
 やはり言いづらいことを言いに行かなければいけないということは山のように大きな問題で相当の勇気が必要なのだろう。
 だからこそ結論が出ている悩みをいつまでもあれやこれやと悩んでしまうのだ。

 さて……
 彼女にとってのこの大きな問題に立ち向かうにはどうすればいいか。

 場数を踏めばいいのである。
 場数と言っても今の彼女にそんな時間はない。
 だから代替えの方法として『練習』する。
 なんでもうまくなるためには練習が必要なのである。それはスポーツでも人生でも同じなのだ。
『そうだ。じゃあ練習してみようか』
『練習??』
『そう。どうやって言うか……ここで予行演習しとくの』

 あたしは自分がはっきり笑顔になるのが分かった。

 目の前にいる彼女はあたしがほしかった子供を授かることができた。
 自分の力と周りの力をうまく使って『育児』と『仕事』の両立もちゃんとやっているように見える。

 しかしやっぱり彼女は若いのだ。

 両親には頼れても『他人』である会社には頼るのに二の足を踏んでしまう。
 その部分においてはあたしが持っていて彼女が持っていない部分だ。
 笑顔になったのは彼女よりあたしが優位に立っているからではない。そうではなく、人生において重要なのはいかに今の自分を価値あるものとみなせるか、ということが、ボンヤリながらにも見えてきたからだ。

 子供がいなくても見えるものがある。
 子供がいても見えないものもある。
 それが良い悪いではない。

 しかしいずれも価値のある人生なのだ。

 あたしは何か悪いことをしたわけではない。
 残念なことに子供を授からなかっただけ。
 それは悲しいことだが、だからと言って自分を否定してしまわなければいけないことではないのだ。
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