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時空が重なる奇跡

聖ニコラウス前夜の奇跡

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きっと人生でこれ程驚いたことはなかっただろう。
目の前に立っているレオナを見つめ、私は脳が生命活動を停止したかのように、身動きが出来なかった。呼吸さえ忘れてしまったように、ただ彼女を見つめた。
初夏の草原を思い起こさせるアイビーグリーンのセーターの色が反射し、彼女の瞳は、更に鮮やかな濃い緑色に煌めく。美しいその顔を縁取る、緩やかに波打つ艶やかな栗色の髪。
あぁ、本当に。
ここにいる。
レオナ・ローサが……
「レオナ、どうしたんだ?」
耳に入る男性の声にハッと我にかえる。
彼女の後ろに白髪の長身の男性がいることに気がついた。レオナはその男性ににっこりと微笑みかけると、カウンターに置かれたホットミルクを取り、私に渡した。
「アラン、彼女は私のお友達なのよ。少しだけ時間をちょうだい」
彼女がそう言うと、アランと呼ばれたその男性は軽く彼女の肩に触れ、優しい微笑みを私に向けた後、アトリウム・カフェを後にした。
あの男性は……
さっきまでの高揚感が、一気に冷めていくのを感じる。
私の顔が強張っているのに気がついたレオナが、気遣うようにじっと私を見つめた。
「あの……レオナ」
やっとの思いで声を振り絞ったが、その後が声にならない。
牧場で初めて彼女に会った時のように、私の様子をただ黙って見ているレオナ。
柔らかな微笑みを浮かべて、私が何か言うのを待っている。
「カノン?」
足音とともに、ふいに現れたクラウス。反射的に体がビクッと震えた。彼を振り返るレオナの姿がまるでスローモーションのようで、一瞬、時が止まったかのような錯覚を起こす。
クラウスを見たレオナが大きく目を見開き、驚きの表情を浮かべた。
硬直している私とレオナを交互に見たクラウスが、何かに気づいたように息を飲む。
どれくらいの静寂が続いただろうか。果てしなく続くかと思われた沈黙を破ったのは、レオナだった。
彼女はふっと表情を和らげ、懐かしそうに優しく目を細めて微笑んだ。
「貴方が、クラウスね」
ドイツ語を口にしたレオナ。
その言葉にクラウスはついに確信を持ったように微笑み、差し出された彼女の右手を両手で包み込んだ。
「レオナ、こうして貴女に会えるとは光栄の至りです。私はクラウス・ゾマーフェルド」
敬愛を表す丁寧なドイツ語で自己紹介したクラウス。
レオナは慈しみに満ちた柔らかな微笑みを浮かべて私達を見つめた。その微笑みは私達全てを包み込む温かな春の日差しのようだった。
「一体どうしてこんなところに?」
レオナに聞かれ、未だに言葉が出てこない私の代わりに、クラウスが答えた。
「父の薬を受け取りに」
その言葉に目を見開いたレオナ。クラウスの視線を追って、彼女はゆっくりと後ろを振り返った。
向こうのテーブルにいるユリウスは、こちらに背を向けて座っており、銀縁の眼鏡をかけて院内情報誌のようなものを開いている。向かいにカールが立っていて、受け取った薬をテーブルに出しているのが見えた。
じっと後ろ姿のユリウスを見つめるレオナ。
知らず知らずのうちに、私は手をきつく握りしめていた。
先ほどまでレオナと一緒にいた男性の事を聞きたいという強い衝動に駆られたが、レオナのプライベートなことをこの状況で聞くのは憚られ、唇を噛み締めてじっと耐えた。
ユリウスに会ってくれるのだろうか?
今、会えるような状況なのだろうか?
「他にご注文は?」
カウンターの女性に声をかけられて、私は自分だけ飲み物を持っていることに気がついた。
「あ、あの……ハーブティーを」
「どんなハーブティーですか?」
「はい、えっと……」
慌ててティバッグの種類に視線を戻す。
「父の分?」
クラウスに聞かれて頷く。
優柔不断な私がいつにも増してうろたえていると、クスッと笑うレオナがそっと私の肩に触れ、カウンターのお姉さんに答えた。
「カモミール・ラベンダーにしてちょうだい。お水もお願いね」
思わずレオナをじっと見つめた。
言葉には出来ない、期待の気持ちが止められなくて、私は祈るような思いで彼女の美しい苔色の瞳を見つめた。
どんな結果が待っているのかなんてわからないけれど。
この瞬間、この場所を共有している奇跡。
想像を超えた魔法がかかっているこの空間。
私の心が叫ぶ。
神様、お願い!
私達を、この物語の先へ連れて行って。
息を飲んで彼女を見つめていると、カウンターにトレイが置かれる音がした。クラウスが支払いを済ませ、私とレオナを交互に見た後、飲み物が置かれたトレイを手に取った。
すると、レオナがゆっくりとそのトレイに手を伸ばす。驚いたように目を大きく開いたクラウスから、トレイを受け取ったレオナは、まるで少女のように楽しげに微笑み、私に向かって頷いた。
思わず、クラウスの手をぎゅっと握りしめて彼を見上げる。
ゆっくりとユリウスのテーブルに向かうレオナの背中を追う。
足を組んで深く椅子に座っているユリウスは紙面に集中しており、全くこちらに気がつかない。
テーブルに薬を並べていたカールが顔をあげ、こちらに気がついた。彼は訝しげに目を細めてメガネを触った後、はっと驚きの表情を浮かべ、よろめくように一歩下がる。ガタン、と椅子が動く音がしたが、ユリウスは相変わらず紙面に目を落としたままだ。
レオナはトレイをそっとテーブルの上に置く。
「ありがとう」
紙面から視線を少しあげたユリウスが、レオナの足元を見て眉を潜めた。ブラックジーンズを履いていた私ではなく、目に入ったのが、記憶にないブルージーンズだったからだろう。
シルバーの眼鏡を外しながら、ユリウスは顔をあげた。
私は思わずクラウスに抱きついて息を止める。
柔らかな微笑みを浮かべ自分を見下ろしているレオナに気がついたユリウスは、雷に打たれたような表情で絶句した。
まさか。
そんな馬鹿な。
幻を見ているのか。
ユリウスの心の声が聞こえた気がした。
視界を確認するように何度か瞬きを繰り返し、ユリウスはカールを振り返った。
「……レオナ様……」
カールが涙ぐむように震え声でそう呟くと、彼女は懐かしげに目を細めて頷いた。
レオナに視線を戻すユリウス。
彼女はカールから薬を受け取ると、水が入ったグラスと薬を、ユリウスの目の前に置く。
コトン、とグラスが置かれる音がした。
「お待たせしました。お薬のお時間ね」
心に優しく響くような、温かみのある彼女の声に、周りにいた全員の緊張が緩んだ。
知らず知らずのうちに皆の顔に微笑みが浮かぶ。
ユリウスはじっと彼女を見つめた後、グラスから離れた彼女の手を取り、もう片方の手できつく目頭を抑え俯いた。何かを堪えるように、そのまま微動だにしないユリウス。
レオナはユリウスの肩に手をやり、なだめるようにゆっくりとさすってあげている。
ユリウスの肩が小刻みに震えているのがわかる。
しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻したユリウスが顔をあげて、再度、レオナを見つめた後、彼女の後ろに立っていた私達に視線を移す。
「これはお前たちがしくんだドッキリというやつか?」
まるで照れ隠しのように睨まれる。それが冗談であることは皆が分かっていて、全員がお互いの顔を見て笑いを漏らす。
私をぎゅっと抱きしめたクラウスが、大きく首を左右に振った。
「いや。期待に添えず悪いが、俺たちがしくんだドッキリではない。あえて言うなれば、聖ニコラウス前夜の奇跡だろう」
そうだ。今日は12月5日。数々の奇跡を起こしたと云われる聖人、聖ニコラウスの前夜祭の日だった。
その言葉にユリウスは黙っていたが、やがてまるで肩の荷が降りたかのように和らいだ微笑みを浮かべて、レオナを振り返った。
「レオナ。元気にしていたか?あれから、もう三十年以上も経ってしまった」
「ええ、元気にしているわ。貴方は、どうやらまた、無理し過ぎていたようね」
レオナは、いたずらをした子供をたしなめるようにそう言って、明るく笑いながら薬をすすめた。
いくつかの錠剤をグラスの水で流し込んだユリウス。
誰ともなくため息が出た。
三十年以上会わなかった2人の間には、積もる話があるだろう。
ただ、まだ気になることがある……
さっき一緒にいた男性、アラン。
彼は誰なのだろう。
そして、ここは病院。
レオナはどうしてここに居るのだろう。
疑問が次々と出てくる。
恐らく、何から話せばいいのか当の2人も分からないのか、ただ、黙って微笑みあっている。
「レオナ?」
聞き覚えのある男性の声に、ドキリとして振り返る。
先程レオナと一緒にいた、長身で白髪の男性がいた。
恐らく、私だけじゃなく、その場にいた皆が同じことを思ったのだろう。
レオナの手に触れていたユリウスがその手を離し、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
レオナはアランを振り返り、ユリウスへ目を移すと落ち着いた声で紹介した。
「アラン。こちらは、ユリウス・ゾマーフェルドさん」
その名を聞いたアランが驚きを隠せないというように目を見開き、レオナとユリウスを交互に見た。
ただの友人ではなく、レオナとは随分と親しそうな雰囲気だ。
やはり彼が、レオナの現在のパートナーなのだろうか……
握手を交わすユリウスとアランを見ながら、私は落胆を隠せず、思わずため息をつく。
再婚していないことは確かだったが、当然ながら、パートナーがいる可能性はあった。
「今、彼も到着したと電話が入ったところだから、ちょうど良かったのじゃないか」
アランがそう言って、レオナに微笑みかけると、彼女は少し複雑な笑みを浮かべた。
話の筋が読めず、クラウスを顔を見合わせる。これ以上の登場人物が出てくるとは予想していなかった。アランの登場にショックを受けたのではと心配したが、ユリウスは冷静な様子で、穏やかな微笑みを浮かべたまま立っている。
レオナとアランの視線を追い、エントランスのほうを見ていると、やがて自動ドアが開き冷たい夜風と共に、1人の男性が入ってきた。
手を振るアランを見つけたその男性が、濃紺のロングコートの前を搔き合せながら、早足でこちらにやってくる。
「えっ……」
その姿に目を疑う。
隣に立つクラウスを見上げ、彼も同じく目を見開き驚いているのを確認した。
目の前に立ったのは、ダークブラウンの髪を短く刈り上げた長身の若い男性。
その彼も、真っ青な目を見開き、驚いたようにクラウスとユリウスを見た。
振り返れば、ユリウスも呆然としたようにその男性を見つめている。
精悍な男らしいカーブを描く頰と、どこか気難しげな影のある美しい目元は、私が見慣れているゾマーフェルド家の男性によく似ていた。
こんな偶然、あるのだろうか。
「私は少し失礼するよ」
アランがそう言って、その男性の肩をポン、と叩いてその場を去る。
「ユリウス」
レオナがその男性の隣に立つと、とてつもない秘密を明かすように、静かに口を開いた。
「彼は、フェルディナン」
ユリウスは独り言のように、その名前を繰り返した。
「フェルディナン……」
私の隣に立っていたクラウスが、信じられないというような表情で私を見下ろした。
フェルディナンと呼ばれた男性が、ユリウスから目を離さないまま、隣のレオナに尋ねる。
「母さん、こちらは……?」
耳を疑うその言葉に、ユリウスが驚愕したように目を見開いた。
母さん、、?
レオナは子供を産むことが出来なかったはずだ。
まさか……
もしかして……
レオナはフェルディナンの手を取り、彼を優しく見つめた後、ユリウスに目を向けた。
そして、ついに意を決したように口を開いた。
「この方は、ユリウス・ゾマーフェルド。彼が、貴方の父親の、ユリウス」
「……あぁ……」
フェルディナンが少しだけ戸惑いを見せたが、やがて、落ち着いた様子でユリウスに手を出し、驚いて絶句しているユリウスと握手を交わす。
「レオナ……これは、どういうことか、説明してくれ」
ユリウスが大きなショックを隠せない様子でレオナを見つめた。
レオナはしばらく気まずそうに目を伏せていたが、ようやく顔を上げると、困ったように微笑んだ。
「貴方と離婚して半年くらいした頃、この子がお腹にいることに気がついたのよ。まさかと思っていたし、ドクターも信じられないと驚いていたわ」
「なんだって」
ユリウスが掠れた声でそう小さく叫び、片手で両目を覆うと苦しげに天を仰いだ。
あまりの驚きに、レオナ、フェルディナン以外の全員が呆然とする。
つまりは、ユリウスはレオナと離婚しなくてもよかったのだ。
いや、実際、離婚した後、復縁することが出来たのだ。
「こんな時に悪いのだが、実は急がなくてはならない」
落ち着かない様子でフェルディナンがそう言って、レオナを見下ろした。
レオナは大きく頷き、私達全員を見渡すと、最後に、ユリウスに目を留める。
「ユリウス、驚かせてごめんなさいね。大丈夫?」
恐らく、驚きの連続で血圧が上がっているのではないかと、レオナも心配なのだろう。彼女の申し訳なさそうな表情に、ユリウスは苦笑し、大きく左右に首を振る。
「いや。大丈夫だ。言いたいことや聞きたいことは山ほどあるが……」
その言葉にホッとする。
レオナは隣のフェルディナンを見上げて、にっこりと微笑んだ。
「今日、フェルディナンの赤ちゃんが生まれたのよ」
「えっ」
さらなるビッグニュースに全員が再度、驚きの声をあげる。
フェルディナンが嬉しそうに頷き、レオナの肩を抱いた。
「妻が管理入院中、休みを取れない俺に代わって、母と、義父のアランが交代で付き添っていてくれたんだが、今日、予定通り帝王切開で双子が生まれたんだ」
その言葉に、一気に胸が弾む。
アランは、フェルディナンの妻の父親だったのだ!
しかも、今日、双子が生まれたなんて!
驚異の連続に、肝心のお祝いの言葉さえ出てこない。
「予定通りには仕事が終わらず、出産に間に合わなかったものだから、妻がさぞかし怒っていることだろう。俺は一度、彼女の様子を見てくるから、母さん達は先にNICUに行ってくれ」
フェルディナンはそう言うと、コートを翻し足早に去って行く。その後ろ姿が、クラウスやヨナスと見間違うくらい似ていた。
レオナは楽しげに私達を振り返ると、急かすようにパンパン、と手を叩いた。
「さぁ、いつまでもここに立ってないで。面会時間が終わってしまうわ。急ぎましょう」
「レオナ」
ユリウスが戸惑ったように彼女の腕を掴んだ。
「私に、生まれた赤ん坊を見ることが許されるのだろうか」
本人の知らないところで生まれていた息子。その息子はいつの間にか成人し、結婚しており、子供が生まれたのだ。ユリウスが狼狽えるのも無理はない。
レオナはクスッと笑い、そっとユリウスの背中を押す。
「ユリウス。貴方の孫を見ないなんて、そんな選択肢はないわ」




赤ん坊の泣き声が途切れ途切れに聞こえてくる病棟を、ドキドキしながら歩く。レオナの後をついて、ユリウス、クラウス、私が続く。そして、私の後ろには、遠慮し辞退しようとしていたが、レオナに説き伏せられて、同行しているカール。
忙しそうに歩き回りながらも笑顔を絶やさない看護士達とすれ違いつつ、たくさんの赤ちゃんが並ぶNICUの廊下を歩く。
やがて、レオナが足を止めると、私達を振り返り、ガラスの仕切りの向こうを指差した。
保育器に入っているのは、ブカブカのオムツを穿いた赤ちゃん達。2人の細い足に、それぞれ、ブルーとピンクのバンドがはめられている。両方の保育器には、「Ines Fackler」のネームタグが貼られていた。
「まだ、フェルディナンの妻の名前が貼ってあるのよ」
レオナがそう言うと、愛おしそうに小さな天使達を見つめる。
時折夢を見ているかのように、手足を小さく動かしながら、すやすやと眠る赤ちゃん達は、本物の天使のようだ。
ユリウスも安らかな微笑みを浮かべて、ガラス越しに見える生まれたばかりの天使達を見つめていた。
彼はきっと、見ることが叶わなかった赤ん坊時代のフェルディナンの姿を重ねているのだろう。
まさか、愛しながらも別れたレオナが、自分の知らないところで自分の息子を生み育てていたとは、夢にも思ってもいなかったに違いない。
しばらくしてフェルディナンもやって来て、嬉しそうに赤ちゃん達を見つめた。
「奥さんの様子はどうだったんだ?」
クラウスが話しかけると、フェルディナンが苦笑して肩をすくめる。
「いや、ドアを開けるなり予想以上の剣幕で罵倒されたが、まぁ、手術後にあれだけの元気が出るならまず安心だ」
2人の会話に皆がクスクスと笑いを漏らす。
しばらく天使達を眺めた後、一同はアトリウム・カフェに戻った。アランが戻って来て、皆であれこれ話をしていたが、そろそろ病院も人がまばらになり、カフェも閉店となる。私はカールと一緒に、皆が使ったコップやグラスを片付け、カウンターのお姉さんに渡す。
「さぁ、帰ろう。きっとヨナスとマリアが苛々して待っているに違いない」
クラウスが私の手を取ると、そう言って大きく溜息をついた。
「ホテルに戻ったら、あいつらに捕まって根掘り葉掘り延々と尋問されることになるわけだ。そうなると、今晩も結局、君と2人でゆっくり過ごす時間はお預けということか」
冗談ぽくそう言って、わざとらしくため息をつくクラウスに、私は吹き出した。
私は一生、忘れることができないだろう。
今年の12月5日。
聖ニコラウス祭の前夜に起きた、奇跡。
「ねぇ、クラウス?」
私はふと、彼を見上げた。
「もしかすると、あの泥棒、聖人ニコラウスだったのかもしれないね……」
あの時、薬が入ったバッグを盗まれなかったら、今日のこの奇跡は起きなかった。
「カノン」
彼は優しい微笑みを浮かべて私を見下ろすと、片腕で私を抱き寄せる。
「俺にとっての奇跡は、まさに君だ」
そう囁くと、慈しむような優しいキスをしてくれた。




タクシーの中からクラウスがヨナスに電話を入れたところ、2人ともひどく心配していたようだった。30~40分で戻るはずの私達が2時間近く音信不通だったので、何かあったに違いないと危惧していたらしい。
実際に、その何か、はあったんだとクラウスが答えたものだから、ホテルに着いた時には寒空の下、コートも着ず外で仁王立ちになり待ち構えているマリアが居た。
ロビーに入るとソファに座って居たヨナスが立ち上がる。
苦笑したユリウスが、私とクラウスの肩を叩き、「後は頼んだよ」と一声かけ、迎えに出ていたイーナと共に部屋へ引き上げていく。
「さぁ、一部始終説明してもらおうかしら」
マリアにがっしりと腕を掴まれ、彼らの部屋へと連行される私とクラウス。
リビングルームのソファにクラウスと並んで座ると、目の前に陣取ったヨナスが腕組みをして、まるで取り調べをする刑事のような難しい表情で私とクラウスを交互に眺めた。隣に座るマリアも私達の一挙一動を見逃すまいと鋭い眼差しを向けている。
私とクラウスは手を繋ぎ、目を見合わせ、ついに我慢出来ずに笑い出した。
大笑いしている私達を解せないとうように呆れ気味に見つめるヨナスとマリア。
「ねぇ、笑ってないで、少しは説明してよ!」
焦ったそうにマリアが叫ぶ。
ひとしきり笑った後、私は涙を擦りながら叫んだ。
「事実は小説より奇なり!私、この諺、初めてその通りだって実感した!」
「えっ?!」
私の唐突な発言にびっくりしたように目を丸くする2人。
興奮が戻ってきて、落ち着かない私はクッションを抱きしめて、思い切りソファの後ろに身を沈めて天井を見上げた。
あぁ、こんな奇跡を体験出来たことを、神様にどうやって感謝しよう?
とてもまともに話すことが出来ない私に代わり、クラウスが事の成り行きについて説明を始める。ヨナスとマリアは一言も口を挟まず、瞬きさえ忘れたかのようにクラウスを見つめて話を聞く。話の途中で何度か彼らも驚嘆の声をあげる。話を聞いている私もその時の状況を思い出し、ドキドキが止まらなくなった。
一通りの話が終わると、呆然としたヨナスとマリアが顔を見合わせる。
「信じられない偶然というか、もう、奇跡としか言えないわね」
「まさか、レオナに息子が生まれていたなんて、父もそれは驚いただろう」
「しかも、孫が生まれた日に居合わせるなんて」
飛び交う驚きの言葉。
「フェルディナンという名前を聞いた時は、さすがに耳を疑ったが、実際に兄だと聞いた時も、にわかには信じられない程驚いた」
クラウスの言葉に、ヨナスが笑いながら空のグラスに水を注ぎ入れた。
名前を聞いて驚くとはどういうことかと思って、マリアと顔を見合わせていると、ヨナスが私達の疑問に答える。
「父のミドルネームのひとつが、フェルディナンだから」
「そうだったのね!」
マリアが驚嘆の声をあげた。
クラウスはグラスの水を一息に飲むと、深く呼吸しソファの背に身を投げた。それからひとつ大きな欠伸をすると、隣の私を抱き寄せる。
「明日、父は朝から病院に向かうことになっている。恐らくここには夜まで帰ってこないだろう。フェルディナンはオクスフォード大学で教鞭を執っているらしいが、明日は午後には病院に来れるらしい。フェルディナンの妻、つまり、俺達の義姉、イネスと、生まれた双子は一週間後に退院するそうだ」
マリアが少し涙ぐんだ様子で大きく頷いた。
「レオナといろいろ話すこともあるだろうし、フェルディナンとも初めて会ったんだから、時間はいくらあっても足りないくらいでしょうね。ユリウスが出来るだけ彼等との時間を作れるよう、私達も協力しないと」
「つまり」
ヨナスが思い出したかのように呟いた。
「明日以降のプランを練り直し、ということか」
「何れにせよ、ニコルには到着までこの話はしないほうがいいだろう」
「当たり前だ!今、電話でもしてみろ、マシンガンのように立て続けに質問され明け方まで寝かせてもらえなくなる」
まんざら冗談でもないというようにヨナスが言うと、クラウスも頷きながら笑いを漏らす。
「あぁ、本当に幸せ!」
この奇跡の夜を永遠に終わらせたくないと思うほどの幸福感に、天にも昇る気持ちとはまさにこのことだと思う。
この夜も、私達の楽しい時間は夜更けまで続いたのだった。




カタン、という小さな物音が聞こえて、重い瞼を薄く開ける。
閉めたカーテンの隙間から明るい日差しが漏れているのが見えた。
聞こえた物音はどうやらハウスキーパーがどこかの客室を掃除している物音だったようだ。
ということは恐らくもう、10時くらいになっているということだろう。
昨晩は結局ヨナスとマリアの部屋で2時過ぎまで過ごしていたので、自分達の部屋に戻ってきた後はもう記憶にない。
隣を見ると、クラウスがうつ伏せになってぐっすり眠っている。
一度身を起こして時計を見ると10時15分になっていた。ヒーターの設定が低いままになっているせいか、肌寒さに思わず首をすくめ、もう一度ベッドの中に潜りこむ。
そっとクラウスの背中に手を回して彼の横顔を見つめる。
少し無精髭が生えてきている彼の横顔は、とても色っぽくて、野性的だ。華麗なスーツを身に纏い、柔らかく波打つダークブロンドを紳士らしくスタイリングした時の、上品で美しい彼も、そしてこんな風にベッドで無防備に身を横たえる自然な彼も、両方とも私が恋している彼だ。
愛しさに思わず微笑みながら彼の美しい寝顔を見つめてしまう。
精悍なその頰に触れようと、手を伸ばそうとした瞬間、突然パッと目を開けたクラウスが身を起こしたかと思うなり、あっという間に私を組み敷いた。
「お、起きてたの?」
驚いて彼を見上げると、眩しげに目を細めた彼がクスッと笑った。
「君が時計を見た時から」
ということは、私が彼の顔をじっと見つめていたのを知っていたわけだ。
「起きてるならそう言ってくれたらいいのに……」
恥ずかしくなってそう抗議すると、彼が勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「俺に見惚れていたのが恥ずかしいのか?」
図星を指されてしまい、ドキマギしながらも、黙って素直に頷いた。
満足気に私を見下ろしたクラウス。
彼はそっと身を屈めて、私の耳元で囁いた。
「予定外のプラン変更で、今朝は朝食に集まる必要もなくなった」
彼の温かい大きな手がいつの間にかはだけていたガウンの隙間から素肌に触れる。
「俺が今欲しいのは君だ」
「クラウス」
胸の高鳴りを感じながら、彼の首に両腕を回して抱き寄せる。妖艶な輝きを纏う彼の瞳が近づいてきて、そっと唇が重なった。息が止まるような情熱的なキスに気が遠くなりそうになる。やがて熱いため息と共に彼が身を起こすと、冷えた朝の空気の中、彼の背中から純白のコンフォーターカバーが滑り落ちた。剥き出しになる彼の逞しくも美しい上半身が眩しくて、何度か瞬きをする。
「カノン」
優しく名前を呼ばれて彼の目を見上げた。
「愛している」
誓いの言葉のように繰り返される愛の囁きに、幸せで胸がいっぱいになる。
「愛してる」
同じように心をこめて囁き返すと、満たされたように微笑む愛しい彼。
「私も貴方が欲しい」
独り言のように呟いて私は彼に手を伸ばす。柔らかなその髪に指を絡めると、私の心臓の鼓動がよく聞こえるように胸元に抱きよせた。私がこんなにドキドキしていることを知って欲しい。
彼の熱い手と唇を全身に感じながら、訪れる情熱の波に身を任せようと目を閉じた。
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