上 下
33 / 35
時空が重なる奇跡

それぞれの一歩

しおりを挟む
遅い朝を迎えたバース滞在3日目。
午後の1時を過ぎてお日様は真上で燦々と輝いている。
今日も運の良いことに澄み渡る青空に恵まれたことを感謝しつつ、私はタクシーを降りた。
見渡せば冬の草原だ。頰に吹き付ける風が氷のように冷たくて、一瞬だけ身震いをする。
「あぁっ、やっぱり寒いわね!日差しがあるから暖房のついてる車内にいるとつい、真冬だって忘れちゃう」
そう小さな声で叫んだマリアが続けてくしゃみをした。
「Gesundheit!」
「Bless you!」
即座に聞こえるドイツ語、英語の「お大事に」、という言葉。
振り返ると同じように少し寒そうに目を細めたヨナスとクラウスが立っていた。
「ここがカノンが来たかったところなの?」
マリアが私と腕を組みながら聞いた。
私は大きく頷いて、ロッジ風の建物に目を向ける。表に日当たりのよいテラス席があるが、さすがにこの寒さの中、そこに座る強者はそうそういないようだ。春から秋までは、このテラス席に座り、風に波打つ広大な牧草の海原を臨むことが出来ることだろう。
現在は真冬とはいえ、青空駐車のスペースはすでに満車状態であることからして、店内はかなり混んでいるに違いない。
ここは、Newton Farm Shop and Cafeという場所だ。
牧場主がオーナーで、オーガニックや自然食品にこだわった商品の販売とカフェの運営をしており、TripAdvisorなど数々の賞を受けた場所だ。牛肉、豚肉はNewton牧場から、その他の食品もほぼ全て地元産を使っているそうだ。
ベルリンのカフェ情報をネットで発信している私は、普通はこういう有名な場所ではなく、穴場的なユニークな場所を開拓するのがモットーだが、このカフェはどうしても訪れたいと思わせる魅力があった。
この場所に来るのなら、時間に余裕がある時がオススメらしい。何故なら、ここはファストフードを提供する場所ではないからだ。注文してからテーブルにお目当の一品が届くまで、しばらく時間がかかることをご了承ください、と公式サイトにもしっかり明記してあった。いわゆるチェーン店のカフェや、忙しい都会の街で沢山のお客をさばく場所とは違う、大自然の中にぽつんと存在するこだわりの場所なんて、そうそう見つからない。
早速、使い込まれた色合いの木製のドアを押し、暖かい店内に入る。
店内は想像通りアットホームな雰囲気で、地元の人や私達のような観光客らしいグループでほぼ満席状態。BGMは楽しげな人々の会話や笑い声。ここは、知らず知らずのうちに笑顔になる場所だ。
それぞれコートを脱いで、入口のところでしばらく待っていると、明るい笑顔の女性スタッフがテーブルに案内してくれた。ちょうど先客が支払いに立ったところだったらしく、彼女がテーブルに残されていたカップやお皿をまとめ、清潔な台拭きでテーブルを拭いてくれる。
順番にメニューを受け取り、全員が黙りこむ。
朝から何も食べていなくて空腹だということもあるが、メニューがどれも美味しそうなこだわりのある内容だったので、そう簡単に決めることが出来ない。
5分以上の時間を費やした後、注文を確定した。ヨナスとクラウスは、牛ランプ肉のヨークシャープディング添え、マリアは牧場特製ハンバーガー、私はローストポークの自家製アップルソース添えを注文する。
日本人的に、お肉と果物の組み合わせはどちらかというと苦手だ。アメリカの伯母さんの家で、クランベリーソース添えのお肉を食べた時の違和感は未だに忘れられない。しかしベルリンに住み、大きなお肉と一緒にりんご入り赤キャベツ煮を食べたり、ジャガイモのパンケーキにアップルソースというような組み合わせの、典型的ドイツ料理を食べたりする機会が増えるにつれて、これが意外と美味しいと思うようになってきたのだ。
考えてみれば中華料理の甘辛いパイナップルチキンは好きなのだから、お肉と果物の取り合わせに違和感を感じるのも妙な話だろう。

注文してから食事が運ばれるまで時間がかかると分かっていたので、皆、温かい飲み物を先に運んでもらった。
「さて……」
携帯を取り出したヨナスが、スクリーンで何かをチェックすると満足げに微笑む。
「父からの返信だ。昨晩俺達が決めた通りで異存ないと」
一同、顔を見合わせて頷いた。
昨晩私達は、残りのバース滞在のプランについて話し合った。
今日の午後は、私とマリアで双子の出産・誕生祝いを準備し、夕方、ヨナスとクラウスが病院へ行く。残る私とマリアで、彼らと入れ違いで到着するであろうニコルと子供達を出迎える。恐らく、子供達が寝静まったころ、ユリウス達がホテルに戻って来るだろう。
何事も行動が早いマリアが、すでにバース市内で誕生祝いを選ぶのに良さそうなショップをいくつかリストアップしてくれていたので、食事を待つ間に2人でタブレットに集中する。
私はこれまで出産祝いを選んだことがなかったので、初めて見る赤ちゃん用の品物にワクワクした。マリアが親戚や友人の出産祝いを何度か選んだ経験があると言うので、もっぱら彼女の意見を聞き、デザインや色味について口を挟む。
マリアによると、赤ちゃんは1歳になるまで成長がものすごく早いし、親の好みもあるから衣類は避けて、最初の6ヶ月は恐らく大量に必要になるタオル類などの消耗品、生後6ヶ月以降はいくらあっても困らない離乳食用の食器類、それから口に入れても良い高品質のおもちゃがいいらしい。1歳の誕生日にはまたプレゼントを準備することを思えば、これから12ヶ月以内に使うものだけを選んだほうが理にかなうというのも納得だ。
イネスが産んだのは、男女の双子なので、色違いで揃えるのも楽しいだろう。
もう名前は決まっているのだろうか。
天使のようにスヤスヤと眠っていた赤ん坊達の寝顔を思い出し、自然と頰が緩む。
きっと今頃、ユリウスも目を細めて天使達を見つめていることだろう。
マリアが指差す店名と住所、要チェックの商品名を手帳に書き留めていると、ようやく食事が運ばれてきた。
たった今出来上がったと一目でわかる、熱々で美味しそうなプレートがそれぞれの前に置かれ、私達は笑顔を見合わせた。
「Bon Appetit!」
赤いナプキンで巻かれたカトラリーセットを置いてくれたスタッフの声を合図に、ようやく待ちに待った私達のブランチが始まった。 



毎回のことだが、緊急時の手回しの良さに関しては、マリアの右に出るものはないだろう。
大満足のブランチの後、ホテルにヨナスとクラウスを降ろして、マリアの指示によりそのままタクシーで市内を回る。
マリアは私が書き留めたショップリストをドライバーに見せ、1番効率のよい順番に回ってもらうようリクエストした。これなら、ショップを出る度に増える紙袋も、タクシーに預けておけるから助かる。
クリスマス・シーズンということもあり、普段より商品の種類も買い物客も多いようだが、決断力のあるマリアと一緒に買い物をすると、普段は迷いに迷う私も勢いにのって通常の5倍スピードくらいで買う買わないを決めることができる。人間やれば出来るものだと驚いてしまう。
フェルディナンとイネスのことを個人的に良く知っていたら、もっと彼らにしっくりくるプレゼントが選べたのかもしれない。マリアも私も、私達全員のお祝いの気持ちが伝わるよう願いながら、精一杯考えて選んでいった。
効率よく市内を一回りしたと思ったものの、それぞれのショップでラッピングもしてもらったせいか思ったより時間がかかり、ホテルに戻ったのはもう、6時になるところだった。
マリアがヨナスに電話で戻り時間を連絡していたので、ヨナスとクラウスが私達が降りたタクシーにそのまま乗り込み、プレゼントの山と共に病院へ出発。
予定通りに一仕事を終えてほっとする。
ニコルの予定到着時刻が8時頃と知らせが来ていたので、マリアの提案により、私達はホテル内のスパに向かうことにして、各自の部屋に着替えを取りに戻る。彼女の言う通り、ショーンとマリアンが到着したら最後、のんびりスパでリラックスするという時間は無いだろう。元気いっぱいでやんちゃなショーン、おしゃまで甘えっ子のマリアンを思い出す。
私達も皆、昔は生まれたての無垢な赤ん坊だった。そして、自我が芽生え、言葉を発する幼児になり、学校で勉学や人間関係を学び、社会という戦場に飛び込んだ。
長いようであっという間に過ぎたこの28年。
沢山の人と出会い、様々な経験をしてきた。
いっぱい笑って、いっぱい泣いた。
昔の自分を思い出してみる。
学生時代の私。
新入社員だった私。
失恋してドイツ行きを決めた私。
過去の私には到底現在の私なんて見えていなかった。
だから、今の私も、これからの未来の私の姿を知ることは出来ない。
ただひとつ、はっきりしていることがある。
この世の流れに逆らうことなく、己の心に従い、常に前進すること。
物事には全て意味があるのだと思う。
無駄なことはたったのひとつもないんだ。
だから、毎日、いや、この1分、1秒も確実に生きていこう。
「カノン!準備出来た?」
ドアベルの音と同時に、マリアの声が聞こえた。
「うん、今行く!」
着替えをまとめたバッグを片手に、ベッドルームを飛び出した。



肩をゆっくり揺さぶられ、夢うつつの中、目を開くと、薄暗く見慣れないベッドルームにいることに気がつく。目を擦りぼうっとした頭で顔をあげると、優しい微笑みを浮かべたクラウスが私を見下ろしていた。
隣に私の手を握りしめたまま眠っているマリアンがいる。その向こうには、両手にミニカーを持ち、仰向けで口を開けたまま眠っているショーンと、ミニバスのおもちゃをお腹に乗せたまま脱力したように眠るマリア。
ようやく思い出した。
あれからニコルが到着し、興奮し大騒ぎする子供達でろくに話も出来なかったのだが、まずは運転で疲れているニコルをスパに送り出して、彼らの2ベッドルームスイートでベビーシッティングを開始。
階段のあるメゾネットタイプのスイートルームだったものだから、上に下にと走り回ったり、広さを生かして隠れんぼをしたりと、それは騒々しかった。途中、イーナとホテルのスタッフがルームサービスで食事を運んで来たら、子供達は食べ遊びを始めた挙句、ジュースをこぼして服を汚したり、食べ物の取り合いで泣き出したりと、次から次へと事件が起こる。
スパから戻って来たニコルの一喝で、ようやく大人しくなった子供達。
イーナのサポートを借り子供達をバスタブで洗った後、ベッドルームで本の読み聞かせやお喋りをしていたのだ。
どうやらそのまま、子供達と一緒になって私もマリアもうたた寝してしまったらしい。
子供達を起こさないように、静かにベッドから下りる。ヨナスに揺さぶられたマリアも、大あくびをしながら半開きの目で立ち上がった。クラウスが細心の注意を払いつつ、ショーンの手からミニカーを取ると、そっとサイドテールに並べた。一度あたりを確認した後、ヨナスがランプの電気を消し、私達は無言のまま静かにベッドルームを出る。
小さな音を立ててドアが閉まった。
「ねぇ、今、何時なの?」
マリアが小声で聞くと、静かに階段を下りながらクラウスが答えた。
「午前1時。少し前まで下のリビングでニコルと話していたんだが、彼女ももうベッドルームに入って寝ている」
道理で一階のリビングも小さなランプを残し全て消灯してあるわけだ。
「2人とも、疲れただろう。ありがとう」
ヨナスの優しい言葉に、私とマリアは笑って頷いた。
「とってもかわいい怪獣たちだったね」
私がそう囁くと、3人がクスクスと笑いを漏らす。
中途半端な時間に起きたせいで半分眠っているようなふわふわした感覚のまま、じゃあまた朝に、とそれぞれの部屋に戻ったのだった。


バース滞在4日目。
ぐっすり眠ってエネルギーが満タンになった子供達は、朝食後、ご機嫌でホテルのロータリーにいた。やがてニコルが乗って来ていたAudiが駐車場から出て来る。運転席にはヨナス、助手席にはクラウス。ウキウキと乗り込む子供達を、ニコルがしっかりとチャイルドシートに座らせ、バタン、とドアを閉めた。途端に奇声を発して手足をバタつかせるショーン。
クラウスが後部座席を振り返り、興奮しているショーンに、きちんと座るように言い聞かせている。
「ヨナス!あたし、ジングルベル聴きたい~」
大声で叫ぶマリアン。ちょうどアクセルを踏み込んだヨナスが片手でハンドルを切りつつ、もう片方の手をステレオに伸ばした。隣では、相変わらず騒ぐショーンにバナナを渡しているクラウス。
側から見ても前途多難そうな出だしで、彼らはGo Bananas Soft Play Centreという、小さい子供達に大人気の室内遊技場へ出発した。
「大丈夫かしらね。先が思いやられる感じ……」
マリアが不安げに遠ざかる車に呟くと、ニコルがふふふっ、と天真爛漫に笑う。
「平気よ、きっとものすごく疲れて帰ってくるわ、全員」
その言葉に目を見合わせた私とマリア。
ぐったりと疲れて無口になるヨナスとクラウスを想像して、つい、笑いを漏らす。
この日は、半日ほど、ヨナスとクラウスが子供達を連れ出し、私とマリア、ニコルがユリウスと一緒に病院へ行った。イネスと双子はあと6日ほど入院しているとのことだったので、大きな花束を届ける。ニコルとイネスは年も近く、同じUKに住んでいることもあり、とても気が合ったようだ。子育て中のニコルに、新米ママのイネスがあれこれと育児について質問したりと、すっかり打ち解けた様子だった。
午後は、ユリウスはレオナとフェルディナンと共にラベンダー牧場へ向かい、ニコルと私達は市内でランチ。その後、ショッピングをしたいと言うニコルを街に残し、私達は、そろそろ戻ってくるであろうヨナス達を出迎えるためにホテルへ戻った。
午後3時頃、間も無くホテルに到着するとの連絡があったので、2人でロータリーで待っていると、見覚えのあるAudiが眼の前でゆっくりと停車する。音楽も聞こえず静かだなと思って車内を覗くと、後部座席にはチャイルドシートにもたれてぐっすり眠っている子供達がいた。運転席から下りたヨナスが、ホテルのスタッフに駐車を頼み、ぐっすりと眠っているショーンを肩に抱え上げた。クラウスが同じく熟睡中のマリアンを抱きあげると、私達はドアを閉めて、トランクから子供達のリュックサックや、室内遊技場で買ったらしい風船やおもちゃを取り出した。ニコルの2ベッドルームに戻り、子供達を二階のベッドに寝かせると、ヨナスとクラウスが大きなため息をついてソファに座った。
「なにかルームサービスを取ろう」
ヨナスが力が抜けたような声を出したので、マリアが可笑しそうに笑いながらメニューを渡した。
「現地で何か食べようと思ってたが、とても落ち着いて食事をする余裕がなかった」
クラウスも苦笑しながらそう言って、ヨナスからメニューを受け取る。
マリアがフロントにオーダーの電話をいれている間、私は2人にダージリンティの準備をした。
「俺たちが子供のころ、カールやイネスに叱られっぱなしで、その当時は不満に思ってたいたものだが、今は彼らの気持ちがわかるな」
ヨナスが懐かしそうにそう言って、手に持っていたクッションを向かいのクラウスに投げつけた。クラウスが笑いながら受け取ったクッションを膝に抱えて、伸ばしっぱなしになっている無精髭を触る。私がコーヒーテーブルにお茶のセットを持って来ると、彼がティポットに手を伸ばす。
「俺たちの場合は大抵、2対1でニコルとやりあってたんだ。でも、結局一度も勝てなかった。無敵を誇るニコルの子供達だから、どう頑張ったって俺たちが敵うはずがない」
まんざら冗談ではなさそうなその言葉に、皆で大笑いする。
やがて運ばれてきたルームサービスで彼らが遅い昼食を終えたころ、二階から駆け下りてくる子供達の足音が聞こえた。
私とマリアは顔を見合わせて同時に立ち上がる。
「さぁ、かかって来なさい!」
腕まくりをし威勢良く声を張り上げたマリアを見て、私は笑い出した。


5日目の朝、フェルディナンがホテルにやって来て、私達と朝食を共にした。彼はその日、午後から夜までずっと勤務先のオクスフォード大学で仕事があるため、私達のバース滞在最後の今夜はもう会えないのだ。全員で食事を終えたあと、私とマリアは彼ら家族5人を残し、そろそろじっとしていられらくなっている子供達と共にレストランを後にする。
室内にいてもエネルギーの消費が足りない子供達を連れて、散歩がてらに市内を散策する。通りかかった公園の遊具で遊んだり、どんぐりを拾ったり、途中、温かいココアを買ったりと、笑い声の絶えない子供達と一緒の散歩はとても楽しい。
幼い子供達の目は私達とは違っていて、ちょっとした発見に驚き、大喜びするものだ。ピカピカの丸い石ころ、落ちていた白い羽、アルファベットのYの形をした小枝。色んなものを拾っては、脱いだ毛糸の帽子に入れていく。私が指を使って砂の上にお花の絵を書いて見せると、マリアンが興味津々な様子で真似をする。後方では、傾斜のきつめな滑り台を、歓声をあげながら一緒に滑りおりるマリアとショーン。
「もう一回!」
そう叫んで、何度も何度も滑り台へ戻る、はち切れそうな笑顔のショーン。
コートをベンチに投げ捨てたマリアが彼の後を追う。
ドングリと葉っぱでままごとを始めたマリアンに付き合って、私はフォークに見立てた木の枝で食事を取る真似をしたり、砂を固めてせっせとケーキを作る。
外遊びはあっという間に時間が経ってしまう。
なかなか戻ってこない私達を心配したヨナスから電話が来たところで、ようやく私達はホテルに引き上げることにした。
砂まみれになって戻ってきた私達を見て、皆が大笑いしていたが、外遊びで満足したらしい子供達は少しテレビを見たいを言って、イーナに連れていかれた。
「おいで、カノン。葉っぱがついてる」
クラウスがクスクス笑いながら私の髪やコートについている枯葉を取ってくれた。
ショートブーツに砂が入っていたらしく、マリアがホテルの外に出て、ブーツを脱いでいる。
「やっぱり、子供は外遊びが1番だね。全然退屈しなかったみたい」
お陰ですっかり寒さを感じないくらい体も温まっていた。
「そうそう、外の空気が1番いいのよ」
ニコルがそう答えると、隣に立っていたフェルディナンに声をかける。
「おチビさん達が1人座り出来るようになったら、公園デビューね。双子だから貴方がしっかりイネスのサポートすること忘れないようにしてよ」
「あぁ、肝に命じておく」
神妙な顔でそう答えたフェルディナン。
フェルディナンのほうが3歳上の35歳で兄にあたるわけだが、どうやら育児については姉御肌のニコルにあれこれ指導されているようだ。2人ともロンドン住まいだし、イネスがすっかりニコルと親しくなったことから、これからは密接な付き合いになっていくだろう。
また必ず近いうちに会おう、と約束をし、フェルディナンが去っていった。
その夜は、レオナとアランがホテルにやって来て、私達と食事を共にした。途中、ぐずり始めたマリアンに手を焼いたニコラが席を立とうとしたら、レオナが声をかける。半泣きでぐずるマリアンを膝に乗せて、レオナが小声でなにやら秘密の話をするかのように静かに話しかけていると、やがてマリアンの涙がとまり、何やらクスクス笑って頷いていたが、しばらくすると急に黙ってうとうとと舟を漕ぎ始めた。全員、黙って様子を見ていると、マリアンはそのままレオナの腕の中で寝付いてしまった。
イーナに抱かれてレストランを後にしたマリアン。
「僕は眠くない!」
いきなりショーンが声をあげたので、ヨナスが片手でその口を塞ぐ。
「こら、ショーン!静かにしろ。クラウス、あれを出せ」
ヨナスの指示で、クラウスが下に置いていた紙袋から本を出した。
いつの間に入手していたのか、それはピカピカのミニカーコレクションブック。
目の前に置かれたカラフルなその本に、ショーンの目は釘付けだ。
両手に持っていたいくつかのミニカーをテーブルに置くと、ショーンは早速本を開いて熱心にページをめくり始めた。
「好きな本があると、この子は食べるのも忘れて集中してくれるの。父さんにそっくり」
ニコルがそう言うと、愛おしそうにショーンの頭を撫でた。
その夜、この数日間に決まった今後についての話が出た。
ユリウスは、ドレスデンに戻った後に、定期検査が予定されているが、その際、担当医が飛行機の搭乗を許可してくれたら、このクリスマスから新年にかけてはUKで過ごすことにしたらしい。そうなった場合、クリスマスをドレスデンで過ごそうとしていた私とクラウスは、予定を考え直すことになる。ヨナスとマリアはもともと、ポルトガルのマリアの実家に行くことになっていた。
誰も聞くことはなかったが、ユリウスとレオナが今後どのような関係を築いていくのかはまだ分からない。実際のところ、ダニエラとの離婚手続きが完了するまで最低1年はかかると聞いているから、どちらにせよ今すぐ現在の環境を変えるということはないだろう。
一つだけはっきりと明言されたのは、ゾマーフェルド家の会合が正式に延期と確定したこと。フェルディナンの存在が明らかになったことから、彼が、ゾマーフェルド家に長子として籍を入れる可能性があるからだ。フェルディナン自身は、レオナからユリウスのことは聞いていたようだが、伯爵家の家系であったことまでは知らなかったらしい。オクスフォード大学で教鞭を取りつつ研究を続けている彼が、ゾマーフェルド家に正式に籍を入れるかどうかについてユリウスに聞かれたところ、考慮してみるとの回答であったそうだ。レオナはすべてフェルディナンに任せるとのことで、特に賛成も反対もしていないらしい。
始終穏やかな表情で語り合うユリウスとレオナ。
三十年以上という長い沈黙の時を経て、これからその失われた時間をゆっくりと取り戻していくことだろう。
楽しげに言葉を交わし微笑みあう2人を見て、きっと、幸せな未来が待っていると確信する。
隣に座っていたクラウスを見上げると、彼も私と同じように温かい目で2人の様子を見守っていた。
どちらかともなくテーブルの下で手を繋ぐ。
彼がそっと身を傾けて私の耳元に囁いた。
「愛している、カノン」
私はその囁きに目を閉じてゆっくりと深呼吸する。
「私も。愛してる、クラウス」
彼の耳元にそう囁き返すと、にっこりと微笑んだ彼が繋いだ手に力を込めた。



ベルリンへ戻ってから数日経った金曜日の夜。
夕食を終え片付けを済ませた後、私はアパートをクリスマス風に飾り付けていた。玄関のドアにクリスマスリースを掛けたり、マーケットで買ったガラス製のエンジェル型キャンドルホルダーを並べたり、日本でも定番のポインセチアを飾ったり。
12月に入る前に唯一準備していたのは、アドベント・キャンドル。
テラス側の窓辺に置いてあるアドベント・キャンドルは、明後日の日曜日、2本目のキャンドルに火が灯される予定だ。
私はこの、クリスマス・アドベントというものは知らなかった。
ドイツでは、キリスト生誕の日とされる12月25日の4週間前の日曜日から、24日のクリスマスイブまでの、キリストの降誕を待つ期間を、アドベントと呼ぶ。
アドベントには、キャンドルが4本のモミの木などの針葉樹で作られたリースを準備し、第一日曜日に1本目のキャンドルに火をつけ、第二、第三、第四日曜日に、順番に新しいキャンドルに火をつけていく。4本目のキャンドルに火が灯ったら、ついにキリストの誕生日、12月25日になるというわけだ。



アパートのデコレーションがひと段落した後、私はリビングルームの隅に座り、日本から持って来ていた小箱を開けていた。お気に入りの小説や、ベルリンのガイドブック、簡単ドイツ語会話帳など、ベルリンに到着後、結局一度も使っていないものばかりだ。
ドアが開く音がして振り返ると、先程まで書斎に居たクラウスがリビングに入って来るところだった。このところ、クラウス宛に、取引先や顧客からのクリスマスパーティーの招待状がいくつも届いていた。スケジュールを見ながらまとめて出欠連絡をすると言って、彼は夕食後からしばらく書斎に篭っていた。
「カールから先程電話が来た。医師から飛行機の搭乗許可が下りたそうだ。父は12月22日にUK入りするらしい」
「あっ、そうだったの!よかったね!」
恐らく大丈夫だろうとは聞いていたけれど、こればっかりは医師の判断次第だったから気になっていた。
「そうすると、俺達のドレスデン行きはキャンセルとなる」
「そうだね。でも、お家の人達もお休みが貰えるから、きっと喜んでいるかもね」
仕えている主人のユリウスがが不在なら、使用人達も交代で休暇が取れるだろうし、彼ら皆が、それぞれ家族で過ごせる時間が取れていいことずくめだろう。
「クリスマスは、どこかに俺達2人で旅行に行くというのはどうだろう?パリやプラハもそう遠くない」
クラウスの提案に、私はちょっと考えてみた。
ついこの間バースから帰って来たばかりだし、年末年始にオランダに行くことを考えたら、クリスマスは旅行に行かないで、ゆっくり過ごすのもいいのではないだろうか。それに、私はまだベルリンでクリスマスを迎えたことがない。
「私は貴方と一緒だったらそれで幸せなの。今年はベルリンで過ごそう?」
正直な気持ちを口にすると、彼がクスッと笑いながら隣に座る。
「かわいい俺のカノン」
そう囁いて、私の肩を抱き寄せる。
クラウスと2人きりのクリスマスなんて、考えただけでドキドキする。
アナののクリスマス・コンサートもあるし、この時期限定のバレエ「くるみ割り人形」の舞台を観に行くのもありだろう。イブには近くの教会の集まりに行ったり、2人でクリスマスの食事の準備をしたり……
「ね、週末にクリスマスツリー買っていい?それから、クリスマスに食べたいもの、教えて?」
「ツリーなら、もう街のあちこちで販売されているから明日にでも見てみよう。ゾマーフェルド家のクリスマスディナーは毎年、ガチョウをローストしているが……」
「ガチョウ?」
でっかいガチョウを頭に思い浮かべ、思わず怯む。
ウサギ、と言われなかったのにはホッとしたものの、ローストビーフやチキンの丸焼きを想像していた私には、ガチョウのローストはハードルが高い。あんな大きな鳥をどうやって調理するんだろう?!しかも、2人きりなのに、到底食べきれる筈はない。
静かにパニックに陥っている私を見て、クラウスがクスクスと笑った。
「後でゆっくりメニューについては考えよう。俺は別にガチョウに拘ってはいない」
その言葉を聞いて少しホッとする。
「ところで、こんなところに座って何をしているんだ?探し物?」
小箱からあれこれ物を出している私の手元を覗き込むクラウス。
「うん……さっき、クリスマスマーケットで買ったガラスのキャンドルホルダーを出したりしてたのだけど、他にも飾りたいものがあって」
私は止めていた手を動かし、小箱の中のものをさらにいくつか出した後、ようやく探し物をみつけた。
「これ!」
おじいちゃんから貰った年代物のオランダのマッチ箱。普通のマッチ箱より少し大きめだ。
私の手元を見て、不思議そうな顔をしたクラウス。
私は彼の目の前に古びたマッチ箱を出すと、そうっと中をスライドさせた。
毎年この時期に出している、私の宝物。
小さくて、繊細な作りの木製彫刻品だから、壊れないように、コットンの上に寝かせていた。
そう、一年ぶりに見る私のエンジェル。
「天使……?」
クラウスが興味深そうにそれを手にとると、ランプの灯りに向けてじっと眺める。
「おばあちゃんの話だと、ギュンター・ライヒェル社っていうドイツのメーカーのオーナメントらしいの」
クラウスがエンジェルを見つめながら頷いた。
「確かににギュンター・ライヒェル社のものだろう。ハンドメイドオーナメントで有名な老舗だ」
「見て、可愛いよね、こんなに小さいのに表情まで分かるくらい、本当に丁寧に作られてる」
先日、ふと思い出してネットでギュンター・ライヒェル社のオンラインショップを見てみたら、デザインが随分現代化して、もっと丸みのあるエンジェルが販売されていた。
「ツリーに飾ることも出来るけど、こうやって立てることも出来るの」
私はクラウスからエンジェルを受け取ると、ガラスのキャンドルホルダーの隣に置いた。炎の灯りに照らされて、エンジェルの影がゆらゆらと揺らめく。
「まさか、このエンジェルをベルリンで貴方と一緒に見ることになるなんて。本当に不思議な気がする」
しみじみそう言うと、クラウスがそっと私の肩を抱き寄せ、髪にキスをした。
私が世界中のどこよりも1番安心する場所。
私は彼の広い背中に両腕を伸ばしてぎゅうと抱きしめ、温かい彼の胸の中で、まもなく終わるこの一年をゆっくりと回想する。
年明けにあんなに不安な気持ちで到着したベルリン。この不思議な街に翻弄され、想像も出来ない出来事を次々と経験した。でもそれは、神様のいたずら心が満載の奇跡の連続だった。
あっと言う間に季節は春、夏、秋と変わりゆき、もうクリスマス目前だ。
その時、はっと重大なことに気がつく。
彼へのプレゼント、まだ準備してなかった!
クリスマスまで後、二週間もないという事実に呆然となる。
秋からずっと考え続けているのに決められず、もしかしたらバース滞在中に何か見つけられるかと思っていたのに、予想だにしなかった事件の連続で、クラウスへのプレゼントのことはすっかり頭から抜け落ちていた。
「カノン?顔色が悪いようだが、寒いのか?」
クラウスが心配げに私の顔を見つめ、額に手をあてた。
「だ、大丈夫!ちょっと私、温かいお茶作ってくるね!」
動揺を知られまいと、慌てて立ち上がり、キッチンへ逃げる。
お湯をケトルで沸かしつつ、己の愚かさを呪いながら、必死にプレゼントのアイデアを探るのだった。


それからクリスマス休暇に入るまで、バタバタと忙しい日々が続く。
ドイツ語クラスでのクリスマス会もあったし、クラウスのオフィスで行われたクリスマス・パーティーも出席した。クラウスは基本的に、木、金の夜は仕事関係のパーティーに出席して不在。土曜日も仕事の都合で半日ほどは外出。
12月は日本で師走と言うように、ドイツでも同様に、クリスマス休暇までは本当に忙しくなるらしい。
クラウスが招待客されたパーティーの中には、パートナーを同伴するような社交パーティーもいくつかあったようだが、クラウスの判断で今年は私は欠席となった。マリアはヨナスと共に出席していたようだが、クラウスが、まだドイツ語に自信がなく、引越しの準備や年明けの入稿などで余裕がない私に気を使ってくれ欠席にしてくれたので、正直本当に有り難かった。どうしても出席してほしいと言われたら頑張って行く覚悟はしていたけれど、フォーマルなドレスの準備や、招待客のリストを覚えたり、フォーマル・ディナーの作法を覚えるなんてことを考えたら、とてもこの1週間くらいで準備なんて出来ないと不安だった。
これからも彼と一緒に居たいのなら、こういったこともきちんと学ぶ必要がある。来年はもっと、彼に相応しく、いや、彼に恥をかかせたりしないように、しっかりと勉強をしなくてはと固く決心する。
彼が不在の時間が多いのは、確かに寂しかったけれど、実はこれが結構タイミング的には助かっていた。
彼へのクリスマスプレゼントを一生懸命考えた後、ついに決めたものは、今年のアルバム。
私達があちこち出かけた時に撮った写真や、ヨナスやマリア、アダム、アナなど皆と写っている写真、そして、このバース滞在中に撮ったいくつもの写真。昨今、写真はデータとして保存してしまうことばかりだから、こうやって、昔のように、一枚一枚現像して、アルバムに順番に貼り付けていくことが新鮮でとても楽しい。日付や、その時のことを思い出しながら一言書き加えたりしていると、いくら時間があっても足りないくらいだ。
、クラウスが不在の時間を作業の時間に充てているので、クリスマス当日までになんとか間に合いそうだ。
もちろん、彼に何かプレゼントを買うことも出来たけれど、彼はきっと、購入したものより、こうしたお金で買えないものを喜んでくれるだろう。
それから、私達のクリスマスの予定も変更になっていた。
クラウスの提案で、クリスマスのイブと当日はオランダで過ごし、それからベルギーのアントワープに小旅行し、大晦日と新年をまた、オランダで過ごすことになった。オランダからアントワープまでは2時間程と近くて便利だし、私が行きたい街のひとつでもあった。
もちろん、おばぁちゃんはクリスマスに私達が来ると聞いてそれは喜んで、ドイツの習慣に従い、ガチョウを準備すると張り切っている。
オランダでは、12月6日の聖ニコラウス(オランダではシンタクロースと呼ぶ)を盛大に祝うため、クリスマスはそれほど重要視されておらず、おばぁちゃんも今年のクリスマスは、毎年と同様、友人と食事をして夜に教会に行くことくらいしか考えていなかったらしい。
おばぁちゃんにはくれぐれも張り切り過ぎないよう何度もお願いしたけど、案の定、大張り切りしてしまってるのは間違いなさそうだった。
こうしてクリスマス休暇までの日々は駆け足で過ぎていく。
迫り来る新年へ向け、それぞれの胸に大きな夢と希望を抱いて。
しおりを挟む

処理中です...