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時空が重なる奇跡

その瞬間、その空間で

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ヒースロー空港で乗り継ぎし、到着したブリストル空港では到着ロビーに執事のカールが手配していた出迎えの運転手が待っていた。ロータリーで待機してたのは、英国王室の御用達、黒光りするベントレーのリムジン。
クラウスにレディ・ファーストされて、マリアに続き、私も生まれて初めてのリムジンに緊張しつつ、そっと足を踏み入れた。想像を絶する豪華さに度肝を抜かれていると、まるで普通のタクシーに乗り込むかのように、ごく自然に乗り込むヨナスとクラウスが視界に入る。
広々とした車内はピカピカに磨き上げられて、贅沢に使われたレザーの匂いをわずかに感じる。座席の座り心地も、高級なソファのように体を包み込む作りになっていた。
静かにロータリーを発車するリムジン。安定感があり殆ど振動も感じない。まるで道路から浮いて雲の上に腰掛けているようだ。
飛行機の中同様、引き続き仕事の話をしているヨナスとクラウスの隣で、なんとなく落ち着かない私は曇りガラスの向こうに目を向けた。ロータリーでリムジンバスの到着を待っている人々が興味深そうにこちらへ目を向けている。いつもは私も彼らのように、滅多に見かけないリムジンが通り過ぎる時、どんな要人が乗車しているのだろうと興味本位で眺めているが、まさか自分が逆の立場になることがあるとは思わなかった。
「ねぇカノン、ホテルの近くの観光名所、チェックした?カールが手配したホテル、The Gainsborough Bath Spa の周り、結構見所ありそうよ。さすがカールだわ」
タブレットをスクロールしていたマリアが楽しそうに声をあげる。
そういえば、レオナのことばかり考えていて、全く観光のことなど調べてもいなかった!
バースには温泉以外にも聖堂など見所はたくさんあるはずだ。
「どうせ男性陣はなんだかんだ言って仕事するだろうから、私達はしっかり楽しまなくちゃ!スパ、観光、食べ歩きにショッピング!カノン、もう歩くのは大丈夫でしょうね?」
「もちろん!走ったりジャンプしなきゃ全然平気」
「オッケー、覚悟しときなさいよ」
楽しげにに声ををあげいつもに増して活き活きと輝くオリーブ色の瞳でウインクするマリア。自然と笑顔になる瞬間、ずっと強張っていた私の体から緊張の糸が緩んでいくのを感じた。


リムジンが到着したのはそれは重厚感のあるホテルだった。The Gainsborough Bath Spa という、5つ星の歴史あるホテルだ。ホテルのベルボーイ達が爽やかな笑顔で出迎えてくれる。スーツケースがスタッフによって台車に乗せられるのを横目に、先にホテル内に入ると、広々としたロビーが視界に入り、思わず足を止めた。黒い大理石を敷き詰めた光沢のあるフロア、白を基調に黒をアクセントに入れたインテリアで統一されており、豪華さの中にも洗練された格式の高さを感じる空間だ。
マリアが軽く私の肘をついて、フロントのほうへ目を向ける。促されるようにそちらを見ると、日本人と思われる4人組がなにか女性スタッフと話しているが、彼女がやや困ったように何度も何かを聞き返している様子だった。
チェックインの手続きを始めているクラウス達から少し離れてそちらに耳を向けると、何やら言葉が上手く通じず、困っている様子だということに気がついた。周りを見渡してみたが、どう見ても日本語を話すスタッフはいないようだった。
私の親より少し上、多分60代半ばくらいの二組のカップルが、なにかを一生懸命説明しようと、フロントのスタッフに携帯やガイドブックを見せて頑張っているが、なかなか伝わらないようだ。
少し躊躇したがやはりこのまま見過ごすのも日本人としての良心が許さないので、少し近くにに寄って、一番端にいたベレー帽の男性に声をかけて見た。
「すみません、どうかしたのですか?」
私を振り返り、おじさんが少しびっくりしたように眉をあげたが、すぐにホッとしたように笑顔を向けた。
「お姉さん、英語出来るの?」
私は笑って頷いた。
「助かった!話が通じなくて困ってたんだよ」
おじさんが声を上げると、他の3人とフロントの女性スタッフも一斉に私に目を向けた。
「どうしたのですか?何か問題でも……」
尋ねると、仕切り担当と見られるショートヘアにメガネの上品な奥様が、「ちょっと来て」と言いながら私の手を掴み、フロントのカウンターへ誘導した。
「あのね、私達もう若くないから、英語があまり出来ないのよ。今晩行きたいこのレストランの予約と、明日の観光用のタクシーの手配とね、もう一泊、別の客室タイプで宿泊の延長が可能か知りたいの。それからね、この庭園の入場券の手配と、あと、このお店でこの商品が買えるかどうかも知りたいわ。で、それから……」
女性2人が交互にガイドブックと携帯を私に見せて、続けざまにあれこれとリクエストを出す。
なんだかツアーガイドか添乗員の気分になり俄然張り切ってしまった私は、フロントの女性にペンとメモ用紙を借りて、順番にリクエストをリストアップした。英語でリクエストのリストを作成し、間違いないか彼等と復唱した後、フロントにリストを渡す。それにさっと目を通したスタッフは笑顔で頷き、少し待ってほしいと言うと、すぐに電話をかけ始めた。
さすがに5つ星ホテルのフロントはプロフェッショナルだ。
しばらく待っていると、すべてのリクエストに対し、回答をもらう。聞いた回答や手配内容をメモ用紙に日本語で書き取り、代表の日本人女性に渡した。
「わ~、助かったわ!ありがとう!ちょっと貴女、いつまでここに泊まっているの?また緊急時、お願いしていいかしら?」
「もちろんです。私達は今晩から5泊の予定なので」
添乗員みたいに頼られるは意外に楽しくて、私は大きく頷いた。
「お部屋はどこ?お名前も教えてちょうだい」
名前を告げながら、まだ自分の部屋番号を知らないことに気がつくと、彼らが自分達全員の名前と部屋番号、メールアドレスをメモ用紙に書いて私に手渡した。
「後で私達にメールしてね。部屋番号も送ってちょうだい」
念を押すようにそう言って、笑顔で何度も手を振りつつ外出のためロビーを出て行く彼等を見送りながら、急にホームシックになってしまう。やっぱり、日本人と触れ合うと故郷が懐かしくなって、しばらく会っていない日本の家族や友人の顔を思い出し切なくなった。
「mein Schatz」
耳元で聞こえた優しい囁きに振り返って、いつの間にか隣で柔らかな微笑みを浮かべて立っていたクラウスに気がつく。
「さぁ、おいで。君がアテンドの仕事に精を出している間に、ヨナスとマリアはもう部屋に行ってしまった」
クラウスが可笑しそうに笑いながらそう言って私の手を取る。
フロントカウンターの窓から差し込む光が、彫りの深い彼の目元に濃い影を作り、彼は眩しげにその美しいブルーグレーの瞳を細めた。その瞳に揺らぐ甘やかな煌めきに、まるで魔法をかけられたように彼しか見えなくなる。彼の大きくて温かい手をしっかりと握り返し、私はなにかに操られたように背伸びして彼の精悍な頰にそっとキスをした。
「愛してる、クラウス」
溢れる気持ちに自然とこぼれ落ちた言葉に、彼が目を見開いて私を見下ろした。そしてゆっくり頷いて、そっと身を屈めると私の耳元に囁いた。
「カノン、君を愛してる」
少しだけ掠れて、いつもに増した甘い響きを纏う彼の声に、否応なく高鳴る胸。動悸を抑えようと片手で胸を抑えると、手のひらに早鐘を打つ自分の心臓の鼓動を感じた。
少し離れたところに、私達のスーツケースを台車に乗せて待っているスタッフが目に入り、一瞬で理性が戻った私は、慌ててクラウスの手を引っ張った。
「ごめんね、待たせちゃった!」
クラウスが可笑しそうに微笑み、スタッフを振り返ったのを合図に、私達はエレベーターホールへと向かい歩き出したのだった。


予測はしていたけれども、足を踏み入れた先は立派な客室。広々とした客室は英国の5つ星ホテルらしく、気品のあるブルー、落ち着いたブラウンの濃淡トーンをベースに、ペールホワイトがアクセントカラーのインテリアで統一されていて、聞かなくてもスタンダードルームではないスイートクラスだと凡人の私でも分かる豪華さだった。リムジンで度肝を抜かれたあたりから、私も免疫がついたらしく、多少のことでは驚かなくなってきていた。
旅行に関わることは全て執事のカールが手配していたので、私達は渡された情報に従って動くのみだ。執事という仕事は下手したら大企業の社長秘書同等、あるいはそれ以上の手腕と体力なくしては全うできない職種だろう。これまで執事という職種は昔の話か小説の中でしか存在しないと思っていたけれど、ヨーロッパには執事学校まで存在するという、現在も実在する立派な職業なのだ。己れの無知に恥ずかしくなるばかりだが、日本の一般家庭に育てば、そういう知識がなくても仕方がないと思う。クラウスに聞いた話だと、中東の石油大国などの大富豪の家庭では、必ずといっても間違いない確率で執事を雇っているらしい。簡単に言えば、世界中どこでも執事が存在するということで、つまり、恐らく日本でも執事を雇っている特別な人々がいるはずだ。

ホテルスタッフからスーツケースを受け取ったクラウスがチップを渡してドアを閉めた。彼がスーツケースをベッドルームへ運ぶのを見ながら、私はリビングルームを見渡した。漆黒色で縁が金色のシックなコーヒーテーブルを挟んで、チョコレートブラウンの2人掛けレザーソファが向かい合わせに置いてあり、窓辺には踊り子のように咲く白い胡蝶蘭の鉢が飾られている。その隣には冷やされたウエルカムシャンペンと、チョコレートが置かれていた。
チェストの上にネスプレッソマシンとポット、ティバッグのセットがあるのを見つける。
「クラウス?何か温かいもの飲む?」
ベッドルームのほうを振り返って声をかけると、リビングルームに入って来た彼がレザージャケットを脱いでソファに投げ、私がまだ着ていたコートに手を伸ばした。
このコートは、先日アナと街を散歩している時に通りかかったハンドメイドのテーラーで一目惚れして買ったものだ。光沢が紫色を帯びたワインレッドのウール生地で、しなやかなAラインだからベルトも必要がない。シンプルな立て襟は首回りを冷たい風から守ってくれる。今日みたいにジーンズと合わせてもいいし、スカートとロングブーツでもOKというデザインだから、この冬は多いに活用出来そうだと思って、ちょっと高かったけれど、試着した瞬間に購入を決めた。普段決断力がない私が即買いしたので、アナがすごくびっくりしていたくらいだ。
私のコートをソファに置いてくれた彼にお礼を言って、もう一度、飲み物について聞こうと、ティポットに手を伸ばそうとしたら、彼が私の手を捕まえた。
「君は、本当にじっとしていられないようだ」
可笑しそうにクスクス笑いながらそう呟いた彼の腕の中にぎゅっと抱きしめられて、ドキンと胸が一度大きく跳ねた。
「このところずっと、何かをしているか、何かを考え込んでいる君しか見ていない気がする」
ちょっとだけ意地悪っぽく片眉をあげて私を見下ろす。
確かにそうかもしれない。
新年開けの入稿、引っ越しの準備に向けての諸々の手配。
お茶屋の公式ページのリニューアルに向けた草案作り、エミールの日本語レッスンの準備に自分のドイツ語の勉強、そしてやはり、一番頭の中を支配していたのは、今回のこの旅行のきっかけになった、あの人のことだった。
「うん、確かに、それはあたってるかも」
このところ毎日何をしていたか記憶にないくらい、とにかく落ち着かない日々が続いていたのは間違いない。クラウスのように大規模なプロジェクトを回しているわけでもないのに、どうしてこんなに余裕がないんだろう、と可笑しくなって思わず笑ってしまった。
「俺が今欲しいのは、君だ」
からかうようにそう言った彼が、勢いよく私を抱き上げ、隣のベッドルームに入る。
純白のベッドに一緒に倒れこむと、体が包まれるように背中がゆっくりと沈んだ。
「さぁ、カノン」
熱っぽく掠れた声が耳もとをくすぐる。
私を挟むように両手をついて上半身を起こした彼。
見上げるとその挑発的で強い眼差しに捕らわれる。妖しくも情熱的に煌めくブルーグレーの二つの瞳が私を見守るように優しく瞬いた。
「俺だけを見るんだ」
思考の全てが彼で埋め尽くされると、彼が完全に私の心を支配する。いつかもこうして彼の目を見上げたことを思い出した。
「見てる。貴方しか見えない。クラウス、愛してる」
考えることもなく溢れ出る自分の言葉に胸がいっぱいになり、両手を彼の首に伸ばして抱き寄せた。彼の体の重みがゆっくり増していくのを感じていると、少し体を横にずらし隣に身を横たえた彼が、そっと私の髪を撫でて、気遣うように微笑む。
あぁ、多分、私の背中の打撲の痛みを気にして、体重をかけないようにしてくれたんだ。
そんなことまで気遣ってくれる彼の優しさに、胸がはち切れそうになる。
「もう、どこも痛くないから、大丈夫」
私はそう言って、力一杯、彼を抱き寄せた。
引き寄せられるようにキスをすると、全身に広がっていく幸福の波に押され日常の全てが遥か彼方へ消えていき、この世界に彼と2人きりになったような感覚に落ちていく。彼の柔らかな髪、両腕でも抱きしめきれないほど大きくて逞しい背中、手に触れる彼の全てが愛おしい。
彼の熱い唇が首筋を滑り落ちていく感覚にそっと目を閉じたその瞬間、ドアのノックの音がした。
はっと目を開くと、同じく目を見開いたクラウスと視線が絡む。
コン、コン、コン。
ドアベルでなく、ノックの音だ。短く3回。
眉間に深く皺を寄せ眉を潜めたクラウスが、数秒、息を止めたように動かず、やがて、参ったというようにため息をついた。そして身を起こすと、髪を乱暴にかきあげ、ベッドを降り立ち上がった。
再度、ノックの音がする。さっきと同じように、短く3回。
クラウスがベッドルームを出て、ドアのほうへ行った。誰かとしばらく話している声が聞こえ、やがて不機嫌そうな顔のクラウスが戻ってきた。
「どうしたの?」
ベッドから下りて彼に近づくと、諦めたようにため息をついた彼がぎゅっと私を抱きしめた。
「あれはカールだったんだ」
「えっ?」
ユリウスの到着は今晩だったはずだ。今、午後4時だから、あと3、4時間くらいだと思っていたが、もうユリウスが着いたのだろうか。
びっくりしていると、クラウスが思い出したように苦笑いして説明してくれた。
「カールは一足先に昨日ここに到着しているんだ。父が宿泊するにあたって、食事メニューなどシェフとの打ち合わせがあったり、準備する必要ががあったから」
「そうだったの?じゃぁ、ユリウスと一緒に来るんじゃなかったんだね。なにか連絡事項だったの?」
「少し予定より早まって、父はあと一時間半くらいで到着するらしい」
「あっ、そうなの?」
長々とリムジンに座っているのも疲れるだろうから、少しでも早く着くほうがいい。
正直、私が言い出した旅行に無理矢理合わせてもらっているから、スパで療養どころか逆に負担になり体調を崩すのではと気が気でなかった。到着したら様子がどうかすぐに確認したい。
「あのノックの仕方はカールなんだ。君も覚えていた方がいい」
そう言った後彼は、低い声で独り言のように呟いた。
「家族旅行はこういう邪魔が入るのが問題だ……」
「……ふふふっ」
まるで少年のように不満げな様子を見せる彼が可愛くて、私は耐えられず笑い出した。
誰も知らない、私だけが知ってる彼の表情。
いつも華麗で大人びた紳士。何事に対しても冷静沈着な彼。
でも、こうして時折、彼が子供だった昔の姿を思い起こさせる瞬間を見れるのが私だけだと思うと、とてつもない幸運に恵まれていると実感する。
「クラウス、時間はたっぷりあるし、家族旅行だからこそ楽しめることも沢山あるよ」
彼は苦笑いして私を見下ろした。
「後半、ニコルが子供達を連れてやってきたらどうなるか、君も想像はつくだろう」
「うん」
やんちゃなショーンとおしゃべりなマリアンに捕まって、へとへとになるまで一緒に遊ぶことになるだろう。2人きりの時間はあまり無いかも知れないけれど、温かい家族の集まりはユリウスにとっては幸せな癒しの時間になるだろうし、クラウスもヨナスもこの旅をとても楽しみにしていたことを私は知っていた。これまで、ダニエラやクララのことでどこかギクシャクしていた親子関係が、やっとあるべき姿に戻ったばかりなのだから。
「2人きりの時は、ずっと離れないから」
私はそう言って、温かな彼の胸に頰を寄せた。
「カノン、愛してる」
日々幾度となく繰り返される魔法の言葉に、私は大きく頷いて彼の背中を抱きしめた。


それからおよそ1時間半が過ぎた頃、今度はドアベルが鳴る。ベッドに座りラップトップを膝に置いて仕事をしていたクラウスの代わりに、急いでドアに向かう。
「あ、マリア!もしかして」
ドアを開けたら笑顔のマリアが居て、彼女は直ぐに私の腕を掴んだ。
「そのもしかしてよ。さっきユリウスが着いて、部屋に入ったって連絡があったわ!さぁ、様子を見に行きましょう!」
私はベッドルームの向こうのクラウスを振り返って声をあげた。
「先に行ってる!」
クラウスの返事を聞くより早くマリアに引きずり出され、辛うじてドアを閉めてフロアを早足で歩く。最上階だとのことで、エレベーターホールへ行ったものの、乗降ボタンを押しても、なかなかエレベーターが止まらない。痺れを切らしたマリアが、背後の階段を振り返った。
「カノン、階段、大丈夫?」
「もちろん」
即答して、2人で急いで階段を上っていく。流石にジムで鍛えているマリアは重力を感じさせないスピードで軽やかに上っていくが、捻挫で足を痛め此の所あまり歩いていなかった私は、痛みこそないもののやや遅れ気味だ。ベルリンに戻ったら、少しずつ運動をして体力を戻さなければならない。
少し息が切れそうになった時、最上階フロアに到着。
ちょうど、スーツケースを台車に乗せて運ぶスタッフと一緒にエレベーターから降りるイーナに遭遇した。彼女の後ろにはあと2人、ゾマーフェルド家からお付きの者が控えていて、いくつか手荷物を抱えている。
「あぁ、マリア様、カノン様」
少しだけ疲れたような表情のイーナが嬉しげに声をあげた。
「ご無沙汰しております」
「こんにちは、イーナ!無事に着いてよかった!ねぇ、ユリウスはどんな感じ?」
マリアが開口一番に聞く。彼女も私同様、ユリウスの体調を気にしていたのだ。
イーナは苦笑して首を横に振る。
「ご主人様ならご心配は入りませんよ。移動中殆ど眠っていらしたせいか、普段よりお元気なくらいです」
「よかった!」
マリアと顔を見合わせ、ホッと安堵のため息をついた。
イーナと共にホールの先に行くと、カールがドアを開けて待っていた。
先に荷物を運ぶスタッフに中に入ってもらい、私達も後に続いた。
まるで一軒の大邸宅の中に入ったように広いリビングルームを見渡し、足を止めて驚いていると、廊下の向こうのベッドルームからやってくる人影に気がついた。
「やぁ、美しいお嬢さん方」
オペラのバリトンのような、威厳のある低い響きのその声と共に、片手を上げて笑顔のユリウスが現れた。まっすぐにこちらを見る彼の真っ青な目は、最後に見た時よりも力強い生命力が宿る光を帯びていて、以前より体調が良くなっているのは素人目にも明らかだった。
ネイビーブルーのパンツに、光沢のある濃紺のシャツ、青みがかったシックなグレーのジャケットとドレスダウンしていたユリウスは、以前より若々しく見えた。
体調が回復してきているのを目の当たりにして、嬉しさに自然と笑顔になる。
生粋の紳士である彼は、私達の手を取り、順番に挨拶のキスを落とす。すっかり淑女になった気持ちになって照れてしまう。
流石にあの、クラウスとヨナスの父親である。離婚歴が4回というのも決して不思議なことではない。高貴なオーラを纏う品格の溢れる容姿、威厳のある彼の声、無駄のない美しい所作のすべてがあまりにも魅力的すぎて、一目で恋に落ちる女性は世の中に数えきれないほどいるだろう。
私達はユリウスと向かい合わせに座った。
たわいのない話をしながら、ユリウスの隣につい目が行ってしまう。
彼の隣に本来いるべきあの人のことを思い出し、焦燥感に襲われて落ち着かなくなる。彼の隣に身を寄せて、あのお日様のように優しい微笑みを浮かべながら彼の話に頷くであろう彼女。きっとユリウスは何度も彼女の美しい苔色の瞳を覗き込み、その手に触れるだろう。あまりにも鮮明に描くことが出来る2人の姿を思い浮かべた後、現実は1人で目の前に座るユリウスを見て、もどかしさと切なさに目頭が熱くなってしまう。
慌てて瞬きを繰り返し、自分を戒めた。
ダメだ。
今、レオナのことを考えても状況は変わらない。
この瞬間に集中しなければ。
皆が生きて共有しているこの貴重な一瞬を疎かにしてはならない。

ユリウスが旅中の話を面白おかしく話してくれるので、マリアも私もお腹を抱えて笑ってしまう。彼の一代で一気にビジネスの幅を広げゾマーフェルド家の名を業界に轟かせる成功をなしたのは、言うまでもなく、彼の人間としての魅力、すば抜けて明晰な頭脳と、相手をしっかり引き込む優れた話術という才能あってのことだろう。
やがてクラウスとヨナスも現れて、間を置かずしてカールが手配した軽食がホテルスタッフによって運び込まれ、その夜は夜更けまで楽しい談笑が続いたのだった。


翌日の朝はゆっくりと始まった。
ホテル内のレストラン、THE CANVAS ROOM内に準備された特別席で皆揃っての朝食は、英国ならではのアフタヌーン・ティー。彩り豊かで種類も豊富、豪華な三段のアフタヌーン・ティースタンドが二つ運ばれる。カールの手配通り、ユリウスの体調に合うように材料や調理にアレンジがされている。チーフシェフが挨拶を兼ねてテーブルのところまでやってきて、一品一品、丁寧に説明してくれた。
朝食の間にその日のスケジュールについて話し合う。
午前中は、男性陣は仕事に関する懸案事項や、ゾマーフェルド家の会合準備について時間を取りたいということだったので、マリアと私はホテル近隣を観光がてらに散策することになり、午後2時過ぎに、サーメ・バース・スパで待ち合わせることになった。サーメ・バース・スパは、英国の古い歴史を彷彿とせる、バース・ストーンと呼ばれる石造りの建築物が、ガラス張りのモダンな建物と融合された、かの有名な温泉施設だ。
私達が宿泊しているホテル内でも天然スパやエステが利用可能だが、この、サーメ・バース・スパでは、屋上にある、オープンエア・ルーフトップ・プールが大人気だ。日本語で言えば、屋上の露天風呂。天気予報によると、今日は終日晴れ、気温も12月にしては若干高めなので、行くなら今日がベストだろう。
そして、サーメ・バース・スパの後は、Summer filedに行くことになった。
レオナが居ないのなら、私1人で行くことはあっても、わざわざ全員引き連れて行くのもどうかと思っており、これまで、訪問の計画は保留にしていた。一昨日再度ショップにメールで確認してみたところ、やはり残念ながらレオナは年内不在であることだけは確かだったのだが、マリアもショップを見てみたいと言うし、クラウスもヨナスも同意したので実現することになった。聞いてみたら、ユリウスも同行すると言うので、人目につくリムジンではなく、タクシーを手配することにする。以前、名刺を貰っていたタクシーの運転手さんに電話したところ、私のことを覚えていてくれて、自分を含めタクシー3台の配車を快く引き受けてくれた。
マリアと街へ繰り出して、ローマ人が遥か昔に建てたと言うローマン・バス、大聖堂、ロイヤルクレッセントを巡り、裏の小道で可愛い小物のショップを見て歩いていたら、あっという間に時間が経ってしまう。ランチと休憩を兼ねて、可愛いカフェに立ち寄り、マリアの撮った写真を一緒に見ていると、もう、サーメ・バース・スパに向かう時間になる。ホテルを中心に、ほぼすべての名所に徒歩で行ける距離というのが有難い限りだ。
温泉で着用する水着などは彼等に持ってきてもらうことになっているので、カフェを出た私達はホテルに戻ることなく、まっすぐにサーメ・バース・スパへ足を向けた。
今回、この温泉で着用する水着のことで、クラウスと一悶着あったことを思い出し、思わず1人、赤面する。クラウスがビーチに行くことを考えて買ってきてくれていた、Victoria's Secretのエメラルドグリーンのビキニ。紐で結ぶ箇所が4箇所という、私には大変勇気のいるセクシーなデザイン。しかもそれを温泉で、他人のみならいざ知らず、同行する皆の前で着用するというのは流石に恥ずかしすぎる。なのに、絶対に似合うから着てほしいと引かないクラウスと長々もめた挙句、うっすらと背中に残っている数カ所の打撲を人目に晒したくないと主張したところ、ようやくクラウスが折れた。
結果、水着については断固主導権を主張する彼により、別途、オランダのアムステルダム初のランジェリーブランド、LOVE STORIESの水着が手配されたのだった。今回はホワイトにネイビーブルーの細いストライプの若干スポーティなデザインのビキニで、紐がない分、カバーされる部分も広くなり安心だ。
15分ほど歩くと、観光情報で見た、サーメ・バース・スパの建物が見えてきた。日当たりのよい入り口に立つサングラス姿の三人と、少し離れたところにカールの姿があった。
すらりと背の高い父と息子達が揃っている様子がひどく目立ち、周りの人々が通り掛かりに必ず目を向けているのがわかる。私達を見つけたクラウスが手をあげた。
カールは一度ホテルに戻り、Summer filedに行く時間にまたこちらへ戻ってくるとのことで、丁重に挨拶してその場を離れた。
水着の入ったバッグを受け取り、受付にて各自スパセッションを選択する。本当は、男女共にマッサージを受けたり出来るのだが、ユリウスの体調を考えて、クラウスとヨナスは私達に合わせることはせず、ユリウスの希望に合わせてセッションを選ぶことにしたようだ。
私はホットストーンマッサージ、マリアはバンブーマッサージを選び、フェイシャルトリートメントなどのコースを受けた後、アロマのスチームルームに移動し、その後ルーフトップ・プールに行くことにしたので、男性陣とはおよそ2時間後に屋上で合流することにした。
スパセッションの選択に時間がかかっていた私達を置いて、男性陣は先に更衣室へ向かっていた。
男女共用の更衣室というのはびっくりだが、ここは日本じゃないので、周りは皆、平然としている。遅れて入った更衣室にはクラウス達の姿はもう見えず、私はマリアと隣同士のボックスで水着に着替えた。
ブラックにゴールドの縁取りがアクセントのビキニを着たマリアに、同性ながらドキンとしてしまう。やはりラテン系の彼女は女性らしい脚線美が私とは比較にもならない。しかも、セクシーなビキニを着用しているにも関わらず、いやらしさはなく、堂々と背筋を伸ばしている姿勢のせいか、とても健康的に見える。少し日焼けしたような小麦色の肌にもぴったりの、マリアらしいビキニだ。
「マリア、すっごく素敵。ビキニ、とても似合ってる!かっこいいなぁ」
羨望の眼差しを向けて感想を伝えると、マリアはゴールドのヘアクリップで巻き毛を纏めながら笑う。
「ありがとう!でも、カノンもほんと、可愛いわよ」
「そうかな?でも、私って幼児体型だから、ビキニって難しい……」
鏡がないので、自分を見下ろしてみる。
「何言ってるの、全然幼児体型じゃないわよ?」
「うーん、でもほら、大人の女性らしさはまだまだっていうか」
「そうだ、この間クラウスが言ってたわよ。まるで妖精を抱いているみたいだって」
「えっ、なっ……そんなことマリアに言ってるの?!」
動揺し思わずマリアの腕を掴んで確認すると、マリアがクスクス笑った。
「貴女が怪我して間もない頃、やたら腕に抱いて移動してた時の話よ。腫れ物を触ってるような真面目な顔しているから、ちょっとからかおうと思って、プリンセスの抱き心地はどうって聞いたら、そんなこと言ってたわ」
「……」
「カノンは華奢だけど、とてもフェミニンなの。傷ひとつつけたくないって思うクラウスの気持ち、私にもわかるわ」
彼女は優しくそう言うと、三つ編みにした私の髪を手にとって眺める。
恥ずかしさに両手で熱い頰を抑え言葉を失っていると、背後からスタッフが私達に声をかけた。
それぞれ予約したマッサージへ向かうことになり、一旦そこでマリアとも分かれる。
初めてのホットストーンマッサージでは、あまりにも心地よくなり過ぎて、後半は半分眠っていたくらいリラックスしてしまった。
ガラス張りのアロマ・スチーム・ルームは4つあり、今日はラベンダー、ユーカリプタス、サンダルウッドとミントの香りが体験出来た。スチームルームとシャワーを交互に入っていると体の芯から温まってくる。これで最後にしようと、もう一度、ラベンダーのスチームルームに入ると、湯けむりの向こうにいる先客数人のうち、見覚えのある姿に気がついた。
スチームでぼやける視界の向こう。目を凝らしてみると、固く目を閉じて、何か考え込むように腕を組んで座っているユリウスが居た。
声をかけようかと一歩、足を前に踏み出したけれど、何か、近づいてはいけない気がして踏みとどまる。いつもとは違って、笑顔の消えたユリウスの横顔は、まるで見えぬ試練に耐えているような影があった。
あたりを包み込むラベンダーの香り。
離れたところに私も座って、そっと目を閉じてみる。
全身を包み込むやわらかな熱気と、漂う優しいラベンダーの香りに、ふわりと魂が浮くような錯覚を感じた。
あぁ、そうだ。
私にはわかる。
ユリウスが思い出してるのは、あの人のこと。
レオナ・ローサ。
思い出のラベンダーの香りの中で、彼は失った愛の尊さと絶望の境にいる。たった1人で、戦っているのだ。何故なら、彼が失ったものは、誰も与えることができないものだから。
でも、もし運命という定めが存在するならば、偶然と必然が重なって奇跡が起きるはずだ。
全身全霊で祈る。
神様、ユリウスの愛を叶えてあげて。
彼は、彼女を守るために一度その手を放してしまった。それは彼女を深く愛すればこその苦渋の決断。そしてその決断は皮肉にも、ユリウス自身を、永遠に脱出することが出来ないような深く暗い迷路の中に閉じ込めてしまったのだ。
でも。
出口のない迷路なんて、存在しないはずだ。
必要なのは、小さなきっかけ。
出口を見つけるための、小さなきっかけさえあれば。
胸の奥に熱い炎が灯った気がした。
絶対に、諦めてはだめ。
今回の旅行が何のきっかけにならないとしても、次の方法を考えればいいだけだ。
余計なお世話かもしれない。
本来なら、第三者の私が関わるべきことではないのも、重々承知だ。
それでも……
私にははっきりと見える。
微笑みあう二人の姿が。
脳裏に浮かぶ鮮明な彼らの姿を記憶に焼きつける。
私は大きく肩で息をして、目を開いた。
立ち上がり、湯けむりのむこうにいるユリウスに近づいて、そっと肩に触れてみた。
ゆっくりと目を開いたユリウスが、目を凝らして私を見て、やがてふっと微笑みを浮かべた。
「やぁ、カノン。君もここにいたのか」
「はい。やっぱり、ラベンダーが一番好きな香りだから、もう2回目です」
笑って言うと、ユリウスが頷きながら立ち上がった。
「息子達は熱いと言って、一足先に屋上のプールに行ってしまった。我々もそろそろ行こう」
「ええ、私もさすがにのぼせてきました」
本当に茹でタコになったように赤らんだ腕を見せると、ユリウスがクスクス笑ってスチームルームのガラス戸を開けた。
これだけ温まると、冬の露天風呂も寒くないだろう。
ユリウスに続いて最終目的地のルーフトップ・プールへ出ると、青空の広がる開放的な空間に、大きなプールがあった。空のずっと向こうは、少しだけ夕焼け色に染まってきている。
「こっちよ!」
奥の方から泳いでくるマリアを見つけて手を上げる。
ユリウスが水中へ入る階段を下りていくのを見習い、私もゆっくりと足をお湯の中へ入れてみる。おそらく35度くらいのぬるま湯だ。これくらいなら、長湯しても疲れないだろう。
深さはおそらく145cmくらいはあるのか、辛うじて首から上が出ている感じで、あまり泳げない私でもなんとか歩いて移動出来る感じだ。
でも、首から上しか出てないなんて、側から見たら滑稽な気がする。
「おいで、カノン」
向こうから手を伸ばしたクラウス。腕を掴むと、ふわりと身体が浮いて、ゆっくりと引き寄せられる。
私の身体を少し上に持ち上げ、ぎゅうっと一度抱きしめたクラウスが、満足そうに微笑んだ。
「なかなか来ないから、探しに行こうかと思っていたところだった」
「スチームルームがとっても良かったから、つい長居しちゃった」
そう答えると、未だに火照り気味の私の顔を覗きこんだ彼がクスッと笑った。
「そんな顔を見ると、食べたくなる」
「えっ」
「あまり俺を煽ると後で後悔すると覚えておくんだ」
意地悪っぽくそう言って、耳元で囁く。
「随分と我慢を強いられて、俺もそろそろ限界だ」
「我慢って?私、何かした?」
動揺して聞き返すと、彼は呆れたように目を見開いて私を見た。
「昨晩、俺がシャワーから戻ってきた時に、完全に熟睡していたのは誰だ」
「……」
「2人きりの時は離れないと言っておいて、ものの5分も待てずに寝ていた事実は重罪に値する」
昨晩は遅くまで談笑したせいか、部屋に戻り、シャワーを浴びてふかふかのガウンを着たら、すっかり気持ち良くなって、クラウスがベッドに戻ってくるまで待とうとしていたにも関わらず、気がついたら熟睡していたらしい。
朝起きたらクラウスが相当不機嫌だったのだが、理由はそれだったのか。
しかも、今朝は9時過ぎに電話で目が覚めたのだった。
部屋番号をメールで知らせていた日本人の方からの電話で、昨日出かけた先で私にお土産を買ってくれたので渡したいということと、お連れの人が羽毛アレルギーだから、ピローを替えてもらうようフロントに電話してほしいというお願いだった。
バツの悪さにさすがに言い返すことが出来ず、素直に謝る。
「ごめんね。ほんとに、起きて待ってようと思ってたのに……」
本当に申し訳なくてうなだれると、彼が機嫌を直したようにクスクスと笑った。
「いいだろう。だが、今夜は覚悟しておくんだ」
「もう、クラウス……」
こういう公共の場で、どうして顔色も変えず、そういうことを口にするのだ!
楽しげに笑い出すクラウスを直視できず、恥ずかしさにぷいと横を向く。
どうせ火照り気味だから、私が恥ずかしさに赤面していることなんて誰も気づかないだろう。

しばらく5人でルーフトップ・プールで過ごした後、ガウンを来て、館内のカフェでそれぞれ飲み物を注文した。ガウンを着たままカフェに入れるのは、温泉ならではだろう。そろそろカールが迎えに来る時間が迫っていたので、カフェではあまり長居せずに更衣室へと向かった。
用意が出来た者から順番にサーメ・バース・スパの表へ出る。髪を乾かすのに思ったより時間がかかったので私が1番遅いかと思っていたら、予想に反し、最後に出て着たのはマリア。更衣室を出ようとしたところで、ポルトガル人客に話しかけられてつい話が長引いてしまったと言っていた。
Summer filedのショップが閉まる時間までそれほど余裕がないので、迎えに来てくれていたタクシー3台に分乗して、すぐに出発。
しばらくぶりに見る冬の大自然の景色に、あの時の無鉄砲な自分の行動を思い出した。
Summer filedのショップはクリスマス用のプレゼントを買い求める客でかなり混んでいたが、マリアも私もあれこれと欲しいものがあったものだから、殆ど喋ることもなく店内を見て回る。ずっとここに居たいと思うくらい優しいラベンダーの香りがいっぱいの店内で、あの時、閉まっていたショップを特別に見せてくれたレオナを思い出し切なくなる。
今、ユリウスがいるこの空間に、レオナも居たのに。
ラベンダーのエッセンシャルオイルを含むキャンドルを手に取って眺めるユリウス。
このファームはレオナがつくりあげた場所だと彼に伝えたい衝動に駆られるのを、必死で押し留めた。それを言ったところで、何も変わらない。今ここにレオナは居ないし、それに、彼女が果たしてユリウスに会える状況に身を置いているかもわからないのだから。
「なんだかすごい量になったわね」
「うん……」
マリアと私はお互いのカゴを見て、苦笑した。
エッセンシャルオイルに、手作りの石鹸、ローションにキャンドル、ラベンダー入りの紅茶……
自分が欲しいものも確保したけれど、オランダのおばぁちゃんや、日本の家族、アナ、香りに拘る聡君にもプレゼントしたいと思って選んでたら、カゴいっぱいになってしまった。
突然、目の前に手が伸びて、あっと思ったら、私とマリアのカゴが一瞬で消える。
びっくりして振り向くと、ユリウスが私達のカゴを持っていて、いたずらっ子のように片目でウインクした。
「ここは私に任せてもらおう」
驚いてマリアと顔を見合わせたが、もうユリウスはレジへ向かっている。慌ててその背中を追いかけて、私達がお礼を述べると、ユリウスは嬉しそうに頷いていた。
ここでまたラベンダーの香りに包まれて、スチームルームの時のように思いつめた表情の彼を見るのではと心配していたけれど、今の彼の笑顔は決して作り物ではなかった。ここは彼にとって本当に心地いい場所だったんだろう。
それはきっと、この場所がレオナその人のように優しく心が休まる空間であったからだろう。
すっかり暗くなった草原を飛ばすタクシーの中で私は小さくため息をついた。
ここまで来て、結局、レオナには会えなかった。不在であるとは分かっていたけれど、心のどこかで、もしかして、と期待してしまっていたんだろう。私の切ない気持ちは多分、クラウスやマリア、ヨナスもわかっているらしく、タクシー内で私が無口になってしまっていても、ただ黙って見守ってくれていた。
せっかく家族が集まる特別なイベントを、暗い顔で過ごすのはよくない。ユリウスは、今までダニエラを挟み難しい関係にあった息子達との旅行をとても喜んでいるし、ニコラ達も到着したらきっと更に楽しい時間が過ごせるだろう。
レオナのことは、頭の隅に追いやって、今この過ごしている時間を大切にしようと決心する。
街はもう夜の闇に包まれて、クラッシックな雰囲気の町並みに明かりが灯り、店頭やレストランにはクリスマスツリーやデコレーションの電球が点滅してたりライトアップされたり、街中至る所がキラキラ輝いて、まるでひとつの宝石箱のようだ。ロマンティックな夜景に見とれているうちに、やがてタクシーがホテルの前に到着した。
男性陣が私とマリアの買い物や他の荷物もトランクから運び出したので、私は何か手伝うことがないかと思い、運転手に支払いをしようとしているカールに声をかけた。
「何か手伝いましょうか?」
「有り難うございます。では、これを持っていていただけますか」
カールからユリウスの薬が入っている黒いバッグを受け取った。
「じゃぁ、もう中に入ってますね」
カールにそう告げて、バッグを横に抱えてタクシーから離れ、先を歩いているマリア達の跡を追ってホテルのほうへと歩き出した。
石畳から冷気があがってくるような寒さと、吐く息の白さで、気温が急激に下がり始めているのを感じる。ドレスじゃなくて、ジーンズを穿いていてよかった!
薄暗い足下に気をつけて歩いていたら、誰かが後方からこちらへ走っているような音が聞こえ、ふと足をとめて振り返った、その瞬間。
「あっ!」
突然、背中を突き飛ばされたかと思うと、持っていたバッグを私の手からむしり取った黒い影が、視界に入る。突き飛ばされた勢いで石畳に手をついて倒れながら、その影が走り去るのが見えて、一瞬で血の気が引く。
あれは、ユリウスの薬だ!
毎日飲まなければいけないものなのに!
「まって!それは、薬なの!返してっ!!!」
すぐに立ち上がりその影を追いかけながら叫ぶ。
外国で命に関わる大切な薬を盗まれるなんて!!!
「まって!返してっ!!!それは、大切な薬なの!お願い!」
声の限りで叫ぶが、黒い影は立ち止まるどころか、建物の隙間を縫うように逃げてゆく。私も必死で走って追い続けていたけれど、最終的に薄暗い路地裏で完全に見失ってしまった。
どうしよう!!!
急に全速力で走り回ったせいで、膝ががくがくして石畳に両手をつき這いつくばる。冷たい空気の中での全速力で呼吸も乱れ、息苦しい。
泥棒を取り逃がし、完全に見失ってしまったショックと絶望で、視界が一気にぼやけて涙が溢れてくる。
油断していたばかりに、大切な薬を盗まれてしまった!
「カノン!」
背後からクラウスの叫ぶ声がした。
あぁ、なんて謝罪すれば……!
激しい動揺と申し訳なさで顔をあげることも出来ない。
「なんでことだ!」
怒りを帯びた声とともに、クラウスが石畳の上でうずくまっていた私の背を抱いて身を起こし、うなだれている私の顔を覗き込んだ。
「ごめんなさい……私の不注意で、薬が……結局、取り返せなかった……」
罪悪感に耐えきれず、わっと泣き出したいのを堪えて謝ると、青ざめたクラウスが大きくため息をして、ぎゅっと私を抱きしめた。
「ちがう!なぜ追いかけたりしたんだ!」
「えっ……」
「相手が凶器で君を襲う危険を、どうして考えないんだ!命知らずにも程がある!」
厳しい叱責にハッと我に返る。
その通りだ。泥棒を追いかけて、返り討ちにあう可能性だって十分にあった……しかも、そうなった場合は、丸腰の私に対し、相手がなにか凶器を持っていたらもう完全に太刀打ち出来ない状況になっていたに違いない。
「……ごめんなさい!」
薬を無くしただけではなく、よく考えもせず危険な追跡劇までやらかした結果に、更に強い自己嫌悪で涙がぼろぼろ落ちて来た。
「クラウス……どうしよう、薬……」
諦めきれなくて、涙で霞む路地裏の暗闇のほうを見ると、クラウスがなだめるように私の背を撫でた。
「心配することはない。近くの病院で出してもらえるように、カールがもう主治医に連絡を取っているはずだ」
その言葉に、息が止まるほどびっくりして顔をあげた。
「薬、ここで出してもらえるの?」
「もちろんだ。すぐに取りに行けるだろう」
「ほんとに!」
心の底からホッとして、涙を拭う私を見て、ようやく表情を緩めたクラウスに支えられて、ゆっくりと立ち上げる。
いきなり全速力で走ったせいか、足が吊ったようにうまく歩けず、クラウスに支えられながらゆっくり歩いて、ホテルへと戻った。知らない夜の街を、右に左にと滅茶苦茶に走り回って、よく考えたら、自分一人だったら完全に迷子になっていただろう。クラウスがしっかり道を把握していたお陰で、私達はちゃんとホテルへ戻る事が出来た。
ホテルのロビーで待っていたマリアとヨナスに、私の無鉄砲な行動をこっぴどく叱られる。執事のカールには逆に、私に薬のバッグを預けてしまったばかりに危険に曝してしまったと謝罪されてしまい、ユリウスも、事の次第を聞いてからずっと心配していたようで、無事に戻った私を見てほっとした様子だった。
近くの病院で薬はちゃんともらえることになったときいて、とりあえず安堵するも、私の軽卒な行動で皆を心配させてしまい、夜になってから病院へ薬を取りに行かなくてはならないという面倒なことになってしまった。
病院へいく前に少し食べた方がいいということになり、ホテル内のレストランへ皆で行ったけれど、とても食欲などあるはずもなく、せっかく頼んだミネストローネも、その半分も喉を通らなかった。
食事の後、車で20分くらいのところにあるという、Royal United Hospital Bathへ薬を取りに行く事になり、ユリウス、カール、そして私とクラウスが同行することになった。大型のタクシーに乗り、寒空のバースの街を走る間、自分の不注意や軽率さが招いた結果を悔やみながら、幸いにも薬がすぐに手に入ることを神様に感謝する。これが、全く違う土地で起こっていたら、そんなにスムースに薬を出してもらうことはできなかったかもしれない。不幸中の幸いといえばそうだけど、それでも、病人のクラウスに、こんな時間に病院まで出向かざるを得ない事態に陥れてしまったことが悔やんでも悔やみきれない。
もう二度と同じ過ちを犯さないようにしなければ。
深く反省を繰り返しているうちに、クリスマスらしいイルミネーションの街から遠ざかり、やがて薄暗い通りをしばらく走ると、巨大なビル群が見えて来た。どうやら、あれがRoyal United Hospital Bathらしい。
タクシーがぐるりとビルの周りを回るように走って、病院の入り口のロータリーで停まった。
頬に刺すような冷たい風に身を縮めながら、館内に入ると、中はぽかぽか温かかった。
「カノン、俺とカールが行ってくるから、君はそこで父と待っていてくれ」
「うん、わかった」
クラウスとカールが病院の受付がある建物のほうへ向かうのを見送り、私とユリウスはエントランスの近くにあったカフェテリアのほうへと向かった。
この時間だからか、カフェテリアも人はまばらでテーブルもたくさん空いている。
飲食だけではなく、入院患者と面会客の歓談の場になっているようだった。
「私達は何か温かいものでも注文して、ここで待つとしよう」
ユリウスがそう言って、にっこりと微笑んだ。
多分、夕食で私がほとんど食べていなかったことを気遣ってくれているのだろう。
「はい。注文してきますね。何がいいですか?」
「そうだね。君に任せよう」
ユリウスはそう言うと私の肩に軽く触れて、ガラス張りの窓のほうを指差した。大きな観葉植物の側にある丸いテーブル席が空いている。
「私はあちらで待ってるよ」
「わかりました」
私は大きく頷いて、注文カウンターのほうへ向かった。人の良さそうなお姉さんが、にこにこして私にメニューを見せてくれる。
ユリウスにはカフェインはダメだ。やっぱりハーブティだろうと思うのだけど、種類が豊富ですぐに決める事ができない。こういう時に自分の優柔不断さが嫌になるけれど、適当に決めたくなくて、それぞれのハーブの効能を記憶から引き出して比較しつつ、一番良さそうなものをと考えていると、ふと、懐かしい香りを感じた。
心惹かれる優しい香りに、なんとなく後ろを振り返る。
「……あっ……!」
思わず手に持っていた財布を落とし、驚きのあまり一歩、後ずさりした。
まさか。
本当に?!
私の視界の中に飛び込んで来たのは、思わぬ人だった。
その人は、身を屈めて私の落とした財布を拾い、クスッと微笑みながら私にそれを差し出した。
「まぁ……こんな所で、貴女に会えるなんて」
春の光のように温かな微笑みと、心にしみ込むような優しい声。
私が、あれほど会いたいと願っていた懐かしいあの人がそこにいた。
間違いない。
彼女はあの、レオナ・ローサだ。
驚きのあまり、体が勝手に震えだし、涙が溢れてしまう。
「あら……」
レオナが私の肩に触れて、気遣うように顔を覗き込んだ。私が泣き笑いしているのを確認した彼女は、優しい微笑みを浮かべて、カウンターのお姉さんを振り返った。
「彼女には、ホットミルクをお願いね」
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