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待ち受けていた景色

唯一無二の意味を知る時

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「……君ひとりで?」
しーんと鎮まるキッチンに、クラウスの低い声が響く。
私はこくりと息を飲み、その厳しいまなざしを見返した。
なんだろう、この私の心の中まで見透かそうとしている凄まじい殺気。眉を潜めて訝しげに私を見ている彼は、明らかにこの話の信憑性を疑っているようだ。
事実、怪しまれても仕方がないくらい、唐突な話であることは確かかもしれない。
私はこのピリピリした緊張感の走るキッチンで、ごく自然に振る舞うべくつとめて普通に笑った。
「うん、11月1日にネットでアップする予定の記事。はるの出版社のHPのコラムに載せるためなの」
これは嘘じゃないのでどもることもなく、そう答えながら朝食の食器を入れた食洗機のスタートボタンを押し、クラウスに向き直る。
彼は腕組みをして壁に寄りかかり、じーっと私の目を見ている。
射られたように視線を逸らせないのが正直しんどい。
「ベルリン情報を発信する君が、どうしてロンドン情報を集めにいくんだ?」
痛いことろを鋭く突いて来る!!!
ここまでは予測していた指摘なので、私は動揺することなく答える。
「フーゴの親友で、今ものすごく話題になっているニットデザイナーさんが特別に取材を受けてくれるの。普通はメディア取材も基本NGなんだけど、フーゴの従妹ならって特別にOKが出たから、これが日本初の独占取材記事!ううん、アジア初かも」
若干大げさっぽくなったが、きっぱり言って、自信たっぷりににっこりを笑ってみせた。
そうなのだ。
これは、本当。
あの日、フライトを検索しながら、美妃と海斗くんにUK行きの口実を考えてもらった。あれこれ二人は相談したようだが、海斗君の「UKに行かなくてはならない仕事を実際に入れたら、絶対にクラウスも了承するはず」という意見から、美妃が「UK関連のコネ」を書き出し、その中で、ロンドン筋に強いフーゴの名前があがった。早速フーゴに、「詳しい事情は今は説明する余裕はないが、どうしてもロンドンに1、2泊する理由が必要。ロンドンでお茶関係かカフェ関係で、仕事に繋げられるようなアイデアを出して欲しい」と連絡を入れてみた。そしたら、数日後に、「お茶やカフェ関係のコネは皆無。でも、親友が今注目度が急上昇中のニットデザイナーで、基本取材NGだが、頼み込めば落とせるかもしれない」と連絡が来た。ベルリンのカフェ関係の取材か、お茶屋の情報管理をメインにしていた私には、ファッション分野は全く新天地だが、今はそんなことで怯んでいる場合ではない。
早速、日本のはるにメールして、このニットデザイナーの取材が可能かもしれないが、編集部としてはどうか、と問い合わせをしてみたら、これが二つ返事でOKと来た。即、フーゴに連絡して、取材申込の取り次ぎを依頼した。3日後、そのデザイナーさんから直接メールが来て、特別に取材を受けることにしたという返事と、取材の可能日時について書いてあったのだ。
フーゴに大きな借りが出来てしまったが、とりあえず使えるコネは使ってこそなんぼだ。
「なるほどね。ニットデザイナー?」
クラウスは未だに納得しきっていない様子で私を見る。
「そう!私はまだ初心者だけど編み物にはとても興味あるし、季節的にも秋冬が本場だから、タイミング的にも今なの」
私にとって一番重要なタイミングは、編み物じゃなくてレオナ・ローサに出来るだけ早く会いたいということなのだけれど……
でも、編み物に興味があるのは本当だ!!!
「私も、時間があればもっと編み物してみたいと思うし……作品を見せてもらったりお話を聞くのも、とっても楽しみ」
本当にそう思っているので、私の言葉に怪しいところはないとクラウスも感じたらしく、大きな溜め息をついて少しだけ微笑んだ。
「わかった。いいだろう」
ほっとして私も笑顔になる。
これで疑われずにUKに行けるようだ。
まずは第一関門を突破!
「金曜日に行って、土曜日に取材して、日曜日の夜に帰って来ようと思ってるんだけど……」
「どうして二泊?土曜日に帰って来れるだろう」
「えっとね、せっかくだから、日曜日の午前中はロンドンのアンティークマーケットに行ってから戻って来ようかと……」
本当は、金曜日中に取材をして、土曜日はラベンダーファームに行くつもりなので、どうしても土曜日中にベルリンへ戻る事が出来ないからだ。
「1人で?」
「あ、違うよ。フーゴの友達が泊めてくれたり、移動とかいろいろ助けてくれるみたい」
「友達?誰?」
「誰って……名前?」
思わず声が小さくなる。
あまり聞かれたくなかったところだ。
私の様子がおかしいのにすぐ気がついたクラウスがゆっくりともう一度同じ事を聞く。
「誰が世話してくれるんだ?」
「それは……」
まるで警察で尋問されているようだ。
ここで嘘ついたら絶対に後で大変なことになる。もうすでに、UKに行く理由を半分隠している手前、嘘なんてつけなかった。というか、クラウスに嘘なんてつきたくない。
「フーゴの昔の同僚で、ビルさん……」
ぼそっと言うと、途端に憮然としたクラウスが、ぎろりと私を見た。
「男じゃないか!」
「違うっ」
私は反射的に叫んだ。
クラウスが一歩前に出て私を見下ろした。腕を組んだまま仁王立ちのその姿。容赦なく降り注ぐその威圧感で怯みそうになる。
「違うとはどういう意味だ!ビルって名前で男じゃないはずがない!」
「だから、その……聡君と同じで」
「サトシ?」
「ゲイ……ゲイのカップルで、子持ち」
「ゲイ?」
面食らったようにクラウスが呟いた。
「ゲイのカップルのお宅なの。で、ビルさんのパートナーの連れ子の8歳の娘さんもいるお宅だから、下手なホテルに泊まるより安全だし、送り迎えまでしてくれるから、市内でタクシーとか電車とか乗らなくていいし」
「……」
クラウスが苦虫を噛み潰したように渋い顔をしてしばらく沈黙した後、小さく舌打ちをした。
よく、ヨナスがするやつだ。
Noと言いたいのに、Noと言えない時。
つまり、クラウスもNoと言えなくて思わず舌打ちをしたということだ。
どうやら、お許しが出たらしい。
とりあえず第二関門も突破した!
ほっとしながらクラウスを見ていると、どうもまだ諸手をあげて賛成という感じではないようだ。
彼が心配してくれるのは勿論嬉しい。
「クラウス?何も心配することないから、ね?」
まだ腕組みをしているクラウスに近寄って、まだ渋い顔をしているその顔を見上げた。クラウスは少し黙ったまま私の顔を見ていたけれど、やがて大げさに溜め息をつき、組んでいた腕を開いて、私を抱き寄せた。
「1人で行かせるのは心配だが、来週の金曜日は俺も外せない仕事があって同行出来ない」
「うん」
それは知っている。
っていうか、クラウスが金曜日はどうしてもベルリンを離れられないと知っているから、わざとそこに予定を入れたっていう、計算づくのスケジュールだ。
私は確信犯……
ちょっぴり罪悪感を感じつつ、謝罪の気持ちを込めて彼の背中に回した手に力を込めた。
クラウスは何か考えるように私の背中を抱いて、しばらく髪を撫でたりして黙り込んでいたが、急にその手がぴたりと止まった。
なんだろうと思って顔を上げると、クラウスが何か考えついたような顔で私を見下ろしている。
「考えてみれば」
そう言いかけて、クラウスは一度黙って、それから目を細めて微笑んだ。
「しばらくニコルにも会っていない。君を紹介するいい機会だ。土曜日の夜に俺もロンドンへ行こう。そうしたら、日曜日は一緒に市内を回れる」
「えっ」
「ニコルも君に会わせろと何度も言って来ていたから喜ぶだろう」
私は焦って頭の中で土曜日のスケジュールを思い出す。
朝一番に、ロンドンからFirst Great Westernという高速電車でBathに行く。およそ2時間でBathに到着し、そこからはタクシーで20分くらいかけてラベンダーファームへ着く予定だ。つまり、片道最長3時間を見る必要がある。朝7時に出発して10時には到着。それからどうなるかその時にならないと分らないけれど、クラウスがロンドンに来るとなると、彼の到着時間から逆算してロンドンへ戻る必要がある。午後5時までにロンドンへ戻るなら、ラベンダーファームを2時に出れば間に合うだろう。朝10時から午後2時までもファームに居ることはなさそうな気もする。
とりあえず大丈夫そうだ。
そう考えてほっとして、思わず笑顔になる。
「うん、お姉さんやご家族にも会えたら嬉しい!」
クラウスのお姉さんってどんな人だろうとか、ご主人やお子さん二人のことも聞いた事しかなかったので、会えるなら是非とも会ってみたい!
「早速ニコルに聞いてみよう。恐らく、問題ないはずだ。カノン、君の帰りのフライトの便名は?」
クラウスが楽しそうにそう言うと、私の手をひいてソファのほうへ行き、テーブルに置いてあったラップトップを開いた。
クラウスは携帯でニコルへ電話を掛けながら、同時にフライトの予約サイトを開いて、私と同じフライトの空席状況を調べ始めた。
ラップトップの上を走っていた右手が止まる。
「ニコル?俺だ」
クラウスの持っていた携帯から、少しだけ声が漏れてニコルが何か言っているのが聞こえる。
「来週末、そっちに行こうかと思ってる。週末の都合は?」
クラウスがそう聞くと、何かニコルが言っていて、それにクラウスが笑って答えた。
「俺ひとりじゃない。カノンも一緒だから」
すると電話の向こうで笑う声が漏れて聞こえた。何か甲高い叫び声も混ざっているので、きっと子供達の声だろう。
「わかった。じゃぁ、また連絡する」
クラウスはそう言って電話を切り、私に目を向けてにっこり微笑んだ。
「土曜日の晩に、ニコルの家で食事をすることになったから、俺は夕方6時くらいには着く便にしておこう」
「うん!楽しみが増えて嬉しい」
「甥っ子達が電話の向こうでもう大騒ぎしていたようだ」
クラウスが苦笑しながら携帯をテーブルに置いた。
「なにか、お土産を準備しなきゃね!」
「そうだな。後で街で見てみよう」
私もドキドキしながら頷いた。
こっそりラベンダーファームに行くだけでもハラハラしているのに、今度はお姉さん家族にまで会えるなんて、たった二泊三日が盛りだくさんの内容になりそうだ。勿論、初めてのロンドンを彼と一緒に過ごせるなんていうのも思い掛けない大イベント。
「宿泊先も決めておこう」
手早くフライトの予約を終えたクラウスが、ロンドンのホテル予約サイトを開いて、いくつか候補のホテルをそのリストから選び、そのホテルの公式HPを開けた。
二人でいくつかホテル情報を見たが、どれも私が普通は見る事もしないだろう5つ星ホテルで、正直、どこも豪華でどっちがいいとかそういう比較のしようもなく、モダンかクラシックかの違い以外わからないし、どこを選んでも同じじゃないかと混乱してしまう。
「どれもすごく豪華で、私には選べない……」
「そう?まずは利便性から見て消去法で選択肢を減らしていこう」
クラウスはクスっと笑って、それぞれの公式HPのアクセス情報をさっと読み、不便そうなホテルは画面から消して行く。読むスピードも、判断のスピードも早くて、私は画面をただただ眺めているだけだ。
「ここは地下鉄TUBEの間近だし、それほど規模は大きくないがサービスもよさそうだ」
ひとつのホテルのHPをスクリーンに拡大した。
The Milestone Hotelという赤煉瓦のクラシックなホテルで、大きさもいわゆるチェーンホテルよりもっとこじんまりしているけれど、歴史感のあるとても素敵な建物だ。
ラウンジやホテルの内装の写真も、クラシカル&トラッドな英国スタイルでフォーマルなだけれど、それでいて心地よいアットホーム感に溢れている様子が伺える。
「カノン、ほら」
クラウスがジュニアスイートのページをクリックすると、数種類の部屋の写真と説明が載せてあるページが開かれた。
「プリンセス・スイート」
見れば、本当にお城のプリンセスのお部屋みたいなインテリアで統一されたお部屋もある。落ち着いたローズカラーとベージュ、ベルベット生地で統一されていた。
気品と愛らしさのある部屋だけど、さすがにクラウスが泊まることを考えるとそぐわないだろう。
「これなんかは面白い。サファリ・スイート」
壮大な大自然がテーマのお部屋で、色合いも家具もすべてナチュラルなインテリアになっていて、この部屋だけ都会を忘れさせるような雰囲気だ。
様々なテーマのジュニアスイートの写真を興味深く見ていたが、リストの一番下でふと目が止まる。
「ヴェネチアン・スイート?」
思わず声に出すと、クラウスが私の顔を見た。
「ロンドンにヴェネチア」
クラウスがクスッと笑ってリンクをクリックした。
写真には、あのヴェネチアを彷彿とさせるヴェネチアン様式のエレガントな内装の部屋が写っていた。色合いも運河と同じ深みのあるグリーンや滑らかなクリーム色、光沢を押さえたアンテーィクゴールドで統一されている。
ヴェネチアで気持ちを伝え合った時のことを思い出し、懐かしさと当時の感動が蘇ってきて、幸せな気持ちになった。
「ここにしよう」
静かな優しい声でそう言って、クラウスが私の肩を抱き顔を覗き込む。
きっと彼も、私と同じようにあの時の気持ちを思い出してくれたんだ。
ヴェネチアの思い出を蘇らせてくれる部屋。
なんて贅沢なんだろう!
あの時を思い出す度に胸が熱くなる。
戸惑いながらも嬉しくて頷いた。
手際よくホテルの予約も済ませると、ラップトップを閉じたクラウスが私を振り返り、いたずらっ子のように目を煌めかせた。
「さて、そろそろ出かけよう。今日は夕方まで予定がいっぱいだ」
「そうだね!忙しい一日になりそう!」
私は急に興奮してきて、頬が熱くなって来るのを感じた。
今日の午後は待ちに待ったアナが戻って来る!
7月後半に急遽帰国する時に、復路は余裕を持って、3ヶ月後の便を予約していたのだが、当時はその便で戻れるかわからなかったとの事。だが、この3ヶ月でお父さんの体調も安定してきて、もう大丈夫だからベルリンへ戻ればいいと言ってくれたらしい。アナは最初は心配で躊躇したらしいが、年末にまた帰国することにして、とりあえずは予定していた通りにベルリンへ戻って来ることにしたそうだ。
その連絡を聞いた時は、嬉しくて飛び上がりそうなくらいはしゃいでしまった。
私が1人で出迎えに行くつもりだったけれど、土曜日だったのでクラウスが車を出してくれることになった。よく考えたら、アナとクラウスはちゃんと会った事もなかったし、きっとアナなら予定外にクラウスが居ても喜んでくれるだろうと思い、一緒に行くことにした。
今朝はまず、例の物件を見学に行って、その後は時間があれば冬物の衣料品を見に行き、アナを空港へ迎えに行ってアパートへ送り届け、最後に食料品の買い出しをする予定だ。
外を見れば少し空がどんよりとしているので、もしかすると後で雨が降るかもしれない。
「後で雨が降るかもしれないな。暖かくして出かけよう」
同じく外を見たクラウスがそう言ったので、私も頷いた。



車はポツダム方面、Wanseeへ向かう。
ベルリンの西部、ツェーレンドルフ区に位置するヴァンゼーという湖の近くが例の物件のある場所だ。 夏は湖水浴や、ボートなどを楽しむ姿が目立つが、冬は完全凍結することが多く、スケートや、ウインタースポーツを楽しめるらしい。
車窓から見えるヴァンゼーは、生憎の天気でどんより空の下に広がる森林だけれど、そんな風景も心が落ち着く。
「オフィスまで片道15分から20分だから、アクセスもなかなかいい」
クラウスがゆっくりとハンドルを切りながら大通りの交差点を左折し、住宅街へと入る。走るスピードを少し落としながら周りの様子を見ている。
「住宅街周辺にはあまり店はないが、ツェーレンドルフ寄りに行けば賑やかな通りがある。電車もSバーンが走っているし、バスも主要なエリアへのアクセスは問題なさそうだ」
「天気が良い時や夏はサイクリングも出来そうだね」
この辺りは森林の中を走れるサイクリングコースやお散歩コースも充実していそうだ。
「いずれは君も自分で運転したほうが便利だろう」
クラウスはそう言うと、少しからかいを含んだ笑みを浮かべ、横目で私を見た。
私が運転をしたがらないのでからかっているんだろう。
「バスも電車もあるから車を運転しなくても平気。そのうち自転車を買おうと思ってるし」
自転車があればどこだっていけるし、買い物だって楽勝だ。それに健康にもいいはず。
「暖かい時は自転車もいいが、ー30度で道路が凍結したり雪道の時にはまず無理だと思うが?」
「……その時は在庫で食事を作ればいいよ。数日くらい買い物にいかなくたって大丈夫」
「時には二週間以上、外の状態が変わらないこともあるし、駅まで行くのさえ難しい時もありえる。電車が不通とか、俺が不在で運転出来ないことなど、様々な状況がが考えられる。ここは、歩いて数分でスーパーに着くような街の中心地にある物件とは全然違う住宅街だ」
「……」
私に車の運転のやる気を起こさせようとしているクラウスを、毎回かわすのも限界になり、結局根負けた感じではぁーと溜め息をついた。
「確かに、そのうち、また練習を再開したほうがいいかな……」
「その気になったか。よし、じゃぁ」
「今はやらないよ!!!絶対交代しない!」
私は慌ててクラウスにそういった。
この人なら、今、運転を交代しようとか言い兼ねない。
目を見開いて真剣にそう言うと、クラウスがぷっと吹き出した。
楽しそうに笑いながらバックミラーを見て、ゆっくりと左折する。
「俺の思考を読むのが早くなってきたな」
「そりぁもう!」
私は大きく頷いた。
「どうやら俺もまだまだ未熟らしい」
楽しそうにそう言ってクラウスが笑った。
彼はかなりポーカーフェイスが得意な方なので、時々その感情を読み取りにくい時があるけれど、私にからんでくる時のパターンには大体慣れて来て、今回みたいに先手を打つことも出来るようになって来た。以前は、うまく丸め込まれてしまってばかりいたけれど、最近はこうやって上手に逃げることも出来るようになった気がする。
うん、私も学習してる!
ちゃんと、成長してる!
自己満足に浸ってニコニコしている私を横目で見て、彼がクスクスと笑っていた。
数分、落ち葉が沢山積もっている小道を走った後、先日写真で見たあの家の前に到着した。
真っ白に塗られた壁に、赤煉瓦で縁取られた大きな窓が印象的な二階建てのお屋敷だ。三角屋根で屋根裏部屋があるようで、一番上の金色の風見鶏が目印みたいでかわいい。路肩に車を停めて、車から出ると、しっとりと湿った落ち葉の上を歩いて入り口のほうへ向かう。通路への木製の門は開かれていたので、そのまま庭内へ入って、玄関のほうへゆっくりと歩く。
「オーナーは不在だから、今日はラルフのアシスタントが中で待っているはずだ」
あたりを見渡しながら歩く。曇り空の下、湿った空気で濡れた落ち葉が芝生を覆い、やわらかな秋色の絨毯になってとても奇麗だ。時折、小鳥が枯葉をめくって木の実を探している音が、カサカサと聞こえてのどかな風情もある。
玄関の近くへ行くと呼び鈴を押すまでもなく、中で待っていた女性が扉を開けてくれた。
「Sommerfeld様、お待ちしておりました」
「ビットナーさん、よろしく」
クラウスがにっこりしてビットナーさんと握手をし、私もその後に彼女と握手をした。
ビットナーさんは60代くらいの女性で、温かそうなグレーのセーターと紺色のパンツ姿が上品な、とても優しそうなご夫人だった。胸元のグレー色の真珠のネックレスも落ち着きがあって彼女にとてもよく似合っている。
「こちらはとても素敵なお家ですよ。先ほどまで猫が走り回っていたのですが、お二人がいらしたのでどこかに隠れてしまったようです」
「ほんとに?それは残念」
私は身を屈めてあたりを見渡してみた。どこに隠れているか勘で探してみると、リビングのほうに見えるソファの後ろになにやら白いしっぽがすうっと消えるのが見えて、思わず笑ってしまった。せっかく隠れているんだから、あの辺はあまり近くに寄らないようにしてあげよう。
「さぁではこちらへどうぞ。キッチンからご覧になりますか」
ビットナーさんの案内で、玄関ホールから順番に、キッチン、リビング、バスルームと一階部分を見せてもらう。写真とほぼ同じ状態でとても素晴らしい雰囲気だ。煉瓦が剥き出しの壁の部分はとても暖かみがあったし、オーナーのこだわりの中東やトルコのインテリアや家具も見るだけで楽しい。大きなL字型のリビングダイニングにある大きな暖炉にはまだ薪はくべられていなかったけれど、そこで火が燃える様子を想像してドキドキする。暖炉の前に楕円形のペルシャ絨毯が敷かれて、その上には使い込まれたアンテーィクなロッキングチェアがった。そのロッキングチェアには赤いビロード生地の小さいクッションが置かれている。見れば、白い毛がついているので、どうやらあの白猫の特等席らしい。まだ火がついていない暖炉だけど、あの猫はここが大好きな場所なんだ。
ふと、猫のことが気になってビットナーさんに聞いてみた。
「そういえば、オーナーさんはイスタンブールへお引越される時、猫も一緒に連れて行かれるのですか?」
すると、ビットナーさんが少し困ったように眉を潜めて笑う。
「それが、今、里親探し中らしいですよ。イスタンブールには連れて行けないそうで」
「えっ、そうなんですか……」
私は思わずあの猫が隠れているだろうソファのほうへ目をやった。
猫は自分の家に愛着を持つものだ。せっかく幸せに暮らしている家から、新しいところへ強制的に連れて行かれるなんて……
ロッキングチェアの上の小さなクッションを見て、胸がちくりと痛んだ。
飼い主さんと離れるというだけでもとても辛いだろうに、住み慣れた家まで追われるなんて。
身を屈めてソファの下を覗き込んでみると、あの白猫がソファの下で箱座りしているのが見えた。暗闇で目が蛍光色に光っていて、視線はこちらを見ている。じっと見ていると、猫が小さく口を開いて、ニャー、とか細い声で鳴く。なにかを訴えているようだ。
じっと見ていると、猫が目を細めて、また口を開けた。声は聞こえなかったけれど、あの、目を細めるしぐさは、安心しているとか、信頼を求めるボディランゲージだ。
少し恥ずかしがりやのようだけど、人間は好きらしい。
かわいいなと思って微笑みながら立ち上がると、クラウスと目が合った。
「いた?」
「うん、下に隠れてる。ちょっと恥ずかしがりやさんみたいだけど、かわいい」
そう答えると、クラウスが少し考えるように黙って、それからビットナーさんを振り返った。
「猫付で譲ってもらうことも出来るということかな」
「えっ」
私はびっくりしてクラウスを見上げた。
彼は目を細めて微笑みながら私の肩を抱き寄せ、まるで私の心を読むかのようにゆっくりと言う。
「俺がいない時、怖がりの君の相手になってくれるだろう?きっと猫も喜びそうだ」
「クラウス」
驚きのあまり目がまんまるになってしまう。
「もちろんですよ。猫もこのまま新しいご家族と一緒と住み続けられたら幸せでしょう」
ビットナーさんがにっこりと微笑んで大きく頷いた。
私は思わずクラウスに飛びついて、ぎゅうっと力一杯抱きしめた。
どうしてそんなに私が喜ぶことを分ってくれるんだろう!
幸せすぎて、どうしたらいいか分らないくらい感情が昂り、何かを言いたくて愛しいその顔を見上げた。
クラウスが笑いながら私の背中を抱く。
「これで初めてペットを飼うことも決まりだな?」
「うん!ありがとう、クラウス……すっごく嬉しくて、もう、言葉が見つからない」
興奮で声がうわずる。
感動でまた視界がゆがみ、慌てて目をこすって笑うと、クラウスがにっこりと微笑んだ。
素敵なお家と、可愛い猫。
愛する人と一緒に。
私はもう一度ソファの下を覗いてみた。
白猫はまんまるな目で私を見ていたが、やがてまた目を細めた。
ちょっと恥ずかしがりやな可愛い先住猫!
私達の新しい仲間!
「さぁ、二階を見に行こう」
クラウスに手を引かれて身を起こす。
あぁ、今日は朝から興奮してしまってドキドキが収まらない。
外が曇り空でもこんなに気持ちが高揚するんだ。心はまるで春満開。
そんなことを思いながら、二階へと続くまっすぐな階段へ向かったのだった。




「さてと、思ったより時間を取られてしまったが」
一般車道から高速へと車を走らせながらクラウスが言う。
「もう、食事をする時間はない。テーゲル空港内で何か食べることにしよう」
「うん、でも、なんかものすごく興奮して、お腹が空いているのかどうかもわからない」
私はドキドキしている胸を押さえて答えた。
もう押さえてないと、暴走している心臓がぽーんっと体の外へ飛び出してしまいそうだ。
素敵なお屋敷を見学して大興奮していたというのに、これから空港でアナを出迎えるという新たなイベントに、さらにドキドキが加速して、もうじっと座っているのさえ困難だ。
あのお屋敷は本当に素晴らしくて、私にとっては夢のまた夢の世界だ。屋敷や庭を一周した後、クラウスがビットナーさんと、手付金の話や改装工事の話を始めたので、その瞬間はもう現実の世界の出来事とは思えないくらいの幸福感で失神してしまうかと思った。
「あぁ、もうどうしたらいいのかわからない」
思わずそう声に出すと、隣のクラウスが可笑しそうに笑い出した。
「今の君なら軽く100mを何本も走れそうだ」
「うん、多分ほんとに走れそう。っていうか、走りたい。心拍数が走っている時と同じくらいに早いから、座っていると落ち着かない」
私も可笑しくなって笑い出す。
この有り余る興奮とエネルギーを放出するには、思い切り走るのが一番いいに違いない。
でも、今は高速の車の中だし、外に飛び出して走るわけにもいかない。
今、絶対にコーヒーなんか飲まないほうがいいだろう。
カフェイン効果で更にハイパーになって本当におかしくなっちゃうかもしれない。
アナに会ったら話したいことが山ほどある。
でも、帰国直後のアナを捕まえて自分のことばかり話すわけにもいかないし、なんといってもアナはずっとお父さんの看病とお世話に頑張って来て疲れているはずだ。
明日は彼女の体調や予定がどうかはまだわからないけれど、近いうちにゆっくりと二人で会う時間をつくって、この3ヶ月の出来事をお互い報告しあいたい。
私はふと、アダムのことを思い出した。
丁度、サンフランシスコのイベント用に提出する作品の準備が大詰めで、明日中に完成作品を航空便で現物発送しなくてはならないはずだ。この1週間くらいは倉庫に籠って最後の仕上げにかかっていて、あまり睡眠も取れていないらしいとマリアづてに聞いていたけれど、一応、今日アナが戻って来ることだけはメールした。もしかしたら、アナから直接連絡が行っている可能性もあったけど、念のための情報共有という事と、落ち着いたらまた皆で集まろうという内容を書いておいた。
ただ、来週末は急遽私のUK行きが入ってしまったので、皆で会えるのは一番早くても再来週になっちゃうけれど……
そうなると、もう11月だ。
11月の次は12月。
12月といえば。
クリスマスがやってくる。
ベルリンも至る所にクリスマスマーケットが開かれるそうだ。もう日が暮れるのが早くなるので、夕刻からクリスマスのイルミネーションが至る所で灯って、街が美しくライトアップされるらしい。クリスマスのオーナメントやインテリア用品、ココアにグリューワイン、チョコレートやクッキーなどが並ぶクリスマスマーケット。暖かい帽子にストール、手袋を付けてクラウスと一緒に回ることを考えると、ますます興奮してくる。
冷えた息が白く、ほかほかと湯気のたつココアで暖まりながら、クリスマス一色に染まる街を歩く。あちこちから聞こえて来るクリスマスの音楽。
想像しただけでわくわくしてくる。
「今度はどうしたんだ?」
「え、どうしてわかるの」
私が違う事を考えてまたドキドキしているのが、どうしてわかったんだろうとびっくりして彼を見る。
「何度も瞬きして、手をきつく握ってる」
「あ」
見れば、私はストールを両手でぎゅうと握りしめていた。
皺になっちゃう!
慌てて手を緩め、ストールを撫でてそっと膝の上で畳む。
「あのね、クリスマスマーケットのことを考えてたの!私、行った事ないから……ベルリンに来たのは、お正月明けだったし、貴方と一緒にマーケットに行くこと考えたらドキドキして」
「クリスマスマーケットか」
クラウスが笑いながら頷いた。
「12月6日の聖ニコラウスが終れば、そろそろツリーを買う時期になって、飾り付けをしたりやることが沢山出て来る」
「ツリー?」
もみの木のことだ。
本物のクリスマスツリー。
ドキドキしてクラウスを見ると、彼も楽しそうに目を細めて微笑んでいる。
「ツリー用のオーナメントは、Sommerfeld家代々のものが沢山あるから、一部はこちらへ送ってもらうようにカールに連絡しておいたが、それとは別にクリスマスマーケットでも見てみよう。実際のところ、俺も自分でクリスマスツリーを買うのは初めてだ」
「え、初めて?」
「今年はクリスマス休暇をどう過ごすかはまだ決めていない。これまでは基本的に毎年実家のほうへ行くようにはしていたが……今年は、ヨナスもマリアの実家のほうへ行くと言っていたし、ニコルも義兄家族のところだ。正直なところ、ダニエラが居るドレスデンに行く気にはなれない」
クラウスが独り言のようにそう呟いた。
私はふと、来週のUKのことを考える。
もし、レオナ・ローサ本人に会えた時。彼女がもし、ユリウスに会ってくれると言ってくれたら。今のこのすべてが変わってしまうかもしれない。
それがどのように変わるのか。大変な混乱を呼ぶのか、想像も出来ない。
私のすることが、どう自分に返って来るのかも全く見えないという不安はある。
でも……
ユリウスの幸せに繋がることなら、危険な賭けであるとわかっていても後戻りしたくない。
ユリウスの幸せは、ひいては彼の子供達、周りの人すべての幸せに繋がるのだから。
それは最終的に、私の幸せにさえ影響する。
父が幸せなら、息子のクラウスもそれを幸せに思うだろう。クラウスが幸せなら、それは私にとっても幸せなことだ。
あの、ダニエラだって……もしかしたら、自分を束縛している向けどころのない嫉妬から解き放たれて、怒りと憎しみに捕われずに済むようになるかもしれない。私のことを更に憎むかもしれないけれど……勿論、私がそう思うからといってそれが正しいという結論に直接結びつくわけではない。
決めた事をくよくよ考えてはダメだ。いくら考えても私の決意は揺るがないのだから。
「到着予定時刻の35分前。フライトが定刻通りなら問題ないはずだ」
クラウスがそう言って視線を前方の右方向へ向ける。
テーゲル空港の管制塔が見えて来た。
「あぁ、もうドイツの上空を飛んでいるね!」
私はドキドキして窓の上を見上げた。曇り空のその雲の上をアナが飛んでいる。
車はゆっくりと減速してパーキングのほうへ入って行く。
今日は割と混んでいるようで縦列駐車スペースは空きがなく、クラウスは珍しく後方からバックして駐車した。
これも、ハンドルを一回切るだけですーっと駐車スペースのど真ん中に入る。
見事なまでの駐車技術だ。彼の場合は、ハンドルさばきも車の動きも滑らかで美しい。
さぁ、もうすぐアナが到着する!!!
3ヶ月ぶりに親友に会える!
クラウスがエンジンを消したので、ドキドキしながらシートベルトを外した。
「カノン」
「うん?」
膝の上にあったバッグを持って隣を見ると、クラウスが片手で私の肩を抱き寄せてキスした。
不意のことにびっくりして、手からバッグが落ちる。
いつになく強引で情熱的なキスに息が止まりそうになりながら、幸福感で胸が熱くなってくる。彼の熱に浮かされながら私は彼の胸に手をあてて、心臓の振動を感じた。今の瞬間も一緒に生きているんだと嬉しくなった。情熱の波に押されて、ここが空港の駐車場なのか、アパートのソファなのかわからないくらい、全意識が彼だけで埋め尽くされて夢心地になる。
しばらくして唇が離れ同時に息をついて目を見合わせた。
クラウスが少し照れた様に目を煌めかせて微笑む。
「アナのことばかり考えている様子だったが、少しは俺のことも思い出したか?」
「えっ、私はいつも貴方のことばかり考えているのに」
「そうか?さっきは完全に俺のことは忘れてアナのことばかり考えていたんじゃないか」
「違う!半分くらい」
「……半分?」
クラウスが眉間に皺を寄せて不満げに私を睨んだ。
どうやら半分じゃ不十分だったらしいと気がついて、私は少し慌てた。
「違った!100%がクラウスで、その上に100%アナだから」
「……」
イマイチ説明が理解不能になっているが、私の気持ちは伝わったのか、クラウスは呆れたように溜め息をついて苦笑した。
「まぁ、いいだろう」
「……っ、待って、クラウス」
「どうした?」
運転席のドアを開けかけた彼が振り返った。
私は思い切って両手を伸ばして彼の肩を掴むと、身を乗り出してキスをした。いきなり座席に押し付けられたクラウスがびっくりしたように一瞬目を開いた。今、こんなにドキドキと胸が高鳴っているのは、アナに会えるからじゃない。私がこれほど彼に夢中だからだ。
彼がそっと両腕を私の背に回して抱きしめてくれる。熱くなった唇で、彼の耳元に囁いた。
「愛してる」
クラウスがくすぐったそうに微笑んで頷き、ぎゅっと私を抱きしめるとちょっと掠れた声で囁き返す。
「愛してる、カノン」
そうしてもう一度抱きしめ合うと、顔を見合わせて笑い合う。
気持ちが通じ合うというのは、本当に奇跡だ。
同じくらい愛し合える相手に巡り会うチャンスなんて、一生に一回しかないだろう。
気をつけないとその相手とすれ違ってしまい、もう二度と出会うことが出来ないことだったありえる。
私は本当に幸せだ。
彼とすれ違いかけたけれど、今またこうして一緒にいることができる。
私の愛する人は、世界に1人しかいない。
さっきまでは落ち着かないくらいの興奮でどうにかなりそうだったけれど、車から降りた時は、不思議と気持ちが落ち着いて冷静になっていた。
手を繋いで空港内に入り、到着フライト案内の電光掲示板でアナの便の到着ゲートと時間を確認すると、あと20分で着陸予定となっている。
到着ラウンジのほうへ向かう途中、カフェに立ち寄り、クロワッサンサンドとカフェインレスのカプチーノを買う。着陸して荷物を受け取って実際に出て来るまで、恐らく15分はかかるだろう。
カフェのカウンターテーブルで外の飛行機を眺めながら遅めのランチを食べる。
来週は私も飛行機だ。
行きは1人で、帰りはクラウスと一緒に。
クラウスがロンドンに着く頃には、レオナ・ローサのことで何かはっきりとしたことが分っているはずだ。果たしてどういう状況になっているだろうか。
彼女に会う時に、何をどうやって話すかまではまだ分らないけれど、すべてを正直に話してみようということだけは決めている。
私が知りたいのは、彼女の今の気持ち。
そして、彼女がまだ、ユリウスを愛していたら。
そして、彼女の状況がそれを許してくれるなら。
私は二人に再会してもらいたい。
人生はまだこれから先が長いのだから、本当に愛する人と一緒に幸せに過ごして欲しい。
また二人で、ラベンダー畑を散歩してほしい。
私の身勝手な行動が、どういう結果を産むのか。
でも、絶対に間違ってはいないはずだ。
私はそう自分に言い聞かせて、隣のクラウスに目を向けた。
携帯のメールを見ながらカプチーノを飲んでいる彼。男らしく端正なカーブを描く美しい頬と、静かな煌めきを含めたグレーブルーの瞳。夏から随分と伸びてふんわりとしたウェーブが戻って来たダークブロンドの髪が、カフェの黄色いランプに照らされてキラキラと輝いている。彼の横顔は、ユリウスとよく似ている。ユリウスの真っ青な目は、ヨナスとそっくりだけど、クラウスのもの静かで落ち着いた時の表情は、ユリウスが病床で見せた物憂げな横顔を彷彿とさせるものがあった。
「UKから戻った後は、インテリアのショールームを回って、家具やキッチンを選びにいこう」
クラウスは携帯をカウンターに置いて、クロワッサンサンドの残りを食べる。
「君も自分の責任範囲を忘れていないだろう?」
「えっ、責任範囲?」
「家具、家電以外の細々したものは君にまかせると言ったはずだが」
クラウスがそう言ってちらりと私を見て、にやっと笑った。
「勿論、忘れてないよ!大丈夫」
何を根拠に大丈夫なんて言っているんだろう、と自分で呆れる。
「最初に、リストを作るから!そう、リスト」
「ほう」
「お皿でしょう、カトラリー。調理器具。タオル類に、玄関マット?庭のほうき?あっ、掃除道具一式!お花の花瓶。あれ、カーテンも?テーブルクロス?えーと、それから……」
必死で思いつくものを口にしていると、クラウスが楽しそうに頷く。
「まぁいいだろう。リストが出来たら、見てやるつもりだから」
「はい……よろしくお願いします」
そこは素直に頭を下げてお願いした。
下手に意地を張って、自分だけで手配して、肝心なものが抜けてたりしたら困る。
「さて、そろそろ行こう」
「うん!」
時間はもうそろそろ到着時間だから、ちょうどいいころだ。
私達はカフェを後にして、到着ラウンジへ向かった。
土曜日ということもあってか、出迎え客も家族連れなどが多くて思ったより混んでいる。少し後から来た私達は、出口の右手側に回って前から数列目のところに立った。
私の前が丁度家族連れで子供達だったので、視界を遮られることもなくよく見える。運が悪いと大きい人達に視界を遮られてよく見えなかったりするけれど、今日はちゃんと見える位置に陣取ることが出来た。
「フランクフルト経由だから結構疲れてるかも。この間、美妃達がヘルシンキ経由で来た時は飛行時間が短くて便利だったって言ってたよ」
「東京からフランクフルトまではおよそ12時間半くらいだろう。ヘルシンキだと10時間超くらいだろうから、2時間の違いは確かに大きい」
クラウスが頷いた。そして、私の肩を抱きながら独り言のように言う。
「来年は俺も日本に行ってみたいと思う」
「うん!一緒に行こう!見せたいところ、たっくさんあるから」
私は嬉しくて大きく頷いた。
クラウスに見せたい美しい日本。
近代的な都会から、歴史や伝統の残る美しい古都。
ドイツとは全く違う日本。
日本のパパやママにもクラウスを紹介したい。
そういうことを考えていると、またドキドキしてくる。
「そろそろ出て来たらしい」
クラウスの声ではっとして前を向く。
ファーストクラスらしき人々がスーツケースをカートに乗せて出て来るのが見える。日本から来ている人も多いのか、出て来る人の半分は日本人のようだ。思ったよりベルリンが寒いせいか、「寒い!」と声をあげている初老の日本人夫婦も居た。日本はまだ、日中は20度を超えている日もあるのに、こちらは下手したら10度に満たない日も出て来ているくらいだ。長髪の女性を見る度に、アナじゃないかとドキンとしたりして、スリル満点の待ち時間。
やがて、真っ黒なストレートの髪の、すらりとした女の子がチョコレートブラウンのスーツケースやボストンバッグをカートに乗せて出て来るのが見えた。ガラスのドアーが彼女の背後で締まると、その髪がふわりと風になびいた。
ワインレッドのハイネックセーターにブラックの膝丈のニットスカート。暖かそうなブラウンのスゥエードブーツを履いている。出口の所で立ち止まって、きょろきょろと辺りを見渡している。こちらを見たその顔が、間違いなくアナだと気がつく。黒目がちの大きな瞳と、透き通る様に真っ白の肌。ベルリンを出発した時には青ざめていたけれど、今日は、長いフライトにも関わらず、頬がほんのりピンク色で元気そうだ。
間違いなくあれは、アナだ!
両手を挙げて私は叫んだ。
「アナ!ア……っ」
突然、口を塞がれて声が詰まる。
「……!」
息が出来ない!
驚いて私の口を塞いでいる手を掴むと、クラウスが「しっ」と耳もとで厳しく囁く。
「静かに」
「え?」
一体何事なの?
わけが分らずに呆然とクラウスを見上げると、彼は私の口をしっかり手で塞いだまま、厳しい目で牽制する。
アナが探しているのに、何故呼んだらいけないの?
口を塞いでいるクラウスの手を剥がそうとしながら、アナの方を見て、私は固まった。
あれは……!?
「静かに」
クラウスがもう一度、私にそう言うと私の口から手を外した。
私は今度は自分の両手で口を覆う。
こちらのほうをキョロキョロして見ているアナ。アナは目が悪いので、普段はコンタクトをしているのだが、飛行機の時は外しているので、「到着した時は、遠くはよく見えないからカノンが私を見つけてよ」と言っていた。こちらのほうを見てはいるけれど、私の顔までは見えていないらしい。
そして、その彼女の後ろに見えたもの。
彼女のほうへ歩いて来る、アダムの姿だった。
カーキ色のパンツに、白いシャツ。ダークグレーのジャケットで、作業中に着の身着のままで飛び出して来たような感じだ。徹夜続きで疲れているに違いないのに、伸びたブロンドの前髪の向こうに見え隠れする真っ青な目は力強く輝いていて、彼が通り過ぎると周りの人がはっとしたように彼を振り返っている。以前見た時より頬のカーブがきつくなってまた少し痩せたような感じがするけれど、そんなアンニュイな雰囲気も彼らしい。
ほんの少し前に私のメールを見て、車をすっとばして来たのかもしれない。
自分の後ろに誰が近づいて来ているかも知らないアナが、キョロキョロするのをやめて、ボストンバッグを開け中から携帯を取り出そうとしている。私に電話をかけようと考えたんだろう。
冷や汗が出て来るような緊張で、アナを見守る。
アダムが、携帯を操作しようとしているアナの目の前に来た。それに気がついて顔を挙げたアナが、見上げた先に私じゃなくてアダムが立っているのを見てものすごく驚いた様子で固まった。
「あぁ……」
緊張で思わず震えた声を出してしまい、慌ててぎゅっと手で口を覆って二人を見る。
アナが目をまんまるにしてアダムを見上げたまま、硬直している。アダムがしばらく黙ったままアナを見下ろしていたが、何か一言、口にした。アナがますます目を丸くして、それから一度頷いた。もしかしたら、お父さんのことを聞いたのかもしれない。アダムがなにか安堵したような微笑みを浮かべて、何か言っている。すると、アナも少し笑顔になって頷いて、ボストンバッグの中に携帯を戻し、スーツケースの上にそれを置いた。アナがカートに手を置いて押そうとすると、アダムが手を伸ばしてカートを自分のほうへ引っぱった。するとアナがカートを引っぱり返して、二人がひとつのカートの取り合いを始めた。
「……」
思わずぷっと吹き出しそうになり口を押さえて堪えていると、隣のクラウスも笑いをかみ殺しているように目を細めて私を見下ろした。
戻って来て早々、息の合う二人だ。
アナも頑固だから、そう簡単には譲らないだろう。そう思って見ていると、案の定、アナが片手でぐいとアダムを押しのけようとした。相変わらず天の邪鬼だなぁと思っていたら、ぐいと押されたアダムがその手を掴み、あっと思った次の瞬間、彼はアナを抱きしめていた。
思わず息を飲む。
あのアダムが。
アナを、抱きしめている。
カートの前に立つ二人。
そこだけ時間が止まって、周りの人だけが右へ左へと動いている。
二人の脇をカートを押して通り過ぎる人達。
驚いて見ていると、しばらく硬直していたアナが動いて、両手でアダムを押し返した。
そして、何か怒ったように目を見開いて何か言い始めた。
アダムは黙ってそれを聞いている。
どうなっちゃうんだろう。
こんな盗み見みたいなことをしている自分もどうなのかと疑問に思い始め、落ち着かない気持ちでクラウスを見上げると、彼もそう思っていたのか小さく頷いた。
「二人のことは、二人にまかせるしかない」
「うん、そうだよね」
後ろ髪を引かれる思いで、二人に背を向けて私達はそっと到着ロビーを離れた。
なんとなく沈黙のまま歩く。
二人のことが心配だけれど、クラウスのいうように、私達外野がどうにか出来るものではないし、それこそ余計な手出し口出しをしてはダメだ。
ただ、私はアナの気持ちを知っているだけに、胸が切なくなる。
「アダムはかなり頑固なやつだから」
クラウスが唐突なことを言う。
「頑固なのはわかるよ。すごく真面目だよね」
頷くと、クラウスは少し優しい微笑みを浮かべて頷いた。
「あいつの実家は、かなりの資産家なんだ。父親は石油会社に長年勤めていたから、アダムも子供のころは親の転勤であちこち引越を繰り返したらしい。キャリアチェンジをした時も、父親がギャラリー物件を買い上げるとか、金にものを言わせてアート業界のコネを使ってアダムを売り込もうとか、様々な方法で援助をしようとしたが、アダムは一切それを断った」
「そうなの……」
すごい自立心だと驚く。
普通なら、親が助けてくれると言えばつい甘えてしまうものなのに。
「あいつは、正々堂々と人生に立ち向かうやつなんだ。俺のほうがよほど精神的には弱い」
「そうかなぁ」
「俺は、いつかは向き合う必要があると分っていたダニエラとクララの件も、長い間見て見ぬ振りをしてきて、その罰があたって危うく君を失うところだった」
クラウスはそう言って自嘲気味に笑い、溜め息をついた。
「アダムは、周りの状況の動きとは無関係に、すべて自分で考えて決めて行く強さがある。誰が何を言っても、やつの決断を左右するようなことはない」
「あくまで理性的ってことかなぁ……」
「そうだな。その証拠に、あいつが本気で怒っているのは見た事がない」
私はその言葉にちょっとヨナスを思い出して思わず笑ってしまった。
「私ね、ヨナスがあんなに怒りっぽいとは思わなくて、初めて見た時はものすごく驚いたの」
クラウスも頷いてクスッと笑う。
「ヨナスはニコルの次に感情的なやつだ。ニコルは更にその上を行っているから」
「そうなの?お姉さんが?」
「怒るとそれは恐ろしい姉だ。昔、俺とヨナスがニコルのテニスラケットにイタズラしたことがあった。気づいたニコルが激怒して、俺達に向かってものすごい勢いでラケットを投げて、避けたらそれがガラス窓を直撃して破片が飛び散ったことがある」
「ええっ」
それはすごい。
本気で驚いていると、クラウスがじっと私を見て、低い声で言う。
「カノン、ロンドンでこの話はしないように」
「ロンドンで?」
「怒ると手当たり次第ものを投げて来るやつだから、俺も逃げようがない」
真剣な顔でそう言うクラウス。本気で言っているらしい。
「わ、わかった」
可笑しくなって笑いをかみ殺す。
クラウスの姉兄はとっても面白い人達のようだ。ニコルに会うのがますます楽しみになってくる。彼女とヨナスの母親は同じ女性だから、性格が似ているのも不思議はないだろう。
駐車場に行く途中でカフェに寄り、ミネラルウォーターのボトルを二本買う。
車に乗り込んで、ふとあることに気がついた。
「一応、アナに連絡を入れておいた方がいいかな」
私は携帯を取り出した。
私が迎えに行くと約束しているのに、現れないのも変だろう。
「万が一、あのまま到着ロビーで待っていたら困るし」
そう言うと、クラウスが頷いた。
SMSで短く、「アダムが代わりに行くみたいだから、また後で連絡するね」とだけ書いて送った。私達が空港に居たかどうかはわからないような、微妙な書き方になったが仕方が無い。
クラウスがエンジンをかけて、ゆっくりと駐車場を走り始めた。混んでいてかなり奥に停めたので、ぐるりと回って出るしかない。
カート置き場を通り過ぎたところで、丁度バックで出て来る車にあたり一時停車する。のろのろとバックしているその車から目を逸らしてふと見た方向に、あの二人の影があり、思わずクラウスの手を掴んだ。
クラウスが私の視線の先へ目を向ける。
車のトランクを開けて、アナの荷物を入れているアダムが見えた。
隣に立っているアナの様子がさっきと違うので、何が違うのかと思ってよく見たら、アダムのダークグレーのジャケットを肩に掛けていた。
荷物を入れ終わったアダムがトランクを締めると、アナが何か言ってアダムを見上げた。こちらからアナの表情は見えないけれど、アダムが目を細めて笑っているのは見える。
さっきはケンカを始めたかと心配したけれど、どうやら大丈夫だったらしい。
ほっとしていると、すっとアナがアダムに近寄って、二人がごく自然に抱き合ったのでドキリとする。
その瞬間、私が乗っている車も動き出す。
ゆっくりと彼らの隣を通り過ぎて行く。車内からは彼らの表情は何も見えないけれど、二人がお互いの背中を大事そうに抱きしめている様子が車窓から見えた。
胸の中が温かく幸せな気持ちでいっぱいに膨れ上がるのを感じる。
駐車場を出ると、どんよりしていた空は奇麗な夕暮れに変わっていた。
天空の海原に広がるオレンジ色の長い雲。風がないせいか、まるでそれは美しい油絵のようにくっきりとした線を描き、力強く神々しい風景だった。
「アダムが何かを決めたということらしいな」
クラウスがそうぽつりと言うと、私のほうを見てにっこりと嬉しそうに微笑んだ。
私は大きく頷いて彼に微笑み返した。
人は誰でも幸せになりたいと思っている。
手を伸ばせば届くという幸せを、タイミングを逃したまま永遠に掴めないなんてこともありえなくはない。
でも、その幸せを掴むチャンスが、一生に一度きりのものだとしたら。
その人が、自分にとって唯一無二だと分っているのなら。
逃さないで欲しい。
幸せを追うのは、生きているもののとって当たり前の事なのだから。
私はアナの幸せを想って、大きく深呼吸した。
大好きなアナ。
そして大好きなアダム。
二人の笑顔が、永遠でありますように。
そう心の中で神様に祈りながら、私は美しい夕焼け空を見つめたのだった。
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