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誤った結び目を解く方法

深まる秋のメリーゴーランド

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土曜日は昼前から、美妃と海斗くんを連れていわゆるショッピングセンターなど観光客が集まる場所へ案内した。こちらでしか購入出来ないバッグやデザイナーの服があるとかで、もともと計画していた買い物ツアーだったのだけど、美妃が散々買いまくったものを海斗君が文句も言わず、両手いっぱい運んでいてなんだか可哀想になる。まるで美妃の保護者みたいな存在かもしれない。でも、美妃が駅前広場のスタンドで買ったホットドックを持って、手が塞がっている彼に食べさせているところを見ると、二人はいつもこんな感じなのかなと納得したりした。

日曜日は朝からボートツアーに繰り出し、その後は歴史的建造物の観光地をはしごした。
ボートツアーはフーゴが夏に来ていた時に乗ったのと同じ業者のものを選んだけれど、今回は、肌寒い風に吹かれて、温かいカフェラテやココアを飲みながら景色を楽しむという、全く雰囲気が違った時間だった。紅葉の中に佇む古い煉瓦の建築物や、冷たい風に吹かれる斬新な現代的ビルを眺めるのもまた印象的で、美妃が何枚も写真を撮っていた。
クラウスは丁度その週末、ヨナスと一緒に何か大きなプロジェクトに取りかかる準備で、両日とも観光には同行出来なかったけれど、その晩は、クラウスのアパートに、ヨナスとマリア、アダムも来てくれて皆でピザパーティをした。
マリアとヨナスがピザの生地やらトッピングを買って来てくれて、ヨナスとクラウスがどんどん生地に材料を乗せて行き、アダムがオーブンに入れて焼き加減をチェックしてくれる。私がサラダを作っている間、マリアが美妃と海斗君の相手をしてくれて、リビングのほうは笑い声が絶えなかった。
アダムがフーゴが来ていた時の話をしたので、美妃がものすごく喜んでいたし、マリアがやたら海斗君を気に入って無理矢理ダンスミュージックに引っ張り込んだりと、久しぶりにお祭り騒ぎで盛り上がる。
クラウスとヨナスがチェスの勝負を始め、途中から海斗君も参加。その横ではプレステのゲームでマリアと美妃が奇声を発して大騒ぎして、ノンストップの楽しい時間はあっという間に過ぎて行く。私はアダムとダイニングテーブルでラップトップを開いて、フーゴがプロデュースしているサンフランシスコのアートイベントプロジェクトの進行状況を教えてもらったり、また、今後の私の取材記事の予定や、出版社のHPに載せるコラムについても相談に乗ってもらった。
久しぶりに大勢で過ごす時間が楽しすぎて、このパーティをまだまだ終わりにはしたくなかったけれど、翌日は私も学校があったし、ヨナスとクラウスは月曜日から一泊二日でライプツィヒのほうへ出張の予定があったので、夜中の1時にはお開きとなる。
ヨナスはクラウスと出張のことで少し打ち合わせたいと言ったので、アダムが、美妃と海斗君をアパートまで送り届けてくれることになり、玄関で彼らを見送ってリビングへ戻ると、マリアはすっかり疲れてソファーでうたた寝をしていた。
キッチンのダイニングテーブルに、ヨナスとクラウスが各自ラップトップと資料を広げ始めたので、二人にカモミールティを作ってテーブルの隅に置き、キッチンの食洗機をセットし終わったら、急にどっと疲れが出る。
ルームウェアに着替えた後、ソファーで寝てしまったマリアのことを思い出し、予備のブランケットを持ってリビングへ戻る。気持ち良さそうに寝息をたてているマリアにブランケットをかけたら、つい自分もフラフラとその隣に横になって目をつぶってしまう。こういう雑魚寝状態は、学生以来かもしれないと思いながら、ものすごく幸せな気持ちでそのまま眠ってしまった。
月曜日、アラームで目が覚めた時にはきちんとベッドで寝ていたので、クラウスに聞いたら、2時くらいにヨナスが熟睡しているマリアを抱えて帰り、クラウスが私をベッドに運んでくれたということだった。
お酒を飲んではいなかったにも関わらず、二日酔いのようにぼうっとしながら、先にシャワーを浴びて朝食の準備をする。クラウスも5時間弱しか寝ていないし、昨晩はワインを飲んでいたせいか、若干眠そうだけれど、私が朝食のテーブルを準備していたらきちんと目が覚めた様子でリビングへ入って来た。
すっかり秋らしい装いのクラウス。
滑らかなフランネル生地のグレーブルーのパンツに、ネイビーブルーのシャツを着て、上にチョコレートブラウンのタイトなレザージャケット。イタリアのCORNELIANIのものだ。クラウスの仕事用のクローゼットを整理をしていた時に見たので覚えている。こういうグレーやネイビーブルーは本当に彼に似合うし、クラシックでとっても高貴な感じがして、実年齢よりも大人びて見える。仕事の時は意識して大人びた雰囲気を作るようにしているようだ。
「おはよう、カノン」
ミニサイズのロールキャベツをお鍋で温めていた私のところに来て、いつものように後ろからぎゅっと抱きしめてくれる。
「おはよう」
もしかしたら一日で一番胸がときめく瞬間かもしれない。
今日も彼と一緒に居るんだと自覚出来るから、朝に彼を見ると幸せな気持ちでいっぱいになる。
嬉しくて笑顔で振り返ると、彼が身を屈めてキスをする。爽やかなシャンプーの香りが鼻をかすめた。
いつもの、一日の始まり。
それは、愛する人と一緒に迎える幸せな朝。
クラウスがお鍋を覗き込もうとしたので、お鍋の蓋を開けてみせると、もわっと温かい湯気があがって一瞬視界がぼやける。
「今日は和食じゃないの」
お鍋の中には、サボイキャベツで作ったロールキャベツがコンソメベースのスープの中でふわふわに膨らんでいた。
「朝から温かい食事だなんて贅沢だ」
クラウスがにっこり微笑んでくれる。
日本文化的には、時間があれば一日三食、温かいものを食べたいけれど、欧米ではどうやら一日に一回、温かい食事をするのが普通らしく、後の二回は、サンドイッチなど手軽なものを食べるらしい。クラウスの父の病気の件があってから、私はなるべく和食を作るように心がけるようになったけれど、和食は食べるのに時間がかかるから、忙しい朝はやっぱり簡単なパン食にスープを付けるくらいになってしまう。
今朝は、ストックしていたミニサイズのロールキャベツを冷凍庫から出して温めて、人参入りのロールパンを合わせる。
クラウスがコーヒーの準備をしながら、冷蔵庫からカット済みのメロンを出してくれた。
夜明けも遅くなって最近は7時半過ぎてようやく外が明るくなってくる。
ピンク色に染まり始めた空を見ながらの朝食。
「今晩、君はここに1人だが、もし落ち着かないからミキ達を泊めるとか考えてみたらどうだ?」
人参ロールを半分に切って、バターを塗りながらクラウスがそう聞いて来た。
心配してくれるのが嬉しくて、ちょっぴり照れてしまう。
「うん、ありがとう。でも、大丈夫だよ!シナモンをベッドに連れて行くし」
ソファに座っているテディ・ベアのシナモンに目をやってそう答えた。
正直なところ、クラウスがいないこのアパートがどんな感じなのか想像出来ないので、どれほど寂しくなるのか見当もつかない。でも、一晩くらいは大丈夫なはずだ。いや、28歳にもなって、1人でいることが大丈夫じゃないと逆におかしい!
己を叱咤激励するつもりでじっとコーヒーカップに映る自分を見ていたら、クラウスが小さく笑いをもらした。
「そんな怖い目でコーヒーを睨んでいるのは、どういう意味なんだ?」
「睨んでない!弱音を吐かないようにって自分に言い聞かせてただけだから」
見られていたのかと恥ずかしくなって、ごまかすつもりで笑うと、クラウスがにやにやと何故か嬉しそうに微笑む。
「そうか。やっぱり寂しいということか」
「それは……それはもちろんそうだけど」
痛いところを突かれた感じで思わず声が小さくなるが、本当のことなので強がるのも変だ。
「結局、自分のアパートに住まずに貴方のアパートに転がり込んでしまって、すっかり甘やかされちゃった気がする。貴方に依存しすぎて、ほんの少しも1人でいられないなんてことになったら大変だから、そういった意味でも、こういう機会は大事かもって思ったりして」
「なるほど」
クラウスは小さく頷いて優しく微笑んだ。
「電話を入れるから」
「うん!」
私は笑顔で大きく頷いた。
食事を終えてお皿を片付けていると、表でクラクションの音がした。あれは、ヨナスだ。
私は運んでいたお皿をシンクに置くと、荷物をまとめているクラウスの側に行く。彼がラップトップや資料をまとめているので、先に訪問先へのお土産が入った紙袋3つを持って玄関に向かう。
玄関を開けると、下のほうに止まっているベンツのトランクを開けているヨナスがこちらを見て手をあげた。
「カノン、おはよう」
「おはよう、ヨナス」
ヨナスもあまり寝ていないはずだが、こちらもすっきりとした感じだ。オリーブグリーンのレザーパンツにブラックのタートルネック、チョコレートブラウンのストールと完全に秋色で、まるでファッション雑誌から出て来たような装いだ。ヨナスはやはりクリエイティブな仕事をしているせいか、クラウスよりカジュアルな服装をすることが多い。
「訪問先への手土産のチョコレート」
紙袋を差し出すと、ヨナスがにっこりして受け取りながら、私の頭を撫でた。
「マリアはまだ寝てたけど、カノンは早起きだね」
「うーん、まだ眠いよ。でも、私も学校あるしね」
「早寝早起きなんだろう?もともと夜型だったクラウスまで最近は夜の11時以降は電話に出なくなった」
ヨナスがそう言って笑っていると、クラウスが階段から下りて来た。
前を開けたチョコレートブラウンのレザージャケットの隙間に、マジョリカブルーのストールが見えて、つい頬が緩んでしまった。
あれは、私がクラウスにあげた彼への誕生日プレゼント。
誕生日の贈物をどうしようか悩んでお店を回っていた時に、手芸屋さんで見つけたマジョリカブルーのシルク糸。クラウスの目の色と同じ、グレートーンが入った美しい藍色に一目惚れした。お店の人に聞いたら、細い色を何本もゆるめに撚り合わせてあるので、空気をふくんだようにふんわりと柔らかく、夏場では涼しく冬では暖かい素材とのことだった。この糸には細かい模様編みが美しい仕上がりになるからと、編み方の説明をわざわざコピーして、更に手書きのコメントまで書いてくれてたので、それを確認しながら、クラウスが居ない時に少しずつ編んだものだった。細いシルク糸だったから細かく編んでいくのに思ったより時間がかかったけれど、出来上がったものは、美しい光沢が出て手触りも絹らしくとても滑らかだった。編み目の模様が作るマジョリカブルーの陰影がとても高貴な印象を作り、あのお店の人のアドバイスが本当に的確なものだったと心から感謝した。
本当はオランダに行って誕生日のディナーの時に渡そうと思っていたけれど、急遽ミュンヘンに行くことになってしまい、実際に渡せたのは誕生日の数日後ではあったけれど、クラウスはとてもびっくりしてものすごく喜んでくれた。
たった一日離れるだけのことだけど、こうして私が編んだものを身につけてくれるだけで、私の心が彼の側にいるような気がしてとても嬉しくなる。
私がシナモンを抱いて寂しさを紛らわすように、彼がストールを目にして私のことを思い出してくれるといいなと思う。
荷物をトランクに入れたクラウスが、にっこり微笑んで私をぎゅっと抱きしめた。
「後で電話する」
「うん」
私もぎゅっと抱きしめ返して、つかの間の別れを惜しむように彼の目を見つめた。
私が大好きな、澄んだ瞳がまっすぐに私を見ている。
一日中見つめていても飽きないくらい美しいその目に、笑顔の自分が映っていた。
「さぁ、切りがないからもう行くぞ」
からかうようなヨナスの声にクラウスが苦笑して、私の額にキスを落とすとすぐに車に乗り込んだ。
「いってらっしゃい!」
エンジンがかかった車から少し距離をとって、私は両手を振った。
運転席、助手席の左右の窓から彼らが挙げた手が見えて、思わず笑ってしまう。息が合う兄弟だ。
車がアパートの敷地を出て見えなくなると、私はひんやりする空気の中で大きく深呼吸をする。
さぁ、そろそろ学校に出発しなきゃ!
駆け足で階段を上りながら、明日、クラウスが帰って来る時の夕食は何にしようかともう考え始めてしまったのだった。





火曜日。
無事に1人で一晩過ごせてほっとしながら学校へ登校。
昨日は、クラウスが居ないこのアパートで夜1人で平気だろうかと正直不安に思っていたら、夕方、美妃と海斗君が、ディナーを一緒に食べたいと連絡があった。結局、その夜は市内に出かけて3人でシュニッツエルを食べた。二人は昨日、ポツダムのほうへ遠出して、ベルリンの宮殿や庭園など、18世紀から20世紀の建築物などの文化財を見て来たらしく、食事の後にはデジカメの写真もたくさん見せてもらった。帰宅したのはもう夜の10時で、11時前にクラウスと電話で話した後は前夜の睡眠不足もたたっていたのか、あっという間に眠りに落ちていた。
今朝は、クラウスに約束のモーニングコールを入れてから登校した。
今晩は9時前くらいになるけれど、夕食はアパートで取るとのことだったので、白身魚ときのこのオーブン焼きを作ることにした。ついでにプリン用のココットで茶碗蒸しも作ろうなどと考えて、学校のランチ休憩の時に、買い物リストを作った。
学校が終ってすぐにお茶屋のバイトへ向かう。
秋晴れで少し肌寒くなり、もう少ししたら今着ているような薄手のコートではなくて、防寒用の分厚いコートを着なくてはいけなくなりそうだ。
今着ているKenneth Coleのバーガンディカラーのコートはもう5年くらい着ているお気に入りの一着。ウエストは割とタイトなAラインで、大きめの襟、ダブルの合わせ部分には光沢を押さえたゴールドのボタンが6個。フロントの合わせ部分の裾がゆるやかな楕円の形にカットされ、まるで薔薇の花びらのように広がっていて、ネイビーブルーのジーンズやロングブーツと合わせてもカジュアルに成り過ぎず、ちょっとNYっぽいモダン・クラシックな感じがする。
今日はお茶屋のご主人はティーセレモニーのクラスがあるので、奥の部屋で生徒さんとレッスン中。
ネット注文の処理をしたり、伝票のチェックをしている時に、ふと外に目をやると一匹のダルメシアンが通り過ぎるのが見えた。
ベルリンの犬の総頭数はかなりだと思う。
大型犬から小型犬まで、1人で2、3匹連れている人もよく見かけるし、カフェや小さな個人商店などには看板犬みたいに入り口でお客様にしっぽを振る犬もいる。窓辺に寝っころがっている猫達を見ることはよくあるのに、道ばたで猫を一切見かけないのが不思議なのだが、もしかすると、猫は基本的に室内飼いと決まっているのかもしれない。
それに比べ、犬達は自由奔放な生活をしている気がする。躾がきちんとされているのか、リードなしで散歩している犬も多くて、ちゃんと信号の前で待機し、飼い主が「渡れ」と指示するまで動かないくらい、ちゃんと言う事を聞く。それに、吠えたりする犬も殆ど見ない気がする。
お茶屋に看板犬?
ちょっと考えてみて、いや、やっぱり猫だろうと考え直す。
何故だろうか。やっぱり、畳がある場所には、猫が似合う。
このお店には猫は居ないけれど……
やっぱり、看板犬より招き猫?
三毛の日本猫がこのレジの隣に置かれた座布団に寝ている姿を妄想してちょっとにやついてしまう。
お茶屋にはやっぱり猫がぴったり。
クラウスが、いつか動物も飼ってみたいと言っていた。なんでも、今まで一度も動物を飼った事が無いらしい。金魚や鳥さえ飼った事がないらしいのに、逆に所有しているのが馬、というのがびっくりだ。ただ、特にペットというわけではないらしく、Sommerfeld家が所有している田舎の牧場に放牧されている馬や鶏がいるということだった。子供の時にはそこへ遊びに行って、彼らも乗馬をしたりしたこともあったらしいが、もう最後に行ってから随分時間が経っており、その時に居た馬達が今も生存しているのかさえわからないらしい。
私は動物園のロバに乗った記憶しかないので、本物の馬に乗った事がないと話すと、春にでもその牧場へ行ってみようとクラウスが言ってくれた。まさかとは思うが、牧場でクラウスのスパルタ乗馬レッスンを受けることになったらとドキドキするが、動物と触れ合うのは大好きなので、例えスパルタコーチにしごかれることになっても行きたいと思っている。
そんなことを思いめぐらしているうちに、閉店の時間になる。
奥ではレッスンが続いているが、いつも通りレジを閉めて、ドアのサインも「閉店」に代える。
本日来店されたお客様からの伝言などを1枚のメモにまとめて、レジの下の引き出しに入れてから、身支度を整えて店を出る。
表に出て外からお店の鍵を掛けておく。生徒さんはご主人が裏口から帰すので、誤ってお客さんが閉店後のお店に入らないように、私が帰る時に合鍵で施錠することになっている。
きちんと鍵が締まったことを確認してから、鍵をバッグに入れてお店に背を向け、駅の方へ歩きだした。
後方から、スケボーの車輪の音が聞こえたので、よけようと思って歩きながら端に寄ると、真後ろでガッとなにかひっかかるような音がしてスケボーの車輪音が止まった。
思わず立ち止まって振り返り、あっと息を飲む。
真っ黒い前髪の向こうに見えた、真っ青な瞳と目が合った。
真後ろにいたのは、エミール。
丁度スケボーを片手に抱えて身を起こすところだった。
「エミール?!」
こんなところで、こんな時間に何をしているんだ?!
まさかとは思うが、私のバイトの時間を狙って来たとかいうわけだろうか?
呆然としていると、エミールがグレーのパーカーのフードを片手で被りながら、平然とした様子で笑って、そしてちらりと後ろを振り返った。
「ソフィ」
なんだろうと思ってエミールの後ろを見ると、さっき窓から見たダルメシアンがしっぽを振り振り前に出て来た。ソフィはちぎれるようにしっぽを振ってエミールを見上げている。エミールは身を屈めソフィの首を何度か撫でると、私のほうを見て言った。
「ソフィ、彼女がカノンだ」
すると、ソフィがまっすぐに私を見ると、突然エミールのパーカーのポケットに鼻を突っ込み、そこからリードの束をくわえて、私のほうへやってきた。
「えっ?」
驚いてソフィを見ると、彼女はちぎれるようにしっぽを振って、くわえたリードを私の手に押し付けてくる。
「これ、あの、ちょっと」
困っていると、ソフィが悲しそうな目をしてくぅーん、くぅーんと鼻を鳴らし始めた。
「駅まで付き合うくらいいいだろ?ソフィも誘っているんだし」
エミールがそう言って、ソフィの口からリードを取ると首輪に繋げ、持ち手を私に差し出した。
「でも」
ここで散歩に付き合っていいものかどうか迷う。
相手がエミールだからだ。
これも、彼が計画したものだと思うと、思い通りに動かされるのもシャクだし、でも、たかが犬の散歩くらいで自意識過剰になるのも変かもしれない。
迷っていると、ソフィが私の目の前でお座りをして、まっすぐに私を見つめた。つぶらな真っ黒な瞳に見つめられ、その愛らしさに心を動かされる。結局押しつけられたリードの持ち手を持ってしまう。
私がリードを持つのを見た瞬間、ソフィが立ち上がり、激しくしっぽを振る。
かわいい!
かわいすぎる!
思わず頬が緩んでソフィの頭や首を撫でると、彼女が嬉しそうに更にしっぽを振った。
「かわいいね。ソフィ、何歳?」
「3歳。こいつは頭がいいんだ」
エミールが自慢げにそう言ってソフィの背中を撫でた。つやつやした白い毛に黒い斑で、本当に101匹ワンちゃんのダルメシアン。ベルリンに来てダルメシアンを見たのは初めてだ。
ゆっくりと歩き始めてみると、ソフィはちゃんとこちらの速度に合わせて、隣にぴったりついて歩く。時々こちらを横目で見上げて確認する仕草がかわいい。きっとかなりIQが高い犬種に違いない。
犬を飼った事がない私には犬の散歩なんて珍しい経験だった。
「ちょっと待って」
後ろから聞こえたエミールの声にまずソフィが立ち止まり、そして私も立ち止まる。
ちょっと後戻りしているエミールを見て、それから私はまたソフィを見た。さすがに、自分のご主人様に神経100%を向けているらしく、目の前で自分を見つめている私なんか全く目もくれず、後ろにいるエミールを凝視している。すごい忠誠心だなと感心しながら、ソフィの頭を撫でてみると、彼女はちらりと私を見上げて一度しっぽを振り、それからまた後ろにいるエミールのほうをじっと見ている。
犬って、こんなにご主人様一筋なんだ!
猫はどちらかとうと人間が下僕になってしまうので、猫様のご機嫌を伺いながら触らせてもらうくらい、立場逆転だけれど、犬は本当に主従関係がはっきりしているらしい。
けなげなソフィの姿に感動していると、彼女がしっぽを激しく振り始めたのでエミールが戻って来たのかと思って振り返る。
「ラテ」
目の前にコーヒーカップを差し出される。
「えっ、いいよ、そんな」
慌てて断ろうとすると、エミールがむっとしたように私を睨んだ。
「俺にラテをふたつも飲めっていうわけ?」
「そういうわけじゃないけど……」
見れば、小脇にスケボーを抱え、両手にラテを持っている。
「じゃぁ……いただきます……ありがと」
断りきれずにひとつ受け取ると、エミールが勝ち誇った様な微笑みを浮かべる。真っ黒な睫毛が上下して、奥の青い目がきらりと輝く。
私はちょっと苦々しい思いでそのラテを一口飲んだ。
ほんのり甘くて、その味がソイミルクのラテだと気がつく。
私がソイミルク派だって何故か分っていたらしい。
ちらりとエミールを見ると、私の考えた事を見透かしたような微笑みを浮かべ、自分もラテを一口飲んだ。
この状況はまずい気がする。
完全に、エミールが考えた通りに動かされている気がする。
8歳も年下のこの子に、シナリオ通りに動く人間だと思われるのも気に食わない。
この勝ち誇った様な微笑みがなんだか悔しいなぁ、と思って眉を潜めて彼を見ていたら、ソフィが私の手をぺろりと舐めた。
「あっ、ごめんね」
立ち止まったままだったのに気がついて、慌ててまた歩き出す。
ソフィを挟んで駅のほうへ続く通りを歩く。
「今晩はまたあのクラブなんだ。1人、留学するやつがいるから、そいつの歓送会」
「ふうん」
唐突な話にびっくりしながら相づちをうつ。
年齢的にも交換留学とかそういうやつかもしれない。
あのド迫力のガードマン達が立つクラブの入り口を思い出していると、エミールが話を続ける。
「もう二度と会えないかと思ったら、まさかじいさんの行きつけのお茶屋にいるなんて驚いたよ」
「それを言うなら、こっちもびっくりだったんだけどね」
まさかお得意様の孫だとは、本当に仰天だ。
「こういうのって、やっぱり理由があるんじゃないかと思ってさ」
「理由?」
何を言い出すつもりだ。
横目でエミールを見上げると、彼はまたあの挑発的な強い視線をこちらに向けて、楽しそうに笑った。
「もう一度チャンスが来たってことだろ。俺は、君がもっと知りたい」
「……」
単刀直入に言われて面食らう。
正直というよりは、潔いというか……
こんなにシンプルに考えていることを言われたら、やっぱりきちんと返事をしなければいけない。
私は立ち止まって、それからまっすぐにエミールを見上げた。
「あのね」
私が続きを言おうとしたら、エミールがそれを遮った。
「知ってる」
何を知っているというんだろう?
びっくりしていると、エミールはくすくすと笑いながら私の顔を覗き込んだ。
「この間のあいつが彼氏なんだろ?」
「え……あ、そ、そうなんだけど」
なんだ分っていたのか。
気が抜けてほっとしながら頷くと、エミールが楽しそうに目を煌めかせた。
「別に気にしてないから」
「?」
「彼氏がいようといまいと、俺には関係ないことだから」
意味がわからなくて面食らっていると、エミールが突然、リードを持っている私の手を掴んだ。
「だからって君を諦める理由にはならない」
「えっ?」
驚いて固まる。
目の前には、闘争心剥き出しで活き活きと輝く目をしたエミール。
その目を見てはっと気がつく。
フーゴもそうだった。
困難にぶちあたるとそれに立ち向かい続けるタイプ。
私に恋人がいると知って、逆に闘争心を煽ってしまったのかもしれない!
彼がいるとはっきり言って分ってもらおうとしたのに、それが裏目に出て完全に逆効果になってしまったと気がつき呆然とする。
フーゴのことをよく知っている私としたことが、初歩的な間違いをしてしまった。
失敗に気がつき動揺のあまり固まっているとエミールが私の手をぎゅっと握りしめたので我に返り、慌ててその手を振りほどいた。
なんで気がついたら手を握っているんだ!
「あのね、そんな勝手なこと言われてもすっごく困るから!」
「俺、別に困らせることはしないと思うけど?ソフィの散歩、結構楽しんでるじゃん」
私の文句も何処吹く風とばかりに明るく笑っている。
ソフィを例に出されても困る。
動物を利用してくるという時点で困っているのに、と思い溜め息をつくと、何やら勝ち誇った笑みを浮かべたエミールが言う。
「ソフィも人の好き嫌いあるんだけど、君のことは気に入ったらしいね」
「……そうかな」
気になってソフィを見ると、彼女がちらりと私を見てしっぽを振る。
まるで、人の会話を全部理解しているようだ。
いや、理解しているのかもしれない。
昔飼っていた猫のシナモンも、猫だってことを忘れるくらい私の気持ちもわかってくれたし、言っていることも理解していた。
どちらかというと自称猫派だけど、犬もとても可愛い。
ダルメシアンがこんなに大型の犬だとは間近に見て初めて知ったけれど、この大きな猟犬のような体格にも関わらず、性格はとっても柔和らしい。
ソフィの歩き方もとても無駄がなく、こちらとぴったりスピードを合わせてくれるし、私が立ち止まると何も言わずともぴたっと立ち止まる。
以心伝心というよりは、彼女が、リードを持っている私の動作を敏感に読み取っているからだろう。
ソフィの様子をじっくり観察しながら歩いていたら、もう駅前に着いていた。
「さてと、ここまでか」
エミールが私が差し出したソフィのリードを受け取った。
ほっとしながらソフィに目を向けて、一度頭を撫でる。
ソフィがゆっくりとしっぽを振って私をじっと見上げている。
真っ黒なつぶらな瞳!黒水晶の目が愛らしい!
彼女は本当に、本当にかわいい。
その飼い主はちょっと可愛げないけれど……
「……それじゃ」
一応エミールに目を向けてから、駅の構内へ入ろうと背を向けたら、彼の明るい声が追って来た。
「じゃぁまた、カノン」
……じゃぁまた?
いや、もう来なくていいから!
そう言おうとパッと振り返ったら、もうスケボーに乗って向こうへ去って行くエミールと、その後を追って走るソフィの姿が見えた。
言いたい事だけ言ってさっと姿を消すというのがずるいやつだ。
そういうところがやっぱり子供だな、と思ってつい笑ってしまう。
私には弟はいないけれど、弟がいたらこんな生意気な感じなのかもしれない。
エミールも、きっとあまり真面目に向き合わずに適当に流しておけば、きっと自然に飽きて離れていくような気がして、あまり深く考えるのはやめることにする。
気分を切り替えて駅のプラットホームへ向い、丁度ホームに入って来た電車に乗ると、バッグから買い物リストと出し、ついでに携帯をチェックする。
クラウスからSMSが入っていた!
帰宅が少し早まって夜の8時くらいになるらしい。
そうなると、買い物をして急いで帰宅して料理を始めなければ!
ウキウキした気分で短い返信を送って、携帯をバッグに戻して買い物リストをコートのポケットに入れた。
たった一日、離れていただけなのに、こんなにドキドキするくらい嬉しくなる。あと二つ先の駅で下車するのに、何故だかもう座っていられなくて立ち上がってしまう。扉のガラスに反射して映るご機嫌な自分を見て、つい苦笑してしまったのだった。



予定通りに帰って来たクラウスと夕食を済ませて、いつものようにリラックスする時間になると、彼が書類が入っていたケースからiPadを取り出しソファにひっくり返った。
「カノン?今朝、ラルフからまた連絡が来たんだが、今回は気になる物件が入っていたようだ」
「ほんと!?すぐにそっちに行くね!ちょっと待ってて」
私は急いでキッチンの片付けをした。
といっても、クラウスがこちらへ下げてくれたお皿などを食洗機に入れてスタートボタンを押すだけなので、すぐに終る。同時にフェンネルやアニスなどがブレンドされた、夜専用のハーブティ「Guten Abend Tee」をポットに準備して、グラスと一緒にリビングへ運ぶ。5分くらい待ってからグラスに注ぐハーブティはこうやって、ソファに座って待つことが習慣になっている。
「さぁおいで」
クラウスが彼の隣にいたシナモンを反対のソファへ置いて、席を空けてくれたので、私は笑いながらいつもの指定席へ座る。
優しい微笑みを浮かべた彼が私の肩を抱くよう引き寄せると、iPadを膝に乗せた。
「5件送って来たんだが、そのうち1件、実際に見に行く価値がありそうなものがあった」
ドキドキしながら彼が開く画像を見ようと身を乗り出してスクリーンに目を向ける。
まず外観。
真っ白に塗られた壁に、赤煉瓦で縁取られた大きな窓が印象的な二階建てのお屋敷だ。三角屋根で屋根裏部屋があるようで、一番上には金色の風見鶏が取り付けられている。二階部分は一階の面積の半分で、残りはテラスになっていた。その広々としたテラスには、公園にありそうな木製のピクニックテーブルとベンチのセットが置いてある。
「テラスのテーブルとベンチは撤去も出来るが、そのまま引き継いでもいいらしい。今のオーナーが国外へ引っ越すために売りに出している物件だそうだ」
「大きなテラスが気持ち良さそう!」
写真に写っている周辺の景色も緑が多く、隣の家とも少し距離が取ってある様子なので、郊外の物件らしい。
庭の写真も何枚か合って、今は丁度紅葉の季節のせいか、ドングリやヘーゼルナッツなどの木も見えたし、サンルームから直接庭へと出るスペースは楕円形に煉瓦が敷き詰めてあり、庭を囲うように植えられている樹々の根元は芝生になっている。その緑の芝生の上に色とりどりの落ち葉が落ちていて、リスも遊びに来るような雰囲気だ。庭の隅には、まるでお菓子の家のように可愛らしい小屋も有る。
「工具や自転車などを入れる物置らしい。今は中はほぼ空になっているそうだ」
物置にしては随分と手入れが行き届いていて、秋色に染まった赤や橙の蔦が壁の半分を覆っていてとてもいい雰囲気だ。側には、2.5mくらいのもみの木まであってびっくりする。
「中のほうはまだ、今のオーナーが住んでいる関係で家具などが写っている。オーナーは60代だから、室内の雰囲気が俺達の希望しているものとは違うが、家具の配置を考えるには良い参考になりそうな写真だ」
内部の写真はオーナーが好きだという流木のオブジェや中東、トルコのランプやカーペットで異国情緒に溢れる空間で、とても面白い。
真っ白い壁と、煉瓦をそのまま見せる場所とバランスよく分けられていて、部屋全体の空気の暖かさを感じる。
ちょっとした飾りもオーナーのこだわりが感じられて、まるでドイツという感じがしないアラブな感じが興味深くて、私はじっくりとその写真を眺めた。こうやって自分の好きな物をたくさん集めるまで、どれだけ時間をかけたんだろう。こだわりの家具やインテリア小物に囲まれて生活するのって楽しいだろうなぁと感心する。
「オーナーさんがこのお家が大好きで、大事に大事に使ってきたって感じがする。こんなに素敵なお家なのに、引越しなんて、オーナーさんも残念がっているんじゃないのかなぁ?」
「いや、そうでもないらしい。オーナーの夢がかなって、イスタンブールに引っ越すらしいから、手放すことに心残りはなさそうだ。もう月の半分はイスタンブールの新しい屋敷で工事をしたりと忙しいらしい」
クラウスが笑いながらそう言うので、なるほどと納得する。
1階部分は大きなL字型のリビングダイニングには大きな暖炉があった。暖炉の前に楕円形のペルシャ絨毯が敷かれて、その上には使い込まれたアンテーィクなロッキングチェアがあったので、きっとそこはオーナーのお気に入りの場所なんだろう。
玄関から入ってすぐにある明るいキッチン。庭へも直接出れるようになっていて、10畳くらいの広さはあり、忙しい時にそこで食事を取るための小さめなダイニングテーブルもあった。ここにも、トルコのものらしいカラフルなステンドグラスのランプが掛けられていて、異国情緒たっぷりだ。
このキッチンスペースからもリビングルームが見渡せる開閉可能な窓があるし、仕切りを開ければそのままリビングと直結することも出来る。
このキッチンにあるオーブンやシンク、棚なども全て取り替えになるわけだが、レイアウト的にはとても使い易そうなスペースだ。
リビング側には庭に繋がるガラスのサンルームがあり、広めのバスルームもあった。
二階へと続く真っ直ぐな階段の踊り場には、ソファーやテーブル、本棚が有って、そこが第二の小さなリビングルームのように使われていて、そこから直接テラスへ出れるようになっている。
そのスペースを囲むように、5つの扉があり、それらは、大きなマスターベッドルームと書斎、そして来客用ベッドルーム2室、そしてメインバスルーム。
「屋根裏部屋は使い方によっては面白くなりそうだ」
二階の踊り場から屋根裏に上る階段があって、屋根裏部屋の写真があった。そこは現在ほとんど使用されていないとかで、箱や楽器などがスペースの半分くらいに置かれていたけれど、屋根の明かり取りから日が差し込んで明るく、写真には丁度、床のクッションに寝そべっている白い猫が写っていた。どうやら、猫の秘密基地になっているらしい。
「とっても素敵!でも、ちょっと大きすぎるような気がするんだけど……」
「そう?大きいと困る理由があるなら聞いておく」
クラウスが笑いながらそう聞いたので、私はちょっと考えてから答えた。
「アパートみたいに隣と繋がってないでしょ。1人でこの家に居たら、なんだか怖くなるような気がして……1人じゃなくて貴方が居ても、上と下と別々に居たら姿も見えないし、大声で呼ばないと聞こえないよね。下に1人でいたら心細いっていうか、怖いっていうか……」
「なるほどね。怖いとは、泥棒とか?」
「うん。生身の人間。この家はとってもいいエネルギーを持っていそうだから、おばけとかそういう怖さは全くなさそうだけど」
「おばけ?」
クラウスが目を丸くして、それからぷっと吹き出した。
「なんで笑うの!」
笑われてなんだか恥ずかしくなってクラウスを睨んだ。彼はそういうものを恐れないのかもしれないが、私は少しだけそういうおばけとか幽霊とかのことを考えてしまうタイプなので、寒気のする家とかは絶対に住みたくないと思っている。でも、写真で見る限り、この家はそういうものを寄せ付けない明るさがありそうに見えたので、おばけの心配はなさそうだけど、窓など出入り出来るところが多いと、泥棒などの心配が出て来る。
クラウスは笑いをなんとかこらえた、というように目を細めて咳払いをした。
「防犯のほうは心配しなくてもいい。ここは、とても安全な地区だし、家のセキュリティも監視システムを設置して24時間対応の管理会社に任せるから、泥棒が敬遠したくなるだろう」
「ふうん」
なんだか世界が違うなぁと思って頷いた。
私の感覚と、彼の感覚はやっぱり基本が違う。
もともと裕福な家庭に育つと、24時間監視システムとかいう発想も当たり前だろうし、大体この物件自体、ものすごく高価なものだ。
ふと、クラウスは借りるんじゃなくて買うことを前提に話していたことに気がつく。これは売り物件だとさっき言っていた。
買う……?
そこまで考えて少し鳥肌が立つ。
まるで車一台を買うくらいの話し方をしているけれど、金額としたらものすごいことになっているのじゃないだろうか。
やっぱり億、超えてる?
当然、超えてるよね?
考えてさーっと血の気が引く気がした。
私と一緒に過ごすために、こんな大きな買い物をしようとしてくれているんだ。
そう思うと極度の緊張に襲われて、思わず両手を膝の上でぎゅっと握りしめる。
「広さはともかく、全体的には気に入ったか?」
クラウスが私の顔を覗き込んでそう聞く。
「それはもう……とても、素敵なお家だと思う……」
素敵すぎて、こんな買い物をしようとしているクラウスにどういう顔を見せればいいのか分らない。
天国に上るほどに嬉しいけれど、でも、そんなことまでさせていいのかとか、私にはもったいなさ過ぎるお家だとか、いろんなことが頭の中をぐるぐると駆け巡って、変な不安を感じて思考がうまくまとまらない。普通の大きさのアパートで、暖炉がある物件だったら、私もこんな落ち着かない気持ちにはならなかっただろうけれど。
彼がイメージしていたのはこんなお家だったんだ……
私が言葉に詰まっているのをどう理解したのかわからないが、クラウスはクスクスと笑いながら私の髪を撫でて、片手で私の肩をぎゅっと抱きしめた。
「おばけのことでも考えているのか?」
「え、ううん、違うよ」
思わず笑ってしまった。
「泥棒?」
「ううん、それも、もう心配してない!」
本気で私の心配事を気にしている様子のクラウスに、私は可笑しくなって笑い出した。
「mein Schatz」
彼が耳元でそう優しく囁いて頬にキスをしてくれる。
いつの間にか呼び方が変わっていて、最近はSchatz「宝物」と呼んでくれるようになった。考えてみれば、ヨナスとマリアもそう呼び合っていたので、これが普通の恋人同士の呼びかけなんだと気がついて、私も彼をそう呼ぶようにしている。
「mein Schatz」
照れてつい声が小さくなるが、同じようにそう呼びかけてみると、クラウスが嬉しそうに微笑んで私をぎゅっと抱きしめてくれる。力強い腕に捕われて、すっぽりと全身が包まれるともう身動きしたくなくなる。
目を見合わせてキスを交わし、しばらくぎゅっと抱き合うと、その心地よい静寂に胸が幸せでいっぱいになる。
彼の胸に左耳を寄せて、規則正しく鼓動するその心臓の音を聞きながら私は確信する。
ここが私の幸福の場所。
私を幸せにしてくれるのは、家の大きさや豪華さじゃない。
こうやって彼と一緒にいられるお気に入りのソファがひとつあれば、もうそれで世界で一番幸せになれる。
「ここに決めたとしても、内装工事などいろいろ手配していたら優に1ヶ月以上はかかる。最も、工事内容にも関係してくるが、キッチン、バスルームは改装することは間違いない。とにかく、来週にでも見に行くことにしよう」
クラウスは楽しそうにそう言って、ラルフへ返信を打ち始めたのだった。








美妃達が明日、帰国という日の夕方、私は自分のアパートで美妃と海斗君と例の話をしていた。
そう、レオナ・ローサを探している件だ。
なかなかタイミングがなくて、ようやくそのチャンスを作ることが出来た。
大体の概要を説明して、今のところ該当しそうな人が見つかっていないこと言うと、海斗君はラップトップを開いた。
「レオナ・ローサの綴りは?現在の名字はわかる?」
「綴りは多分、Leona Rosaって書くんだと思う。でも、私がその名前で検索すると、10代から20代の女の子でドイツ人じゃない子しかヒットしない。聞いたところによると、ドイツ人だけど昔はニース周辺に住んでいたらしいの。今は何処に居るかは不明だけど、一時はSommerfeldの名字を名乗っていたはず。旧姓はわからない。年齢は多分、50代から60代前半くらい。唯一知っている手がかりといえば、ニースに居た時は、お花屋さんで働いていたってことなんだけど、やっぱりその年代だと、インターネット上で見つからないのかもね。だってSNSとかHP持っている人ってその年代じゃ少ないだろうし……一応、フランス語とドイツ語で探してみているんだけどね」
隣に座っていた美妃が不満そうに私を見た。
「なんでもっと詳しく聞かないの?クラウスのパパに聞けば、きっと決定的な情報がありそうなのに」
「そりゃそうだけど、秘密に探したいから聞けないの!クラウスにも言ってない。だから、クラウスが居ない時にこっそり調べているわけ。この話自体、誰にも出来ないから今ここで話しているの。見つからないかもだし、見つかっても、果たしてクラウスのお父さんに会ってもらえる状況かもわからないのに、聞けるわけないじゃない。それに、お父さんは現在は奥さんがいるんだから」
「じゃ、なんでそこまでして探すの?昔の奥さん探すなんて、返って問題を作るようなことしてる感じじゃない」
「それは……」
私は少し言葉に詰まったが、やはりそれを言わずしてこの話は先に進まないと思い、正直に答えた。
「クラウスのお父さんは、別れた後もずっと彼女のことを想い続けてる。彼女を守れなかったことをすごく後悔していて、周りの圧力で別れてしまったことで自分を責め続けていて、彼女に連絡を取れる立場にないと考えてもう諦めている感じ。でも、このままだと誰も幸せになれないっていうか……お父さんだけじゃなくて今の奥さんも結局全然幸せじゃないし、とにかく、レオナ・ローサが見つかったら、私、一度、話をしてみたいの」
「うわー、なんか、支離滅裂」
美妃が呆れたというようにそう呟いてしばし沈黙したが、やがてクスクスと笑い始めた。
「でも、気持ちはわかるかも」
その言葉にほっとしながら美妃に目を向けた。美妃は目の前のチョコレートに手を伸ばしながら、ラップトップをいじっている海斗君を見る。
「よくわからないところで突っ走るのがカノンだもんね。何かの直感でしょ、動物的な」
「動物的……」
「時限爆弾を止める為に、赤と青のケーブルのどっちかを切断しなきゃならないって時に、カノンならすぐにどちらを切るか直感で決めると思う。普段は半永久的に悩むくせに、ある時は決断が早くて、しかも頑固にそれにこだわって諦めないってのが、本能で動いているとしか思えないもん」
「時限爆弾ねぇ……まぁ、言っていることはわかんないわけじゃないけど」
わかったような、わからないような、しっくりこない例えだけど、確かに、時になぜか、どうしてもこれだけは!と咄嗟に決断してしまうことはあるかもしれない。
「他に、何かヒントになりそうなことは?」
海斗君がラップトップから顔を上げて私に聞いた。
「ヒント……」
しばし考えてみる。
思い出すのは、あの夢だった。
「お父さんとレオナ・ローサの出会いはラベンダー畑だったって。お父さんはそれからもずっとニースのラベンダー畑に夏は行っているみたいだけど、クラウスの話だと、そこには残念ながら彼女はもういないだろうってことだった」
「ラベンダー畑。なるほど」
海斗君が少し考えるようにそう呟いた。彼の目がものすごく鋭くスクリーンを見つめていて、顔から表情が消えている。
これはまさに、マウンドに立っているピッチャーのような表情かもしれないと少し緊張して彼の様子を眺める。
美妃も急に大人しくなり、落ち着かない様子で立ち上がると私の腕を掴んで引っ張った。
「カノン、新しいお茶いれよう」
「うん、そうね」
私もなんとなくその場で邪魔をしてはいけない気がして、同じく立ち上がって二人でキッチンへ行く。
お湯を沸かして、お茶の葉を保管している棚を開ける。もう夕方なので、カフェインの入っていないハーブティにしようと、いくつか手に取ってどれにしようか考える。すると、美妃がガラスの瓶に入った葉に手を伸ばした。
「これ!ラベンダーティーって書いてある」
「あ、そうそう、そうだった」
ラベンダーティを袋詰めで買って来て、ガラスの瓶に入れたものがあったことを思い出す。カモミールやローズヒップなどとのブレンドじゃなくて、ラベンダーだけのものだ。勿論、他のハーブと混ぜることも出来るけれど、リラックス効果を最大限に出すには、ラベンダーだけのお茶を作って蜂蜜でほんのり甘くすると最高だ。
「これにしよう!私、飲んだ事ないし」
美妃が嬉しそうに言って瓶の蓋を開けて、香りを嗅ぐと目を閉じてとても幸せそうな微笑みを浮かべた。
「うわぁ~、なんて優しい香り!お茶にしたら、爽やかなのに甘いような、不思議な感じ」
「そうかもね」
ガラスのポットに、薄紫色のラベンダーを入れて熱湯を注ぎ込むと、お湯の中でゆっくりと踊りだす薄紫色の妖精達。ゆっくりと下へ沈んでいくのを見て、およそ三分くらい経つと、薄い乳白色のお茶が出来上がった。
「あっちに持って行こう」
美妃がポットとグラスを3つ、お盆に乗せる。
ゆっくりと歩いてリビングに戻って、美妃がお茶をグラスに注いだ。辺りが柔らかいラベンダーの香りに包まれて、グラスに顔を近づけて香りを嗅ぐと、私の脳裏の中であの夜に見た夢の景色が蘇った。
美しく広がる薄紫色のラベンダー畑。小道をゆくユリウスとレオナ・ローサ。蝶を追って、丘の向こうへ掛けて行く彼女。ユリウスは、立ち止まったまま……あの丘の向こうで、彼女は彼を待ってくれているのだろうか。
急に襲って来る切なさにはっとして目を開く。
あの夢はいまだにはっきりと記憶に残っていた。
「とっても優しい香り」
美妃が両手でグラスを持って大事そうにラベンダーティを飲んでいる。
「海斗君もよかったらどうぞ」
ラップトップを見つめている海斗君のほうへグラスをそっと置くと、海斗君が顔を上げて私を見た。
それから、何か不思議な微笑みを浮かべて、グラスを手に取ると、私と美妃を順番に眺めた。
「ラベンダーの花言葉は知ってる?」
「花言葉?」
二人同時にそう呟いて顔を見合わせる。
「ううん、知らないなぁ。海斗君は?」
そう答えると、海斗君は小さく頷いて、一口、ラベンダーティを飲んだ。そしてグラスの中を見つめながら答える。
「俺も知らなかった。今、ラベンダーの花言葉を見てみたら、結構たくさんあった」
「たくさん?」
「そう」
海斗君は頷いて、その花言葉を順番に口にした。
「繊細」
「優美」
「沈黙」
「許し合う愛」
「あなたを待っています」
「私に答えてください」
「訪れる幸せ」
このいくつもの花言葉を聞いて、呆然とする私と美妃。
それらは、まるでユリウスと、レオナ・ローサの二人の物語をまさに言葉にしたようなものだった。
あなたを待っています、私に答えてください。
そんな花言葉があるなんて。
こんな可憐で小さい花に、こんな切なくも熱い情熱を感じる花言葉があったなんて。
胸を打たれて言葉を失っていると、海斗君がぽつり、と一言もらした。
「Summer filed」
「え、なぁに?」
びっくりして聞くと、海斗君がちらりと私を見て、それからくるりとラップトップをこちらに向ける。私と美妃は同時にその画面に目をやった。
スクリーンには、ベージュにラベンダーパープルでデザインされたHP。白い背景色に、Summer Filed Lavender と薄紫色の字がタイプされ、その字の隣には、レモン色の黄色い蝶の影のデザイン。
一瞬、あの夢の中で見たラベンダー畑と、レオナ・ローサが追いかけた黄色い蝶を思い出し、雷に打たれたような衝撃で息を飲む。
そのHPは、英国のFaulkland州にある広大なラベンダー畑のHPで、ファーム内には、抽出されたラベンダーオイルや、ポプリ、キャンドルやソープなどが販売されているショップや、訪れた人が食事を楽しめるカフェも併設された施設だった。
「About Usのところ、読んでみて」
海斗君に言われて、About Usのページをクリックして見る。この施設のオーナーの名前や牧場の住所に始まって、このファームが2000年から一般観光客に公開するようになったことや、もともとは牧場で牛乳や乳製品を生産していたこと、現在は牧場の3分の1がラベンダー畑になっていることなど、その歴史が書いてあった。そして、最後の所に、「英国産ラベンダー、フランス産ラベンダー」の違いについて詳しく説明書きがあり、その最後に Leona Rosa Facklerと名前があった。
「あっ……」
驚きのあまり、私と美妃は声をあげた。
彼女の名前だ。
ぞくぞくして鳥肌が立ち、今にも持っているグラスを落としそうなくらい興奮して、私は必死で呼吸を整えようと肩で深呼吸をする。
「海斗、すごいじゃん!」
美妃が感嘆の声を上げる。海斗君は少しだけ照れたように笑った。
「ドイツ語とフランス語だけで検索していたから見つからなかったのかもしれないけど、英語で検索したら割とすぐにひっかかったよ。Sommerfeldを英語にすると、Summer filedだから、まさかと思ってラベンダーと繋げて検索したらここが出て来た」
私は感動と興奮でぶるぶる震えそうになりながら頷いた。
まさか、英国に居るとは!!!
「でも、彼女がそのレオナ・ローサかという証拠はないから、他人だということもある。それに、もし本人だとしても、このファームのオーナーの名前も、Facklerだから、レオナ・ローサのご主人という可能性も多いにあるとは思うけど」
少しだけ残念そうに海斗君がそう言ったけれど、私の感動はそんなことで消えるものではなかった。
私はグラスをテーブルに置くと、スクリーンを凝視した。
「行く。ここに行って会って来る」
「えっ、カノン?」
美妃がびっくりしたように声をあげた。
「行かなくても、電話とかメールがあるのに、なんで」
「ダメ」
「先に電話して、本人かどうかぐらい確かめればいいのに」
「それはダメ」
私は首を振った。
彼女は絶対に、あのレオナ・ローサに違いない。
電話やメールじゃダメだ。
大体、何をどう説明すればいいのかわからない。
私は完全に部外者で、余計なことに首をつっこんでいる立場だ。
私の気持ちを伝えるには、実際に会うしか方法はない。
だから、直接行くしかない。
私の中で、電話やメールで彼女に連絡をするなんて選択肢はなかった。
「いきなり行っても迷惑になるんじゃないの?」
美妃が心配げにそう言う。
確かにそうかもしれない。
でも……
「行くしかないの。直接会って話すべきだと思う」
私がきっぱりと言うと、美妃が苦笑いして海斗君を見た。
「ほらね。優柔不断のカノンが、いきなり決断したらもう誰にもその意思を曲げられないくらい頑固なの」
海斗君がクスクスと笑って頷いた。
私はHPに乗っている彼女の名前をじっと見つめた。
Leona Rosa Fackler……
レオナ・ローサ。
貴女は今、何を想っているのだろう?
ずっと、何を想っていたのだろう?
ラベンダーの花言葉のように、待っていたの?
訪れる幸せを。
許し合う愛を信じて。
そして、その答えを待っている?
もう、沈黙の時は過ぎたはず……
私は目を閉じ、頭の中であの景色を思い浮かべる。
薄紫の丘を駈けて行ったレオナ。丘の向こうで貴女は待っていたのではないだろうか。
貴女は今、どういう状況なのだろう?
もう、愛する人を見つけているのか。
それとも、ユリウスのように、満たされない愛に苦しみ続けているのだろうか。
私にはわからない。
会うまでは、わからないけれど。
私は、貴女に会いに行く。
ごめんね、と心の中でクラウスに謝罪する。
勝手にこんなことをしちゃって、本当にごめんね。
でも。
やっぱり、誰にも言えない。
今言うと、いろんな人に迷惑をかけて混乱させてしまう。
だから……
私の心はもう決まっていた。
目を開くと、テーブルに置いてあった携帯を開き、カレンダーのプログラムを起動する。なるべく早く、英国のこのファームへ行くしかない。
「ねぇ、でも、ラベンダーの季節しか来場申込は受け付けてないみたいだよ。もう、10月になったから無理じゃない?」
HPを覗いて美妃がそう言った。
「わかってる。だから、予約とかしないよ。その住所に直接行くの」
私は近日のフライトチェックをするため、美妃がいじっていたラップトップを手前に引き寄せた。
「クラウスになんて言い訳して1人でUKに行くつもりなの?」
「うん……それ、ちょっと考えてくれない?美妃、こういう工作するの上手でしょ」
フライトチェックを始めながらそう言うと、美妃が大げさに溜め息をして海斗君に愚痴をもらした。
「ほーらね。面倒なことはすぐ人に考えさせるんだから。しかもなに、私のことを工作得意なんて!失礼なんだからもう……ちょっと海斗、なんかいい言い訳、考えつかない?」
「え、俺?言い訳?」
海斗君が困ったように苦笑いして、腕組みをする。
「UKに行く理由かぁ……」
美妃が独り言のように呟いた。
顔を見合わせて悩む二人を横目に、私は自分のフライト検索に集中することにした。
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