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誤った結び目を解く方法

後を追うもの、追われるもの

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私は夢を見ていた。
柔らかい緑の地を薄紫色に染めたラベンダーの丘。なだらかな薄紫の傾斜を描くその丘に、真っ直ぐに刈り込まれた細道を歩く、二人の後ろ姿が見えた。爽やかで甘いフローラルな香りが優しく立ちこめるその地平線の向こうは、目が覚める様な美しい青い空に、綿あめのようにふんわりとした白雲がいくつか浮かんでいる。立ち止まった二人を見ると、彼らはラベンダー畑に飛び交う色とりどりの蝶を見つめていた。真っ白な紋白蝶に、ステンドグラスのような模様が美しい揚羽蝶。時折それらが交互に空中を舞う。太陽のような黄色の蝶がゆっくりとはためき、彼女の頭に舞い降りた。それを彼がそっと手で包み込むと、彼の手のひらの中でゆっくりと羽を動かしながら蝶が佇み、やがて再び青い空へ舞い上がった。二人が眩しそうにその蝶を見上げる。
心が温かく満たされる幸せな様子にも関わらず、どこか切なさを感じる風景。
あれは、誰だろう?
目を凝らして二人の後ろ姿を見つめる。
彼が彼女を見下ろして微笑んだ時、その横顔が見えた。
明るいブロンドに真っ青な目。その精悍な角度の頬は見覚えがあった。
あれは、ユリウスだ。
だとすると、彼女は間違いなく……
レオナ・ローサ?
必死でその姿を確認しようと彼女を見つめる。
ユリウスを見上げ、楽しげな笑い声をあげた彼女の横顔が見えた。
明るい栗色の髪が風になびいた時、彼女の深い苔色の瞳が輝く。
彼女は蝶を追いかけて丘を走って下り始めた。向こうへとどんどん走って行く彼女。ユリウスはまだそこに立ち止まっていた。
何故立ち止まっているの?
ユリウス!
追いかけて!
早く!
もう、彼女が丘の向こうに消えてしまう!
ユリウス!
「……っ」
肩を掴まれてはっとして目を覚ますと、ここがベルリンのアパートだと気がつく。今の夢は、正夢だったのだろうか。
ぎゅっと目をつぶり、必死に夢の中で見た残像を思い出そうとしていると、不機嫌そうな声が聞こえた。
「……カノン?」
クラウスの声に目を開けると、明らかに気分を害した表情の彼がベッドに片肘をついてこちらを見ていた。
「あ、おはよう、クラウス」
「おはよう、じゃない」
「え?」
なんで朝からこんなに不機嫌なんだろうとびっくりしていると、クラウスは眉を潜めて私を睨んだ。
「君は、自分が何を口走ったか知っているのか」
「?」
なんだろうと思って瞬きしていると、クラウスがむっとしたように唇を引き締め、それから苦々しく言う。
「……ユリウス」
「ユリ……あ」
はっとして目を見開いていると、憮然としたクラウスがじろりと私を見た。
「恋人を抱いて寝ている時に、よりによって自分の父親の名前を聞かされた俺の気持ちがわかるか」
「あっ、でもこれは」
「こんなに目覚めの悪い朝は初めてだ」
「クラウス!違うっ、誤解してる!」
完全に気分を害した様子のクラウスが私に背を向けて反対を向いてしまった。確かにものすごく失礼なことをしたが、夢の中の自分の言動までコントロール出来ないのだから仕方ない。きちんと説明するしかないと思って、その背中に必死で弁解する。
「クラウス、あのね、夢だから」
「夢?尚更面白くない。俺の父の夢なぞ見るとは、どういうことだ」
あちらを向いたまま低い声でそう返す彼。ますます機嫌が悪くなった様子にさすがに私も慌てる。
「違うっ!あの、お父さんが、畑にいて」
「畑?」
クラウスが少しだけ興味をそそられた様子を見せた。
「そう、ラベンダー畑。お父さんが、レオナ・ローサと散歩してた夢で……」
ぼんやりとした夢の景色を思い出しながらそう言うと、やっとクラウスがこちらを振り返った。まだ少し険しく難しい顔をしていたけれど、もう怒ってはいないように見えてほっとする。
「とっても奇麗な薄紫の丘だった。でも、蝶を追いかけて彼女が遠くに走って行ってしまうのに、お父さんが立ち止まっていたから、早く追いかけてって叫んでたの。だからつい、ユリウス、って」
「ラベンダー畑?」
クラウスが少し考えるようにそう言って、やがて小さく頷いてクスッと笑った。
「まんざら夢でもなさそうだ。父がレオナ・ローサと会ったのは、ニースのラベンダーの丘だと聞いている」
「えっ」
「父はラベンダーのヴァランソル高原が好きで、彼女と離婚した後も夏によく行っていたらしい。だから俺達も父に連れられてよくニースへ行ったものだ」
「そうなの」
夢と現実の偶然にびっくりする。
不思議な気持ちで夢を回想していると、機嫌が治ったらしいクラウスが片腕で私を抱き寄せてじっと顔を覗き込んだ。
「まだ父のことを考えているのか」
「うん……あの夢、途中で途切れてしまって、続きが気になって」
ユリウスはレオナを追いかけたのだろうか。
夢なのに、その続きを想像しようとする私もおかしいと分ってはいる。
「もう一回寝たらあの続きが見れるかな」
夢の続きは、夢でしか見れないだろう。でも、外はもう夜明けが近づいて朝焼けの光がカーテンの隙間から差し込んでいる。今からもう一度夢を見るというのは無理かもしれない。残念な気分になってカーテンのほうを見ていると、クラウスが私の耳もとで名前を呼んだ。
「カノン」
振り返ると隣に横たわるクラウスがまた不機嫌そうに眉を潜めて私を見ていた。
「少しは俺のことでも考えたらどうだ?君の恋人は俺じゃないのか」
「いつも考えてるよ!ただ、レオナ・ローサが」
「レオナじゃない。クラウス」
「クラウス」
鋭く訂正され、素直にその名前を呼ぶと、彼の表情が緩んだ。
これ以上、夢のことでクラウスの機嫌を損ねるわけにもいかない。
夢のことはまたいつか思い出してみよう。
そう思ってクラウスを見つめた。
「そうだ。カノン、俺を見るんだ」
低い声音でそう囁き半身を起こすと、私の体を挟むように両側に手を突いて真下の私を見下ろした。その目が部屋に差し込む朝焼けに照らされて、獰猛に光り私を捕らえる。視線を逸らすことが出来ずにその迫力に息を飲んでいると、クラウスはふっとその目を細めて妖しく微笑み、ゆっくりと身を屈めて私の左耳に唇を寄せた。
「他に何も考えられなくなっただろう?」
掠れるような甘い囁きに一瞬で意識のすべてが彼に集中して、大きく目を見開いて彼の目を見た。いつもよりどこか野性的なクラウスの視線は私を射る矢のように鋭く、さっきまで何を考えていたのかを忘れて美しい彼を見つめる。クラウスの手がシーツの上を滑る音が聞こえ背中に温かな感触がした。
「カノン」
ぴったりと視線を合わせたまま彼が私の名前を呼ぶ。
「俺だけを見るんだ」
胸に振動する魅惑的な声の響き。
「クラウス」
私を魅了するその熱っぽい瞳に惑わされ思わず彼の名を口にした。
クラウスは満足げに微笑むと、そっとキスをした。目を閉じるとその情熱の海に放り出されて一気に彼の世界へと連れ込まれて行く。唇が離れ、熱に浮かされたようにぼうっとしてクラウスを見つめると、彼が少し照れたように微笑んだ。
「どうすればいいのかわからないくらい、俺は完全に、君の虜だ」
「私も、怖いくらい貴方に惹かれてる」
「時が経つほどに愛しさが増していく。俺がどれだけ君を愛しているか、もう言葉では説明出来ない気がする」
私はその言葉に頷いて彼の頬に手を伸ばした。
毎日どんどん大きくなって行く自分の気持ちが、そのうち宇宙を覆い尽くすほど巨大なものになる気がする。
「クラウス。私が初めて愛した人」
その言葉では足りないくらいの気持ちを伝えたくて、想いを込めて彼の瞳を見つめた。
クラウスが、挑戦的な微笑みを浮かべた。
「君が愛した最初で最後の男が俺だ」
その言葉に目を見開くと、彼は言葉を続けた。
「そして君は、俺が愛した唯一の女」
彼が私の髪に触れ背中へと流し、その手でそっと肩を掴む。
心臓がドキンと大きく跳ねて、息が止まりそうになった。
澄み切った美しい灰色がかった青い目に魅せられて、もう声も出ない。クラウスはベッド脇のテーブルに置いてあった携帯電話を手に取って時間を見る。そして私を振り返ると、いたずらっ子のように目を煌めかせて囁く。
「まだ時間は充分あるようだ」
携帯をテーブルに戻した彼の右手が私の左手に絡みついて、視線が重なった。
「Meine Liebe」
耳元に流れて来る甘い呼びかけに胸が高鳴り始める。
絡んだ手に力が籠められ、彼の柔らかな唇が伝う皮膚が熱を帯び始める。私は両腕を伸ばして彼の逞しい背中を抱き寄せ、ふんわりとしたその髪にキスをした。カーテンの隙間から薄いピンク色の朝焼けが差し込み壁を照らし始める。
「貴方の夢を見せて」
そう呟くと、クラウスが顔を上げて優しく微笑んだ。






その日の昼下がり、私はひとりでSバーンの電車に乗っていた。
今日の午後、美妃と彼氏の海斗くんがベルリンに到着する予定だ。
成田から全日空で出国し、ヘルシンキ経由でやってくることになっている。もうまもなくヘルシンキに到着する頃ではないだろうか。二人がベルリンに到着する前に、彼らが滞在する私のアパートの準備するため、久しぶりにこの街へ帰って来た。もうすでに三週間くらい不在にしていたので、見慣れたはずの駅前が妙に新鮮に見える。アパートに戻る前にまず買い出しのためにスーパーへ向かう。
クラウスのアパートで半同棲になった時に、冷凍庫にはまだ冷凍食品や冷凍野菜などを残していたが、冷蔵庫の中は空っぽにしてしまったので、本当に何も無い。確か、貯蔵棚には缶詰や瓶詰めはまだ少し残っていただろうが、それもはっきりとは覚えていない。
一日おきくらいに買い物をしていたスーパーに久しぶりに入ると、何故か少しドキドキする。ショッピングカートを押して、野菜と果物のコーナーから回り始めた。
出発前に、到着当日の予定について美妃と電話をしたら、到着当日の晩から外出したいと元気満々だった。最初、長旅で疲れているだろうから初日はアパートで食事させて休ませようかと思っていたけれど、二人が全くその気がないので、だったら食事に連れて行こうとクラウスが提案してくれた。夕方7時すぎには彼が、私達を迎えに来てくれることになっている。
基本的に朝食をアパートで食べれる準備をしておけば良いだろう。
トマトやきゅうり、アボカト、洋梨や葡萄など、洗ったり切ったりするだけでよい新鮮なものと、二種類のハム、チーズの盛り合わせをカートに入れる。そして、バターとジャムを選ぶ。お茶やコーヒー、蜂蜜は常備しているので大丈夫だ。後は、ヨーグルトや牛乳、卵、ガラス瓶入り有機オレンジジュース、そして美妃の大好きなチョコレートやクッキーなどのお菓子。
最後にパンを選ぶ。
ベーカリーコーナーにずらりと並ぶパンのショーケース。
ちょっと距離をとって全体を見渡してみる。
クロワッサンも、バタークロワッサンやハムチーズ入り、アーモンドペースト入りなど種類が複数あるし、勿論、チョコレートデニッシュやピザスティック、ドーナツ、マフィンなど、おやつ向きのものもある。でも、やっぱり朝食にはもっとシンプルなパンが健康的だろう。
プリッツエルは紙袋に保存するとすぐに固くなってしまうし、だからといってプラスチック袋に保存しておくと塩が溶けてまるで濡れた様になってしまうのでアウト。
結局、じゃがいもの粉入りのロールパンと、ドイツらしいライ麦パンに決め、トングでケースからそれらを取り出し紙袋へ入れる。
これで買い物はとりあえず終了だ。
そう思ってレジの方へ行こうとしたら、白髪の可愛らしいおばぁさんに声をかけられた。
「おじょうさん、ちょっと」
近寄ると、500ml入りのヨーグルトのパックを私に見せて、にっこりと笑う。
「賞味期限、読んでくれるかしら」
どうやら老眼で見えないらしい。時々こうやって声をかけられることがあるので、私もすっかり慣れている。
「えっとね、10月15日、になってますよ」
「あら、そう。ありがとう」
おばぁさんがにっこりして、ヨーグルトをカゴに入れた。
なんとなく楽しい気分になりながら、カートを押してレジに並び、ベルトコンベアに商品を並べて行く。
昼下がりで買い物客のピークを過ぎた後のせいか、殆ど待つ事もなく支払いをする。
全部で、28.70ユーロ。
最近は買い物に行くといつもクラウスが持ってくれるので、深く考えずにどんどんカートに入れていたが、久しぶりに自分で持ってみてその重さに驚いた。
以前は、総重量を考えつつ買い物をしていたから、支払後に荷物を持ってびっくりということはなかった。
そして急に思い出す、あの102段の階段!
すっかりそのことさえ忘れていたことに呆然となる。
重い荷物をかかえてようやくアパートに戻った時には、さすがにぐったり疲れてしまった。荷物を冷蔵庫や棚に仕舞うと、部屋の空気を入れ替えたり、掃除機を掛けたりとしばらくバタバタと準備に追われる。
1時間ほどあれこれしていたが、最後に新しいシャンプー類のストックをバスルームの棚の見えるところに置いて、準備が完了した。
Wifiのパスワード、私とクラウスの携帯電話番号をメモして冷蔵庫にマグネットで張り付けて、私は急いでアパートを出た。
これから、お茶屋のバイトだ。
普通は火曜日と木曜日の二日なのだが、今日の金曜日、夕方ご主人が税理士との打ち合わせで外に出るというので、その間だけ1時間ほど店番をすることになっている。
最初はその時間だけ店を閉めるつもりだったらしいけれど、お得意さんが注文していた佐渡の朱泥急須が日本から届いて、その時間帯にお客様がいらっしゃることになり、それで私に店番をして欲しいとの連絡があったのだ。
約束の3時にお店に着く。
挨拶をして中に入ると、店の奥からご主人の声が聞こえた。
「助かるよ、カノン」
制服代わりの前掛けを付けていると、分厚い書類フォルダを小脇に抱えてご主人が出て来た。
レジの隣に置いてある段ボールの箱を指さして、ご主人がにこにこした。
「中を見てご覧。素晴らしい急須だよ」
言われて箱の中を見ると、滑らかな橙色のまるっこい急須がひとつ入っている。クリームみたいな表面はしっとりと湿っているかのように滑らかだ。
「佐渡のくミネラル分を多量に含む良質の天然朱泥を、100%使っているものだよ。上品な光沢が素晴らしい。職人さんの伝統技術の集大成そのものだね」
茶器を見つめるご主人の目がものすごく真剣。
こういう急須は、使えば使うほど味が出て、お茶がまろやかになりそうだ。
ご主人がよく、使い込むほどに器が育つ、とお客さんに言っている。こちらの人は食洗機をよく使うが、ご主人は、急須は絶対に食洗機には入れないということ、また、手洗いの時も余程でなければ洗剤を使わないで洗うように、と説明していた。
日本茶を入れたり、中国茶を入れるのにはやっぱり、ティーポットじゃなくてこういう急須が一番良さそう。
私も、一個、自分のお気に入りの急須を買おうか……
そう思うと急に急須が欲しくなってきて、店内に陳列されている急須に目がいく。
「じゃぁ悪いけど、しばらく頼むね。1時間ほどで戻るから」
「はい。いってらっしゃい!」
ご主人を見送ってから、私は急須の陳列コーナーに行った。
このTee Tea Ochaに置いてある急須の種類はかなり豊富だ。陶器は勿論、鉄器から銅器など様々だし、お茶の葉の大きさによって内部の茶こしも編み目が違うし、当然ながら急須の形状や色、表面の艶も多様。
こんなバラエティ豊かな急須の中から、ひとつを選ぶなんて大変なことだ。
ふと、以前日本に居た時にテレビで「カテキン」の特集を見た事を思い出した。確か、お茶のカテキンがコレステロール値を下げるという内容だった気がする。もしそうだとしたら、クラウスの父に、急須と日本茶をプレゼントするのもいいかもしれない。
後でカテキンについて調べてみて、本当にコレステロール低下に利くようだったら急須の件をクラウスに相談してみよう。
あれからお父さんはまだ入院しているが、来週の終わりあたりには退院してドレスデンのほうへ戻ることになっている。ダニエラが一緒に戻るということになっているとカールから連絡が来て、クラウスとヨナスが納得がいかない様子だったけれど、お父さん自身が拒否しなかったことを考えると、息子達がとやかく意見することではないだろう。
はっきりとは分らないけれど、お父さんは、自分の心がダニエラにはないことにはっきりと気がついて、その罪悪感から彼女の申し出を退けられないのではと感じた。そして、やはり、1人でいるのは寂しいのだろう。
ダニエラは決して心優しい柔和な女性ではないと思うが、彼女なりにユリウスを愛しているんだろう。もう、15年以上連れ添っているということだった。彼女はきっと、ユリウスの心が自分にはないことにはとうの昔に気づいて、でも彼を愛しているからそれでも側に居ることを選んだのだろう。そして、ユリウスが忘れられないでいるレオナ・ローサへの嫉妬に苦しみ続けて来たのかもしれない。姿の見えない幻への嫉妬は、きっと想像以上に辛いものではないだろうか。
私には到底出来ない。
愛する人が、他の誰かを愛しているとしたら、彼の側にいることなんて耐えられないだろう。気づいたらすぐに逃げ出してしまうに違いない。
そんなことを考えながら急須を眺めていると、ちりん、と扉が開く音がした。
お客様だ、と急いでカウンターに戻る。
初老のお得意様、シュナイダー氏が1人若い男性を連れて店内に入って来た。
「やぁカノン」
「シュナイダーさん、こんにちは!お待ちかねの急須が着きましたね」
シュナイダー氏はTee Tea Ochaの長年のお得意様で、急須や茶器のコレクターでもある。国際特許関係のお仕事を引退されてから更に収集に熱心になったらしく、こうやってTee Tea Ochaのご主人と相談して特別なものを日本や中国から取り寄せ注文しているらしい。お店でも1、2番の大得意様で、週に1回はお店にいらっしゃっている。
シュナイダー氏にレジの側にあった箱の中を開いてみせた。
「なんとも素晴らしい色合いと質感だ」
そっとその急須を手に取って、じっくりとその形を確認するシュナイダー氏。手触りのよさが気に入ったのか、両手で大事そうに抱えて満面の笑顔だ。
「これでお茶を入れるのが楽しみだ」
「そうですね!」
私は笑顔で頷いて、箱を入れるための紙袋を取り出そうと身を屈めてレジの下を覗いた。
どのサイズがいいのか確認しようと、3サイズの紙袋を取り出してレジに並べると、その1枚がするりとすべってカウンターの向こうへ落ちた。シュナイダー氏の後ろにいた連れの人が落ちた紙袋を取ってカウンターに置いてくれたので、お礼を言う。
「ありがとうございます」
紙袋を取りながら顔を見上げ、ふとその顔がどこかで見た気がして目を止めた。
「今日は、孫を連れて来たんだ」
シュナイダー氏がそう言って横に立つ孫息子に目をやって笑う。
漆黒色の髪に挑戦的な光を含んだ青い目。見覚えがあるその気が強そうな顔立ちにはっとする。
「孫のエミール」
シュナイダー氏がそう言うと、彼が私に向かってまっすぐに手を差し出した。
「エミール・シュナイダー」
そう言って名乗る彼に驚いて数秒固まる。
あの時、クラブの前にいた少年だ。まさか、シュナイダー氏の孫だとは、、、!
固まっている私を見ているシュナイダー氏の怪訝な視線に気がついて、慌てて手を差し出して握手すると、エミールが口元を緩めてじっと私を見た。
「久しぶり。君、カノン、っていうんだ」
久しぶりと言われて返答に困り言葉に詰まっていると、シュナイダー氏がびっくりしたようにエミールを見た。
「なんだおまえ、カノンに会ったことあるのか」
「会ったよ。しばらく前に。名前は聞いてなかったけど」
エミールはさらっとそう答えると、私に視線を戻してぎゅっと強く手を握ってからその手を離した。どういう反応をすればいいのか分らず、私はただ笑って小さく頷く。
大事なお得意様の孫となると、失礼な態度をとるわけにはいかない。
「そうだったか。いや、カノンはいい娘だからな。なんたってとびっきりの美人さんだ。ここのご主人が自慢の看板娘だって吹聴して回っているから、カノンがいる時間にしか店にこない客もいるぞ。80歳すぎたペーターじいさんなぞは特に足繁く通っているらしい。そうだろう、カノン?」
呑気にそんなことを言って大笑いするシュナイダー氏。箱を紙袋へ入れながら笑って返事をごまかそうとしていると、エミールが可笑しそうに笑い出した。
「なるほどね。俺が一瞬でふられるのも無理ないな」
「ふられた?」
シュナイダー氏が目を丸くしてエミールを見た。
「いや、ふられたというよりは横取りされた感じ?」
可笑しそうにそう言ってこちらを見たエミール。
まるで意味が分らない、というようにシュナイダー氏が肩をすくめて苦笑した。
エミールが意味深な笑みを浮かべてシュナイダー氏に言う。
「彼女が、俺が年下だからって軽くあしらうんだ」
どうしてそんな余計なことを言い出すのだ!
そんなこと、シュナイダー氏にいちいち言わなくてもいいのに!
「年下?ほとんど同じくらいじゃないのかな?」
シュナイダー氏が目を丸くして私を見たので、私は苦笑いして首を振った。
「いえ、違います。私、28歳なので」
「へぇ、てっきり20歳くらいの学生さんかと思ってたが……でもよく考えたら、エミールよりずっとしっかりしているお嬢さんだ。こいつはまだまだ子供っぽさが抜けなくてねぇ」
シュナイダー氏がわははと笑い声をあげたので、隣のエミールが不機嫌そうに眉を潜めた。
「じいさんにそんなことを言われるとはね。子供扱いはもう、うんざりだ」
「そういう生意気な態度が幼稚なんだぞ。それじゃぁカノンから見てもお子様だろう」
豪快にそう言い放ち、大笑いしているシュナイダー氏と、憮然とした様子のエミール。
気まずくなり黙っていると、笑いが止まらないシュナイダー氏から目を逸らしたエミールが、今度は私に挑発的な目を向けた。
「カノン、君が店に出ているのはいつ?」
それを聞いてどうするつもりなんだと困惑し黙っていると、シュナイダー氏が代わりに答えた。
「火曜と木曜日の4時から閉店までだったかな?今日は私の荷物の関係で特別に出てくれているんだ」
「は、はい」
答えてくれなくてよかったのに、と思ってつい声が小さくなってしまった。
「そっか。覚えておく」
覚えておくとはどういう意味だ。
意味も無く店に来られても困る。
そう言いたくても、エミールの隣にはシュナイダー氏が居て、とてもそんな失礼な態度をとるわけにはいかない。シュナイダー氏がレジの隣に陳列されていた九谷焼の一輪挿しを手に取ったのに気を取られていると、エミールがカウンターの紙袋に手を伸ばす。それに気がついて紙袋を両手で支えてカウンターの向こうへ押すと、エミールの手が紙袋でなく私の右手首を掴んだ。
はっとして見上げると、エミールがまっすぐに私の目を見つめている。瞬きもせず、微動だにせず、呼吸さえしていないのではと思うほどぶれない視線だ。掴まれた手を引っ込めようとしたが、鋼鉄で手首が固定されたように、掴まれた手首はカウンターにぴったりと貼り付いて1ミリも動かない。その手を見下ろし凍り付いたように動けないまま数秒が立つ。シュナイダー氏が一輪挿しを棚に戻した時、やっとエミールが手を緩め、私はさっと手を引っ込めた。
非難するつもりでエミールをじっと見上げたら、エミールはにやりと不敵な微笑みを返した。そして何事もなかったかのように紙袋と手に取りシュナイダー氏を振り返る。
「じゃぁまた、カノン。ご主人によろしく言っておいてくれ」
「はい。有り難うございました」
シュナイダー氏がにっこり微笑んで出口へ向かう。
後を続くエミールが扉の前で私を振り返った。
「カノン、じゃぁまた近いうちに」
「えっ?」
驚いて聞き返すと、真っ青な目に漆黒の睫毛が濃い影を落として瞬く。
「俺は諦めることが大嫌いなんだ。覚悟しといて」
強引な視線は、迷いの欠片も見当たらないほどまっすぐだった。
「覚悟?どういう意味?」
「さぁ?すぐにわかると思うけどね」
朗らかにそう言ってエミールは笑い声と共に店を出て行った。
ちりん、と音を立てて閉まる扉を見て、思わず大きく溜め息をついた。
まさか店にあの時の少年が来るとは。
しかも、お得意様の孫だなんて驚きの巡り会わせだ。
あの目つきからして、怖いもの知らずで無謀な性格らしいのは間違いないだろう。
昔フーゴがあんな目つきをしていたから、私には分る。
この間も高速を走っていて、追い抜きされたら必ず抜き返したフーゴ。
躊躇いも無く罵詈雑言を放つ根っからの俺様。
感情を剥き出しに遠慮のない視線を人に向ける、横暴な振る舞いが傍若無人そのもの。
アメフトでも追いつめられたら更に攻撃的になって絶対に諦めない頑丈な精神力。怪我や骨折という事故に合っても年中スポーツから遠ざかることはなかったくらい闘争心が強かったフーゴも、大人になって多少はソフトにはなったけれど、根本的な性格は変わっていなかった。
エミールも、きっとゲーム感覚であんな態度を見せているんだろう。
年上の私への好奇心。クラウスの圧力に押されて意に反して引き下がったあの時。
負けず嫌いのエミールには、その時に受けた屈辱が忘れられないんだろうが、そんな妙な闘争心を満たすために攻撃対象にされるんじゃこちらがたまらない。
今度万が一またやってくることがあったら、きちんと対応しよう。
私には、エミールのゲームに付き合うほどの余裕は全くないし、第一、クラウスがいる。
シュナイダー氏の孫というのが気になるけれど、話せばわかってくれるに違いない。
そこまで考えて、私は気持ちを切り替えるべく陳列棚に戻り、ショーケースのガラス磨きをする準備を始めたのだった。



私はドキドキしながらアパートの前で右へ左へとうろうろしていた。
犬の散歩で歩いていた女性が、そんな私を見て笑いを堪えながら通り過ぎる。
もうすぐ美妃達が到着する予定で、部屋で待っているのも落ち着かないので表に出て来てしまった。
1時間前くらいにメールでテーゲル空港に着いて荷物の受け取り待ちだと連絡があったので、タクシーで40分くらいということを考えたら、もうすぐ着くはずだ。
美妃の彼氏という海斗君とは会った事はない。大学時代の繋がりで飲み会があって、その時に知り合ったと聞いていた。まだ付き合って1年ちょっとだと思うけれど、あの有名な商社のエリート営業マンだということは知っている。なかなか写真も見せてくれないので、ついに会えるのかと思うと妙に緊張して落ち着かない。
もう薄暗くなってきた夕闇の向こうに、通りへ右折して入って来る車のライトが見えた。ベージュカラーのトヨタプリウス。ベルリンで良く見るタクシーの車種だから、あれで間違いなさそうだ!
うろうろするのを止めて、じっとそのタクシーを見ていると、目の前で停車した。
「カノーン!着いたよっ」
後部座席のドアが開くと同時に、美妃が飛び出して来た。
「待ってたよー!」
勢い良く飛びついて来た妹と抱き合って大笑いする。美妃は栗色の大きな目を更にまんまるにして私の顔を覗き込み、ぷっと吹き出した。
「やだー!」
「はぁ?」
いきなりヤダと言われて呆然としていると、美妃は意味ありげに瞬きして、にやにやした。
「カノンが女っぽくなってて、なんか気持ち悪い」
「気持ち悪いって、ちょっと美妃!」
久しぶりに会う姉に向かってしょっぱなからなんて失礼なんだ!
むかっとして声を荒げて叱り飛ばそうとした時、タクシーの運転手がトランクからスーツケースを取り出すのが見え、慌てて口をつぐんだ。自分の大人げない態度を美妃の彼に見られたかもしれないと少し焦って、美妃の後ろのほうを見ると、タクシーの運転手からスーツケースを受け取る海斗君の姿が見える。
彼がスーツケース二つを両手で押してこちらにやってくると、清々しいほど爽やかな笑顔で軽く会釈をした。
「こんにちは。一之瀬海斗です。お世話になります」
「はじめまして!姉の、花音です」
私は少し照れながら笑顔で答えた。
妹の彼氏に会うのは人生初めてのことだ。
「海斗君、もしかして野球男児?」
直感でそう聞くと、海斗君が目を丸くして、それから笑って美妃を見た。
美妃が嬉しそうににこにこして海斗君を見上げる。
「そうだよ。さすがカノン!海斗は甲子園に出た元ピッチャーなの」
「やっぱり」
私は大きく頷いた。
背が高く日焼けしている海斗君は、マウンドに立つ姿が想像出来るくらいきりっとして爽やかな美青年だ。野球のトレーニングは半端ないくらい厳しいと聞くから、長年鍛えられた忍耐力が有るに違いない。過酷な商社で頭角を現すのも頷ける。能天気な美妃と真逆というか、ものすごくしっかりとして物怖じしない強さが顔に表れていた。
「ちなみに、極真空手の有段者なの」
美妃が自慢げにそう言ってのろけた。
「有段者!!!それはすごいね!」
素直に感心してしまう。
どうしてか分らないけれど、スポーツで有能な人って、仕事でも才能を発揮する気がする。
いわゆる文武両道ってやつだ。
「さ、アパートに荷物を運ぼう。102段だけど、大丈夫?」
前もって知らせてはいたけれど、大きなスーツケース二つを見下ろして申し訳ない気分になる。
「大丈夫です」
海斗君は爽やかな笑顔でそう答えた。
中庭を通って私のアパートの棟へ向ながら、私は美妃に小声で話しかけた。
「ちょっと、美妃?スーツケース二個を両方まかせるなんて、悪いんじゃないの?一個は、二人で運ぼうよ」
「えー、平気だってば」
美妃が唇を尖らせてそう言って、逃げるようにさっさと階段を上り始めた。
私は申し訳なくなって後ろの海斗君を振り返った。
「ごめんね、あの子わがままで。一個、手伝うよ」
すると、海斗君はクスクス笑いながら首を振った。
「平気です。慣れているので」
「慣れてる?」
慣れているとはどういうことだと思って顔を見ると、海斗君はちょっと声を潜めて答えた。
「友達の家族が引越会社を経営していて、週末になると、たまにピンチヒッターで呼び出されるんです」
「あ、なるほど……引越の手伝いね」
「職場に知られると困るからあまり気は進まないんですが、泣きつかれたら断れなくて」
「ふうん、そうなんだ。人助けだね。でも最近は、ほとんどエレベーターの引越じゃないの?」
「5階くらいの団地だと、意外とまだエレベーターなしの物件があって驚きますよ」
「あ、そっか。6階より高くなると殆どがエレベーター付って聞くよね。重い家具とか運んでるの?」
「家具は勿論、ピアノ運搬も請け負っている会社なんです」
「ピアノまで運ぶの!?」
「普通のアップライトピアノだったら、階段で行くことが多いですね」
びっくりしていると、海斗君は両手で一個ずつスーツケースの持ち手で掴むと、私の前を登り始めた。まるで買い物袋でも持っているかのようにどんどん上がって行く後ろ姿を見上げて呆然とする。
マッチョというほどでもないのに、絶対に20kgを超えているはずのスーツケースを左右に抱えてあのスピードはすごい。
慌ててその後ろを登り始めるが、手ぶらにも関わらず私がが海斗君のスピードに追いつくことはなかった。
上まで上がると、疲れ切った様子の美妃がドアに寄りかかっていて、その目の前には息も切らしていない海斗君が笑顔で立っていた。
「さすが海斗」
美妃が呟くようにそう褒めると、彼が苦笑していた。
3人でアパートに入って、荷物をリビングルームへ移動させる。
「わー、景色、いいなぁ!」
早速キッチンに行った美妃が窓の外を見て叫ぶ。
「階段はきついけど、やっぱり上からの景色はいいでしょ?」
私はそう言って窓を開けた。
もう建物の窓のあちこちに暖色系の灯りが灯って、ヨーロッパの夕暮れの景色がメルヘンチックになってきた。
「飲み物を入れるね。海斗君?何か温かいの、飲む?」
リビングのほうを覗くと、海斗君がソファに座っているのが見えた。
「コーヒーありますか」
「了解!ほら美妃、コーヒーマシンの説明するからちゃんと見て」
まだ窓にへばりついている美妃に声をかけ、冷凍庫に保存してあったコーヒーの粉を取り出した。
自分でもいつになくテンションが上がってしまっているのが分る。
仲の良いアナがまだ日本から戻って来なくて寂しかったせいもあり、代わりというわけではないけれど、美妃が来てくれたのがものすごく嬉しい。
「素敵な彼だね。落ち着きのない美妃とは真逆の、しっかり者って感じ」
小声でそう言うと、美妃がちょっと頬を紅潮させて微笑み素直に頷いた。
「そうなんだよねー、私が突っ走りそうになると、ブレーキ掛けてくれるって感じ」
「うんうん」
私は大きく頷いた。
美妃がリビングのほうを覗き、海斗君に手を振っている。
久しぶりに妹の後ろ姿を見た。
ゆるやかなウェーブを描く栗色の髪が背中を覆って、後ろから見るとまるでプリンセスのようだ。ただし、振り返ると表情豊かなお転婆な美妃。もう大人だけど、やっぱり妹はいつまでたっても幼く見えてしまう。
見た目は正統派美女なんだけれど、口を開くと弾丸トークと冗談連発で、実年齢より5歳くらい若い印象を与えてしまう。いや、精神年齢は下手したら10代後半くらいから成長していないような気がしなくもない。
「美妃?アーモンドのクッキーと、チョコレート、どっちがいい?」
「チョコ」
瞬時にそう答える美妃に思わず吹き出してしまう。
「ここの棚に、お菓子は入れてあるからね」
「オッケー!嬉しいな」
棚の中を覗いて美妃が満足そうな笑顔になる。
リビングのテーブルに、コーヒーとチョコレートを並べてソファに腰掛け、ほっと一息をつく。
コーヒーよりも先に、同時にチョコレートに手を伸ばした二人を見て、なんだか可愛いなぁと微笑ましくなる。
「ほんと、長距離を飛んだとは思えないくらい元気そうだね。昨日は仕事、早くあがったの?」
全く眠そうに見えない二人に感心して聞くと、美妃は思い出したかのように大きく欠伸をした。
「普通に仕事したよ。でも、飛行機でちょっと寝たし、初日に時差ぼけを調整したいから、絶対にまだ寝ない!」
「俺も大丈夫です。もともと、あまり寝なくても平気だから、時差ぼけ自体あまりないというか」
すっきりと目覚めている様子の海斗君だ。
「ほんと、海斗って3時間くらい熟睡したら、もうシャキッとしちゃうんだよ。羨ましい体質。私は最低7時間は寝ないと翌日仕事でミスが出るのに」
美妃がそう言って本当に羨ましそうに海斗君を見た。
「3時間だけで平気なの!超人的だね」
本当に驚いた。
たった3時間で目覚めがすっきりなんて、本当にそういう人がいるんだ。
そういえば、イヴァンもそんなことを言っていた気がした。
3時間で睡眠が足りるとなると、一日のうち21時間は有効に使えるわけで、無駄な時間は一切無いという感じだ。私も7、8時間は寝ないと翌日は昼間に眠気が襲って来るから、3時間睡眠なんてありえない話だ。
あのクラウスでさえ、最低5時間は寝ているし、朝は基本的に弱そうなタイプだ。仕事のない週末などは、なんだかんだと8時過ぎてもベッドでごろごろしていたりする。
二人から、飛行機の中での話やヘルシンキでの乗換えの話を聞いていると、表のブザーが鳴った。
時計を見ると、19時5分前。
クラウスが来たんだ!
ドキンとしてコーヒーカップをテーブルに置くと、隣に座っていた美妃がぱっと立ち上がり、玄関に走った。
「あっ、美妃」
驚いて見るともう美妃が受話器を取り上げて、声を張り上げた。
「ハロー!」
受話器から何か聞こえて、美妃が解錠ボタンを押すと、自信たっぷりに私を振り返った。
「ね、今の、私だって気づいたと思う?」
「え?」
「だってさ、声、似てるじゃない、私達?特に電話だと、ママでさえ間違った事あるくらいだし」
何やら悪いことを企んでいるようにニヤニヤしている美妃に呆れる。
相変わらず幼稚な妹だ。
異様にご機嫌な美妃を押しのけ玄関のドアの鍵を開けたら、リビングの海斗君も立ち上がってこちらにやってきた。
「海斗君、そっちに座ってていいよ!」
何も3人で玄関に立って出迎えなくてもいい!
「美妃も、あっちで待ってればいいじゃないの」
二人をリビングに押し戻そうとしたが、美妃が断固として動こうとしない。さすがに海斗君は遠慮してリビングに戻ろうとしたが、美妃ががっしりと腕を掴んで彼を引き止めた。
「ねぇ、なにも3人でここに居なくてもいいんだけど」
「やだ!お出迎えくらいやらせてよ」
「ちょっと美妃」
「いいじゃない、ケチ」
「ケチってどういう意味よ」
二人でドアの前で押し合いしていると、外で足音がして扉が開いた。
「あっ」
思わず二人で声をあげて振り向くと、濃紺のスーツ姿のクラウスがびっくりした様に目を見開いて私達3人を見ていた。何か言おうとしたら、私の肩を掴んでいた美妃がぱっと手を離してクラウスに向きなおる。
「クラウス!」
いきなり名前を呼ばれて目を丸くしたクラウスが、まじまじと美妃を見下ろすと、ぷっと吹き出した。
「さっき扉を開けたのは君だろう?」
「あれ?わかった?残念」
がっかりしたように美妃がそう言って、肩を落とした。
そりゃわかるだろう。私の声を聞き慣れていれば、いくら似ていても違いくらい気づくはずだ。
「ミキ、ベルリンへようこそ。クラウス・ゾマーフェルド」
クラウスがにっこり微笑んでそう名乗ると、美妃の肩を抱いて挨拶をして、それから面白そうにその顔を覗き込んだ。
「カノンの家族に会うのは君が初めてだ。声もそうだが、やっぱりどことなく似ている気がする」
そう言われて、美妃が照れた様に頬を赤らめ、嬉しそうににこにこと笑って私を見る。
クラウスが美妃の後ろに立つ海斗君に目を向けた。海斗君は自分に注意が向いたことに気がつき、こちらへ数歩出ると、クラウスに笑顔で手を差し出した。
「カイト・イチノセ。会えて嬉しいです」
落ち着いてしっかりした態度。大学時代、交換留学でアメリカに二年行っていたらしいが、本当に訛りのない奇麗な英語の発音だ。
クラウスは目を細めてにっこりすると、海斗君の手を取って握手をしながら軽く肩を叩く。
「クラウスだ。カイト、君は随分と大人っぽいな」
そんなことを言ってクスクスと笑い、同時に海斗君も苦笑する。
「その言い方だと、私が大人じゃないみたいな印象を受けるんだけど?」
すかさず美妃がつっこみを入れる。不満げに眉をしかめている美妃は、まるですねた子供のようだ。
「まんざら間違ってはいないだろう」
クラウスが頷きながら躊躇いもなくそう答えたので、海斗君が耐えられないというように吹き出した。美妃がむっとして海斗君を睨みつけたので、彼は笑いを止めようと横を向く。
その様子を見て、私とクラウスは目を見合わせ笑い出した。
なかなか面白いコンビらしい。
「さて、君たち、お腹の空き具合はどうなんだ?」
クラウスがそう聞くと、元気な美妃が手をあげて真っ先に答えた。
「空いてます!私達、機内食から何も食べてないから、ペコペコ!さ、行こう!海斗、靴!」
待ちきれない美妃がさっとロングブーツに足を入れながら、後ろの海斗君をせかす。
リビングにコートを取りに行って玄関に戻ると、もう美妃と海斗君の姿がなくて、階段を駆け降りる足音が聞こえた。
「あの子ったら!」
二人ともコートを脱ぎ捨てたまま出て行ってしまった。夜は冷えるというのに!
「ミキがカイトを引きずるように飛び出した」
クラウスが可笑しくてたまらないというように笑いながら、私が抱えていた二人分のコートを受け取る。
「美妃はせっかちなの。特に、楽しい事は待てない性格」
自分のコートを羽織りながらそう言うと、クラウスが目を細めて頷いた。
「ミキは君を2倍速で見ている感じがする。手綱を握るカイトが大変そうだ」
会って間もないのにそこまで気がついたんだ、と可笑しくなって私も笑い出してしまった。
玄関の外に出て鍵を閉め階段を下りようとしたら、クラウスが後ろから私をぎゅっと抱きしめた。そしてとても楽しそうな微笑みを浮かべて私の顔を覗き込む。
「君の家族に会えて、とても嬉しい」
彼の目がキラキラと輝いて、本当に喜んでいるのが分る。
私も嬉しくて笑顔で大きく頷いた。
「私も!貴方を紹介出来て、とっても幸せ!」
クラウスが頷いて私の額にキスをすると、ネクタイに手をやって結び目を緩め、いつものようにボタンをふたつ外す。そして、その手で軽く髪を掻き上げて私に微笑みかける。リラックスモードになったクラウスを見て、相変わらずその魅力に見とれてしまった私に彼がウインクした。
「楽しい食事になりそうだ。さぁ、行こう」
「うん!」
顔を見合わせて同時に笑い、私達も急いで階段を下り始めた。
開け放たれている踊り場の窓から、すでに日が沈んだ夜景が見え、ひんやりとした夜風が吹き込んで来る。
「カノーン!私達、コート、忘れちゃったぁ!さむーい!」
階段のずっと下から、美妃が声を張り上げるのが聞こえた。
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