上 下
18 / 35
誤った結び目を解く方法

予期せぬ訪問客

しおりを挟む
ラップトップの時間表示を見ると、夕方の5時を少し過ぎたところだ。
私はいまだに眩しい日が差すテラスに居た。そうは言っても、勿論、パラソルの日陰の下。
気温は多分、30度くらいだろう。
ベルリンの夏は日が長い分、日中の最高気温は夕方がピーク。これから少しずつ日が傾くにつれて、夕暮れの風が吹き始め気温は下がって行き、夜中には20度を切る。
しばらく雨が降っていないこともあり、空気が乾燥しているから、テラスに居ても日陰はとても過ごし易い。あえて気をつけることといえば、間違っても素足で歩かないことだ。日が照っているテラスは焼けるように熱いので、うっかり裸足で歩こうものなら、焼き石の上に触れたように熱くて飛び上がってしまう。
私はラップトップに開いてあるメールにもう一度目を落とした。
今日は、久しぶりにアナからメールが来た。
お父さんの検査は無事に終わり、検査結果もまずまずで、心臓の方は大きな問題はないものの、自律神経失調症の悪化で不整脈が頻繁に出る様になっているということで、原因となっているストレスを緩和する薬を処方されたらしい。問題は服薬により、倦怠感や眠気が強いらしく、それらの副作用に慣れるまではお父さんを1人で置いておくわけにはいかないので、しばらくは日本に留まると決めたらしい。
一大事にならなかったのにはほっとしたけれど、薬によって日常生活に支障が出てしまうとなると、これからお父さんを一人暮らしさせるのも不安になってしまうだろうと、新たな心配事が出来てしまった。
アナのメールの様子からすると、今のところベルリンに戻って来るのがいつになるのか見当もつかない感じを受けた。
まずは、お父さんの体調が良くなることを最優先にしたいのは当然のことだ。
具合の芳しくないお父さんのために、毎日料理を頑張っているとのことだった。
一日も早く、状況が改善することを願うしかない。
アナが頑張りすぎて倒れてしまうんじゃないかとそれが気になったけれど、あえて返信メールにはそのことは書かなかった。彼女だって、それくらいよく分っている。きっと、父親を一人きりにして国外に居た自分を責めて、出来る限りのことをしようと頑張っているのだから、今、外野であれこれともっともらしいアドバイスをするのは失礼だろう。
ラップトップを締めると、私はリビングに戻ってテラスへのガラス戸を締め、施錠した。
キッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターを出して、グラス一杯のお水を飲み、私は出かける準備を始めた。

今日は金曜日。クラウスは市内で新しいオフィススペースの下見に行っている。先日、今後はベルリンにベースを置いて、各地の担当と連携して仕事をまわすようになるとの話を聞いた通り、このところその準備を整え始めているようだ。ベルリンでも数人採用が決まっており、現在はオフィススペースがなく彼らは在宅勤務状態にしてあるということと、ヨナスも現在オフィスと居住スペースを共有したペントハウスで手狭になってきたので、今回二人で相談し、ついにオフィススペースを確保することにしたそうだ。
Sommerfeld家はドイツ各地にかなりの不動産を所有しており、クラウスの父がそれまで手つかずであった場所も含め、店舗や飲食店をオープンさせ始めたという。それがもとで、Sommerfeld家に縁のある資産家が、同じく放置していた不動産を生かしたいと、Sommerfeld家に頼るようになり、現在は依頼主の不動産の活用、運営コンサルをメインにビジネスを拡大しているということだ。組織的には、父の指揮下のもと、経営と運営コンサルはクラウスが、物件によって建築や内装の依頼があれば、ヨナスが引き受けており、それぞれ業務をサポートする部下を抱えている状態らしい。
クラウスは今日、そのオフィススペースの下見の後は、ジムに寄るというので、それが終る頃に合流して買い出しに行く約束をしている。
私はずっと知らなかったけど、アダムの行っているジムには、ヨナスもクラウスも通っており、ベルリン各地に同じ系列のジムがあって、必ずしも同じ場所に行っているわけではないようだけど、たまに偶然居合わせることがあるらしい。クラウスは基本的に、ワークアウトと、アウトドアトレーニング、スイミングをやっていて、ヨナスもほぼ同じメニューらしい。アダムは、ボクシングにパーソナルトレーナーを付けてかなり本格的だそうだ。マリアもフリースタイルでたまに通っていると聞いて、さすがに私も驚いた。
クラウス曰く、「人を使う責任のある仕事をするには、自己管理が完璧に出来ていると証明しなくてはならない」そうだ。皆が健康管理にジムに通っていると聞いて、影響の受け易い私も急に自分も行った方がいいんじゃないかと思い始めて、クラウスにその事を相談してみたら、あまりいい顔をせず、女性専用のジムなら行っても良いとのことだった。なんでも、トレーニングウェアを着た私が、男性トレーナーに手取り足取り教えてもらうのは嫌だから、それくらいなら自分がトレーニングしてやるとまで言ってくれた。
もちろん、それは丁重にお断りしておいた。もう、車の運転で彼のスパルタぶりは十分に知ったから、彼にトレーニングコーチなんて頼んだら大変なことになるということは目に見えている。

結局、あれから私は基本的に彼のアパート居ることが殆どという状態になっている。というのも、最初の2週間、週末を一緒に過ごして、学校がある月曜日から木曜日までは自分のアパートに居たのだが、そうなるとその間は彼が私のアパートに帰って来たりして、だんだんややこしくなったからだ。
最初はそれも楽しかったけれど、冷蔵庫の中身も両方で管理しなければいけないし、衣類も同じく、あちらで洗濯したり、こちらでクリーニングに出したり、彼も私をピックアップしたり送ったりと、移動のために時間と労力ばかり使っていることに気がついた。それである日私を迎えに来た彼が突然、大きなスーツケースを二つ持ちこんで、私の衣類や本、貴重品など全部詰め込んでそのまま自分のアパートに持って行ってしまった。
そういうこともあり、今、彼のアパートは私の私物もちらほらと目につく状態になり、以前より随分モデルルーム感はなくなった感じだ。
私の記事が載った雑誌や、お気に入りの小説も棚にあるし、テディベアのシナモンもソファに座っている。パステルカラーのクッションもいくつかこの黒いレザーのソファに転がっていて、キッチンやバスルーム、リビングにもお花が活けてあり、無機質だったアパートにも少し彩りが出た。カウンターにはいつも数種類の果物が入った籠がおいてあり、彼がこのフルーツと、新鮮な野菜を使って、毎朝美味しいジュースを作ってくれるのが日課になっている。
彼が夜に、シナモンを片手に抱えて、ピンク色のクッションに寄りかかってテレビのニュースを真剣に見ているのを目にすると、その姿が微笑ましてく私は1人でにやにやとその様子を眺めてしまう。
二人で一緒に住むというのが、こんなに楽しくて幸せなものだとは、実際に経験するまでは想像出来なかった。

冷蔵庫の中身を確認して、足りないものをメモする。
8月の後半に差し掛かり、もうすぐ秋になる。今週くらいで暑い日も終わりになるのかもしれない。
今日は、フーゴと行ったREPLAYで買ったダークグリーンのワンピに決めた。ショルダーは覆われているのにノースリーブ、ストンとしたラインで、丈は膝上、胸元にブラックビーズがたくさんついていて、ちょっとしたお出かけにはちょうどいいし、これを着ると少し大人っぽく見える気がする。
クラウスと公園や湖などアウトドアで散歩したりする時は、基本的にジーンズやパンツなど、カジュアルで動き易いものを着るけれど、街に出かける時は、以前より女性らしい服装をするようになった。
バスと電車を乗り継いで、待ち合わせの場所へ向かう。
Berlin Sundgauer Str駅に到着して、Clayalleeというショッピング街の大通りをしばらく歩くと、右手に大きなガラス張りのピルが見えて来た。そこが、FitnessFirstというジムらしい。約束の時間まで後数分あるので、ジムの前の木陰に立ってあたりを観察しながら待つ。ジムから出て来る人達は皆、とても引き締まった体格で元気の良さそうな人が多いようだ。やっぱり、女性専用ジムに体験にいってみようかと思い始める。
ドアが開いて、お待ちかねの彼が出て来た。
トレーニングウエアの入ったスポーツバッグを肩に抱えて、笑顔でこちらに片手をあげた。ブルージンズと、ホワイトにブルーのピンストライプの入ったシャツを羽織り、袖は肘までまくり上げて、まだ少しシャワーで濡れたままの髪。毎日見ている彼なのに、あまりにも華麗なその姿にやっぱり見惚れてしまい、手を挙げて合図するのも忘れてただ立ちつくしてしまう。
「見惚れてたのか?」
はっと気がつくと、彼が満足げな笑顔で私を見下ろしていた。
「瞬きも忘れてる」
そう言われて思わず瞬きをして、私は笑った。
「ほんと、すっかり目を奪われちゃったみたい」
正直に同意すると、彼が目を見開いて少し照れたように笑う。クラウスが実はかなり照れ屋だということを発見して、最近は私もそんな様子を楽しむ余裕が出て来た。
「ニッキー」
後ろから出て来た他のジム帰りの男性二人が彼の肩を叩いてこちらを覗き込んだ。
「うわさの恋人?」
その1人がそう聞いて、興味深そうにじっと私を見たので、恥ずかしくなったけれどなんとか笑顔を作った。クラウスがにっこり笑って私の肩を抱いて、そうだ、と答えたので、なぜか更に恥ずかしくなりそれを隠すために何度か瞬きをする。
彼らが、へぇと声を上げて、それから顔を見合わせて笑った。
「ニッキー目当てに来ている女の子が随分落胆してたけど、噂は本当だったんだ」
「事実だとわかると、数人はジム通いを止めるんじゃないか」
「受付の子も辞めかねないな」
「ヨナスが無理ならニッキーを、って狙ってたやつ、結構いたからなぁ」
そんなことを言って、チャオ、と私達にウインクして去って行く。
「……すごいモテようなのね、クラウス。ファンクラブでもあるの?」
意外とまではいかないけど、さすがにそのモテ具合をこうやって他人から聞くと、嫉妬を通り越して感心してしまう。
「さぁ。でも、そう悪くないだろう?」
「え?」
悪くないとは、どういう意味だ。
思い切り、嫉妬したくなるんだけど?心配にもなるんだけど?
眉をひそめて彼を見上げると、彼がいたずらっ子のように目を煌めかせて私を見下ろした。
「そんな俺が見ているのは君だけだなんて、悪い気はしないだろう?」
その言葉に思わずドキンとして言葉を失い、ただ黙って小さく頷いた。
クラウスはこうやって私をドキドキさせるのがとても上手だ。
「さぁ、行こう」
クラウスが満足げに微笑んで、私の手を取り歩き出す。
私を導いてくれるこの大きな手が、私は大好きだ。
時折私を見下ろして優しく微笑む彼に、また見とれてしまう。
「最近は、この時間も涼しい風が吹くようになってきた」
クラウスが気持ち良さそうに空を仰ぐと、少し伸びた彼の髪が風でふわりと浮いた。
「海に行くのはもうスケジュール的に無理になってしまったが、来月のニースは時間を取りたい」
「そうだね、行けたらいいなぁ」
結局8月はもう終わりになってしまう。あの誤解から生じた騒動のせいで、海に行く計画は実現しなかったけれど、でもその代わり、私達の関係はもっと強く、距離も近くなった。
クラウスが送ってくれたあの美しい透明な波が押し寄せる白い砂浜を思い出す。
奇麗な海に、一緒に行けたらどんなに素敵なことだろう。
「でも、オフィスをオープンさせたり、いろいろ忙しい時期だから、ニースも無理しなくていいよ。私は、一緒に居られるだけで毎日幸せだから」
本当にそう思っているので、そう言ってみると、彼は何度か瞬きをして、それからクスッと笑う。
「勿論、俺も同じように思っている。ニースなんていつでも行こうと思えば行けるし、君と一緒に過ごす時間が何よりだ。どちらにせよ、来月はもうニースも泳ぐ程の暑さではなくなっているだろう」
「9月後半だと無理かもね」
「そうなると」
クラウスが言葉と続ける。
「せっかく準備した水着を着た君を見るのがまた先送りになってしまう。それが残念だ」
「……」
思わずカッと顔が熱くなり、息を飲み込んだ。ちらりと彼を見上げると、案の定、にやにやして私のほうを見ている。
あの、水着。
クラウスは、Victoria's Secretの水着をちゃんと買っていた。
美しいエメラルドグリーンのビキニ。
その色は本当に鮮やかで私も最初はとても感激した。
箱から取り出してデザインを確認し始めると、感激が羞恥に変わる。
トップは見た所、ガパガパになる感じではないものの、首の後ろと背中を紐で縛るタイプ。
ボトムも、左右に紐がついていた。
紐が4カ所も!!!
まさか、本当にこんな紐だらけのを買って来るとは思わなくて、両手にそれを持ち恥ずかしさに顔を上げられなかった。
挙げ句に、何を調子に乗ったのか、同じくVictoria's Secretのランジェリーやスリープウェアまで何着か買っていて、笑顔でまとめて渡された。それはもう、豪華で美しいランジェリーだったけれど、こんなものを男性にもらったことが無かった私には、恥ずかしさでしばらくはお礼の言葉も出てこないくらい参ってしまった。
それでも確かに、肌触りも滑らかでドレスのように美しいランジェリーを身につけるのは、まるで自分がプリンセスにでもなったかのように気持ちが高揚して、私もすっかり気に入っている。それに光沢のあるサテンのスリープウェアで眠るのはとっても気持ちよくて、特に夏の季節にはぴったりだ。
「少し寒い季節に、常夏の島に行くという方法もある」
どうしても海に行きたいらしいクラウス。
楽しそうに目を煌めかせている彼を見ていると、頑張ってあのビキニを着ようかという気分になってくるから不思議だ。
大通りのお店を見ながら歩いていると、本屋が見えた。
「ちょっと本屋を見ていい?」
私は立ち止まって中を覗いた。
二人で一緒に中に入ってみる。結構広く、地下、地上とその上と3フロア、とかなりの蔵書が揃っているようだ。
「料理の本、チェックしてみる」
私がそう言うと、クラウスは辺りを見渡して、少し離れたところで目を止めた。
「奥に旅行関係のものがありそうだ。俺はあちらを見てくる」
「うん、わかった。こっちが終ったらそちらに行くね」
そこで二手に別れて、それぞれの興味が向くエリアへ向かう。
思った通り、かなりの料理本があった。
肉料理レシピ全集、スープ専門本、お菓子専門の本はもちろん、マクロビとかベジタリアンの専門雑誌などもある。あれもこれも面白くて悩むが、ドイツ語のレシピ本は結構難しかったりする。途中、EU諸国で使用されている添加物の表示のリストが辞書風にまとまったものを見つけ、それは絶対買おうと決めて手に取る。それからまた、料理本をしばらく見ていたが、Jamie OliverのComfort Foodと、Friday Night Feastという本を買うことで心は決まった。こちらは英語だし、テレビで何回も彼の料理番組を見ていて、あのリズム感のある料理と軽快なおしゃべりがとても好きだ。そういえば、Jamieがレモンを絞ったり、香辛料をかけたりする動作が、クラウスのそれと少し似ている気がする。Jamieの動きはもう完全にエンターティナーばりになっているけれど、楽しそうに料理をしている雰囲気や勢いは、クラウスと似ている。
買うことを決めた3冊を持って、少し遠くにいるクラウスのほうへ向かう。
本棚を隔てた向こうに彼が居て、声をかけると数冊選んでいるところだった。
「見つけたの?」
彼が手に取った本を見せてくれた。
タイのビーチ、フロリダのビーチの本と、マウイ島の本らしい。
結構遠い場所のばかりを選んでいるようだが、よく考えたらフロリダなんかは日本から行くよりヨーロッパから行くほうが断然近いのかもしれない。
今晩は二人でソファに座って、それぞれの本を開いてゆっくり過ごせるなぁと嬉しくてにこにこしてしまう。
こういったなんでもないひと時が、説明出来ないくらい幸せな瞬間なのだ。
レジで支払を済ませて、大通りに出る。
さて、これから夕食の買い出し。
山盛りサラダとか、冷製パスタなんか美味しいかもしれない。
昨晩は煮込みハンバーグを作ったので、今日はお肉は止めた方が良いだろう。
彼が買った本の袋を、スポーツバッグの中に入れようと立ち止まった。
私は一歩前に出て、シーフードの専門店がこのへんにあるのかなぁとあたりを見渡してみる。
「あら、ニック!」
少し甲高い女性の声がした。
「随分久しぶりじゃないの」
後ろを振り返ってみると、背の高いスーツ姿の女性がまさにクラウスに抱きついているところだった。
抱きついているといっても、こちらでは挨拶として老若男女関係なくハグをするので、それ自体は驚くことでもないので、私も大きな動揺はしない。もうこの2、3週間ですでに数回、こういう場に遭遇している。
「やぁ、アメリー」
彼も軽く彼女の肩を抱いて笑い、そしてすぐに手を離した。
「どうしたのよ、このところずっと連絡ないじゃないの」
アメリーと呼ばれた女性が、彼の腕を掴んで責めるように言う。その瞬間、クラウスが気まずそうに眉を潜めこちらを見て、自分の腕に絡んだ彼女の手をはずした。
どうやら、昔付き合ったことのある女性、ということらしい。あの、市内のRocco Forte Hotel de Rome前で見かけた女性以来初めて、実際に彼と交際していた女性に遭遇したわけだ。しかも、前回の女性は、パリから出張で来ていて、私は見かけただけで会ってはいない。よって、今ここにいるアメリーという女性が、私が初めて対面する元カノ、というわけだ。
この状況に案の定、静かにパニック状態になる私。
どうしたらいいのか全く分らない。
彼も気まずそうな顔をしているし、勿論、彼のことを信用しているけれど、いたたまれないのは間違いない。
もう逃げることはしないと約束したから、この場を去ることはしたくない。
私はそっとなるべく自然に視線を泳がせて、彼らに背を向けて反対方向を見た。
あの二人を視界に入れたくない。
でも、もう逃げないと約束したから、この場からは逃走しない。
せめて、早くこの再会シーンが終って欲しい。ただそれだけを必死で願う。
アメリーの声がまた聞こえる。
「そろそろ私が恋しくなった頃じゃない?今から帰る所だから、一緒に来ない?また私のアパートに来て」
その言葉に、全身が総毛立ちそうになった。
生々しい過去を否が応にも想像して、それを想像している自分にも反吐が出そうになる。
彼女とクラウスが、抱き合ったりキスしているのを想像している自分が、死ぬ程嫌いだ。必死でその映像を頭から消そうと精神を集中する。
さっき見た女性は、ダークブラウンの上品な髪をして、高級そうなブランドもののスーツを着ていたから、きっと仕事も出来る才媛なのじゃないだろうか。確かに、彼と釣り合う感じなのは否定出来ない。
卑屈になってはダメだとわかっていても、今の自分は、ただの語学留学に来ている28歳の無職女だから、どうしても落ち込んでしまう。私も、東京に居たときは、それなりに大きな企業に勤めて、重要な仕事だってまかされていたのに……今更ながら、仕事を辞めたことに後悔してしまう。
どう処理したらよいのか分らない嫉妬と自己嫌悪で、視線がどんどん下に下がって、気がつくと私は自分の足元を見て唇を噛み締めていた。
「今夜が無理なら、週末にどうかしら。久しぶりに飲みにも行きたいし、いつがいい?」
ダイレクトな誘い方にドキンとしてしまう。こんなにぐいぐい自己主張出来るというのは、ある意味すごいと思う。
自分に自信があるからこそ、卑屈にもならないし、どんな状況にもひるまない強さがあるのかもしれない。
私だったら、付き合っていた男性としばらく連絡が取れなくなった時点でもう、弱気になって、街で見かけても声をかけるどころか隠れてしまうのに。
「アメリー、紹介しよう」
クラウスの落ち着いた声が聞こえて、はっと思考が現実に戻る。
「カノン」
背中のほうから声が聞こえて、ドキリとした。
なんで、私を呼ぶの?!
貴方の元カノに紹介されたくなんかない!
顔を見て、嫉妬したり、僻んだりして、醜い自分を貴方に見られたくないのに!!!
お願いだから、このまま私を1人にしておいて!
私は思わず、振り返る代わりに反対のほうへ歩き出そうとしたが、またも、彼が呼んだ。
今度はゆっくりと、とても優しい声で。
「カノン」
試されている。
私はぴたりと動くのをやめた。
きっと、これは、試練だ。
こういうことは、これで最後になるわけではない。
今、きちんと現実に向き合うことが出来なければ、今後も同じことの繰り返しになる。
彼は、自分がかなりの女性と付き合ったことがあると認めた。
そうだと分っていて、その彼を選んだのは、私自身。
過去の彼を否定することは、今の彼を否定することと同じだ。
過去も今も未来も含めて、すべての彼を受け入れてこそ、本当に愛しているということ。
どんな過去も、どんな未来も。たとえそれが自分に取って辛いことであっても。
現実から逃げていては、彼と一緒にいるなんて絶対に続かない……
私は、彼と一緒に居たい。
私は覚悟を決め、一度大きく深呼吸をすると、ゆっくりと振り返った。
二人がこちらを見ている。
私が彼を見ると、彼はとても満足げな微笑みを浮かべた。
彼は、私が自分の葛藤と戦ったことを知っている。だから、あんな微笑みを浮かべたんだ。
私のことをよく知っているからこそ……
クラウスはこちらに歩いて来ると、優しい目で私を見下ろして、それから手を繋ぎアメリーのところへ戻った。
アメリーが真っ青な目を大きく見開いて私を見ている。
「アメリー。彼女は、カノン」
クラウスはそう言うと、美しいブルーグレーの瞳を細めて私を見下ろした。
「やっと見つけた、俺の恋人だ」
その言葉に心臓が跳ね、息が止まりそうになったけれど、私はなんとか笑顔を作って挨拶をした。
「こんにちは」
アメリーは信じられないというように目を見開いて、クラウスのほうを見る。
「どういうこと?あなた、恋人は作らない主義だって言ってたじゃないの」
まるで責めるようにそう言った。
「それは、彼女を探していたからだ。随分と苦労して、やっと手に入れた俺の宝物」
「なんですって」
耳を疑うというようにアメリーが呆然とした様子でクラウスを眺めた。
私は緊張感も究極に達していたけれど、こうしてはっきりと言ってくれる彼の気持ちが嬉しくて、涙が浮かびそうになるのをただ必死にこらえていた。
クラウスが私の手と自分の手をからめて、それからとても優しい目で私に微笑みかける。
それを見たアメリーが、見てはならないものを見たとでもいうように、大きく首を左右に振り、それから私を見た。
「ニック、随分と趣味が変わったのね。アジア人の血が入っている子なんて、貴方のご家族が認めるとは思えないわ。せいぜい、物珍しさで愛人の1人ってところかしら」
明らかに憎しみと嫉妬の混じった刺のある言い方に、流石に私も傷ついたが、黙って彼女を見た。
私だって、彼女の気持ちはわかる。
好きな人が、自分より格下っぽい女を連れていたら、絶対に気に食わないだろうし、私だって彼女に嫉妬しているんだから、お互い様といえばお互い様だ。
「アメリー。君が侮辱しているのは彼女ではなく俺だ。俺が人をルーツや家柄で見るような低レベルな人間だと言いたいのか」」
見れば憮然とした様子のクラウスがじっと冷たい目でアメリーを見つめていた。静かに怒っているのが見て取れる。
アメリーはひるむ様子は見せず、更に苛立ったように声を荒げ私を睨みつけた。
「どうやって彼を落としたのか知らないけれど、貴女みたいな子、すぐに捨てられるに決まってるわ」
捨て台詞のように荒々しくそう言い放つと、さっと踵を返して人ごみの中へ消えて行った。
彼女の後ろ姿が見えなくなると、どっと疲れが出て思わず大きな溜め息が出てしまった。
今カノ、元カノが会っていいことなんて絶対にない。
それにしても、なんであそこまで怒ったんだろうか。ただの嫉妬というより、憎悪に近かったような気がする。
「カノン?」
クラウスが少し心配したような顔で私を見ているのに気がついた。
「嫌な気分にさせて悪かった」
その言葉に私は目を丸くして彼を見上げた。
「ううん、大丈夫。クラウスは何も謝ることはないよ!過去の貴方も、今の貴方も同じ貴方だもの。それに、あんな風に言ってくれてすごく嬉しかった」
本当に心からそう思っていたので、先ほどまでの緊張も消えて私は笑顔になっていた。
クラウスはそんな私にびっくりしたようだった。
「でも、とても怒ってたね……クラウスのこと、すごく好きだったんだと思う」
最後は少し怖いくらいだったなぁと思って思わずそう呟くと、クラウスがクスッと笑って、繋いでいる手に力を込めた。
「いや、恐らくこれだろう」
「これ?」
私は手を見下ろした。いつも繋いでいる手だ。
「俺は誰とも手は繋いだことはない。誰かが手を触ろうとするといつも振りほどいていたから」
私はびっくりして彼を見上げた。
あぁ、だから、あのパリから来ていた人も、今の人も、彼の腕にしがみつこうとしていたのかもしれない。だとすると、私がこうして彼の手に触れているというのは、ものすごいことなのかもしれない。
驚きと意外な事実に彼の顔をまじまじと見つめる。
クラウスは私があまりにもじっと見つめるせいか、少し照れたように微笑んで、そしてまるで秘密を明かすように声を低くして告白した。
「いろんなことが初めてだ。手を繋ぐこと。俺のバイクに乗せること。アパートにも呼んだことはない。ぬいぐるみや、ランジェリーだって、他の誰にも買ったことはなかった」
「えっ」
ますます驚いて目が点になってしまう。てっきり、水着とかランジェリーのプレゼントは慣れたものなんだろうと思ってた。
「俺は、自分のテリトリーに他人がずかずか入り込むのは嫌いだ。だが大概のやつがすぐに無理矢理入り込もうとする。だから、自分の生活を乱されないよう、自然と境界線を作っていたんだろう」
彼はそう言って、繋いだ手を見下ろした。
「君は、最初から他の誰とも違ってた」
「違う?どこが?」
思い当たる節が全くない。不思議なことを言うなと思っていると、彼がまた、可笑しそうに微笑んだ。
「俺のことを殆ど何も聞いてこようとしなかった。たまに問いかけてきた時も、何を食べるのかとか、服やバイクの話など、一般的なことばかり。俺がどのような仕事をしているのか、どこに住んでいるのか、プライベートに関わることは一切聞こうとしなかった。それに、俺の携帯を渡しても見ようとしなかった。財布を渡してもだ」
「財布?あ、アイスクリームの時の?」
「別に君を試すつもりじゃなかったけれど、これまでよく、テーブルに置いた財布や携帯をいじられたことがあった。携帯や財布の中を見て、あれこれ聞かれたことも嫌というほどあって、そういうことがあるとすぐに関わりを断った」
「……携帯や財布に興味はなかったけど、貴方のことはいろいろ知りたかったよ。でも、なんか聞いたらよくないかなと思って、聞けなかった」
正直にそう言うと、彼は頷いた。
「俺がそういう雰囲気だったから、無理に聞かなかったんだろう。それでも、大抵の女は我慢出来ずにいろいろと詮索しようとした。君が何も聞かないのは、俺が望まないことをしたくないからだろうと分っていても、だんだんと不安になった。もしかすると、君は本当は俺のことなんて全く気にもかけていないのかと」
「……それは、実際は違ったんだけどね……余計なこと聞いて嫌われるのが怖かったし、貴方ともう会えなくなったら嫌だったから」
しつこい女とか、重い女と思われたくなくて聞けなかっただけと言っても過言ではない。
自分に自信のない小心者だからだ。
クラウスはその頃を思い出すように懐かしそうな目をした。
「デートに誘って来る積極的な相手はいつでも周りに居たから、まるで消極的な君をどうしたら振り向かせられるか、全くわからなかった。怖がらせて逃げられたらと思うと、慎重になりすぎて、どうやって距離を縮めればいいのかさえわからなかった」
「え?全然、そんな風には見えなかったよ?女性の扱いなんて手慣れた、百戦錬磨のプロ級プレイボーイって感じしてたけど?」
思い切り疑わしい目を受けると、クラウスが眉を潜めて少し私を睨んだ。
「少なくとも、今まで誰もくどいたことはない。自慢じゃないが、その必要は一切なかった」
「……ほんとに?」
あれだけ人を動揺させるような言葉を散々言っておいて、実はプレイボーイじゃないと信じろというのも無理な話だけれど、くどかなくても女性が寄って来るのは事実ではある。
そう思って、とりあえず納得して頷いた。
見上げると彼は美しい目を細めて幸せそうに微笑んだ、
「マルコ・ポーロ空港で君を待っている時、もし現れなかったらと気が気じゃなかった。君の姿を見つけた時の気持ちは一生忘れないだろう」
そう言って彼は繋いだ手に力を込めて楽しそうに言う。
「車を使わずに、君とは電車やバス、徒歩で出歩くのは、こうして手を繋げるからだ。車だと、両手はハンドルで塞がってしまう」
「あ、そうかも……」
車で移動すると座っているだけでこうやって手を繋いだり腕を組むとかは出来ない。だから、彼は時間がある時はいつも、公共交通機関を使いたがるのだろうか。
「それに」
クラウスが手を離すと、私の背中に手をまわしてぎゅっと抱き寄せて、じっと顔を覗き込んだ。
「こうしていつでも君を抱きしめられる」
「クラウス……」
胸がカーッと熱くなるくらい温かい気持ちになって、私も両腕を彼の背中に回してぎゅっと抱きしめ返す。微かに感じるいつもと同じ彼の香水の香りと、逞しい胸の中に包まれて、このまま時間が止まればいいと思う。
「Meine Liebe」
雑踏に紛れたその言葉が、私の耳をくすぐって思わず頬が緩んでしまう。
見上げると、私を見下ろす煌めく美しい瞳。見とれる程優しい微笑みを浮かべた彼が、そっとキスをした。想いを確認しあうキスをして、お互い微笑み合う。私は彼の首にしがみついて、その耳に囁いた。
「クラウス。私、とても幸せ」
彼がゆっくり頷いて幸せそうに目を細め、私の頬に唇を寄せた。


通りかかったBio Companyという有機食品スーパーで買い物をする。このスーパーもチェーン店で、ベルリンの至る所にあって便利だ。
このスーパーには、有機の材料を使ったベーカリーも併設されていて、驚いたことに、なんと日本の三角おにぎりがパンと一緒に並んで販売されていた。Rice Upという商品名で、見た目は日本のコンビニで見かけるようなパッケージだけれど、材料はすべて有機の材料を使用されているらしく、具もドイツ人向けの味付けが主のように見える。思わず味見したくなったけれど、日本人たるもの、おにぎりくらいは自分で作るべきだと考え直す。
そこのベーカリーで数種類のパンを買い、スーパーの店内に入る。今日はそれほど買う予定ではないので、クラウスが緑の買い物かごを持つ。
野菜売り場でパプリカやアスパラガスを見ている時に、私の携帯が鳴った。
バッグから出してみると、それはアダムからだった。クラウスが私の携帯を覗き込んで、少しびっくりした様子で言う。
「めずらしいな」
「うん、ちょっと出てみる」
アダムとはしばらく連絡を取っていないし、クラウスもこのところ会っていないらしい。
私は持っていたホワイトアスパラガスの束をクラウスに渡して、携帯に応答した。
「アダム?」
『やぁカノン、今、平気か?』
「うん、大丈夫だよ。久しぶりだね。どうしたの?」
普通は大体メールで連絡をよこすのに、電話をしてきたとということは、それなりの理由があるとしか思えないのでそう聞くと、アダムが少し黙り込み、それから小さく溜め息をした。
『アナから何も連絡がこない。君には来ているんだろう?』
「あ、うん、今日来たよ!お父さん、体には問題なかったんだけど、お薬を飲むことになったんだって。でも、その副作用でだるいみたいで、アナはしばらくお世話に専念したいって」
『そうだったのか。じゃぁ、まずは一安心ということか』
アダムはほっとしたような声でそう言って、少し笑う声が聞こえた。
よほど気に病んでいたんだろう。
最後にアナを見たのは、空港で彼女を見送ったアダムだから、きっとあの憔悴ぶりを見て随分と心配したに違いない。
アナから連絡が行っていないと知っていたら、すぐにでも教えてあげたのに、と思っていると、クラウスが私の肩に触れた。見上げると、携帯を指差して何か目で合図をしている。
どうやら電話を代われと言っているようだ。
「アダム、ちょっと待って」
私はドキドキしながら、携帯をクラウスに渡した。
二人が一緒に居る所も見たことはないし、本当に友人なのかどうかも100%は信じきれないので、妙に緊張する。
クラウスはいたずらっ子のように目を煌めかせて私に微笑むと、電話を耳にあてた。
「やぁ、アダム。俺だ」
そうクラウスが言うと、携帯から笑い声が漏れて聞こえた。アダムが何やら言っている。
クラウスも笑いながらそれに答えて、何か二人で話し始めた。
本当に、友達だったらしい。
改めて驚いてクラウスを見上げると、彼は電話で会話を続けながら私に笑いかけた。
不思議な感じだけど、何やら楽しそう。
考えてみれば、二人ともアメリカ生活が長かったし、年齢も恐らく同じくらいだから話も合うに違いない。
微笑ましく思いながら、私は買い物かごを持って自分でスーパーを回り始めた。クラウスも何やら話しながら、果物を手に取ったり、オリーブの瓶を見たりしている。
私がチーズの陳列コーナーに居ると、電話を終えたクラウスが隣にやってきた。
「今晩、アダムをアパートに呼んだ」
「あ、ほんと?じゃ、ご飯、一緒に食べるよね」
思い掛けない来客のニュースに、思わず興奮してそう聞くと、クラウスが笑いながら頷いた。
「やつの好物を準備してやろう」
「うん!」



今晩のメニューは、ホワイトアスパラガス、トマトとハムの冷製スパゲティ、そしてエビとブロッコリー、卵のサラダに決まった。
アダムがアスパラガスとエビが好きなのは私もクラウスも知っていたからだ。
リビングで流れる音楽は、ヴェネツィアに居る時に聴いた、Laura Pausini のアルバム「 E Ritorno da Te」だ。イタリア語で私には理解は出来ないけれど、彼女の少しハスキーで情熱的な声がとても気に入っている。クラウスは、英語とドイツ語は完全に母国語で、イタリア語とフランス語も仕事で使えるくらいに使いこなせるらしく、音楽は特にイタリアのものが好きらしい。
二人で一緒に料理するのも随分と慣れて来て、以前はそれぞれ担当のものを作っていたけれど、このところは役割分担しながら一緒に作れるようになってきた。
私が野菜の下処理をしているうちに、彼が調味料を合わせたり、彼が肉や魚の準備や下味を付けている間に私がフライパンの準備をするというように、息が合うようになった。
アダムが7時すぎに来る事になっているので、そろそろスパゲティ用のお湯を沸かそうとしていると、玄関の呼び出し音がなった。
私は丁度大きなお鍋を抱えてお水を入れていたので、クラウスが持っていた白バルサミコ酢のボトルを置いて玄関へ向かった。
玄関が開く音がして、二人が笑いながら話す声が聞こえる。
お鍋をホットプレートに置いてスイッチをMAXに設定した時に、リビングのほうに二人が入って来た。初めて並んで立つ二人を見て、なぜか急に恥ずかしいような気持ちになり、頬が熱くなる感じがした。
久しぶりに見るアダムはこれまで伸ばしていたブロンドの長髪をさっぱりと切っていて、後ろを短く刈り上げて別人のようになっている。以前と同じ真っ青な目はそのままだけど、どこか少し痩せたように見えた。その眼差しが少し、以前よりも憂いを帯びたように潤んでいる。
「アダム、久しぶり。髪、切ったんだね」
照れを隠しつつ、二人に近寄ると、アダムが苦笑しながら身を屈め、私の背を軽く抱いて挨拶をする。右、左、右と頬を合わせるのが久しぶりに会う親しい友人同士の挨拶だ。
「カノン、君がここに居るっていうのは不思議な感じだ」
そう言って、横に立つクラウスに目を向けて、からかうように肩を組んでその目を睨んだ。
「やっと普通に振る舞えるようになったな、クラウス」
そう言われて、クラウスがクスッと笑いをこぼしてアダムを見る。
アダムがもう一度私に目を向けて、そして優しい微笑みを浮かべて言う。
「奇麗になった」
突然の褒め言葉に、びっくりして思わず照れて目を伏せてしまった。
アダムがこういうことを言うのは初めてで、あまりにも意外で動揺する。
「お前も随分、変わった」
見上げるとアダムが眩しそうに目を細めてクラウスを見ていた。クラウスが苦笑してアダムの肩を抱く。
「明日は休みだ。久しぶりにゆっくりしていくといい」
「そうだな」
二人が笑い合っているのを、温かい気持ちで眺めて、私はキッチンへ戻った。
お鍋のお湯も丁度沸いていたので、塩をお湯の中に入れてからスパゲティーを投入し、ステンレスのトングで軽くかき混ぜる。
茹で玉子と、ブロッコリーをサラダ用に切り分けていると、クラウスが戻って来て、棚から大きなオリーブウッドのサラダボウルを取り出した。私が切ったブロッコリーとゆで卵、エビをボウルに入れて、カウンターに出してあったマヨネーズ、ヨーグルトを目分量で加え、マジックソルトとホワイトペッパーを追加すると、同じオリーブウッドのスプーン二本でゆっくりとかき混ぜる。ブロッコリーやエビ、玉子がドレッシングと奇麗に絡んでいくのを見ながら、私はプレートやカトラリーの準備をする。
クラウスが茹で上がったスパゲティを冷水で冷やしながら、準備してあった調味料入りのアスパラ、トマトとハムのボウルを冷蔵庫から取り出す。冷えたスパゲティを水切りして、そのボウルの中へ投入してトングでかき混ぜるともう出来上がりだ。ガラスのボウルへ中身を移し替え、イタリアンパセリと切ったレモンを添えると、ぱっと華やかになる。
数種類のチーズとオリーブを盛り合わせたアンティパスト代わりのプレートと、冷製パスタとサラダをテラスへ運ぶ。
テラスのベンチに、ビールのボトル片手にアダムが座っていて、私達が料理やプレートを運び始めると立ち上がって、足下に置いてあったランタンをサイドのテーブルに置いた。そして食事用のテーブルに置いてあった新しいキャンドルを手に取ると、ランタンの蓋を開けてそこから火を取り、明かりのついたキャンドルをシルバーのキャンドルホルダーへ立てた。ゆらゆらと輝くオレンジ色の炎が、その火を見つめるアダムを照らして、すっかり短くなった彼のブロンドがまるで黄金のように眩しく輝いていた。
アダムの目に、揺れる炎が映っている。
私はその時、その目をどこかで見た気がして、思わずじっと彼の顔を見つめた。
私はこの目を知っている。
ボートツアーの時に見た、フーゴの目と同じ。
フーゴが遠くを見ている時に浮かべていた、どこかやるせない光を含んだ透き通る瞳と同じだ。あの時、フーゴは自分が追いかけているという彼女のことを思い浮かべていた。
私はすぐにアダムの目に映るその影がなんなのか気がついた。
アダムは今、アナのことを考えている。
私はそのことに気がついて、息が詰まりそうになった。
いつもと同じ、優しく落ち着いた雰囲気のアダムであることには変わりないけれど、どこか追いつめられたような切羽詰まった表情が見え隠れしている。
彼の中になにか、自分だけでは到底コントロール出来ない複雑な気持ちと葛藤があるんだ。
私は胸が詰まるような苦しさと、何かを言いたくてたまらない衝動にかられて、それを必死で飲み込んだ。
私は絶対に、何も言ってはならない。
本当は、彼の背中を押して上げたい。
アナの気持ちを、彼に教えて上げたい。
でも、これは彼らの問題であって、アダムは自分のことは自分で決める大人だし、彼の信念は人に左右されるような柔なものじゃない。
私はアダムから目を逸らし、キッチンへ戻ってグラスの準備を始めた。クラウスがカウンターの下の飲み物専用の小型冷蔵庫から、ビールのボトルを数本取り出しながら私に目を向けて微笑んだ。
「今晩は、アダムに付き合ってやろうと思う」
クラウスもきっと何かを感じているんだろう。
私は思わず、後ろからぎゅっと彼を抱きしめた。
なんと説明したらいいか分らない切ない気持ちと、私がこうしてクラウスと一緒に居られることがどんなに幸せなことなのか痛感していた。
私の気持ちが分っているのか、クラウスが笑って持っていたビールをカウンターに置いて、私に向き直る。
「何も心配するな。アダムは大丈夫だ。俺が保証する」
そう言うと、ビールで少し冷えた手で私の頬に触れて、そっとキスしてくれた。
「ありがとう」
彼の言葉にほっとしてそう言うと、クラウスがにっこりと微笑んでぎゅっと私を抱きしめる。
「さぁ、食事にしよう。アダムが待っている」
「うん!」
私も笑顔で大きく頷いた。



アダムを囲んでの食事。
二人でもてなす、最初のお客様だ。
ホワイトアスパラガス、トマトとハムの冷製パスタも、エビとブロッコリー、卵のサラダもとても美味しくて、いろんな話で楽しい時間が過ぎて行く。
同級生だったマリアに誘われてアダムがニューヨークからベルリンに引っ越して来た時のことや、ヨナスを通じてクラウスと知り合ったこと、二人でスキー旅行に行った時のこと。二人がもう5年も付き合いのある長い友人だということを知った。ヨナスも加えて三人でバーを飲み歩いて、迎えに来たマリアにこっぴどく叱られた話も面白かったし、一緒に飲んでいた女の子達を巻いて逃げたとか、あまり嬉しくない話もあったけれど、私の知らない彼らの過去の話を聞きながら、まるでその時間を自分も共有していたかのような不思議な錯覚を感じてとても楽しい。

食事の終った食器をあらかたキッチンへ運び、殆どもう食洗機にセットして、デザートのマンゴーを運んで来た頃には、二人とももうかなりのビールを空けていたけれど、全然酔っている様子はなくて驚く。
「すごいよね。顔色も変わってないし、まるで水を飲んでるみたいに見えるよ」
ずらりと並ぶ空の瓶を眺めて本気で驚いていると、アダムが可笑しそうに笑い出した。
「ビールくらいじゃ簡単には酔わないさ。以前、俺達とヨナスでハードリカーの飲み比べした時はさすがに効いたな。翌日何も食べれなかった」
「あれはまずかった。俺も翌日の二日酔いがひどくて仕事までキャンセルしてしまった。ヨナスはマリアに1週間夜歩き禁止令くらったくらい悪酔いしてた」
思い出したらしいクラウスが肩を揺らして笑い出す。
「さすがにあれだけはもう勘弁だ」
アダムが笑いながらそう言って大きく溜め息をつくと、ふと夜空を見上げた。今晩は大きな満月が真上に輝いていて、雲ひとつ見当たらない。時々そよぐひんやりした夜風が、もうすぐ夏の終わりだと告げる。私はじっとアダムの表情を見つめた。
うっすらと微笑みを浮かべて穏やかな顔をしている。でも、月を見上げている彼の目はやはりどこか心ここに有らずというように遥か遠くを見ていた。
隣に目を向けると、クラウスも私と同じようにアダムを見つめている。クラウスも、アダムがなにかを抱えていることは気がついているのだろう。
「私、先に失礼するね」
私はそう言って立ち上がった。
もう、夜の11時を過ぎていた。
アダムが月から目を下ろして、私を見るとにっこりと微笑んだ。
「今日はすっかりご馳走になったな。ありがとう」
「私も楽しかった!」
私も笑顔でそう言ってクラウスを見ると、彼もにっこりと微笑んで頷く。
「じゃぁ、おやすみなさい」
そう言って最後のプレートを持つと、クラウスが私の肩に手を伸ばして引き寄せ、そっと頬にキスをする。そしていたずらっ子のように目を煌めかせ囁いた。
「寂しくて辛かったら呼びにこい」
思わず恥ずかしさで頬が熱くなり、じっと非難を込めて睨むと、彼は楽しそうに笑って私の肩から手を離した。
アダムが私達を見てクスッと笑いをこぼしている。
あぁ、一日に何回、こうやって動揺するようなことを言われるんだろう!!!
未だにいちいちドキドキしてしまう自分自身にもうんざりだが、こればかりは自分でコントロール出来ることではないからどうしようもない。
でも、こういうやりとりがまた楽しくて、私を幸せにしてくれる。
リビングから、テラスにいる二人をそっと振り返った。
そこに、愛しい人がいる。
大好きな友達がいる。
そしてその友達は、私の大事な親友の想い人。
地球の反対側にいるアナを思い浮かべる。
彼女は今、何を考えているんだろう。
アナがあえてアダムに連絡しないのは、彼女なりになにか考えているからだ。
きっと、アダムのことを想っているからこそ、連絡を控えているんだろう。
弱い自分を見せて、アダムを動揺させたくない。
彼女は相手の弱みにつけ込むような人間じゃないから、きっとまた、強い自分に戻れるまではアダムから距離を取ろうと考えているのかもしれない。
その晩、深い眠りの中でクラウスがベッドに入って来る気配を感じた。ゆっくりとベッドが揺れて、背中に温かい感触がする。彼が私の髪をそっと撫でてその腕で体を抱き寄せる。目を開けることもなく、私は寝返りをうって彼の胸の中に身を寄せ、その腕に手を回した。彼が私の額にキスをして、優しく背中を撫でてくれる。心地よい温かさの中でまた、幸せに満ちた深い眠りの中へ落ちて行く。



翌朝、けたたましい呼び鈴で目が覚めた。
時計を見ると、もう8時だ。
後ろから私に抱きついているクラウスのほうを振り返ると、彼も目を覚ましていて、まだ眠そうに目を細めている。
「一体何事だ」
クラウスが大きく溜め息をして私と目を合わせる。
土曜日の朝だし、なにかの配達としてもこんな早くにくることは無いはずだ。
まだ眠くて目をこすっているとまた、呼び鈴が鳴る。
「俺が見て来る」
彼が身を起こし、ソファにかけてあるシャツに手を伸ばした。
美しい筋肉のついたその背中に思わず目を奪われていると、シャツを羽織った彼がこちらを振り返って言う。
「君はまだそこにいるんだ」
「どうして?貴方が起きるなら、私も起きるつもりだけど」
シャワーを浴びて、朝ご飯の準備をしようと思っていたので、私も身を起こす。
「週末の朝くらい、ベッドでゆっくり過ごしたい」
そう言って微笑むと、片手で私の肩から腕をすっと撫で、いたずらっ子のようにウインクして寝室を出て行った。
思わず溜め息が出た。
朝っぱらからドキドキさせられて参ってしまう。
自分はプレイボーイじゃないと言うけれど、これのどこがそうじゃないって言うんだろう?!
言動のすべてがまさに生まれながらのプレイボーイだとしか思えない!
私はいつか、これに慣れることが出来るんだろうか?
そんなことを思っていると、突如、耳をつんざく声がアパートに響き渡る。
「クラウス!いつまでもいうことを聞かないから、話をしに来たわ!」
ドキンと大きく心臓が跳ねた。
あの声は……
どこかで、聞いた声。
「ここまで押し掛けて来るとは、どういうつもりだ」
クラウスの低く怒りを帯びた声も聞こえた。
「娘も連れて来たわ!私達を中に入れるか、外で話すか、今、決めなさい!」
甲高いヒステリックな声が響く。
あれは、継母だ。
間違いない。
しかも、娘も連れて来たと……
恐怖で背筋が冷たく凍る。
私はぞくっとして身震いした。
しおりを挟む

処理中です...