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誤った結び目を解く方法

嵐が残した鍵

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それから1時間後。
私達はブランデンブルグ門の近くに建つ、外観も豪華なHotel Adlon Kempinski Berlinの前に来ていた。クラウスがバイクのエンジンを切る。
私は黙ってバイクから降りて、被っていたヘルメットを取った。
クラウスが私からヘルメットを受け取り、ホテルの駐輪場へバイクを押して行く。
私は目の前にそびえ立つ、この威圧感溢れる立派なホテルを見上げた。その存在感は、歴史あるブランデンブルグ門に負けないくらい堂々としたものだ。この曇り空の下、重々しいその雰囲気が更に助長されている気がする。
ここに、クラウスの継母とその娘が宿泊している。
突如アパートを訪れた継母。
娘をタクシーの中で待たせて、アパートの中で話すか、彼女達の泊まっているホテルで話すか決めるまで、玄関から出ないと言い張った。
その会話を私は寝室で聞いていた。
クラウスは一方的にまくしたてる継母にしばし沈黙していたが、やがて、1時間後にホテルへ話しに行くと答え、ようやく継母が立ち去った。
寝室に戻って来たクラウスはかなり怒っている様子で、私もそのピリピリした雰囲気に声をかけるのも憚れるほどびびってしまったけれど、彼は極めて冷静だった。
いずれはこういう状況もありえると予測していたらしく、こうなってしまったならばもう父を間に挟むことなく直接立ち向かうしかないという考えのようだった。
私は何も言う必要はないが、一緒に来て欲しいとのことだったので、正直全然気乗りしなかったけれど、実際私にも関わってくる問題なのでついて行くことに同意した。
アパートを出る前に、クラウスはヨナスに電話をして、状況を説明しているようだった。
一体、この話し合いがどういう方向で進むのか、果たしてなにか結果らしいものが出るのか全く持って予測出来ない。
それに、私は完全に部外者なので、彼について行くことでかえって継母の怒りを買うのではという不安もある。
また、クラウスもヨナスも一度も会うことが無かった、継母の娘も来ているというのが更なる不安を煽った。
「カノン」
呼ばれて視線をホテルから、こちらへやってくるクラウスに戻す。
彼はもう、いつも通りに落ち着いた表情に戻っていた。
「大丈夫だ。いずれはこういう時が来るとは思っていたから、その時が来たというわけだ」
そう言ってにっこりと微笑み、いつものように私の手を取った。
私は彼を見上げて頷き、繋いだ手に力を込めた。
ホテルの中に足を踏み入れて、そのモダンとアンティークが斬新に組み合わされた美しくも豪華な内装に圧倒される。広々と開放感のあるホールには、遥か頭上高い天窓のステンドグラスから明かりが差し込んでいる。ホールを突っ切って辿り着いたのは、渡り廊下を過ぎたところにあったシックなラウンジだった。ダークブラウンの家具に、ゴールドカラーのカウチ、チョコレートブラウンのモダンなソファが、スペースを区切るように整然と配置されている。この季節は殆どの人が、テラスなど屋外の席があるカフェやラウンジで過ごすせいか、この場所には殆ど人もいなかった。
約束の時間まであと5分。
会話の内容を考慮したのか、クラウスがラウンジの奥のほうへ行く。落ち着かない気持ちで、彼と一緒にソファへ腰掛けると、若いウエィターがすぐにやってきた。とても、飲食するような気分にはなれず、とりあえずお水だけを注文する。彼はウエイターにエスプレッソを注文し、それからこれから起きることを予測してか、なるべく近くへ客を案内しないようにと告げた。
静かなラウンジに流れるクラシック音楽。
心を落ち着けようとなるべくゆっくり呼吸をするけれど、心臓がドキンドキンと鼓動する音が大きく聞こえるくらい、緊張してくる。もう、心臓が胸から飛び出すのではと思うくらいだ。
クラウスも何かを考えているかのように静かだ。
やがて、ハイヒールの足音が遠くから聞こえて来て、私はビクッと震えた。
来た……!
思わずクラウスを見ると、彼は落ち着いた様子で私に微笑んで、それから視線を前に向けた。
「驚いたわ。きちんと来たということだけは褒めてあげましょう」
高飛車な声と共に目の前に現れた継母。
あのヒステリックな声からは想像出来ないくらい、上品な風貌のご夫人だった。明るいブラウンのセミロングの髪に、薄いブラウンカラーの目。真っ青なアイラインも決して下品ではなく、発色の美しい赤いルージュを乗せた唇も、彼女がよい家柄出身の女性だと一目で分るくらい気品があった。年は50代半ばだと思われるが、決して年齢を老いと感じさせる雰囲気はなく、成熟した大人の女性という魅力に溢れた容貌だ。
「ダニエラ。貴女は父の妻だが、俺の母ではない。これ以上、予告なしに押し掛けられては俺も困る。二度とこういうことはしないでほしい」
抑揚のない低く静かに響く声。
クラウスは鋼鉄のような、感情の感じられない冷たい顔で彼女を見た。
彼女はふん、と鼻で笑い、後ろを振り返った。
「娘のクララを紹介するわ。随分と遅れてしまったけれど」
そしてダニエラの後ろから、ゆっくりと前へ出て来た彼女の娘、クララ。
ダニエラそっくりの、肩を覆うチョコレートブラウンの髪に、真っ青な目をした、とても端正な顔立ちの女性が現れた。心なしか少し青ざめているように見えるけれど、まるで彫刻のように美しく気品のある顔立ち。すらりと細く姿勢のよい彼女は、女性らしくも大人っぽいエレガントなピンク色のワンピースを着ていた。
一瞬、相手が誰なのかを忘れて、じっと見とれてしまったくらい、クララは奇麗な女性だった。
彼女はこちらを見ると、僅かに微笑みを浮かべ、小さく首を傾げて挨拶をする。母親のダニエラとは真逆の、清楚で物静かな女性の登場に、さすがにクラウスも意外だったのか沈黙している。
ダニエラに促され、クララは私達の前の席に座り、それからダニエラが着席した。そこへウエイターがやってきたので、彼女達がそれぞれ、コーヒーとダージリンティを注文。
飲み物が運ばれるまで皆、一言も言葉を交わさず、目も合わせない。
やがてウエイターが飲み物を運んで来ると、ダニエラがウエイターに席を外すよう言いつけた。チップを渡されたウエイターが立ち去ると、ダニエラが大きく溜め息をつき、私達を振り返った。
「クラウス。説明してもらいましょうか。この子は、一体なんなの」
そう言って私に目を向けた。
私はドキリとしたけれど、逃げ腰になりたくなくて、じっと彼女の目を見る。
「彼女は、俺の恋人だ」
クラウスがはっきりとそう言うと、ダニエラが大きく目を見開いて、クラウスを見つめた。そして、イライラしたようにコーヒーに砂糖を入れてスプーンでかき混ぜ、黙ってコーヒーを飲む。それから、怒りをなんとか押さえ殺したというような厳しい目で、じろりとクラウスを睨みつけた。
「貴方、自分の立場、わかっているのかしら。貴方には、クララという婚約者がいるのよ。恋人だなんて、笑わせないでちょうだい」
「俺は婚約した覚えは無い」
「貴方のお父様が決めた事。息子の貴方の許しなんて必要ないのよ」
「当の本人である俺が認めないと言っている。父にも、この件は取り消すよう話しているところだ」
「取り消しなんてさせないわよ!」
クラウスの声を遮るようにダニエラがそう言い放った。そして、彼女は娘のクララに目を向けて、私のほうを見ると、ふん、と鼻を鳴らした。
「クララは、貴方との婚約が決まってから、Sommerfeld家の跡取りの妻に相応しくなるよう、様々な教養を身につけさせたわ。どこで拾って来たのかわからないようなそんな小娘とは比較にもならない。大体、Sommerfeld家にアジア人の血を混ぜることなんて出来ないわよ。ヨナスが、ラテン系だかヒスパニック系の女と付き合っているだけでも大問題になっているのに、これ以上、お父様を困らせていいと思っているの?!」
「俺が誰と付き合おうと、それは俺自身が決める事だ。他人の貴女に俺やヨナスのプライベートまで監視されること事体、全く面白くないと思っている」
クラウスはじっとダニエラの目を見たまま視線も逸らさない。全く動揺を見せないクラウスに苛立ったらしいダニエラが、今度は私を威嚇した。
「大体、Sommerfeld家に全く関係のない貴女がここに居ることが不快だわ。さっさと出て行ってちょうだい」
私はドキン、と胸が鳴って目を見開いた。
出て行って、という言葉に、突然、むかむかと怒りが溢れて来た。
部外者と言われればそうかもしれない。
でも、私だって好きでここにいるわけじゃない!
ここに来たのは、どうしても、彼と離れたくないからだ。
「あの……」
何も言わなくていい、とクラウスに言われていたことを忘れ、私は思わず顔を上げて、じっとダニエラを見つめた。
私が何か言い返すと思ったのか、ダニエラが驚いたように目を剥いて私を凝視した。
私は膝の上に置いてあったバッグを両手でぎゅっと握りしめた。
「部外者なのはわかっています。でも、私は、彼と離れたくないんです。彼を愛しているから、彼と一緒に居たいんです」
気がついたら、自分でも驚くくらい、はっきりと聞き取れる声でそう言っていた。
私の言葉に、ダニエラとクララの両方が、目を見開いて一瞬言葉を失っていた。その様子を見て、一瞬、しまったと後悔したけれど、もう言ってしまったものは取り返せない。
失敗してしまったのかもしれない。
クラウスが自分で対応すると言っていたのに、彼の了承も得ずに勝手にこんな言葉を口走ってしまった。
でも、どうしても自分の気持ちだけははっきりと伝えておきたかった。
「……私も困ります」
突然、それまで静かだったクララが口を開き、私やクラウスだけでなく、ダニエラまでが驚いたように彼女を見た。
クララはじっとクラウスを見つめて、静かに微笑んだ。
「私はずっと、貴方と結婚するのだと聞かされて今まで過ごして来ました。もう何年も、貴方のことだけを考えて生きて来ました。今になって、すべてを白紙にされるわけにはいきません。この長い年月をすべて貴方の妻になるために費やして来たのですから、責任を取っていただく必要があります」
透き通る様な彼女の静かな声が、ラウンジに響いた。
静寂が広がる冷たい空間。
クラウスさえ、言葉が出てこないのか、沈黙して彼女を見つめている。
私はこの静寂に恐怖を感じて、こちらをまっすぐに見ているクララを見つめた。
感情に振り回されることなく、淡々と自分の考えを口にした彼女は、とても聡明な目をしていた。
汚れのないその澄んだ青い瞳を見ると、彼女に対して敵意や嫉妬を持つ事が出来ない自分に気がついた。
彼女は、ダニエラとは違う。私利私欲に振り回されるような人間じゃない。
それぞれが何かに捕われたように黙り込む時間。
突如、ダニエラが何故か勝ち誇った様な微笑みを浮かべ、機嫌よく口を開いた。
「クラウス。愛人くらいは認めてあげましょう。Sommerfeld家の人間は皆、数人の愛人を抱えて来たと聞いているし、貴方のお父様もきっとそうでしょうしね。来年の春には挙式をあげる準備を始めましょう。詳しくはミュンヘンに戻ってから決めるわ」
春に挙式!
その言葉に私は血の気が引く思いで体が震えた。
もう、止められないのだろうか。
クララが、Sommerfeld家に嫁ぐためだけに長い年月を費やして来たということは、これまで面と向かって婚約拒否の意思表示を示さなかったSommerfeld家の息子側に大きな責任があると責められても仕方がないことなのかもしれない。
もしかして、私があんな余計なことを言ったから、事体が悪化したのだろうか?!
もう、取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。
恐怖と後悔でもう意識を保つのさえやっとだ。
その時、それまで黙っていたクラウスが大きく溜め息をした。
どきりとして皆がクラウスを見る。
彼は、にっこりと穏やかな微笑みをクララに投げかけていた。
その目はまるで、彼女を気遣うような優しさに満ちていた。
「クララ。君がどう聞かされていたかは俺は知らない。俺は、婚約などとはっきりとした約束事としてこの話を聞いた事はない。父と、貴女の母の間でなされた会話であり、彼らの願望であって、それは俺や君の意思とは無関係のものだ。君もよく考えてみたら良い。自分の愛する人間と共に生きるか。それとも、全く愛されることのない相手と無意味な時間を過ごすのか。選ぶのは、君自身だ」
ダニエラがクラウスを睨みつけた。
クララは動揺したようにその青い目を揺らしてクラウスを見つめている。
「娘に何を吹き込もうとしているの!」
クラウスはちらりとダニエラを見ると、少しだけ苦々しく微笑んだ。
「君の母を見てよく考えるんだ、クララ。彼女は幸せそうに見えるか?君の母には気の毒だが、彼女は父が本当に愛している相手ではない。彼女は、決して満たされることはないだろう。そして俺の父も、決して幸せではない」
少しだけ声のトーンが低く静かだったのは、それはその事実が、ダニエラにとって決して聞きたいものではなかったと分っているからだった。きっと本当は、こういう事を言葉にしたくはなかったのだろう。
「クラウス!貴方のその無礼は、決して許さないわ!後悔させるわよ!」
激怒したダニエラがどんっとテーブルを叩き、隣にいたクララがビクッと震えて母を見た。クラウスは私の手を取るとゆっくりと立ち上がり、ダニエラを見下ろした。そして、不思議なほどに余裕をもって微笑んだ。
「話は終わりだ。貴女が何を父に言おうと俺は構わない。最後に、俺はSommerfeld家の名前にはこだわっていないということだけは言っておこう」
「なんですって!?」
ダニエラが激しく動揺したようにそう叫んで立ち上がった。
クラウスはじっと彼女を見下ろし、噛み締めるようにその言葉を繰り返した。
「俺にとって、Sommerfeldという名字はあってもなくても構わないものだ。それ以上に大切にしたいものがある」
その瞬間、ダニエラの手が空を舞った。
が、その手はしっかりとクラウスが掴み、その手が彼に届く事はなかった。
憎々しげに掴まれた手をもぎ取るダニエラが、真っ赤な唇を噛み締め、憎悪に満ちた目で私を睨みつける。
クラウスはさっと私の肩を抱き寄せてダニエラから距離を取り、そしてクララに目を向けると小さく微笑んだ。
「君の幸せを願っている。クララ、後悔のない人生を選ぶんだ」
クララが大きく目を見開いて、呆然とした様子でクラウスを見上げている。
どん、と音を立てて力なくソファに座り込むダニエラ。
クラウスはもう振り向きもせず、私の手を引いてそのままラウンジを後にした。
私は一度、後ろを振り返ってみる。ダニエラがテーブルに突っ伏していて、クララはまだ唖然とした様子でこちらを見ていた。
クラウスは私の手を引いて、ゆっくりと渡り廊下を進む。
華やかなホテルのロビーを無言で通り抜け、正面玄関を出ると外はもう、雲は消えて明るい日差しでいっぱいだった。
クラウスは立ち止まって振り返ると、私をぎゅっと抱きしめた。
息が出来なくなるかと思うくらいきつく抱きしめられて、今、この瞬間に彼が何か大きなものを乗り越えたんだと気がつく。
こうして継母に正面から歯向かうことは、きっと、継母と父の関係に大きく影響する。そして、彼自身と父の間にもなんらかの変化が出る可能性も高い。それが、決して喜ばしいものでないことも予測される。
彼は、私と一緒に居るために、あえて荒波に身を投じた。
「クラウス……ありがとう」
他に思いつく言葉がなくて、ただそれだけを言って彼を抱きしめた。
もし本当に、Sommerfeld家から出ることになったら、想像以上に辛い思いをするかもしれない。名字を失うということは、彼自身のアイデンティティを失うということに近い。もう28年もSommerfeld家の息子として生きて来たのだから。
勿論、ヨナスやニコルは今までと変わりない姉兄であるだろうけれど、私は、クラウスと父親の間には本当は特別な強い絆があるように感じていた。だから、もし、今回のことが彼と彼の父を裂くような結果になったら思うと、胸が張り裂けるほど悲しい。
そんなことにはなって欲しくない!
心配と不安が広がっていく。
私をきつく抱きしめていたクラウスの腕が緩んで、見上げると、眩しいくらい明るい微笑みを浮かべたクラウスの顔があった。
「これでいい。もう何も、悩む必要はなくなった」
そう言って、私の顔を覗き込んだ。
「それに、君の気持ちもはっきり聞けた」
「クラウス」
私はその美しい目をじっと見つめて、心の中にある気持ちを言葉で伝えようとした。
「貴方が私を幸せにしてくれるように、私も貴方を幸せにしたい」
本当にそれだけだ。
私の気持ち。
貴方が、こんなに私を幸せにしてくれる。
私も、ありったけの愛で貴方を幸せにしたい。
同じ時空を共有して、喜びも悲しみも二人で分かち合いたい。
私の気持ちが伝わって欲しい。
想いを込めてじっとクラウスの目を見つめると、彼は何度か瞬きをして、それからとても幸せそうな微笑みを浮かべた。
「ありがとう、カノン」
彼が両手で私の頬を包んで、そっとキスをした。唇が離れて目が合うと、お互い微笑み合う。
さっきまでドキドキしていた心臓がすっかり落ち着きを取り戻していた。
手をつなぎ、バイクが止めてある駐輪場へ向いながら、クラウスが何かを思いついたように立ち止まり私を振りかえった。
「せっかく早起きした土曜日だ。どこかで朝食を取ったら、このまま、水族館に行こう」
楽しそうに目を輝かせた彼が言ったその言葉に、私は飛び上がる程嬉しくなって大きく頷いた。
「行きたい!夏に水族館って素敵!」
自分でも滑稽なくらいはしゃいでしまっているのに気がつくが、あまりにも切羽詰まった恐ろしい時間を過ごした後だけに、その直後にそんな楽しいデートが出来ることに嬉しくてどうにも興奮が収まらない。
まさに、地獄から天国へ、という感じだ。
クラウスが私にヘルメットを渡しながら、クスクスと笑っている。
「熱帯魚とか、サメとか、クラゲとか、本当の海に行けなくても、お魚がたくさん見れるね!もう何年も行ってないから、すごく楽しみ!」
彼は目を細めて小さく微笑み、そっと耳もとに唇を寄せて囁いた。
「可愛い俺のカノン」
初めてそんな言葉を言われてドキッとして彼を見上げた。
「今すぐ食べてしまいたい」
熱っぽい眼差しでそう囁かれ、一気に頬が熱くなる。
そんな彼が愛しくてたまらなくて、私はぎゅっと彼を抱きしめ、その目を見上げた。
「……私も」
彼が大きく目を見開いて、一度ゆっくり瞬きをすると、照れたように微笑む。
そして楽しそうに目を煌めかせた。
「アパートに戻るか?」
「えっ」
少し慌てる。
せっかくの水族館デートのチャンスを逃したくはない。
でも、自分もあんなことを言った。
どうしたものかと悩んでいると、クラウスが笑い出した。
「冗談だ」
そう言って私の首を引き寄せて、そっとキスをした。目を閉じると私の世界が彼だけに埋め尽くされて、今どこにいるのかさえ忘れてしまう。全身から力が抜けてしまうほどに翻弄されて、空中に浮いているような錯覚を起こす。
まるで世界がゆりかごのように揺れ足下がおぼつかない私を抱きしめて、クラウスが優しく微笑んだ。
「さぁ、水族館へ行こう。二人の時間は、その後だ」
幸せで満ちたこの瞬間。
私は背伸びをして彼を引き寄せその精悍な頬にキスをした。
「愛してる」
そう彼の耳に囁くと、彼がゆっくりと頷いて幸せそうに微笑み、私を見つめた。
「愛してる、カノン」
二人で目を合わせ、微笑みを交わした。




9月に入ってまもない木曜日の夜、リビングのコーヒーテーブルの前に座りラップトップでメールをチェックしたら、フーゴからメールが入ってきた。
予定通り、サンフランシスコに引越を完了し、新しい職場での仕事も始まったらしい。あの有名な、サンフランシスコ湾に架かる美しいゴールデンゲートブリッジの夕焼けを背にした写真が1枚添付されていた。その写真には、以前からの友人という数人がフーゴを囲むように並んでいて、とても楽しそうな様子だった。フーゴは丁度、背後のゴールデンゲートブリッジを振り返るような横顔で写っていたけれど、その左隣に同じようにその橋を振り返っている女の子が写っていた。髪が風に煽られてその横顔を覆ってしまっているから殆ど見えないけれど、何かの勘で、彼女がフーゴが想いを寄せる女の子だなと気がつく。何故なら、こんな風に横顔で写るフーゴは珍しくて、きっとその子が何かを言って後ろを振り返ったから、フーゴも同じく後ろを見たというその瞬間の写真だと思うからだ。写真を撮るとわかっているフーゴが、カメラから目を外すなんていうのは、彼がどれだけその子の声を聞こうとしていたかを証明しているようなものだ。それに、フーゴが、「超マイペース」と表現していたくらいだ。シャッターを切る時にこうしてカメラより他のものに気を取られる女の子は、かなりマイペースだと言える。
きっとフーゴのことだから、私なら勘づくとわかっていて、この写真を送って来てくれたんだろう。
そう思うと、嬉しくて頬が緩んでしまい、じっと画面に写るその写真を見つめる。
彼女の顔は、どんな顔なんだろう。
そんな彼女を見つめる時、フーゴはどんな目をしているんだろう。
温かい気持ちでその写真に見とれていると、背後でソファに座っていたクラウスが肩越しに覗いた。
「クラウス。これが、フーゴ」
写真を指差すと、クラウスが少し目を大きく開いて、それから身を屈めてじっとその写真を見つめた。
「カノンと似てる」
「えっ、そう思う?!」
びっくりして振り返ると、クラウスは小さく笑って私の目を覗き込んだ。
「目が似てる。気が強そうなヘーゼルナッツカラーの眼。夕暮れに日が差し込むと炎のようにオレンジ色に染まる」
「気が強い?私が?」
私のどこが気が強いって言うんだろう?
自称、小心者。恐がり。マイナス思考。すぐに逃げ腰になる。優柔不断。決断力なし。
どう考えたって、精神的強さは自慢できないレベルだと思う。
不審に思いながらクラウスを見ていると、彼は可笑しそうに私の耳を摘んだ。
「弱そうに見えて、とんでもないところでいきなり強くなるのが君だ」
「とんでもないところ?」
いまいちピンと来ないけれど、フーゴも私のことを気が強いと言っていたから、自分で気がつかないところで突然気が強くなることでもあるのかもしれない。
「そろそろ、あのブレスレットを送ってあげなきゃ」
忘れ物のブレスレットを思い出してそう呟いた。
それから、私は一件、とても重要なメールを打ち始めた。
イヴァン宛のメール。
実は、年末に切れてしまうワーホリビザのことを考えて、今後どうしようかといろいろ調べていたら、新たに申請出来そうなビザを見つけたのだ。
フリーランスビザといって、アナや聡君が持っているアーティストビザと若干似ているものだ。
実際に、契約したクライアントを抱え定期的な収入があることを証明出来て、ドイツ語もそこそこに出来れば、かなり高い確率でこのビザが取得出来るらしい。私は、今現在は大きな収入はないけれど、はるの出版社から既に二回、原稿に値するお給料を頂いたし、それに記事が好評だったので、10月からはその出版社の運営する情報サイトで毎月現地レポートを書くという仕事のオファーももらっている。お茶屋のご主人も、私が店番だけでなくお店のHPの記事の翻訳や、私が仕入れた日本のお茶にまつわるニュースの記事投稿を大変気に入ってくれていて、ビザの申請をするのに何か契約書的なものが必要であればいつでも協力してくれると言ってくれた。
詳しく調べて行くうちに、恐らく、このビザなら取れるとほぼ確信が取れた。必要な書類は全部、揃えることが出来そうだとわかると、急に未来が明るくなってきて、そのことをクラウスに話してみた。すると弁護士のイヴァンはビザ関係もプロなので、申請を確実に通すために、イヴァンにお願いしようと提案してくれた。
クラウスがニッキーの時には気がつかなかったものの、当然ながら、イヴァンとクラウスも友人関係にあったわけで、Sommerfeld家に関わる裁判所関係の仕事は殆どイヴァンが引き受けているという状態だった。
「イヴァンに任せれば何も心配することはない」
クラウスがそう言って、後ろから私の髪に触れる。
私はメールを打つ手を止めてクラウスを振り返った。
ほんとうに!
こんな方法で滞在を延長出来る可能性があると気がついてよかった!
当初は1年で帰国するつもりだったし、もともとそれ以上の滞在が可能だとは思っていなかった。
彼と出会ってから、年末の帰国のことが気になっていたけれど、きっとこれで彼と一緒に居られる時間が伸びると思うと嬉しくて胸が弾む。嬉しくてにっこりすると、彼も目を細めて微笑んだ。
イヴァンに、フリーランスビザの申請の件で相談したいということと、出来れば早いうちに会ってほしいという内容のメールを打つと、私はキッチンに行って、今日買って来た胡桃を食品貯蔵室から出した。もう、チリ産の胡桃が店頭に出ていたのだ。日本はまだまだ残暑の真っただ中だけど、こちらはすでに秋めいて来て、気温も最高が20度~25度と下がり始め、少しずつ日も短くなりつつある。
胡桃をオリーブウッドの小さいボウルに入れて、ステンレスのベンチ型ナッツクラッカーを持ってリビングに戻る。
胡桃は、既に中身だけを取り出した袋入りも売られているけれど、やっぱり、殻を割ったばかりの新鮮な胡桃の味にはかなわない。胡桃には、健康や美容にも有効なオメガ3オイルがたくさん含まれていて、季節の変わり目でお肌にストレスがかかる季節に心強い食品だ。それに、私はナッツ類が大好き!胡桃や、ヘーゼルナッツの入ったお菓子にも目がない。でも、カロリーのことを忘れないようにしないと、あっという間に太ってしまう。
コーヒーテーブルの前に座って、ナッツクラッカーに胡桃を挟みぎゅっと握ってみるが、なかなか上手く割れない。胡桃の角度を変えて再度割ろうとするが、びくともしない。諦めて、他の胡桃で試してみる。
両手でナッツクラッカーを掴み、全身全霊の力を込めて割ろうとしたら、手がじんじんするだけで割れない。がっくりしていると、後ろで私の様子を見ていたクラウスが笑い出した。
「見ていられないな。力任せにしたってそれでは無理だ」
そう言って私からナッツクラッカーを取ると、挟んであった胡桃の角度を少しかえて、片手でぎゅっと掴むと、パリン、と簡単に殻が割れる音がした。
彼が割った胡桃をお皿に置いて、次の胡桃をナッツクラッカーに挟み、またいとも簡単にその殻を割る。3つ続けて奇麗に割ったのを見て、私はもう一度挑戦してみることにした。
「クラッカーの鋏の端のほうを持つんだ。胡桃の大きい筋のところをよく見て、この角度で挟む。そう、それでいい。やってみてごらん」
彼の言う通りに、鋏の端を持ち、胡桃の角度をきちんと見て挟むと、ぎゅっと力を込めただけでパリン、と割れた。
「クラウスってすごいね」
びっくりして、尊敬の眼差しでクラウスを見上げた。
この人って、何でも出来るのかもしれない。
感動していると、クラウスがくすぐったそうに笑い、割れた殻からひとかけらの胡桃を取って食べた。
「時々、テラスにリスがくることがある。今度、エサを置いてみたらいい」
「えっリスがくるの?私、まだ見た事ない!」
「赤茶色の大きなしっぽのやつらだ」
「森が近いからかな?秋はドングリやトチの実とか、収穫の季節だものね。リス、見てみたいなぁ」
私はドキドキしてもう薄暗いテラスのほうを眺めた。
こうやって季節が移り変わるのを彼と一緒に経験出来ることが嬉しくてしようがない。
「そろそろ、新しい家を探し始めよう」
クラウスがそういうと、フロアに座っていた私を後ろからソファに抱き上げて、ぎゅっと抱きしめた。
頬に触れる彼の無精髭が少しくすぐったくてちょっぴり笑ってしまう。
「雪が降るころには、暖炉がある家に引っ越したいと思う」
「暖炉?」
おばぁちゃんちにもある、暖炉。
パチパチと薪が音を立てて燃える、温かくノスタルジックな暖炉の火。
暖炉の前にふかふかのカーペットを敷いて、そこで本を読みながら、外に降り積もる雪を眺める。
想像しただけで、ドキドキしてくる光景だ。
薄暗い部屋に灯るキャンドルの灯りと、暖炉の火。心地よいジャスの音楽が流れるゆったりとした時間。
そんな光景を想像しながら、私の胸の前で交差する彼の腕を抱きしめて、幸せな気持ちでいっぱいになる。振り返ると、クラウスも同じ光景を思い浮かべているような表情をして、私を抱いたままソファの背もたれに寄りかかり、真っ白な天井を見上げた。
「ここも悪くないが、どこか寒々しい。コンクリートの家はどこか無機質だ」
「古くても、煉瓦とか木材を使った建物のほうが、暖かみがありそうだね」
「俺もそう思う」
クラウスが頷いて、にっこりと微笑んだ。
「今月末には、オフィスのほうも準備が整って落ち着くだろう。来週にでもベルリンの不動産に詳しい知人に物件を調べてもらうよう連絡しておく」
「うん……なんだか……すごくドキドキしてきた」
沸き上る興奮を押さえようと胸を押さえてそう言うと、クラウスがクスッと笑った。
「引越先が決まったら、大忙しで大変なことになる。心の準備をしていたほうがいい」
「大忙し?どうして大忙しになるの?」
荷物を動かすくらいなのに、と思って聞き返すと、彼が呆れたように目を丸くした。
「君は、空っぽの家に住むつもりなのか」
「空っぽ?」
「このアパートはもともと家具付だ。つまり、次の場所は一から十まで揃える必要がある」
「えっ」
てっきり、ここにあるソファや棚などを持って行くのかと思っていた私は、その事実に驚いた。
「言っておくが、家電も、キッチンにあるものも全部、このアパートのものだ」
「キッチンのも?お皿とか、お鍋とか……全部?」
「そう。全部。それに、ドイツではキッチンも自分で準備するのが普通だ。引っ越し先には、オーブンもシンクも何もないから、通常、自分のキッチンをまるごと持ち込む」
「キッチン、まるごと持ち込み?!」
「つまり、キッチンも探さなくてはならない。アイランド型がいいのか、ペニンシュラ型がいいのか、決めた家のレイアウトを見て考えることになる」
私は目が点になってしまった。
そうなると、持ち物といったら、衣類や書籍くらいということだ。
「大きな家具類は一緒に選ぼう。細々したものの手配は基本的に君にまかせる」
「私?!」
そんな責任を持たされて、全う出来る自信はない。
細々したものって、エンドレスなほど有るに違いない。
激しく動揺していると、クラウスが楽しそうに私を見下ろしてウインクした。
「君のお手並み拝見といったところだ」
「お、お手並み、拝見?!」
まるで勤務態度や仕事の出来を査定される部下のような緊張感で、思わず背筋が伸びた。




日曜日の午後、私はミッテ地区のカフェでイヴァンを待っていた。
クラウスは、私がイヴァンと2時からビザの件で話をしている間にジムへ行くことにして、3時頃にこちらへ迎えに来てくれることになっている。
ミルヒ・カフェを飲んで窓の外を見ていると、見覚えのあるシルバーのベンツが表を通り過ぎて、少し先の路肩よりに駐車した。見ていると、イヴァンも一発で縦列駐車をしている。
こっちの人は、本当に縦列駐車が上手だ。
私はあれから数回、クラウスの命令で縦列駐車の練習をさせられている。アパートの近所でやるのだが、なかなか上手くいかなくて、路肩に乗り上げたり、あるいは逆に路肩からかなり離れてしまったりで、何度もハンドルを切り替えなくてはならない。クラウスが外に出て、細かく指示を出してくれると、3回くらいの切り返しで入るようにはなったけれど、自分1人で駐車しようとすると、どうしても上手くいかない。がっくりと落ち込んでいる私を元気づけようと、彼が、ものすごく狭いスペースに縦列駐車をするという技を見せてくれた。まるで、車がカニ歩きしているんじゃないかと思うくらい、小刻みにハンドルを切り返して、その隙間に車を収めた。車から降りて、前後の車両との隙間を見てみたら、どちらも15cmくらいしか空いていない。こんな狭いところに、どうやって車を入れたのか、理解出来ないほどの凄技だ。
諦めちゃだめだ。練習さえ続けていれば、いつか私だって、一回の切り替えでかっこよく縦列駐車が出来るようになる。いや、なって見せたい!
そんなことを思っていたら、目の前にイヴァンが立っていた。
「イヴァン、久しぶり!来てくれてありがとう」
「カノン、元気そうじゃないか」
立ち上がって肩を抱き合い挨拶をして、椅子に座り直す。
今日は日曜日なので、イヴァンも普段のスーツ姿ではなく、薄紫色のシャツと黒いパンツという軽装だ。でも、彼がこういう色を来ていると、どうしてもロシアンマフィアとかそっちの危ない世界の人に見えてきて、その感情が読み取れない鋭い目も尚更危険な感じがする。
クラウスの話だと、イヴァンは少なからずそちらの世界とも関わりはあるそうで、然しながら、友人や顧客に対しては絶対に期待を裏切らない誠実な人間であるとのことだった。何事にも驚かないくらい落ち着いたその目は、やっぱり英雄ナポレオンを連想させる威圧感がある。
注文を取りに来たウエイトレスに、短く「エスプレッソ」と答えるイヴァン。
早速、胸ポケットから手帳を取り出し、挟んでいた金のボールペンを手に取った。
「フリーランスビザだって?」
即、本題に入る。全く無駄がないところが、さすが敏腕弁護士。
「うん。調べてみたら、申請条件を満たしているみたいだったから」
「すでに雇用契約を結んでいるところは?」
イヴァン刑事の尋問、いや、イヴァン弁護士の相談受付コーナーが始まる。
彼の質問に、自分が持って来た資料やプリントアウトを出しながら答えつつ、この人はきっとSommerfeld家にとっては有能な弁護士なんだろうなとしみじみと感じた。
そういえば、あれから継母ダニエラの動きがない。未だにミュンヘンに籠って、クラウスの父のもとへは戻っていないらしいが、この不気味な静けさが嵐の前のものでないことを祈る限りだ。
一通り、ビザ申請に関する話が終った時にはすでに1時間近く立っていて、ずっと喋り続けていた私はもう喉がカラカラになっていた。
私が渡したプリントアウトを眺めて、イヴァンは眉を潜めた。
「ここのところ、ドイツ語、間違っているじゃないか。スペルミスもある」
「あ、そのへんは許してください。イヴァンに渡すもので、ビザ申請に使うものじゃないからいいかと思って」
そう言うと、彼は明らかに気分を害したように溜め息をついた。
「内輪の資料でも、完璧にしておけばいつか移民局に見せることがあった時に手直しする手間が省ける。クラウスが居るなら、チェックしてもらえば良い事だ」
「うん……でも、彼も仕事で忙しいし」
「これくらいの資料、1、2分もあれば十分チェック出来る。見え透いた言い逃れをせずに、今後はきちんと見てもらってから俺に提出するように」
「はい……」
だんだん声が小さくなってしまう私。
やっぱり、上司と部下だ。
この場合、弁護士に仕事を頼む客、が本当の図なのだが。
私が、客の立場なんだけどな。
そういうへ理屈なんて言おうものなら、説教が倍になって返って来るだろう。
それに、仕事を依頼する客であっても、間違ったドイツ語に気がつきながらそのまま資料を渡すのは失礼だったのは確かだ。
今後、間違ったドイツ語をイヴァンに見せないよう必ずクラウスにチェックしてもらおうと反省する。
空になったカップを眺めていると、イヴァンがパタン、と手帳を閉めた。
顔を上げると、彼は自信たっぷりな微笑みをうっすらと浮かべている。
「まず、問題ないだろう。申請の準備をしたら連絡する」
「ほんとに!よかった。それで、手数料のことなんだけど」
「それは今晩にでもメールで送る」
「助かります。ありがとう、イヴァン」
ほっとして思わず手を差し出し、苦笑いするイヴァンと握手した。
不敗弁護士イヴァンに任せれば、きっとフリーランスビザを取得出来る。そしたら、クラウスと一緒に居られるんだ!
嬉しくてニコニコしてしまう。
「じゃぁ、もう出よう。俺は次の案件がある」
「相変わらず忙しいんだね」
感心して言うと、イヴァンはクスッと不敵な微笑みを浮かべた。
「ありがたいことに、ひっきりなしに仕事は入ってくるのさ」
それはきっと彼が有能な弁護士であることを証明しているようなものだ。
すごいなぁと感心しつつ、二人でカフェを出る。
「ありがとう、イヴァン」
「また連絡する」
軽く肩を抱き合って、挨拶を交わすと、イヴァンは足早に車のほうへ去って行った。日曜日なのに、次から次へと忙しくて大変そうだ。
彼のシルバーのベンツが発進したのを見て、私は携帯を出してみた。
時間を見れば、もうすぐ3時。そろそろ、クラウスが迎えに来てくれる時間だ。
人通りの多い大通りを見渡してみる。今日は、バイクで迎えに来てくれることになっているので、彼が近くに来たらその音が聞こえて来るだろう。
そう思って携帯をバッグに仕舞う。
その時、バシャンッ、と何かが飛び散る音がして咄嗟に目を閉じた瞬間、体に叩き付ける何かの衝撃を感じ、目を開けるとと自分が頭から濡れていることに気がつく。
周りの人が小さく悲鳴をあげて私の側から離れる。
な、なに?!
一体、何が起きたの?!
自分を見下ろすと、サンダルまで全身水浸しになっている。それを確認すると冷たさでぶるっと身震いがした。
「カノン!」
バイクの音が聞こえて振り返ると、まさにクラウスが到着したところだった。ヘルメットごしに彼の目が私ではなく、他のものを見ているのに気がついて、そちらに目を向けると、薄いブルーのスーツ姿の女性が雑踏に消えて行くのが見えた。
私の足下に転がる、緑のプラスチックのバケツの周りには、色とりどりの花が飛び散っている。見れば、向いの花屋の前に生けてあった花が入っていたバケツと同じものだ。
「カノン、大丈夫か」
バイクを路肩に止めてヘルメットを外したクラウスが私の肩に触れて、心配そうに眉を潜めた。
「あれは……あの人が、私に」
一体、私が何をしたっていうんだろう?!
全くわけが分らない!!!
「このままだと風邪を引いてしまう」
クラウスが私の手を取り、さっと辺りを見渡す。
「あそこにブティックがある。そこで着替えよう」
行動の早いクラウスに手を引かれて道路を渡る私は、未だに呆然自失の状態だった。
小さなブティックに入ると、お店の人が驚いた様子で私を見て、奥からタオルを持って来てくれた。クラウスがお礼を行って、私をベンチに座らせると、髪にタオルをあてて水気を拭き取ってくれる。
今までこんな仕打ちを受けたこともなくて、ショックというよりも驚きのほうが強く、頭の中は真っ白だった。
クラウスが手際よく着替えを選び、私はお店の人に連れられて試着室で着替えた。濡れたジーンズを脱ぐのに苦労したけれど、体に貼り付いていた冷たいジーンズとチュニックを脱ぐと、少しだけ寒さが和らいだ。クラウスが選んでくれたのは、チョコレートカラーのセーターと、オフホワイトのパンツ。ニットセーターは発色が落ち着いたシックな色合いで、綿糸で編まれたものだったけれど、ふんわりとしてとても肌触りが良く、冷えた体も温かく包んでくれる。パンツもぴったりサイズで驚く。お店の人が、同じブラウンのローヒールパンプスを出してくれたので、試しに履いてみると、こちらもぴったりだった。
「23cmだなんて、小柄で可愛らしいわね」
お店の人がニコニコしてそう言う。
試着室から全身総着替えを済ませて出て来ると、クラウスがもう支払も済ませて、濡れた服をまとめてもらっているところだった。彼は私を見ると、にっこりと満足そうに微笑んだ。なんだか急にほっとして、私も笑い返した。
さっきは気が動転していたけれど、やっと理性が戻って来たようだ。
人間、全く予想したことのない状況に陥ると、全ての機能がストップしてしまうのかもしれない。
お店の人にお礼を行って、外へ出て、安堵の溜め息が出た。
「ありがとう、クラウス。1人だったら、どうしたらいいかわからなかった」
そう言って彼を見上げると、彼は首を振って困ったように笑った。
「カノン。この間のあの手紙の主がわかった」
「えっ?!」
驚いて目を見開いた。
あの、手紙を書いた人が、私に水を浴びせたということなのだろうか。
一体、それは、誰?!
クラウスが、大きく溜め息をして、私を見下ろした。
「あれは、イヴァンの妻だった」
「え……」
その時、一体なにがどうしてそうなるのか全くもって理解出来ず、しばし固まってしまう。
どうして、イヴァンの奥さんが?
クラウスと私に嫉妬?
いや、そんなはずはない。
じゃぁどうしてあんなことを……
夫?子供……?
え?
「まさか……」
もしかして、彼女は、私がイヴァンと付き合っていると思って?!
とんでもない原因を思いつき、驚愕してクラウスを見つめると、彼も困ったように眉を潜め、苦笑いした。
「その、まさからしいな。どうして、そう思い込んだのかはわからないが、きっと、イヴァンの後を付けていて、君と会っているのを確認してあんな行動を取ったのだろう」
「奥さんが……私と、イヴァンのことを勘違いして……」
そうだとすると、あの手紙も説明がつく。
彼女はイヴァンを愛しているのに、イヴァンは家庭を顧みない。
そして、思い出した。
オランダから帰って来た時、イヴァンが奥さんと子供を車に待たせてまで、私のスーツケースを運んでくれた。思い返せば、私は何かの用事で電話を入れたりした時も、奥さんが側にいたのかもしれない。
手紙の主がわかった安心感と同時に、誤解されたショック、そして奥さんの苦しみを感じて、複雑な気持ちになった。
「このことは、俺からイヴァンに話しておく。勘違いとはいえ、もう二度も君に害を及ぼしていることを考えれば、このまま放置することは出来ない。これは、君には一切関係のないことであって、彼ら自身が解決すべき問題だ」
クラウスがそう言って、まだ呆然としている私に笑いかけた。
「何か、温かいものを飲んだ方がいい。そこでココアを買おう」
「うん」
私も頷いた。
ブティックから3件先の小さなカフェに入ると、狭いながらも座り心地の良さそうなソファーやカウチが置いてあったが、店内は思ったより込んでいた。
表のテラス席が空いているということだったので、クラウスが飲み物を注文している間に、テラスのほうへ出てみた。
こちらは空いていて、今のところタバコを吸うお客さんもいないようだ。
オレンジ色のダリアの花が活けてある小さな花瓶が乗っている席に決めて、そこに腰掛けると、濡れてしまったバッグのことを思い出し、中身をチェックする。お気に入りのホワイトのかごバッグ。持ち手のレザーもホワイトで、物がたくさん入るから、今日もプリントアウトした資料などを入れていた。運良く、一番濡れ易い印刷物はもうすでにイヴァンに渡してあったし、内ポケットに入っていた財布も、携帯も濡れていなかった。ほっとして、携帯を取り出してメールをチェックしてみる。
美妃と、はるからのメールが入って来ていた。
先にはるのメールを開けようとしたら、電話が受信状態になって、おばぁちゃん宅の番号が表示される。
大体、私が夜に電話をかけることが多いので、この時間におばぁちゃんから電話なんて珍しい。
何かあったのかもしれない。
そう思って、電話に応答した。
「もしもし?おばぁちゃん?」
『あぁ、カノン?』
いつもと同じ、元気そうなおばぁちゃんの声が聞こえて来てほっとする。
「こんな時間に電話してくるから、なにかあったのかとびっくりしたよ」
正直にそう言うと、おばぁちゃんが大笑いした。
『なにかあったかといえば、あるんだよ。マシューから、婚約したって連絡が来たんだよ!』
「マシューが!」
思わず声が上ずる。
フーゴからオフレコで聞いてはいたけれど、ついにオープンになったわけだ。
「どんな連絡?相手のこととか書いてあるの?」
『たくさんは書いてないんだけどねぇ、式の場所とか、私の体調を考えて決めたいとか、相変わらず優しいことを書いてあってねぇ』
「やっぱり、マシューは優しいよね」
うんうんと頷いて、喜びを噛み締める。
この話がおばぁちゃんの所に行ったとなると、日本のほうにも連絡が行ったのかもしれない。さっきの美妃のメールも、もしかしたらこの件だったのかもしれない。
『一体、どこがいいだろうねぇ』
おばぁちゃんがウキウキした感じで、とっても楽しそうだ。
孫の結婚式なんて初めてだから、きっとかなり舞い上がっているに違いない。
「カノン?君の分は、生クリーム付にしておいた」
後ろからクラウスの声がして、私は電話を持ったまま振り返った。
彼が、大きな白いマグカップを二つもって、こちらに来た。私の目の前に、美味しそうな生クリームの山が浮いたココアがそっと置かれる。温かい湯気と一緒にふんわりと甘いバニラの香りが舞い上がる。
「美味しそう!ありがとう、クラウス」
お礼を言って彼を見上げると、彼がにっこり微笑んで隣の席に座った。
『カノン?クラウスって、誰なの?』
耳に聞こえたおばぁちゃんの声にはっとして目を見開いた。
「あっ、えっ」
つい、電話を持ったままペラペラと喋っていたことに気がつき焦る。
おばぁちゃんには今まで何も話していないし、そのうちオランダに遊びに行った時に話そうかなと思っていたので、今そんなことを話す心の準備もしていなかった。
『カノン?クラウスって?』
私の動揺を鋭く感じ取ったおばぁちゃんは、マシューの話はぴたりと止めてしまった。
「え、あの、えっとね」
私が落ち着き無く動揺しているのを見て、クラウスが可笑しそうに笑いながらココアを飲んでいる。
『カノン?』
「えっと、だから……」
『ボーイフレンド?付き合ってるの?そのクラウスって子』
しびれを切らしたおばぁちゃんが大声でそう聞いた。最後の、「クラウスって子」が当の本人に聞こえたのか、彼が顔をあげてまっすぐに私の目を見た。
「……そう、です」
思わず、口から溢れた返事。
はっとして手で口を覆い慌てる。
「あっ、あのね、おばぁちゃん?」
『かわりなさい』
「え?」
何か聞き間違ったかと思い、聞き返すと、おばぁちゃんがもう一度言った。
『クラウスと、電話を代わりなさい!』
「えっ、どうしてっ?」
驚いて反抗する。
おばぁちゃんが一体何を言うつもりかも分らないのに、電話を代わるわけにはいかない。
「おばぁちゃん、後でまた連絡するから!ちゃんと説明するから!」
必死でそう言って、なんとか電話を切るタイミングを取ろうとすると、イライラした感じでおばぁちゃんが電話口で叫ぶのが聞こえた。
『Klaus! Can I talk to you for a second?』
完全に、携帯から漏れたその大声。私は血の気が引いた。
目を丸くして私を見たクラウス。数秒の沈黙の後、クラウスが肩を揺らして笑い出した。
「誰?」
「オランダの……おばぁちゃん」
やっとの思いでそう答えると、クラウスがクスッと笑って、私の携帯に手を伸ばした。
「出よう」
「えっ、いいよ、そんな」
断ろうとしたが、もうクラウスは電話を取り、ゆっくりと耳にあてていた。
クラウスが名乗って、何か挨拶を言っている。
私は気が動転してもう、彼が何を言っているのかさえ理解できない混乱状態になり、頭を抱えてうつむく。
おばぁちゃんが、妙なことを言わないことを祈るしかない。
必死でそれだけを祈る。
やがて、クラウスの笑い声が聞こえて顔を上げると、丁度電話を切るところだった。
クラウスは可笑しくてしょうがないと言うように微笑みながら、携帯をテーブルに置いた。
「おばぁちゃん……何か、変な事を言ってたんじゃ」
恐る恐る聞いてみると、クラウスはまだ笑いが止まらないというように目を細めて首を振った。
「いや、さすがにカノンのおばぁちゃんらしいなと思った」
「それって、どういう意味」
嫌な予感がして思わず眉を潜めて彼を見つめた。
「来週末、オランダに行くことになった」
「は……ら、来週末、行くって、な、なんでっ?どうしてそうなるのっ?」
腰が抜ける程驚いて聞き返すと、クラウスが楽しそうに笑いながら片手で髪を掻き揚げた。
「俺に会いたいそうだ。オランダに最短で来れるのはいつだと聞かれたから」
「……」
「来週末は、結局ニースにも行かないことになって空いていたし、考えてみればデン・ハーグも海辺だ。それに、あのLa Galleria Nordwijkに行くいい機会にもなるだろう」
「そ、それは、そうかもだけど」
おばぁちゃんは私が心配で、どんな相手と付き合っているのかを確認したかったんだろう。
でも、その気持ちが、クラウスにとって重荷になったらと思うと、どうしても気乗りがしない。
困ったことになったと思いうつむいていると、クラウスが私の肩を抱き寄せて顔を覗き込んで来た。
「カノンは、どう思っている?」
「私?」
「君の家族に俺を会わせること」
「それは」
勿論、嫌なはずはない。会わせたいというのが本音だ。
「勿論、紹介したい……けど」
「……それが、俺の負担になるのが怖いんだろう」
すっかりお見通しのようだ。
私は自分の気持ちを隠すのを諦めて、小さく頷いた。
すると、クラウスは優しく微笑んで、私の髪を撫でた。
「そういうことを考えるのはもうやめるんだ」
顔を上げると、彼の美しいブルーグレーの目がまっすぐに私を見つめている。偽りの影もない、意思の強い光をたたえた瞳が、ゆっくりと瞬いた。
「君の家族に会えるのが待ち遠しい」
「クラウス……」
彼の言葉に胸がいっぱいになり、嬉しくて一気に涙がこみ上げてきた。
彼が、私の家族に会うことを嬉しいと言ってくれている。
もっと、私のことを解ってくれようとしているんだ。
「君はもっと俺に甘えることを学ぶべきだ」
彼はいたずらっ子のようにそう言うと、私の顎を掴み、そっと指で唇に触れた。
「カノン」
囁くようにそう私の名前を呟く。
彼が私を引き寄せて、まっすぐに目を見つめたまま顔を覗きこんだ。
鼻と鼻が触れるくらいの近さで彼が止まり、じっと私の目を見下ろしている。彼の煌めく瞳に胸がドキドキと高鳴っていく。毎日ずっと見ているのに、回を追うごとにもっとときめいてしまうのは何故だろう。
私は両手で彼の頬に触れた。男らしい精悍なカーブを描く、その頬を両手で包んで、私はそっとキスをした。彼の両腕が私の背中に回り、ゆっくりと抱きしめてくれる。
そしてまた一歩、二人で前進した。
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