上 下
17 / 35
誤った結び目を解く方法

過ぎた日々を巻き戻して

しおりを挟む
はるか遠くで微かに聞こえる携帯のアラーム音。わずかにその振動する響きも聞こえて来て、私ははっと目を覚ました。
今日は学校がある日だ。
バイトもある木曜日。
窓のブラインドの隙間から漏れる夜明けの日差しで、間違いなく朝なんだと確認し、私は音を立てないようにゆっくりと隣のほうへ視線を向けた。
そこにいる愛しい人が、うつぶせでぐっすりと眠っている。
彼の左手が私の左手と繋がれたままだ。
思わず微笑みながら、彼の頬に触れてそっと髪を撫でてみる。しばらく見ないうちに少し伸びて、また柔らかなウエーブが出てきたダークブロンドの煌めく髪。形のよい眉と、男らしい頬骨。半身を起こして彼の顔を覗き込み、ゆっくりと上下している肩に触れて、美しいラインを描く逞しい背中を撫でると、彼がうっすらと目を開き私を見た。彼は繋がれた手に一度力を込めて、わずかに微笑むとまた、ゆっくりとまぶたを閉じた。そして、深い深い眠りに落ちて行く。
幸せそうにうっすらと微笑みを浮かべたまま。
なんて安らかで美しい寝顔なんだろうとしばし見惚れ、そしてあの悪夢の日々がまるで嘘のように消えた昨日の出来事を回想した。
ニッキーが昨晩、眠る前に教えてくれたことがいくつかあった。
最初に説明してくれたことは、名前のこと。
彼の本当の名前は、クラウス。
インターに入っていた頃、アメリカ人の友達の1人に、その名前だと呼びにくいと言われたのがきっかけで、「ニコラウス」という呼び名にして、それからはクラスの皆から、ニッキー、ニック、ニコと呼ばれるようになったらしい。
サンタ・クロース『Santa Claus』の「クロース」はドイツ語で「クラウス」と発音される。綴りは英語とは少し違って『Klaus』。
そして、この国では、一般的に12月24日にプレゼントを持って来るサンタ・クロースは存在せず、それに代わるのが、12月5日にプレゼントを持って来る「聖ニコラウス」。12月24日の夜に2回目のプレゼントを持って来るのは、クリスト・キントという全く別の神の使いだそうだ。
そういうことから、言ってみれば、「クラウス」は「聖ニコラウス」と同じ意味を持つ。それで、呼び名を「クラウス」から、ニッキー、ニックなどあだ名を付けやすい「ニコラウス」に変えたということだ。
家族や親しい人からは本名の「クラウス」と呼ばれ続け、他の知人、友人達で特に英語圏の人達からは「ニッキー」「ニック」と呼ばれているという、そんな裏話だった。

そして、私とニッキーが初めて出会った日のことも聞いた。Café Bitter-Süßで私の名前を聞いた時、私があの写真の人物だと気がついたとのこと。
マリアと私がMaur Parkの蚤の市に居る時にマリアに電話してきたのは、彼女が私と彼を会わせる機会を作ろうとしていたのをヨナスに聞いたので、それを阻止するためだったらしい。そして、その週末に私に会う時間を作りたかったから、自分の代わりに二人にフランスに行ってもらって、あの写真用に準備させていた額縁の出来具合を確認し、発送準備をしてもらったということだ。
そんな前から、ヨナスとマリアが関係していたとは全く気がつかなかった。
ニッキーの言い分としては、ありのままの自分で私と向き合いたかったから、マリアやヨナスを通じて紹介されたくなかったとのことだけれど、このような種明かしに私はすっかり狐につつまれたように呆然としてしまった。
そんな話を聞いているうちに、二人ともいつのまにか眠ってしまったらしい。

私は安らかに寝息を立てている彼を見つめた。
彼もきっと、精神的にとても疲れていたのだろう。
その原因を作ったのは、誰でもない、この私。
あの手紙のことを、きちんと彼に聞くべきだった。
深く反省するけれど、終ってしまったことを悔やんでもどうしようもない。
もう二度と、どんな問題もひとりで抱え込まない、と彼と約束した。
彼を傷つけた分、彼を笑顔にして自分の罪を償いたい。それは罰ではなく、この上なく幸せな償いの方法だ。
今日は木曜日で、彼も昼前から仕事があると言っていた。
今はゆっくりと休養を取ってもらいたいから、起こしたくない。
私は1人でアパートへ戻って着替えて、学校へ行くことにした。
今まで見た中で一番、深い眠り落ちている様子の彼を見つめて、幸福感で胸がいっぱいになる。起こさないようにそうっと手をほどき、ベッドを抜け出す。リビングに起きっぱなしだったバッグの中から携帯を出し、アラームを消した。あたりを見渡し、キッチンにあったメモ用紙とペンを取った。
一度帰宅して、学校とバイトに行くということと、また連絡するということを書いて、その文章を大きなハートで囲み、サインをしてテーブルに置いた。
カウンターに置いてある、私が返却した合鍵をもう一度手に取る。
その鍵をぎゅっと握りしめて、そっと寝室をのぞきに行ってみた。
まだ、熟睡中の様子だ。肩がゆっくりと規則的に上下しているのが見えた。
私はまだ手に持っていたサインペンを見て、ちょっとしたイタズラを考えついた。
アナがアダムの手に落書きした、あれだ。
そうっと寝室に入っていて、眠っている彼の左手に触れてみる。全く力が入っていないことで、彼が深い眠りの中にいることを確認した。その大きな手のひらに、そうっとサインペンを走らせる。これは、水性ペンだからシャワーしたら奇麗に取れるはずだ。
思わず笑ってしまいそうになりながら、そうっとその手を離し、私は寝室を抜け出した。
アパートの外に出ると、もう明るい日差しが辺りを照らしていた。
今の私は、眩しい光の中にいる。
幸せという名の光の中に!


バスと電車を乗り継いで自分のアパートに戻ってみると、そこはまた、以前と違って見えた。
悲しみに暮れていた時は、四方を囲まれた牢獄のように暗く冷たく感じたこともあったのに、今朝は明るい日差しが差し込んですべてが色鮮やか活き活きとしてみえる。まるで、長かった夜が開けた眩しい朝のように、すべてが新鮮に見えた。
急いでシャワーをして着替え、学校のバッグを肩にかけてから、私はふとあることを思い出した。ベッドルームへ戻ると、スーツケースを開けて、テディベアのシナモンを取り出してそっとベッドの脇に置く。そして、クローゼットを開けて、彼にプレゼントしてもらったあの、ヴェネツィアの思い出であるペンダントを出し、久しぶりに首にかけてみる。ひんやりとしたその感触が、肌になじむ水滴のようだ。
今日一日、このペンダントと一緒にいたい。
朝日で眩しく輝くそのペンダントにそっと触れて大きく深呼吸すると、私はアパートを出た。
学校に行く途中、ベーカリーでクロワッサンとコーヒーをピックアップする。昨日までふらついていた足下も、今朝はもう殆ど以前と代わらないくらいしっかりと歩けるようになってた。

お昼にクラスメイトとランチを食べている時、ニッキーからのSMSが入ってきた。
******************************************
19時に迎えに行く
******************************************


恐らく、仕事の相手と一緒にいる最中に送って来てくれたんだろう。
私は嬉しくなって、即座に返信した。



******************************************
ありがとう。
待ってる! 
世界で一番大好き!
******************************************



ウキウキした気分がどうしても顔に出るのか、学校で何人にも、何かいいことがあったのか聞かれてしまった。
我ながら、あまりにもわかりやすい人間で恥ずかしくなったけれど、この一ヶ月ずっと暗い顔をしていたせいで、あまりに大きな変化だったから誰が見ても不思議に思うのは無理ないだろう。
学校での勉強も、バイトもあっと言う間に終って、夕方18時半にアパートへ戻った。
詳しいことは聞いていないけど、今晩は、マリアとヨナスと一緒にご飯を食べることになってるはずだ。このメンバーで一緒に食事なんて、考えたこともなかった!!!ヨナスが、ニッキーの兄だなんて未だに半信半疑だけど、でもよく考えるとやっぱり兄弟なのかもと思う節もあって、とても面白い。
今晩はじっくり二人を観察しよう、なんて思いながら、出かける準備を始めた。
シャワーして、久しぶりにおばぁちゃんが買ってくれたSee By Chloeのミニワンピースを着ることにした。コットン生地のシンプルなラインのオフホワイトワンピースの上に、同じ色のフラワーパターンレースがドレスを覆うレイヤーのように全体を覆っていている。胸元と背中部分が少し大きめに丸くカットされ、袖部分もちょうどひじに届くかどうかという長さの柔らかいドレープ。ヴェネツィアンガラスのペンダントもとても合っている気がする。髪をどうしようか悩んだ挙げ句、くるくると捻ってピンで留めてみた。
鏡の中に映る今日の私は顔色がよくて、この間まで見ていた自分とはまるで違う。気持ちが違うだけで、別人のように見えるのは明らからしい。泣きはらして生気のなかった目も、今日は強い光が宿って明るくみえる。
明日は金曜日で学校がないので、昨晩ニッキーと話した通り、週末は彼のアパートで過ごすことにした。
荷造りをしながら、思わず鼻歌が出そうなくらい気分が高揚する。
明日は、彼が仕事に行くのを見送ってから、買い物に行こう。
彼が不在の間に、洗濯をしたり、アイロンがけをしたり、家事もやってみたい。
ディナーは何を作ろうか。
そんなことを考えているだけで、もう胸がどうかなるんじゃないかと思うくらい、ドキドキと暴走しはじめる。こんなことを考えることが許されるなんて、やっぱり夢じゃないかと疑いたくなるくらい、私は強い幸せを感じていた。
荷造りが終ってまもなく、表の呼び出し音が鳴り、私は玄関へ走って即座に受話器を取った。
「ニッキー?」
呼び出し音が鳴って、およそ2秒後という、あまりに早い応答だったせいか、彼がびっくりして笑う声が聞こえた。
『カノン、開けて』
「うん、今開ける!」
解錠ボタンを押して、私はすぐに玄関の鍵を開けて、階段を駆け下り始める。
彼が上って来るのを待つなんて到底出来なかった。
1階(日本の2階)の踊り場でニッキーに遭遇する。彼が華やかな笑顔で私を見上げ、私の手を取る。二人で並んで、一緒に階段を上ってアパートの中に入ると、すぐに彼が私をぎゅっと抱きしめてくれた。そして、ちょっとだけ怒ったような顔で、私の顔を覗き込んだ。
「朝、君がいないのに気づいた俺がどれだけショックを受けたか、君には到底わからないだろう?」
「うん、ごめんね、でもよく寝てたし、疲れているみたいだったから……ごめんね」
確かに罪悪感があるので、素直に謝ると、彼はくすっと笑って左手のひらを開いた。
「でも、これに気がついた時は、さすがに怒りも消えた」
手のひらにはまだ、私が書いたものが残っていた。

Always with YOU 
24/7
Love, Kanon

いつも貴方と一緒
一日24時間、週7日間
カノンより愛をこめて

そういう意味のメッセージだった。
「水で消えなかったの?」
落書きをつけたまま仕事に行かせたのかと思って、申し訳ない気分でその字を眺めると、ニッキーがその手をぎゅっと握りしめて微笑んだ。
「消えないように気をつけていたよ。君に必ずこうして会えるよう、まじないがわりに」
「ニッキー……」
なんて可愛いことを言うんだろう!
大人びた表情の彼が、そんな事をいうのを聞く時にふと感じることがある。彼は、見かけよりはずっと、内面は幼く純粋なのかもしれない。時折、彼の少年のような表情に気がつくことがある。
そんな時、彼は私にありのままの姿を見せてくれているんだと、嬉しくてたまらなくなる。
リビングに行くと、私は昨晩約束した通り、あの便せんをニッキーに渡した。
真っ白い便せんを手に取り、彼が険しい顔でそれをしばらく眺め、それを畳んでジャケットのポケットに入れた。
「調べておこう。二度とこういうことがないようにする」
そう言って、力強い目で私を見つめた。
「うん、ありがとう。でも、もう大丈夫だよ。何かあったら、必ず貴方に聞くから」
私ははっきりと、昨晩の約束の言葉を繰り返した。
もう二度と、自分ひとりで抱え込まない。
信じるのは、彼だけと決めたから。
ニッキーが満足そうに微笑んで私を抱き寄せると、身を屈めてキスをした。そして、熱っぽい目で私の顔を覗き込んで囁く。
「カノン、とても奇麗だ」
愛する人に褒められて照れないはずがなくて、私は頬が緩んで思わず何度か瞬きした。
「週末の分の荷物、準備終ったよ。一緒にいられるなんて夢みたい」
私は彼の大きな手に自分の指を絡ませて、フロアに置いてあるボストンバッグを見下ろした。ニッキーがにっこり微笑んでボストンバッグを取り上げながら、ふと視線を留めた。どうしたのかと思ってその視線の先を見ると、コーヒーテーブルに放置したままだった男物のブレスレッド。黒のレザーにシルバーのパーツがついた幅広いデザインのそれは、フーゴの忘れ物だ。サンフランシスコに引越が済んだらそちらへ送ろうと思ってそのままそこに置いていた。
「あれは?」
「フーゴの忘れ物。そのうち送る予定で」
そう答えると、彼が明らかに不機嫌になって眉を潜めた。
「まさか、ここに泊めていたんじゃないだろう?」
「えっと、あの、3泊だけここに……従兄だし」
急になんだか悪いことをしたような気持ちになって声が小さくなってしまうが、でも自分の従兄弟を泊めることは別に変なことじゃない。
「3泊?」
ニッキーが憮然とした様子で私を睨んだ。
眉間に深いシワまで寄っている。
「従兄だろうと兄弟だろうと、男には変わりない。こういうことは二度とするんじゃない」
威圧的な命令口調で厳しくそう言われて、私はむっとした。
人のことをいえた口だろうか?
そういう自分はどうなんだ!
「じゃぁ、私も言わせてもらうけど」
私はその目をじっと見返した。
「そういう貴方はどうなの?連日連夜、女性とデートしてたみたいじゃないの。昨日だって、何人も引き連れてた。従兄を泊めたことくらいで文句言われるなんて心外!」
本当にそうだ!
ニッキーなんて、あっちこっちのクラブやバーで遊び歩いていたんじゃないか。
それが例え、傷ついて癒しを求めていたとしても、他の女性とベタベタしてたなんて、それこそ浮気に近いとしか言えない。兄弟みたいな従兄のフーゴを泊めたことなんて比較にならない。
もともと私の勘違いが原因だとわかっていても、嫉妬が蘇って来てもう怒りが止まらない。
言い返してくるのかと思いきや、ニッキーは言葉に詰まり、ものすごくバツの悪そうな顔をして目を伏せた。
「……悪かった。謝る。俺は」
低い声でそう言って、一度口をつぐんだが、それから大きな溜め息をついて苦笑した。
「俺は、弱い人間だ」
「……弱い?」
「君のいない部屋に戻るのが耐えられなくて、飲まないと眠れなかったからだ。彼女達はただ後をついて来ただけで、俺が声をかけたわけじゃない。酒につきあってもらっただけだ。それに」
そこまで言って、ニッキーは私の手を取ってそっと握りしめた。
「そんな日が続けば続くほどますます虚しくなって、どうしたら君を取り戻せるか、そればかり考えてた。ヨナスが見かねてそんな俺に付き合っていたけれど、埒があかないから、ついにマリアが我慢出来ずに行動を起こしたというわけだ」
「……」
さすがに私もそれ以上は言えなくなり、今度は申し訳ない気持ちでいたたまれなくなった。結局、私が彼を傷つけて、それが原因であんな行動に走ったということには変わりはない。
あの不可解な手紙が元凶だとはいえ、ニッキーに相談もせず勝手に信じ込んだ私にも大きな非がある。
「ごめんね。もう、この話はしない!」
私は笑顔でニッキーを見上げた。
「それに、こうやってまた、貴方にやきもちを焼いていいと思うだけで、とっても幸せ!」
そう言うと、ニッキーも目を細めてゆっくりと頷いた。


1時間後、私達は一足先にタイ料理店に到着していた。
マリアとヨナスが来るまでしばらく時間があるので、飲み物だけ先に注文する。いつもは向かい合わせに座るけれど、今日はボックス席に隣り合わせで座っている。向いの席は、マリアとヨナス用のメニューが置かれていた。
自分のメニューをめくるたびに、隣の彼にひじが触れてしまいドキドキして落ち着かない。もう少し離れて座ればいいことなのだけど、ニッキーの片手がしっかりと私の肩を抱いていて、ぴったりと密着している状態だからだ。
「どうしたんだ?」
私が落ち着き無く何度もちらちらと彼のほうを見るので、ニッキーがメニューから顔を上げた。
「いえ、たいしたことじゃないんだけど」
私は自分の右肩を抱いているその手をちらりと見た。
「これ、落ち着かないっていうか、メニューに集中できない……」
この手が気になってメニューの活字さえ理解出来ない。
自意識過剰もいいところだけど、久しぶりに一緒にいるせいもあって、緊張してしまうものはどうしようもない。
「そう」
ニッキーが面白そうに私の顔を覗き込んだ。
「心配するな。俺が選んでやる」
「え?そういうことじゃなくて」
自分の食べるものくらい、自分で選べる。
メニューさえ理解出来たら。
これくらいのドイツ語は読める。
集中さえ出来たら。
どう説明しようかと黙り込むと、ニッキーがクスクスと笑い出した。
「冗談だ」
そう言って肩から手を離したのでほっとしていると、一度離れた手が脇から腰をすっと撫でたのでドキンとして硬直する。そのまま腰に触れているその手の感触に、思わず彼を振り返った。
これじゃ、さっきよりもっと緊張してしまう!
彼が私の左耳に唇を寄せて、小さい声で囁いた。
「君がキスをしてくれたら、離してやろう」
その言葉に目を見開く。
ここで!? 今?
ドキンドキンと動悸がして、耳が熱くなる。
明らかに更に緊張し動揺している私を、満足げに眺めているニッキー。
「さぁカノン」
私の肩を更に抱き寄せた彼が身を屈めて、私の頬に唇を寄せまた囁いた。
「今」
私の頬に触れているその唇のくすぐったい感触に鳥肌が立つ。
激しい動悸がする胸を両手で押さえながら、私は彼を見上げて、優しく微笑んでいる彼にキスをした。目を閉じると、肩を抱いている彼の手に力が籠るのを感じた。
「もう少し遅れてくればよかったかしら」
明るい声が耳に入ってきてはっと前を向くと、そこにマリアとヨナスが笑いながら立っていた。
驚きと恥ずかしさで咄嗟にメニューで顔を隠した。
全然、気配がしなかった!!
いつから、そこにいたんだろう!?
どきまぎしながら横に目をやると、ニッキーは平然とした様子で笑い、向いに座る二人を見ていた。
それを見て我に返る。
これくらいで動揺するなんて、大人じゃない!
落ち着かなくちゃ!
私は自分にそう何度か言い聞かせ、メニューをテーブルに置いて顔をあげた。
目の前に座るマリアとヨナス。
マリアが、キラキラする瞳で私に微笑みかけた。
「こうして4人で会えるまで、随分と待たされた気がするわ」
「クラウス」
ヨナスがメニューを開きながら、いぶかしげに目を細めてニッキーを見る。
「お前、あまりカノンをいじめるなよ。涙目になってるじゃないか」
「涙目?」
ニッキーが驚いたように私の顔を見た。
「あ、これはいじめられて泣いているんじゃなくって、単に恥ずかしかったから……」
慌てて説明すると、ヨナスが私にウインクして微笑んだ。
「知ってる。冗談だ」
その言葉に肩を揺らして笑い出したマリアと目を合わせて、同じく苦笑するニッキー。
あぁ、やっぱり似てる!
ヨナスのこういうところ、ニッキーとそっくりだ。
二人は、本当に兄弟なんだ。
私は可笑しくなって自分も笑い出してしまった。



初めて四人で食事を共にする。
とても不思議な感じがしたけれど、同時にまるでこんなに心地いい空間は初めてのような気がした。最初は緊張していた私も、注文した食事が運ばれる頃にはすっかりリラックスしていた。
マリアが話をする時は、ヨナスはいつも、彼女のほうをじっと見つめて柔らかい微笑みを浮かべている。押し合うようにぴったり寄り添って笑う二人。マリアがふざけて、ヨナスの耳を引っ張ったり、くすぐったりして、とても楽しそう。今まで時々、マリアを独占するヨナスに嫉妬していたことを思い出した。
「あの話はしたの?」
マリアが少し真剣な顔になってニッキーに問いかけた。
彼が首を振り、ヨナスのほうを見た。
「まだその話は済んでいない。ヨナス、ミュンヘンに行って来たんだろう?まだその話は聞いていなかったが、あちらはどうだったんだ?」
どうやらなにか、あのお父さんが絡む重要な話らしいと気づいて私も黙って二人を見つめた。
ヨナスが澄んだ青い目を曇らせて、苦々しく言う。
「恐ろしく頑固だな。断固、拒否の体勢。説得に行ったはずが返って怒らせてしまったようだ。最後はものすごいヒステリーで話どころじゃなかった」
「まぁ、想像していた状況だな」
ニッキーが大きく溜め息をして、背もたれに寄りかかり、それから私のほうに目を向ける。
何か言われるんだと思って、姿勢を正してニッキーを見ると、彼が私の手を取ってぎゅっと握りしめた。
「カノン、今から説明することで、わからないことがあれば言うんだ」
「うん」
私はしっかりと頷いた。
ニッキーはにっこりと微笑み、それからヨナスのほうを見る。
ヨナスも穏やかな微笑みを浮かべて、私に目を向けると話を始めた。
「カノンも知っているだろうが、俺達の父親は4回、結婚をしている。俺は、2番目の妻の息子で、母は今、ロンドンに居る。クラウスの母は3番目の妻。現在はニューヨークだ」
私はもう一度頷いた。
ヨナスは少し間を取って、また話を続けた。
「現在の4番目の妻は、しばらく前からミュンヘンに居る。父は、ドレスデン近くの街に居て、二人は現在は別居している。問題は、この継母のことだ」
「あ、あの継母さん……」
運河沿いに居た時に、誤って私がニッキーの携帯に応答した際、電話の向こうで怒っていた人だ。
そう思ってニッキーを見ると、彼が小さく頷いた。
ヨナスが話を続ける。
「彼女が父と結婚する時に、ひとつの条件を飲むよう要求した。それは、彼女が離婚した前夫のところにいる自分の娘と、俺達のどちらかを将来結婚させるというものだ」
「えっ」
驚いていると、ニッキーが私の手を握りしめて話を繋げた。
「彼女はもう自分は子供を産めないから、Sommerfeld家の息子と、自分の娘を縁組みさせることで、Sommerfeld家に自分の血を入れようとした。そしてその当時、父もそれを認めてしまった」
ヨナスが大きく溜め息をして、ニッキーを見る。
「俺達はまだ幼かったし、父も深くは考えなかったんだろう。そして、俺達が大人になる頃に、Sommerfeldの一族会議で、誰が父の後、Sommerfeld家を統一していく跡継ぎに相応しいか協議がなされた。俺は、父の仕事を継ぐには向かない空間デザインを専攻していたし、すでにマリアと付き合っていたから、当時、ビジネスマネージメントを専攻しアメリカに居たクラウスに白羽の矢が立ったんだ。それに当時、クラウスはそんなことを気にかけるようなやつじゃなかった」
その時まで黙っていたマリアが、口を挟んだ。
「クラウスは、父親に同情していたというのもあるわ。何度も離婚、結婚を繰り返しても満たされない父親を見てたから」
「それに」
ヨナスが眉を潜めて溜め息をもらした。
「父も、なんとかクラウスをうまくコントロールしようとしていた。自分のために、継母の娘と結婚して、継母の望む通りに子供さえ生ませてくれれば、何人愛人を作ろうが、その娘と離婚して他の女と再婚しようが、自由にしてかまわないと。あの継母の血が入った子供さえ生まれたら、それでいいと」
あまりにも複雑な思惑が入り組んだ人間関係に、唖然とする。
「俺はもともと、Sommerfeld家には興味がなかったから、その決議の後は、面倒を避けるためにも籍を抜いて自分の母親の名字に戻ったんだ。つまり、現在Sommerfeld家の正式な息子は、クラウスひとり。だが、これまで、父の願いを表立って拒否しなかったクラウスが、君に出会ってから、事の重大さに気がついてしまった。クラウスは、父に言ったんだ。継母の娘とは結婚しないと。もともと、何度命令されても継母の娘と会うことを拒否し続けていただけに、それを聞いた継母は激怒して父を置いてミュンヘンに籠った。娘との結婚が実現されるまでは別居だと父に啖呵を切ってね。父は困惑し、俺に電話をしてきた。クラウスが、自分に反抗してきたと。それで、俺に、クラウスを説得するか、でなければ俺がSommerfeld家に戻って、継母の娘と結婚してくれと。俺は勿論、クラウスを説得するつもりはないと言ったんだ。父はとにかく、ミュンヘンの継母のところへ行って、父のもとへ戻るように話をしてくれと俺に頼んだんだ。それで、ミュンヘンに行って来たんだが、別居解消どころか逆にもっと怒らせてしまって、それを知った父も気落ちしている」
そこでマリアが怒りを押さえきれないというように声を荒げた。
「あの女、どこまで自己中なのかしら!一度その顔にビンタをはってやりたい」
ニッキーが怒っているマリアに苦笑し、そして私を振り返った。
「今回、俺が実家に行ったのはその話をまとめるためだったんだ」
私は大きく深呼吸をしてニッキーを見つめた。
やっとすべての状況が見えて来た。
あの時、なにかとても重要な問題に向き合うために行く、と言っていたのはこのことだったのか。
今までこの話をしなかったのは、きっと彼は、私に無用な心配をさせたくなかったからだろう。
彼の思いやりを感じて、私は胸が熱くなった。
こんな大変な問題を抱えて、彼こそ辛かっただろうに。
「俺は父に向き合ったんだ。息子として、父親の幸せを願うけれど、こういう我が侭な条件をつきつけてくる継母はどうしても許せないと。父の心は、こんな条件を飲んだから満たされるとは思えない。不幸の連鎖を止めて欲しいと言った。俺は、父のように、後悔を永遠に引きずるのは嫌だと」
「後悔?」
ニッキー達の父親が、後悔を引きずっているというのは、どういうことだのだろうか。
そう疑問に思っていると、ヨナスが悲しげな目で微笑んだ。
「父は、最初の妻とは離婚したくなかったんだ」
「えっ?」
じゃぁ、どうして別れたんだろう?
目を丸くしていると、マリアが横から私の疑問に答えた。
「最初の妻は、子供が産めなくて、Sommerfeld家の決議で強制的に別れさせられたのよ。ドイツで歴史ある伯爵家の主人に、跡継ぎを産めない妻は無用だとね。お父様は歯向かったらしいけど、結果的には逆らえなかったということらしいわ」
その言葉に、私はショックを受けた。
それじゃぁ、ニッキー達の父は、愛する人と無理矢理引き裂かれたということになる。それで、その傷を追ったまま、本当の意味で満たされることなく、結婚、離婚を繰り返しているということだ。
あまりに気の毒な話で、私は言葉が出なくなった。
どんなに辛かっただろう。
寂しさに耐えられず、失ったぬくもりを求めて他の女性と時間を過ごしながらも、永遠に満たされない心。
まだ会ったことのない彼らの父親を想い、私は悲しくなった。
「結局、俺達の母親達も、父が自分達ではなく最初の妻の影を追っていると気がつくと、おのずから離れて行ったということだ。そして、今、そんな父と連れ添っているのが4番目の妻。さすがに父も、これ以上離婚はしたくないのか、別居されても自分からは離婚しようとはしない。あの年で1人きりにはなりたくないんだろうな」
ヨナスがそう言って、困ったように目を伏せ、ニッキーのほうを見た。
「俺も今回、1週間近く毎日話し合ったけれど、父は首を縦には振らなかった。何が何でも、俺か、ヨナスにどうしてもあの継母の娘と結婚してほしいと言って譲らない」
そう言って、ニッキーは大きく溜め息をする。
ヨナスも疲れた様子で苦々しく微笑んだ。
「今の状況は決して芳しくはない。いずれ、また一族会議が開かれるだろう。最悪の状況も考えられる。俺だけじゃなく、クラウスも除名の覚悟はしている。家長に真っ向から歯向かえば、それなりの報いが与えられるだろう。いうなれば、Sommerfeld家からの永久追放だ」
「永久、追放……?」
あまりにも恐ろしい響きを持つ言葉に呆然とする。
いわゆる、勘当ということだ。
ニッキーは肩をすくめて笑った。
「俺はそれでも構わないさ。仕事なんて、他に探せばいいことだ。ただ、俺はどうしてもあの女が許せない。父は間違っている」
「そうだな。俺も同感だ。姉のニコルも、状況によってはこちらに様子を見にくると言ってる」
「お姉さん?」
聞き返すと、ヨナスが頷いた。
「俺の母から生まれた父の娘で、ロンドンに居る。クラウスにとっては俺同様、腹違いの姉だ。もうすでに結婚して子供を二人生んだ立派な母親さ」
「ニコルにはしばらく会ってないな」
ニッキーが懐かしそうな顔をしてそう呟いた。
「俺達が追放されても、ニコルには息子がいる。俺達の甥がいずれSommerfeld家に入って、家を存続していくことだって可能だ」
ヨナスはそう言うと、黙っていたマリアの肩を抱き寄せて頬にキスをした。
「古い歴史に捕われて自分の人生を破滅させる時代じゃない。父がいい例だ。家の名前を存続させるために生きるより、自分のために生きる。人間として何よりも自然なことだ。それに、父の幸せを願うからこそ、俺はこの継母のくだらない要求は受けてはならないと思っている。クラウスのことが気がかりだったが、手遅れになる前にこの馬鹿げた茶番に向き合う気になってくれてなによりだ」
「そうよね。もう少し、気がつくのが遅かったら、とりかえしのつかない人生になってたかもしれないわ」
マリアがそういって、ニッキーに笑いかけた。
こみいったSommerfeld家の事情を一通り聞いた後、昨年の夏の話が出た。
私が初めてマリアとヨナスに会った時のこと。
Sommerfeld家はオランダ王室の親戚とも繋がりがあり、空間デザインを手がけるヨナスに、海辺で新しく建設するレストランのデザインを担当して欲しいと依頼があったので、ヨナスが現場確認に来ていたということらしい。その視察旅行にマリアが同行していたわけだ。そして、ニッキーの希望で、ヨナスがあの写真をインテリアの一部として配置したということらしい。
すべての不思議が解決されて、びっくりすると同時にとてもほっとした。
「随分とややこしい気がするけど、こうやって話が全部繋がって頭がすっきりした!」
私が大きく深呼吸してそう言うと、マリアがちょっぴり気まずそうに肩をすくめた。
「私も結構ストレス溜まってたわ。誰かさんが、絶対にカノンには話すな、って脅迫するから」
それを聞いたニッキーが苦笑すると、ヨナスがにっこりと私に笑いかけた。
「あの写真を見せた時の、クラウスの顔を見せてやりたかったな」
「そうそう!ほんとに!」
マリアが急に顔をぱっと輝かせて大きく頷く。
「写真の前で固まってしまって、ずっと見つめたまま動かなかったのよ。とんでもないものを見た、みたいに驚いた顔しちゃって」
「……とんでもないもの?」
私が聞き返すと、ヨナスが身を乗り出してきて、いたずらっ子のような目で私の顔を覗き込んだ。
「あのまま、こいつがフラフラと写真にキスするんじゃないかと思った」
「えっ」
思わぬ言葉にびっくりしてニッキーを振り返ると、少し怒った様な顔でヨナスを睨んでいる。
「ヨナス!もっとましな例えはないのか」
目元が少し赤くなっているので、彼にしては珍しく照れているらしい。
「そう怒るな。俺達のお陰でカノンに出会えたんだから、たっぷり感謝してもらっても罰はあたらないだろう」
さすがに兄らしく、ヨナスはそうぴしゃりと言って笑い出す。
ニッキーが不満そうにヨナスを横目で睨んでいるのを見て、マリアも笑い出した。
「あの写真はね、今はもう、クラウスが著作権も所有しているの」
マリアがそう言いながらデザートのココナッツアイスをスプーンですくう。
著作権まで買ったんだとびっくりしてニッキーを見ると、彼は少しまだ照れた様子で私に笑いかけた。
「はじめはあのまま手元に置いておこうと思ったけれど、マリアが君を見つけた海に置くことにした。写真を飾ったLa Galleria Nordwijkには、いずれ君を連れていくつもりだったが、まさか君が先に見つけるとは」
「そうだったんだ」
この間見た、La Galleria Nordwijkを思い出す。
あの美しい海のレストランは、ヨナスが空間デザインをしたものだったのだ。
「完成してからまだ様子を見にはいっていないが、先方の話だと毎日大盛況らしい」
ヨナスが満足げにそう言うと、マリアが嬉しそうに目を細めてにっこりと微笑んだ。


美味しい料理にしっかりとデザートも食べて、ディナーはお開きとなった。
4人でレストランの外へ順番に出る。
「今度は他の皆も呼ばないとね。ちなみに、アダムとクラウスも友達だから」
マリアの言葉に目が点になった。
「えええっ?アダムと、ニッキーが、友達?!」
驚いてそう聞くと、ニッキーが気まずそうに目を細めて頷いた。
「直接君のことを説明はしていないが、恐らく、気がついていただろうな。あいつは、口が固いから、俺が何も言わないものだから、何も聞いてこなかった」
「……」
アダムに、ニッキーのアパートの下の住人の言ったことなんか相談してしまったことを激しく後悔した。
優しいアダムのことだから、きっとニッキーには何も言わないだろうけど……
でも、二人が友人だったから、アダムはあんな風に「信じるなら疑うことを一切やめろ」と言ってくれたんだ。
「カノン?」
ヨナスが私のほうを見て、ちょっと首を傾げて言った。
「クラウスはニッキーだが、このままだといろいろ面倒だ。君も、呼び方を変えてみたらどうだ?なかなか慣れないだろうが……」
その言葉にマリアが頷いた。
「そうね、その方が便利だし、そうしてくれると私達も便利だわ」
それはそうかもしれない。
でも、ずっとニッキーと呼んで来たから、急に呼び名を変えるのも不思議な気がする。
呼び慣れた名前を急に変えるというのは、落ち着かないものじゃないだろうか。
ニッキーが私の頭に手を乗せて、にっこりと笑う。
「君の好きなようにすればいい。俺はどちらでも構わないから」
彼の顔を見て、私は急に気が変わった。
二人で新しいスタート地点に立った今。
彼の本当の名前と共に、先へ進んで行きたい。
これまでの、秘密が多く不可解だったニッキーとのページをめくり、次のページは、彼の全てを教えてくれたクラウスと。
私は笑顔で彼を見上げ、彼への気持ちをせいいっぱい込めてその名を呼んだ。
「クラウス」
彼が目を見開いて、それから少し照れたように微笑む。
マリアとヨナスが顔を見合わせて笑い声をあげた。
「じゃぁ、クラウスとカノン。今晩は楽しかったわ。また近いうちにね」
4人で交互に抱き合って、レストランの前で別れた。
腕を組んで歩きながら去って行くマリアとヨナス。一度、立ち止まってこちらを振り返って笑顔で手をあげる。私とクラウスも手を挙げてそれに応えた。
二人の姿が見えなくなって、クラウスを見上げるとちょうど彼も私を見下ろすところで、ぴったり目があって思わず笑ってしまった。
「楽しかった!」
私がそう言うと、彼もにっこり頷く。そして私の手を取って歩き出した。
「実家のほうの面倒な事情はまだ解決していないが、俺達がこの件は必ずどうにかケリをつけてみせる」
「うん、わかってる。それに」
「それに?」
「貴方のお父さんにも、いつかまた、幸せな日が戻って来てほしい」
私の言葉に、彼が目を細めて微笑んだ。
悲しい想いを引きずったまま長い時が経ち、これからもそれが続くなんて思うと地獄のようだ。いつか、彼らのお父さんにも、心から幸せを感じられる日々が訪れて欲しい。父親が不幸せであれば、息子達だって心配でたまらないことだろう。
「さぁ、カノン」
彼が立ち止まって私の顔を覗き込み、うっとりするくらい甘い光を含んだ目を向ける。
「やっと二人きりの時間だ」
ドキンと胸が弾み、私は眩しいほどに優しい微笑みを見上げた。
「……クラウス?」
私の呼びかけに、少し照れたように頷く彼。
「愛してる」
私はそう呟いてぎゅっと彼の広い背中を抱きしめた。
もう彼のすべてを知った。
私の中で不安の影をつくるものは消えて、あるのは輝く太陽である彼だけだ。
「もう二度と離さない。俺が愛しているのは君だけだ」
彼がそう囁いて、ぎゅっと抱きしめてくれる。
絶対に離れない。
私は心の中でそう呪文のように呟いた。


アパートに戻って、キッチンで温かいハーブティを準備する。
ペパーミントとラベンダーがブレンドされた、リラックス効果が高く香りの良いハーブティ。
「ハーブの女王」とも呼ばれ、その可憐な姿と清々しい香りで古くから愛されてきたラベンダー。ガラスのポットを眺めると、可愛らしい薄い紫色のラベンダーが、熱いお湯の水流の中でふわふわと踊っている。ミントの爽やかな香りと、ラベンダーの落ち着く香りがただよって、少し気温が下がる夏の夜にはぴったりの飲み物だろう。
テラスの薄暗いランプの灯りの中、クラウスがラップトップを開いて仕事をしている。
その後ろ姿を見ながら、私はくすぐったいほどの幸せで頬が緩んでしまうのを止められない。
しばらく前に、洗濯物を届けに来た時にはその静けさが居心地悪く、寂しい雰囲気に落ち着かなかったのに、そこに彼が居るというだけで、この空間がとても心地よく幸福感に満たされた場所になっている。
誰か特別な人がそこにいるというだけで、あたりの空気が全く違う。
カウンターの上には美味しそうなチョコレートの箱。
クラウスが今日、ミーティングで行った場所の近くに、有名なショコラティエ「assbender & Rausch」があったからと、プラリネの詰め合わせを買って来てくれていた。
ころんと丸いミルクショコラのトリュフの上に、金箔が飾られたゴールドトリュフ。ホワイトショコラに包まれたシリンダー型のダークチョコ&さくらんぼ。丸いボール型のホワイトショコラで、中にはブルーベリーペーストがたっぷり入ったハイデルベア・トリュフ。色と形が様々な見た目もかわいいプラリネ。
さっきもひとつ食べたけれど、またもうひとつ、つい手が伸びる。
ハイデルベアのトリュフは、ブルーベリーの甘酸っぱさとホワイトショコラのまろやかな甘みが絶妙なハーモニーになって溶けていく。
気をつけないと次々と食べてしまいそう!
あぶない、あぶないと自分に言い聞かせ、ちょうど出来たころであろうハーブティをグラスに注いだ。
テラスのほうを見たら、ちょうどクラウスがリビングに入って来るところだった。
「今、お茶を持って行こうかと思ってたところ。ね、このチョコレート、すっごく美味しくて、止まらなくなりそう」
そう言うと、彼が笑いながら箱を覗き込み、ひとつ選んだ。
それは、さくらんぼのトリュフだ。ミルクチョコに包まれているのは、そのままの形を留めているさくらんぼのコンフィチュール。
「外に行こう」
クラウスがハーブティのグラスをふたつ持ってテラスのほうへ行く。私も後をついて外へ出た。
ベンチに腰掛けて空を見上げると、いくつもの星が空に散らばっていた。今晩は月は姿が見えない分、星の輝きが強い。テーブルの上には、ゆっくりと揺れながら燃えているキャンドル・ランプと、閉じられた彼のラップトップ。あたりを見渡して私はすっかり夢心地になる。
「近いうちに、このアパートは出ようと思っている」
彼がそう言ってグラスを膝の上でゆっくりと揺らす。急な話にびっくりしていると、彼が私のほうを見た。
「君はどんなところに住みたい?」
「私?」
私の好みを聞いてくれるんだと目を丸くしていると、クラウスがにっこりと微笑んだ。
「これまで出張で忙しかったのは、それぞれの地で現地のプロジェクトを任せられる人材を採用していたからなんだ。かなりの場所で、俺の直属として動けるやつを確保したから、これからは出張も大きな商談や懸案事項が無い限り行かずにすむようになる」
「ほんとに?そしたら、今までみたいに月の半分は国外、とかじゃなくなるの?」
嬉しくなって思わず声がうわずってしまう。彼は目を細めて頷いた。
「だから、今度は君と一緒に住みたいと思う」
その言葉に胸がドキンと跳ねた。
一緒に住む。
四六時中、一緒に居られるということなんだ。
毎日、こんな風に隣にいられる。
同じ時空を共有出来る。
そう思うと、嬉しさと興奮で、言葉が出てこなくて、ただじっと彼の目を笑顔で見つめた。
なんて言えばいいのか言葉が見つからないくらい、幸せだった。
「カノンは、どう思う?」
私の心を読もうとしているかのように私をじっと見つめるクラウス。
私は大きく頷いて、ようやく返事をした。
「すごく嬉しい。いつも一緒にいたい」
喜びで少し声がうわずってしまう。
私の答えを聞いて、彼が満足そうに微笑む。それからクスッと笑いながらグラスの残りを飲み干した。
「それに、こうすれば、君が逃げ出さないようにしっかり監視できる」
「えっ、もう逃げないよ!」
「すでに二回も逃げたじゃないか。一度目はあの市内での逃走劇。そして今回。考えたくはないが、万が一のこともある」
疑り深い性格なのか、彼は私の心の中を探るようにじっと目を向けた。疑わしげな眼差しを受けて、最初はちょっと居心地が悪くなったが、そんな様子を見せる彼が愛しくて、思わずふっと微笑んでしまう。
「……今、とても幸せ……」
ぽつりと本音がこぼれた。
「カノン」
彼が私の名前を呼んで、両腕を広げてにっこりと微笑む。
私はグラスをテーブルに置いて、その腕の中に身を寄せ、彼の背中に両腕をまわすと、力いっぱいぎゅうと抱きしめた。
「まだ幸せの入り口に過ぎない。すべてはこれからだ」
私の背中を抱きしめた彼の低く優しい声が耳に響く。まとめていた髪を彼がほどいて、そっとその手で梳いてくれるのが心地よくて、私はうっとりと目を閉じて彼の温かなぬくもりに包まれた。
「カノン」
もう一度名前を呼ばれ、目を開いて彼を見上げた。とても美しい彼の目が、間近にある。彼がそっと私の頬を引き寄せて、唇を重ねた。優しくて私の意識をいっぱいに埋め尽くすキスに、全身が熱くなる。彼の背中にまわした手も、体中を暴れまわる想いでその指先が震えた。
もう頭の中は彼以外になにも存在しなくなった。
愛しい彼をじっと見つめていると、彼がいたずらっ子のような微笑みを浮かべているのに気がつく。
ドキリとしたら、彼が私の耳もとに唇をよせて囁いた。
「君のすべてが欲しい」
さらにドキンと心臓が大きく跳ねる。彼が私の手と彼の手を絡めて、私の顔を覗き込み、何かを待つように黙っている。
私は彼の手をぎゅっと握りしめて頷いた。そしてゆっくりと立ち上がり、彼の手を引く。
彼が私の目をじっと見つめたまま立ち上がる。
繋がれた熱い手と手。
私に手を引かれてゆっくりと歩くクラウス。寝室のドアを開け、ベッドの前まで彼を連れ来てくると、私はうるさく鼓動する胸を押さえながら彼を振り返った。
「Meine Liebe」
私の両肩をそっと掴み、彼が身を屈めて耳元で囁く。
久しぶりに聞いたその甘い響きに、胸がきゅっと締まりそうなくらいときめいた。ドキドキしながら彼の両腕に触れ、視線を上げると、美しい瞳を煌めかせた彼が、まるで天使のように微笑んだ。
「会えなかった時間の苦しみは、すべて消してしまおう」
その言葉に、ぐらりと視界が揺れた。
両手で愛する人の背中を思い切り抱きしめる。
彼が優しく微笑んで、私の頬を伝う熱い涙にキスをした。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

モブだった私、今日からヒロインです!

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:100

ラブプレイ~Hな二人の純愛ライフ~

恋愛 / 完結 24h.ポイント:78pt お気に入り:571

快楽のエチュード〜父娘〜

恋愛 / 完結 24h.ポイント:852pt お気に入り:147

【本編完結】アイドルの恋愛事情~アイドルカップルの日常~

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:46

外国人美形アイドルに溺れて

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:15

アメリカ人と付き合う為に5つの秘訣

恋愛 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

処理中です...