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百物語(二)
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「そいつはご愁傷様でしたねぇ」
先ほどまでとは打って変わった神妙な表情で、仙一郎は深く頷いた。
「いや……仕方ねぇのかもしれません。あっしの甲斐性がなかったんです。縁がなかったってことでしょう。所詮、高嶺の花だったんでさぁ」
すん、と鼻を鳴らした新吉が赤い鳥を見下ろした。
お伊予が消えてしばらく経ってから、一度だけ便り屋が短い文を届けにきたという。
「さがさないで。さようなら。 いよ」とだけ書かれてあった。
「そうは言われても、諦められるわけがねぇ。あいつが達者でいるのかどうかだけでも知りたくて、心当たりを探して回りましてね。もしかしたら実家に戻ったのかもと思って、湯島のあたりも探し歩いたんですが、それらしい味噌問屋は見つからず終いで。──全部、嘘だったのかもしれません。生まれも育ちも、はじめっから作り話だったのかも。赤縄だのなんだのと、馬鹿な男だって思ってたかもしれやせんね。だってねぇ、悪所で面白おかしく暮らしてたってぇのに、不思議なくらいに世間ずれしたところがない女でしたから。どっちかっていうと、世間知らずで浮世離れして見えた」
鳥に話しかけるように、ぽつりぽつりと続けた。
「……もっと早くに、腹を割って話をするべきだったのかもしれねぇ。あっしも馬鹿なもんだから……。でも、もうきっぱり忘れるべきじゃねぇかと思ったんです。この鳥が家ん中にあるのは、どうも辛くていけねぇ」
なんだかこう、ふらっと迷い込んできて、ふらっと出て行っちまったあいつを見ているようでやり切れない、と新吉は嘆息した。
「あっしの頭がどうかしてきたのかもわからねぇが、毎晩恐ろしい顔で泣き喚くようになっちまったしね。お陰で、両隣の人らが気味悪くて耐えられねぇって出て行っちまって、差配さんに迷惑をかけちまって……こりゃあもう、手放すしかねぇと決めたんです」
捨てたいのに、捨てられない。忘れたいのに、忘れられない。男の内心が鳥を見詰める切ない眼差しから滲み出るようで、お凛はいたたまれない心地に襲われた。
しんみりしているお凛を横目に、うんうんと頷いていた仙一郎が不意に身を乗り出した。
「で……本当のところはどうなんです?」
「な、何がでしょう」
新吉が面食らったように背筋を伸ばすと、主がつるりとした瞳を無邪気に見開いた。
「いやだなぁ。だから、部屋に死体をうっちゃってあるんですかって聞いているんですよ」
「はぁ?」
男の口があんぐり開いた。
「だって、この鳥は打ち捨てられた死体の代わりに鳴くわけでしょう? 床下にでも埋めてあるんですか、そのう、お伊予さん? そんな人のよさそうな顔してすごいことをなさるもんですねぇ。そら、正直に言って楽になっちまいなさいよ」
「──な、何を言い出すんですよ!? そんなわけないでしょう!」
傷心の板前が裏返った声を上げた。
「あれ、違うんですか」
心なしか残念そうに青年が首を傾げる。男は呼吸困難を起こしたように赤くなったり青くなったりしている。
「違うに決まってるじゃありませんか! あんたひとの話を聞いてたんですか? あたしは人殺しじゃございません! お伊予を手にかけたりするもんですか」
「じゃあどうして鳥が喚くんです? そんなのおかしいじゃありませんか」
じとっと疑いの眼差しを注ぐ青年に、新吉が絶叫する。
「知りませんよ! こっちが聞きてぇよ!」
「本当かなぁ。本当に本当のこと言ってます? そのお伊予さんに骨までしゃぶり尽くされて、もはやこれまで、と得意の包丁捌きでブスッ、バサッとこう……で、お伊予さんは、あれぇお前さん悪い男だ、あなうらめしや、この恨み晴らさでおくべきかぁ、と掻き口説く。そこにお宅が土間に穴でも掘ってお伊予さんを放り込み、血も涙もなく土を被せて、俺を怒らせたのが運の尽きよ、あの世で後悔するこったぜ、あばよ、なんちゃって……」
『番町皿屋敷』の講談と『女殺油地獄』の歌舞伎の観すぎではなかろうか。ぐへへ、と真に迫った殺人鬼を演じていた仙一郎の襟首を、わなわなふるえる新吉の右手が鷲掴みにした。
「そんなにあっしの包丁捌きを知りたいかい。ためしに三枚おろしにされて刺身になってみるかい、え……?」
殺気漲る柳葉包丁みたいな目で凄まれ、主は俎上の魚のごとくふるえあがった。
「ここは笑うところなんだってば! ちょっと場を和ませようと思っただけで……お宅が言うと洒落にならないんだから落ち着いて、ね! わかった、この天眼通の仙一郎がお役に立ちましょう。これであなたは安心安眠間違いなし! 目が溶けるほど眠ってもらおうじゃございませんか!」
香具師の啖呵売のような口上をまくし立てる主を、新吉は鼻息荒く睨んでいたが、やがてしぶしぶのように伸びた襟首を離した。
「……どうするっておっしゃるんで?」
「なぁに、簡単ですよ」
乱れた襟首を整えながら、能天気に仙一郎が笑った。
「探してみたらいいんですよ、部屋に死体があるかどうか。でしょ?」
***
その夜。
ふあぁ、と大あくびをする寝間着姿の主を見て、お凛も涙目であくびをかみ殺していた。
行灯が灯された茶の間にいる二人の前には、赤い鸚哥が鳥籠の中でかさかさとうごめいている。
「……それで、旦那様。本当に、探すんですか? そのう……死体を……?」
お凛は目を擦りながらぼそぼそと訊ねた。
鳥籠を覗き込みながら、仙一郎は眠気を追い払おうとするかのようにぱちぱちと瞬きした。
「もちろんだとも。こんな機会は滅多とないぞ。今度の百物語にうってつけだ」
「百物語……?」
怪訝な顔で繰り返すと、「そうさ」と青年の目が興奮気味に輝いた。
「今月の新月の夜に鶴屋先生のお宅で百物語をするっていうんで、私も一席ぶってくれと頼まれているんだよ。愛憎の果てに殺した女が以津真天の口を借りて、男に夜な夜な恨みを訴える。そうしてある夜、白骨となった女が、男を取り殺さんと土の下から現れ、男はついに正気を失う……いいねぇ、痺れるよ。今度の百物語の主役の座は私がいただきだね」
楽しそうに血みどろの惨劇を物語る主を白い目で眺めながら、お凛は、もうそんな時期なのか、と考えていた。鶴屋先生こと四代目鶴屋南北といえば、歌舞伎狂言作者として知られる当代随一の大作家で、西の大近松、東の大南北と称されるほどの有名人だ。『東海道四谷怪談』の作者でもある南北は、怪談話にも目がない。お江戸の夏の風物詩となった怪談会も、この人が定着させたと言われているほどだ。南北は門前仲町に程近い黒船稲荷神社の敷地内に古びた家を構えていて、時折百物語の怪談会を催していた。仙一郎とは怪異話つながりで面識があるらしく、夏になると怪談会にお呼びがかかるのだ。
この黒船稲荷のまわりというのが、「すずめの森」とも呼ばれる鬱蒼とした林で、昼でも暗く実に薄気味が悪いところだった。わざわざこんなところに住まなくとも、と思う場所に嬉々として住まう大作家であるから、仙一郎と気が合うのも道理というものだ。
「大南北の百物語に招かれるなんて名誉なことなんだぜ。前の会では「八幡の藪知らず」で神隠しにあった話をしたんだけどさ、俺も連れていけ、お前だけずるいって散々ごねられて往生したよ。その後八幡まで出かけて藪に飛び込んでみたけど、蜘蛛の巣だらけになるばかりで何も起こらなかったって、地団太踏んで悔しがってたっけ。ほんと変人だよねぇ」
感想を述べる気にもならず、お凛は話題を変えた。
「……それにしても、何も起こりませんねぇ」
「ふむ」
また二人して鳥籠を覗き込む。この緋鸚哥が果たして異形の姿を現すのか否かを、こうして深夜まで起きて検証しているのである。
「ま、うちに死体なんぞありゃしないからな。何も起きるわけがない。やっぱりこいつは以津真天だ。間違いない」
ほくほくしながら主が嬉しそうに両手を擦り合わせている。
何でもいいが、どうして自分まで付き合わされねばならないのだ、とお凛は朦朧としかけた頭で考えた。
「じゃ、私はもう寝てもいいですか。明日も早いんですよ旦那様とは違って」
「なんだって? ずるいぞ、私が眠い目をこすって起きてるってのに! それでもお前は奉公人か?」
ばんばんと畳を叩きつつ小僧のように憤慨するので頭痛がしてきた。
鳥籠をしょぼついた目で見下ろすと、燃えるように赤い鸚哥はとまり木の上で全身をふんわりと膨らませている。そうしてぶつぶつ寝言のように嘴を鳴らしながら、うつらうつらと眠り出した。
やっぱり何も起こらないではないか、と向かいの青年を睨んでみれば、仙一郎は腕組みしたままこっくりこっくり船を漕いでいる。
むにゃむにゃと唇の緩んだ太平楽な寝顔が実に腹立たしい。
「あっ、染吉さんに梅奴さん!」
両手を口に添えて叫んだ刹那、「なぬ!?」と主の両目がかっと開き、ぐらりと体が泳いだ。おっと、と鳥籠に置いた右手に鳥が驚いてぴょんぴょん跳ねる。そして無遠慮に籠の隙間に突っ込まれた人間の指を見るなり、闘鶏の如くに毛を逆立てて猛然と噛みついた。
「いってぇ! 出た、出たぞお凛! 助けろ! わぁぁ!」という寝ぼけた仙一郎の悲鳴が、夜のしじまに響き渡った。
***
その翌日。
暖かな風が桜の花弁を散らす夕暮れ時、二人は堀留町の長介店へと向かっていた。
仙一郎が片手にぶら下げた鳥籠の中では、夕日を浴びてますます赤い鳥がぴちぴちと囀っている。
お凛は肩に鍬を担ぎ、しずしずとその後に続く。
急ぎ足に家路を辿る人々が、老いも若きもちらりちらりと鳥籠を覗き込み、次いで鍬を軽々担いだ少女を見てぎょっとしながらすれ違う。
むやみに粋な黒羽二重の長着の裾を捌きつつ飄々と進んでいた仙一郎は、表通りをきょろきょろと見回し、やがてひとつの長屋木戸を潜ると意外そうに声を上げた。
「……おや、ずいぶんと小奇麗な長屋だねぇ」
長屋木戸から両手の割長屋と棟割長屋、惣後架に稲荷社、井戸端までもが、真新しい木の香りでむせ返るようだ。裏長屋であるから所詮焼屋造りの安普請であるが、両手に破れも黄ばみもない真っ白な障子がずらりと並び、住民の名が墨痕鮮やかに記されている様は清々しいものだった。
「そうですね。そういえば、表通りも新しい家ばかりだったような」
木場の屋敷から持ち出した鍬を肩に担いだお凛も首を傾げた。すると、割長屋の前を行ったり来たりしていた男がこちらを見た。着流しに前垂れ姿の新吉である。
「旦那、こちらです。昨日はどうも……」
強張った表情で小走りに駆け寄ってくる。新吉が勤めから戻る頃に長屋で落ち合う約束だったので、波膳の店主に無理を言い仕事を早めに切り上げてきたそうだった。
「その、どうでしたか? 鳴きましたか……?」
鳥籠を見下ろしこわごわと訊ねる板前に、仙一郎はむっつりとして晒を巻いた指を振って見せた。
「いーえちっとも。指を食い千切られそうにはなりましたがね。いやまったく凶悪な鳥だ。さすが以津真天ですな」
「えっ? あっしは噛まれたことはありませんけどね。以津真天てのは人を食うんですか……?」
男がぎょっとして身を縮める。涼しい顔をしたお凛に、仙一郎がじろりと恨めしげな視線を注いだ。
「──それにしても、いい住まいじゃありませんか。えらく新しいし」
「へぇ。二月ちょっと前に火事がありやしたでしょう? その時にここら一帯も焼けまして……」
「ああ……」
「あの時の」
お凛は仙一郎と顔を見合わせた。例の小網町の大角屋が燃えた、あの火事か。
長介店の地主は越後屋長介といい、日本橋近くで大きな唐物問屋を営んでいるそうだった。この長屋の他にも、神田や日本橋のあちこちに長屋を所有しているのだという。長介店を管理する差配を任されているのは銀次郎という独り身の男で、木戸のすぐ内側の割長屋に住んでいるそうだ。
「越後屋さんが即座に長屋を建て直して下さったもんで、すぐに部屋に戻ることが出来たんです。あっしは如月の終わりに戻ったばかりで……」
しかし、新しい長屋に入ったのも束の間、あの鳥が騒ぎ出したのである。
「だから、床下を掘り返すなんてやめてくださいよ! 建て直したばっかりなんですから。その物騒なもん、何ですか?」
お凛の担いだ鍬を見て、新吉が青ざめながら言う。
「でも安眠したいんでしょう?」けろりとして仙一郎が訊ねた。
「いや……そりゃあそうですけど……もし変なもんが出てきたら、それこそ安眠どころじゃなくなるし……」
「ま、殺しの疑いがかかるかもね。殺しは死罪ですもんねぇ。永遠の眠りに就けるかもしれませんよ」
「縁起でもないことを言わないで下さいよ! あっしはやってないですってば!」
必死に懇願する新吉を置いて、仙一郎は差配の部屋に入っていくと、しばらくの後銀次郎らしき男と共に出てきた。
「なんだい、床下を掘り返したいんだって?」がっちりと四角い顎をした、四十をいくつか越して見える差配が、どんぐり眼を白黒させる。何やら鬼瓦を思い起こさせるご面相だ、とお凛は思った。
「いや違うんです、差配さん。このお人が突っ走っているだけで、掘り返したくなんぞありません。本当に、ちっともまったく!」
ぶんぶんとかぶりをふる新吉に、仙一郎が疑わしげな目を向ける。
「なんだってそんなに嫌がるんです? やっぱり掘り返すとまずいことでもあるんじゃあ……」
「違いますよ!せっかくの新しい部屋をひっくり返されたくないんです!」
「そんなこた心配いりません。私が責任を持って元通りにするって、今差配さんと話をつけましたんでね」
ええっ、と身を強張らせる新吉に、差配が鷹揚に首肯した。
「まぁ珍妙な話だが、『柳亭』の仙一郎さんのたっての願いというんじゃ嫌とはいえんだろう」
地主の越後屋店主は実兄で、長屋の采配は自分の裁量で何ごとも図って構わないのだそうだ。どうぞお好きなように、と銀次郎が朗らかに言うのを見て新吉が絶句した。
と、差配が仙一郎の手にした鳥籠に目を留めて顔色を変えた。
「おっ、その鳥……」
「ああ、差配さん、以津真天をご存知なんだそうですね?」
「──え、ええ、まぁ」
仙一郎が同好の士に出会ったかのように声を弾ませると、銀次郎は慌てて首肯した。
「あたしは百物語の類が好きでしてねぇ。そういえば、『柳亭』の仙一郎さんの噂を聞いたなぁと、こう思いましてお屋敷を訪ねるように新吉に勧めたんですよ」
それから、ここだけの話、と声を低くする。
「あたしも戯作を書き散らしたりしておりまして。あの鶴屋南北先生に見ていただくこともあるんですよ。一度旦那さんにも怪異話を伺いたいなぁと思っておりました」
「おや、奇遇ですねぇ、差配さんも鶴屋先生とご懇意で。今月の百物語にはいらっしゃいますか?」
「えっ、そうなんですか? いいですねぇ、あたしはお招きに預かっちゃおりませんよ。先生のお気に入りの人しか招かないって話です。あたしなんかじゃあ、まだまだ先生のお眼鏡には敵わないんでしょうな」
羨ましいなぁ、と銀次郎が頬を赤らめ心底残念そうに呻くのを、まぁまぁ、と主が宥める。
「ちなみに、どんな作品をお書きになるんですか?」
「あたしですか。いや、駄作ばかりなんですがねぇ」と差配がはにかんだように丸い鼻先を擦った。「ですが去年書いた『浅草血塗女地獄』って小咄は、手前味噌ながら結構いい出来でして。鶴屋先生に差し上げたらちょっと褒めていただいたんですよ」
何だそのおどろおどろしい題名は。お凛は思わず三歩引いた。
「ほう、恐ろしげですな。そいつは拝見してみたいもんですねぇ」
「あ、あのう。差配さん、もしもし……」
和気藹々とした好事家二人に新吉が痺れを切らして声を上げると、差配は我に返った様子で会話を切り上げた。
「だからさ、新吉。旦那さんもこうおっしゃっているし、いっそ床下を掘ってみて、何がどうなってるんだかはっきりさせたらどうだい? 死体なんざあるわけないんだから、そうとわかればお前さんも安心できるってもんじゃないか。そうだろう?」
見るからに期待に胸膨らませている様子の差配に、
「そんなぁ……」
と新吉が涙目になって呻いた。一方の仙一郎は路地にいた長屋のおかみさんと立ち話をしていたが、近くの腰高障子の戸を叩くと、出てきた男に何やら話をつけていた。
やがて出てきた男は腰切り半纏に股引をはき、大工道具を肩に担いでいた。
「大工とも話をつけたよ。すぐに大工仲間がもう一人来るってさ」
にこにこ微笑む仙一郎に、新吉が、ああ、と頭を抱える。
「じゃ、日が暮れちまう前にはじめましょう。まずは床下を見てみようか。さぁ一丁やっておくれ」
さくさく言うと、「新吉」と腰高の障子に書かれてある部屋をぐいと顎でさして見せる。
「へい」と言ったかと思うと、大工は土間の障子を取っ払いはじめた。「おおい、荷物を運び出すのを手伝っておくんな」と言うので、お凛も慌てて鍋やら茶碗やら煙草盆やらを表に運ぶ。
仙一郎はそんな仕事は一切手伝うつもりはないらしく、鳥籠を片手に提げたまま、
「新吉さん、布団やら枕屏風やらは、ご近所さんに預かってもらうといいよ。そら、庭の方の障子も取っちまいな」
などとお気楽な調子で命じるばかりだ。
やがて遅れて来たもう一人の大工も加わって、男たちがすっかり畳を上げてしまうと、引越し前のまっさらな部屋が忽然と現れた。
「ようし。はじめるぞ」
豆絞りの鉢巻を締めた屈強そうな大工二人が、ばりばりと荒板を剥がし始めた。長屋の外で大家と店子たちが不安気に見守るのをよそに、「差配さんには断ってあるから遠慮はいらないよ。それも、そこの板もどんどん剥がしちまっておくれ」と仙一郎は遠慮も会釈もなく指示を出す。
やがて床下の礎石を残してあらかた床板と基礎の柱を除いてしまうと、安普請とはいえ新しかった部屋が見るも無残な姿に変わった。もうもうと埃が舞い、壁は汚れて土間は木材で埋め尽くされている。いきなり屋根を剥がされて、慌てふためきながら逃げていく蜘蛛やら百足やらを見送る観衆は、一様に哀れみの眼差しを浮かべて新吉を気まずそうに見やった。……これ、ちゃんと元に戻るのかしら。お凛も見てはいけないものを見た心地で頬を引き攣らせた。
けれども仙一郎は一人ご満悦な様子で、
「さすが仕事が早いねぇ。いや、見事なもんだ」
などとすべすべの顎を頷かせている。それから声もなく立ち竦んでいる新吉ににこにこしながら近づいて、
「ほれ、がんばんなよ」
と屋敷から持ってきた鍬を押し付けた。
「えっ、あ、あたしがやるんで……?」
「お前さんの部屋なんだから、お前さんがやらないでどうするのさ」
さんざんひとの部屋を破壊しておいて、涼しい顔で言ったものだ。
「何だかもう、色々嫌になってきましたよあたしは……」
涙ぐみながら呻いた新吉が、やけっぱちのように鍬を振り上げる。
おりゃあ、と振り下ろした鍬が、土間に近い黒い土に刺さる。えい、と返して土を起こし、また鍬を振り下ろす。
埃に土の匂いが混じり、ざくり、ざくり、という鍬の音と、ぜいぜい喘ぐ新吉の呼吸ばかりが響く。
「あのう、何か、お宝でも埋まっているんで?」見物人の間で首を伸ばしていた老人がそろりと尋ねる。
仙一郎は苦笑しながら手を振った。
「違う違う。死体だよ。ただの」
「はぁ、ただの……」老爺が曖昧に頷いてから目を剥いた。「死体!?」
「違いますってば! 誰かその人黙らせといてくれ!」汗だくになった新吉が振り返ってきっと叫ぶ。
その時、ん、と新吉の手が止まった。
「何だ……?」
鍬の先に何かが引っかかったのか、土に食い込んだ刃をぐいと揺する。
ごつ、という鈍い音と共に、土に汚れた、何かが顔を出している。擦り切れた古布のようだ。どろどろに汚れたそれに、朧げな麻の葉模様が見て取れる。そこから木の枝のようなものが突き出している。くの字に少し折れ曲がった、何か。
うなじを氷のような手で掴まれたかのように、お凛は思わず息を飲んだ。
──ひとの、脚に似ているような……。
「──あっ……?」
新吉がさあっと青ざめ、腰を抜かしたように座り込む。
途端、仙一郎がだっと駆け寄り、新吉を押しのけて掘り返した穴に屈み込んだ。
そのまま沈黙して動かなくなった青年の背中を、お凛は固唾を飲んで凝視する。
「……誰か、自身番まで知らせておくれ」
おもむろに、のっぺりとした声が張り詰めた部屋に響いた。
凍りついたような沈黙の中、穴を覗き込むようにしていた皆の視線がひとつ、またひとつと新吉に注がれる。
「新吉、まさか……お前、そんな」
うわ言のように差配が呻いた。
「……え。……えっ? ええ?」
人々の強張った眼差しを見返し、新吉は浅い呼吸を繰り返した。それから、ひぃ、と喉からかすれた悲鳴を漏らし、がちがちと歯を鳴らしだした。
「──こりゃあ、困ったことになったねぇ、新吉さん」
仙一郎が振り返り、新吉を見詰めて妙にしみじみと嘆息する。
緋色の鳥が一瞬、鮮やかな声で鋭く啼いた。
ぺたりと土に座り込み、新吉は青ざめながら仙一郎と皆の顔を見回して、ただただ口をぱくぱくさせていた。
先ほどまでとは打って変わった神妙な表情で、仙一郎は深く頷いた。
「いや……仕方ねぇのかもしれません。あっしの甲斐性がなかったんです。縁がなかったってことでしょう。所詮、高嶺の花だったんでさぁ」
すん、と鼻を鳴らした新吉が赤い鳥を見下ろした。
お伊予が消えてしばらく経ってから、一度だけ便り屋が短い文を届けにきたという。
「さがさないで。さようなら。 いよ」とだけ書かれてあった。
「そうは言われても、諦められるわけがねぇ。あいつが達者でいるのかどうかだけでも知りたくて、心当たりを探して回りましてね。もしかしたら実家に戻ったのかもと思って、湯島のあたりも探し歩いたんですが、それらしい味噌問屋は見つからず終いで。──全部、嘘だったのかもしれません。生まれも育ちも、はじめっから作り話だったのかも。赤縄だのなんだのと、馬鹿な男だって思ってたかもしれやせんね。だってねぇ、悪所で面白おかしく暮らしてたってぇのに、不思議なくらいに世間ずれしたところがない女でしたから。どっちかっていうと、世間知らずで浮世離れして見えた」
鳥に話しかけるように、ぽつりぽつりと続けた。
「……もっと早くに、腹を割って話をするべきだったのかもしれねぇ。あっしも馬鹿なもんだから……。でも、もうきっぱり忘れるべきじゃねぇかと思ったんです。この鳥が家ん中にあるのは、どうも辛くていけねぇ」
なんだかこう、ふらっと迷い込んできて、ふらっと出て行っちまったあいつを見ているようでやり切れない、と新吉は嘆息した。
「あっしの頭がどうかしてきたのかもわからねぇが、毎晩恐ろしい顔で泣き喚くようになっちまったしね。お陰で、両隣の人らが気味悪くて耐えられねぇって出て行っちまって、差配さんに迷惑をかけちまって……こりゃあもう、手放すしかねぇと決めたんです」
捨てたいのに、捨てられない。忘れたいのに、忘れられない。男の内心が鳥を見詰める切ない眼差しから滲み出るようで、お凛はいたたまれない心地に襲われた。
しんみりしているお凛を横目に、うんうんと頷いていた仙一郎が不意に身を乗り出した。
「で……本当のところはどうなんです?」
「な、何がでしょう」
新吉が面食らったように背筋を伸ばすと、主がつるりとした瞳を無邪気に見開いた。
「いやだなぁ。だから、部屋に死体をうっちゃってあるんですかって聞いているんですよ」
「はぁ?」
男の口があんぐり開いた。
「だって、この鳥は打ち捨てられた死体の代わりに鳴くわけでしょう? 床下にでも埋めてあるんですか、そのう、お伊予さん? そんな人のよさそうな顔してすごいことをなさるもんですねぇ。そら、正直に言って楽になっちまいなさいよ」
「──な、何を言い出すんですよ!? そんなわけないでしょう!」
傷心の板前が裏返った声を上げた。
「あれ、違うんですか」
心なしか残念そうに青年が首を傾げる。男は呼吸困難を起こしたように赤くなったり青くなったりしている。
「違うに決まってるじゃありませんか! あんたひとの話を聞いてたんですか? あたしは人殺しじゃございません! お伊予を手にかけたりするもんですか」
「じゃあどうして鳥が喚くんです? そんなのおかしいじゃありませんか」
じとっと疑いの眼差しを注ぐ青年に、新吉が絶叫する。
「知りませんよ! こっちが聞きてぇよ!」
「本当かなぁ。本当に本当のこと言ってます? そのお伊予さんに骨までしゃぶり尽くされて、もはやこれまで、と得意の包丁捌きでブスッ、バサッとこう……で、お伊予さんは、あれぇお前さん悪い男だ、あなうらめしや、この恨み晴らさでおくべきかぁ、と掻き口説く。そこにお宅が土間に穴でも掘ってお伊予さんを放り込み、血も涙もなく土を被せて、俺を怒らせたのが運の尽きよ、あの世で後悔するこったぜ、あばよ、なんちゃって……」
『番町皿屋敷』の講談と『女殺油地獄』の歌舞伎の観すぎではなかろうか。ぐへへ、と真に迫った殺人鬼を演じていた仙一郎の襟首を、わなわなふるえる新吉の右手が鷲掴みにした。
「そんなにあっしの包丁捌きを知りたいかい。ためしに三枚おろしにされて刺身になってみるかい、え……?」
殺気漲る柳葉包丁みたいな目で凄まれ、主は俎上の魚のごとくふるえあがった。
「ここは笑うところなんだってば! ちょっと場を和ませようと思っただけで……お宅が言うと洒落にならないんだから落ち着いて、ね! わかった、この天眼通の仙一郎がお役に立ちましょう。これであなたは安心安眠間違いなし! 目が溶けるほど眠ってもらおうじゃございませんか!」
香具師の啖呵売のような口上をまくし立てる主を、新吉は鼻息荒く睨んでいたが、やがてしぶしぶのように伸びた襟首を離した。
「……どうするっておっしゃるんで?」
「なぁに、簡単ですよ」
乱れた襟首を整えながら、能天気に仙一郎が笑った。
「探してみたらいいんですよ、部屋に死体があるかどうか。でしょ?」
***
その夜。
ふあぁ、と大あくびをする寝間着姿の主を見て、お凛も涙目であくびをかみ殺していた。
行灯が灯された茶の間にいる二人の前には、赤い鸚哥が鳥籠の中でかさかさとうごめいている。
「……それで、旦那様。本当に、探すんですか? そのう……死体を……?」
お凛は目を擦りながらぼそぼそと訊ねた。
鳥籠を覗き込みながら、仙一郎は眠気を追い払おうとするかのようにぱちぱちと瞬きした。
「もちろんだとも。こんな機会は滅多とないぞ。今度の百物語にうってつけだ」
「百物語……?」
怪訝な顔で繰り返すと、「そうさ」と青年の目が興奮気味に輝いた。
「今月の新月の夜に鶴屋先生のお宅で百物語をするっていうんで、私も一席ぶってくれと頼まれているんだよ。愛憎の果てに殺した女が以津真天の口を借りて、男に夜な夜な恨みを訴える。そうしてある夜、白骨となった女が、男を取り殺さんと土の下から現れ、男はついに正気を失う……いいねぇ、痺れるよ。今度の百物語の主役の座は私がいただきだね」
楽しそうに血みどろの惨劇を物語る主を白い目で眺めながら、お凛は、もうそんな時期なのか、と考えていた。鶴屋先生こと四代目鶴屋南北といえば、歌舞伎狂言作者として知られる当代随一の大作家で、西の大近松、東の大南北と称されるほどの有名人だ。『東海道四谷怪談』の作者でもある南北は、怪談話にも目がない。お江戸の夏の風物詩となった怪談会も、この人が定着させたと言われているほどだ。南北は門前仲町に程近い黒船稲荷神社の敷地内に古びた家を構えていて、時折百物語の怪談会を催していた。仙一郎とは怪異話つながりで面識があるらしく、夏になると怪談会にお呼びがかかるのだ。
この黒船稲荷のまわりというのが、「すずめの森」とも呼ばれる鬱蒼とした林で、昼でも暗く実に薄気味が悪いところだった。わざわざこんなところに住まなくとも、と思う場所に嬉々として住まう大作家であるから、仙一郎と気が合うのも道理というものだ。
「大南北の百物語に招かれるなんて名誉なことなんだぜ。前の会では「八幡の藪知らず」で神隠しにあった話をしたんだけどさ、俺も連れていけ、お前だけずるいって散々ごねられて往生したよ。その後八幡まで出かけて藪に飛び込んでみたけど、蜘蛛の巣だらけになるばかりで何も起こらなかったって、地団太踏んで悔しがってたっけ。ほんと変人だよねぇ」
感想を述べる気にもならず、お凛は話題を変えた。
「……それにしても、何も起こりませんねぇ」
「ふむ」
また二人して鳥籠を覗き込む。この緋鸚哥が果たして異形の姿を現すのか否かを、こうして深夜まで起きて検証しているのである。
「ま、うちに死体なんぞありゃしないからな。何も起きるわけがない。やっぱりこいつは以津真天だ。間違いない」
ほくほくしながら主が嬉しそうに両手を擦り合わせている。
何でもいいが、どうして自分まで付き合わされねばならないのだ、とお凛は朦朧としかけた頭で考えた。
「じゃ、私はもう寝てもいいですか。明日も早いんですよ旦那様とは違って」
「なんだって? ずるいぞ、私が眠い目をこすって起きてるってのに! それでもお前は奉公人か?」
ばんばんと畳を叩きつつ小僧のように憤慨するので頭痛がしてきた。
鳥籠をしょぼついた目で見下ろすと、燃えるように赤い鸚哥はとまり木の上で全身をふんわりと膨らませている。そうしてぶつぶつ寝言のように嘴を鳴らしながら、うつらうつらと眠り出した。
やっぱり何も起こらないではないか、と向かいの青年を睨んでみれば、仙一郎は腕組みしたままこっくりこっくり船を漕いでいる。
むにゃむにゃと唇の緩んだ太平楽な寝顔が実に腹立たしい。
「あっ、染吉さんに梅奴さん!」
両手を口に添えて叫んだ刹那、「なぬ!?」と主の両目がかっと開き、ぐらりと体が泳いだ。おっと、と鳥籠に置いた右手に鳥が驚いてぴょんぴょん跳ねる。そして無遠慮に籠の隙間に突っ込まれた人間の指を見るなり、闘鶏の如くに毛を逆立てて猛然と噛みついた。
「いってぇ! 出た、出たぞお凛! 助けろ! わぁぁ!」という寝ぼけた仙一郎の悲鳴が、夜のしじまに響き渡った。
***
その翌日。
暖かな風が桜の花弁を散らす夕暮れ時、二人は堀留町の長介店へと向かっていた。
仙一郎が片手にぶら下げた鳥籠の中では、夕日を浴びてますます赤い鳥がぴちぴちと囀っている。
お凛は肩に鍬を担ぎ、しずしずとその後に続く。
急ぎ足に家路を辿る人々が、老いも若きもちらりちらりと鳥籠を覗き込み、次いで鍬を軽々担いだ少女を見てぎょっとしながらすれ違う。
むやみに粋な黒羽二重の長着の裾を捌きつつ飄々と進んでいた仙一郎は、表通りをきょろきょろと見回し、やがてひとつの長屋木戸を潜ると意外そうに声を上げた。
「……おや、ずいぶんと小奇麗な長屋だねぇ」
長屋木戸から両手の割長屋と棟割長屋、惣後架に稲荷社、井戸端までもが、真新しい木の香りでむせ返るようだ。裏長屋であるから所詮焼屋造りの安普請であるが、両手に破れも黄ばみもない真っ白な障子がずらりと並び、住民の名が墨痕鮮やかに記されている様は清々しいものだった。
「そうですね。そういえば、表通りも新しい家ばかりだったような」
木場の屋敷から持ち出した鍬を肩に担いだお凛も首を傾げた。すると、割長屋の前を行ったり来たりしていた男がこちらを見た。着流しに前垂れ姿の新吉である。
「旦那、こちらです。昨日はどうも……」
強張った表情で小走りに駆け寄ってくる。新吉が勤めから戻る頃に長屋で落ち合う約束だったので、波膳の店主に無理を言い仕事を早めに切り上げてきたそうだった。
「その、どうでしたか? 鳴きましたか……?」
鳥籠を見下ろしこわごわと訊ねる板前に、仙一郎はむっつりとして晒を巻いた指を振って見せた。
「いーえちっとも。指を食い千切られそうにはなりましたがね。いやまったく凶悪な鳥だ。さすが以津真天ですな」
「えっ? あっしは噛まれたことはありませんけどね。以津真天てのは人を食うんですか……?」
男がぎょっとして身を縮める。涼しい顔をしたお凛に、仙一郎がじろりと恨めしげな視線を注いだ。
「──それにしても、いい住まいじゃありませんか。えらく新しいし」
「へぇ。二月ちょっと前に火事がありやしたでしょう? その時にここら一帯も焼けまして……」
「ああ……」
「あの時の」
お凛は仙一郎と顔を見合わせた。例の小網町の大角屋が燃えた、あの火事か。
長介店の地主は越後屋長介といい、日本橋近くで大きな唐物問屋を営んでいるそうだった。この長屋の他にも、神田や日本橋のあちこちに長屋を所有しているのだという。長介店を管理する差配を任されているのは銀次郎という独り身の男で、木戸のすぐ内側の割長屋に住んでいるそうだ。
「越後屋さんが即座に長屋を建て直して下さったもんで、すぐに部屋に戻ることが出来たんです。あっしは如月の終わりに戻ったばかりで……」
しかし、新しい長屋に入ったのも束の間、あの鳥が騒ぎ出したのである。
「だから、床下を掘り返すなんてやめてくださいよ! 建て直したばっかりなんですから。その物騒なもん、何ですか?」
お凛の担いだ鍬を見て、新吉が青ざめながら言う。
「でも安眠したいんでしょう?」けろりとして仙一郎が訊ねた。
「いや……そりゃあそうですけど……もし変なもんが出てきたら、それこそ安眠どころじゃなくなるし……」
「ま、殺しの疑いがかかるかもね。殺しは死罪ですもんねぇ。永遠の眠りに就けるかもしれませんよ」
「縁起でもないことを言わないで下さいよ! あっしはやってないですってば!」
必死に懇願する新吉を置いて、仙一郎は差配の部屋に入っていくと、しばらくの後銀次郎らしき男と共に出てきた。
「なんだい、床下を掘り返したいんだって?」がっちりと四角い顎をした、四十をいくつか越して見える差配が、どんぐり眼を白黒させる。何やら鬼瓦を思い起こさせるご面相だ、とお凛は思った。
「いや違うんです、差配さん。このお人が突っ走っているだけで、掘り返したくなんぞありません。本当に、ちっともまったく!」
ぶんぶんとかぶりをふる新吉に、仙一郎が疑わしげな目を向ける。
「なんだってそんなに嫌がるんです? やっぱり掘り返すとまずいことでもあるんじゃあ……」
「違いますよ!せっかくの新しい部屋をひっくり返されたくないんです!」
「そんなこた心配いりません。私が責任を持って元通りにするって、今差配さんと話をつけましたんでね」
ええっ、と身を強張らせる新吉に、差配が鷹揚に首肯した。
「まぁ珍妙な話だが、『柳亭』の仙一郎さんのたっての願いというんじゃ嫌とはいえんだろう」
地主の越後屋店主は実兄で、長屋の采配は自分の裁量で何ごとも図って構わないのだそうだ。どうぞお好きなように、と銀次郎が朗らかに言うのを見て新吉が絶句した。
と、差配が仙一郎の手にした鳥籠に目を留めて顔色を変えた。
「おっ、その鳥……」
「ああ、差配さん、以津真天をご存知なんだそうですね?」
「──え、ええ、まぁ」
仙一郎が同好の士に出会ったかのように声を弾ませると、銀次郎は慌てて首肯した。
「あたしは百物語の類が好きでしてねぇ。そういえば、『柳亭』の仙一郎さんの噂を聞いたなぁと、こう思いましてお屋敷を訪ねるように新吉に勧めたんですよ」
それから、ここだけの話、と声を低くする。
「あたしも戯作を書き散らしたりしておりまして。あの鶴屋南北先生に見ていただくこともあるんですよ。一度旦那さんにも怪異話を伺いたいなぁと思っておりました」
「おや、奇遇ですねぇ、差配さんも鶴屋先生とご懇意で。今月の百物語にはいらっしゃいますか?」
「えっ、そうなんですか? いいですねぇ、あたしはお招きに預かっちゃおりませんよ。先生のお気に入りの人しか招かないって話です。あたしなんかじゃあ、まだまだ先生のお眼鏡には敵わないんでしょうな」
羨ましいなぁ、と銀次郎が頬を赤らめ心底残念そうに呻くのを、まぁまぁ、と主が宥める。
「ちなみに、どんな作品をお書きになるんですか?」
「あたしですか。いや、駄作ばかりなんですがねぇ」と差配がはにかんだように丸い鼻先を擦った。「ですが去年書いた『浅草血塗女地獄』って小咄は、手前味噌ながら結構いい出来でして。鶴屋先生に差し上げたらちょっと褒めていただいたんですよ」
何だそのおどろおどろしい題名は。お凛は思わず三歩引いた。
「ほう、恐ろしげですな。そいつは拝見してみたいもんですねぇ」
「あ、あのう。差配さん、もしもし……」
和気藹々とした好事家二人に新吉が痺れを切らして声を上げると、差配は我に返った様子で会話を切り上げた。
「だからさ、新吉。旦那さんもこうおっしゃっているし、いっそ床下を掘ってみて、何がどうなってるんだかはっきりさせたらどうだい? 死体なんざあるわけないんだから、そうとわかればお前さんも安心できるってもんじゃないか。そうだろう?」
見るからに期待に胸膨らませている様子の差配に、
「そんなぁ……」
と新吉が涙目になって呻いた。一方の仙一郎は路地にいた長屋のおかみさんと立ち話をしていたが、近くの腰高障子の戸を叩くと、出てきた男に何やら話をつけていた。
やがて出てきた男は腰切り半纏に股引をはき、大工道具を肩に担いでいた。
「大工とも話をつけたよ。すぐに大工仲間がもう一人来るってさ」
にこにこ微笑む仙一郎に、新吉が、ああ、と頭を抱える。
「じゃ、日が暮れちまう前にはじめましょう。まずは床下を見てみようか。さぁ一丁やっておくれ」
さくさく言うと、「新吉」と腰高の障子に書かれてある部屋をぐいと顎でさして見せる。
「へい」と言ったかと思うと、大工は土間の障子を取っ払いはじめた。「おおい、荷物を運び出すのを手伝っておくんな」と言うので、お凛も慌てて鍋やら茶碗やら煙草盆やらを表に運ぶ。
仙一郎はそんな仕事は一切手伝うつもりはないらしく、鳥籠を片手に提げたまま、
「新吉さん、布団やら枕屏風やらは、ご近所さんに預かってもらうといいよ。そら、庭の方の障子も取っちまいな」
などとお気楽な調子で命じるばかりだ。
やがて遅れて来たもう一人の大工も加わって、男たちがすっかり畳を上げてしまうと、引越し前のまっさらな部屋が忽然と現れた。
「ようし。はじめるぞ」
豆絞りの鉢巻を締めた屈強そうな大工二人が、ばりばりと荒板を剥がし始めた。長屋の外で大家と店子たちが不安気に見守るのをよそに、「差配さんには断ってあるから遠慮はいらないよ。それも、そこの板もどんどん剥がしちまっておくれ」と仙一郎は遠慮も会釈もなく指示を出す。
やがて床下の礎石を残してあらかた床板と基礎の柱を除いてしまうと、安普請とはいえ新しかった部屋が見るも無残な姿に変わった。もうもうと埃が舞い、壁は汚れて土間は木材で埋め尽くされている。いきなり屋根を剥がされて、慌てふためきながら逃げていく蜘蛛やら百足やらを見送る観衆は、一様に哀れみの眼差しを浮かべて新吉を気まずそうに見やった。……これ、ちゃんと元に戻るのかしら。お凛も見てはいけないものを見た心地で頬を引き攣らせた。
けれども仙一郎は一人ご満悦な様子で、
「さすが仕事が早いねぇ。いや、見事なもんだ」
などとすべすべの顎を頷かせている。それから声もなく立ち竦んでいる新吉ににこにこしながら近づいて、
「ほれ、がんばんなよ」
と屋敷から持ってきた鍬を押し付けた。
「えっ、あ、あたしがやるんで……?」
「お前さんの部屋なんだから、お前さんがやらないでどうするのさ」
さんざんひとの部屋を破壊しておいて、涼しい顔で言ったものだ。
「何だかもう、色々嫌になってきましたよあたしは……」
涙ぐみながら呻いた新吉が、やけっぱちのように鍬を振り上げる。
おりゃあ、と振り下ろした鍬が、土間に近い黒い土に刺さる。えい、と返して土を起こし、また鍬を振り下ろす。
埃に土の匂いが混じり、ざくり、ざくり、という鍬の音と、ぜいぜい喘ぐ新吉の呼吸ばかりが響く。
「あのう、何か、お宝でも埋まっているんで?」見物人の間で首を伸ばしていた老人がそろりと尋ねる。
仙一郎は苦笑しながら手を振った。
「違う違う。死体だよ。ただの」
「はぁ、ただの……」老爺が曖昧に頷いてから目を剥いた。「死体!?」
「違いますってば! 誰かその人黙らせといてくれ!」汗だくになった新吉が振り返ってきっと叫ぶ。
その時、ん、と新吉の手が止まった。
「何だ……?」
鍬の先に何かが引っかかったのか、土に食い込んだ刃をぐいと揺する。
ごつ、という鈍い音と共に、土に汚れた、何かが顔を出している。擦り切れた古布のようだ。どろどろに汚れたそれに、朧げな麻の葉模様が見て取れる。そこから木の枝のようなものが突き出している。くの字に少し折れ曲がった、何か。
うなじを氷のような手で掴まれたかのように、お凛は思わず息を飲んだ。
──ひとの、脚に似ているような……。
「──あっ……?」
新吉がさあっと青ざめ、腰を抜かしたように座り込む。
途端、仙一郎がだっと駆け寄り、新吉を押しのけて掘り返した穴に屈み込んだ。
そのまま沈黙して動かなくなった青年の背中を、お凛は固唾を飲んで凝視する。
「……誰か、自身番まで知らせておくれ」
おもむろに、のっぺりとした声が張り詰めた部屋に響いた。
凍りついたような沈黙の中、穴を覗き込むようにしていた皆の視線がひとつ、またひとつと新吉に注がれる。
「新吉、まさか……お前、そんな」
うわ言のように差配が呻いた。
「……え。……えっ? ええ?」
人々の強張った眼差しを見返し、新吉は浅い呼吸を繰り返した。それから、ひぃ、と喉からかすれた悲鳴を漏らし、がちがちと歯を鳴らしだした。
「──こりゃあ、困ったことになったねぇ、新吉さん」
仙一郎が振り返り、新吉を見詰めて妙にしみじみと嘆息する。
緋色の鳥が一瞬、鮮やかな声で鋭く啼いた。
ぺたりと土に座り込み、新吉は青ざめながら仙一郎と皆の顔を見回して、ただただ口をぱくぱくさせていた。
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