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第10章
2 踏み出す一歩①
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「泊さん、お話があるんですけど」
正樹達との面談の日から十日くらいが過ぎて、いよいよ年度末に差しかかった頃、私は泊さんに異動の話をすべく、業務終了後に声をかけた。
内心、こんな忙しい時期にという気持ちはあった。
でも、四月になるとそれはそれでバタバタする。
タイミングを見計らって機を逸するよりはと、思い切って切り出した。
「私、やっぱり秘書以外の仕事がしたくて……。他の部署に異動できないか、もう一度だけ社長に相談してもらえませんか?」
泊さんは少し困ったような顔をした。
「……やっぱり諦められない?」
「諦められないというか……。今なら若い子達も育ってきてるし、私がいなくてもほら……真鍋さんなんか、ここに来てもやっていけそうじゃないですか」
「うーん……どうなのかなぁ……。でも今相談しても、すぐには異動できないと思うよ?」
「いいんです。とりあえずは見込みがあるかないかわかれば、時期は次のタイミングで」
そうだなぁー、と、泊さんは椅子の背にもたれて腕を組んだ。
あまり乗り気じゃないようだ。
私はデスクの引き出しを開けて、資料を取り出した。
「これ……、私が会社のためにどういうことをしたいかをまとめた、改善提案資料です。異動検討の参考資料として、社長に見せてもらえたら……」
「そんなもの作ってたの? いつの間に……」
実は、一週間くらいかけて、自宅で資料を作っていた。
会社で細かいデータの整合性だけ取って、出来上がったものを、今朝プリントアウトした。
「一応、泊さんの分とふたつ」
泊さんはそれを受け取ると、内容に目を通した。
表情を変えずに、でも真剣な目で読み進めるのを、私は息を呑んで見守った。
「いやー、確かにね」
泊さんが言う。
「片瀬ちゃんがこういう分野でがんばってくれたら、そりゃあ会社のためにも良いだろうなって、俺は思うよ。ただなぁ~……」
「ただ?」
「いやぁ~……まぁ、社長がね……」
「もう一度だけでいいんです。もうこれで最後にするので、もう一度だけ、社長の意向を確認してもらえませんか?」
これまでは、ただ泊さんから社長へ打診してもらうだけだった。
そして、「いや、片瀬さんは動かせない」という返事を受け取るだけだった。
でも、今回は違う。
この資料に、今の私が考え得る全てを込めた。
これでダメだったら、もう諦めもつく。
私は泊さんから目を逸らさずに返事を待った。
泊さんはもう一度資料をめくって目を通し、黙ったまま何度か小さく頷いて、
「わかった。そこまで言うなら、明日社長に話してみるよ」
「あ……ありがとうございます!」
「これ、なくしたらいけないから片瀬ちゃんが持ってて」
「ですね、泊さんすぐ資料なくすから」
「失礼な!」
「それじゃ、明日また渡しますね」
私は資料を受け取って、再び引き出しにしまった。
「嬉しそうだね」
「そりゃあ、泊さんが聞き入れてくれましたから」
そう言いながら顔を上げると、泊さんは淋しそうな顔でこちらを見ていた。
「片瀬ちゃんは秘書の仕事は……イヤ?」
その言葉に、胸がズキンと痛んだ。
泊さんからすれば、これまでずっとパートナーとしてやってきた相手が、同じほうを向くのを辞めようとしているのであって、それはつまりこれまでの日々――そして今この時間さえも、私が捨てたがっているように感じられるのかもしれない。
でも、そういうわけではないのだ。
「イヤじゃないです。……秘書の仕事は好きですよ。やりがいもあるし、泊さんや拓ちゃんや、信頼し合える人達と仕事ができて、本当に幸せです。ただ……、もう数年前から頭打ちというか……、私はこれより上には行けないんだなっていう限界は感じています」
「そんなこと無いと思うけど……」
「もちろん、女性秘書としてもっと仕事を突き詰めていくことはできると思うんです。そういう意味では、今もずっと日々模索しているというか……まだまだ未熟だと思っていて。でも、私が本当に目指したい方向って、そっちじゃないなって……。これを生涯の仕事として受け入れるには、まだ諦めがつかない部分があって……」
「もっと活躍できる場を求めてるってこと?」
「……そうですね、それもあるかもしれません。でも、もっと幅広く人の役に立てる仕事がしたいっていうか……。社長のためとか、限られた人達のサポートではなくて……、もっとお客さまとか、人々の生活そのものとか、外に目を向けていきたいんです」
「それじゃ、もし今回もダメだったら、どうするの?」
「とりあえずは、希望を持って社長の返事を待ちたいと思います。そのための、コレですから」
私は引き出しをポンポンと叩いた。
「……泊さんは、秘書が天職ですか?」
「どうかなぁ~。あんまりそういうこと考えたことないけど。普通に、やり慣れた仕事でメシ食って、家族養っていけるのなら、俺はそれでいいから」
「そうですよね……」
「片瀬ちゃんくらいの年になっても向上心を持ち続けられるのは、すごいと思うよ。でもやっぱり仕事って生活のためのものだし、そこそこ収入が安定してて、耐えられないほどのストレスが無ければ、現状維持を望むのが普通なんじゃないかなぁ」
「そうですか……」
「まあ、だからこそ片瀬ちゃんみたいな人が、貴重なのよ」
泊さんはPCに向き直った。
私はずっと、泊さんが羨ましかった。
社長に信頼されて、いつも同行して情報を共有して、場合によっては事業のことについても意見を求めてもらえて、社長と話し合うことのできる泊さんが。
でも女性秘書に同じ権利はない。
来客対応や、スケジュール調整、出張手配、それから社長の休息時間を作ってあげたり、身の回りの雑務を引き受けたり。そういうのが女性秘書の仕事。
社長のパートナーには、私はなれない。
泊さんのような、トップに頼られる理想の秘書には……。
外に出ると、もうすっかり暗くなっていて、春らしい生暖かい空気が漂っていた。
そろそろ桜も咲くだろう。
車のエンジン音、行き交う人の声、信号のメロディ、コツコツと体に響く自分の足音。
それらを感じながら、今日ここから自分の人生が動き始めるんだという実感を、心にじっくりと溜めていった。
正樹達との面談の日から十日くらいが過ぎて、いよいよ年度末に差しかかった頃、私は泊さんに異動の話をすべく、業務終了後に声をかけた。
内心、こんな忙しい時期にという気持ちはあった。
でも、四月になるとそれはそれでバタバタする。
タイミングを見計らって機を逸するよりはと、思い切って切り出した。
「私、やっぱり秘書以外の仕事がしたくて……。他の部署に異動できないか、もう一度だけ社長に相談してもらえませんか?」
泊さんは少し困ったような顔をした。
「……やっぱり諦められない?」
「諦められないというか……。今なら若い子達も育ってきてるし、私がいなくてもほら……真鍋さんなんか、ここに来てもやっていけそうじゃないですか」
「うーん……どうなのかなぁ……。でも今相談しても、すぐには異動できないと思うよ?」
「いいんです。とりあえずは見込みがあるかないかわかれば、時期は次のタイミングで」
そうだなぁー、と、泊さんは椅子の背にもたれて腕を組んだ。
あまり乗り気じゃないようだ。
私はデスクの引き出しを開けて、資料を取り出した。
「これ……、私が会社のためにどういうことをしたいかをまとめた、改善提案資料です。異動検討の参考資料として、社長に見せてもらえたら……」
「そんなもの作ってたの? いつの間に……」
実は、一週間くらいかけて、自宅で資料を作っていた。
会社で細かいデータの整合性だけ取って、出来上がったものを、今朝プリントアウトした。
「一応、泊さんの分とふたつ」
泊さんはそれを受け取ると、内容に目を通した。
表情を変えずに、でも真剣な目で読み進めるのを、私は息を呑んで見守った。
「いやー、確かにね」
泊さんが言う。
「片瀬ちゃんがこういう分野でがんばってくれたら、そりゃあ会社のためにも良いだろうなって、俺は思うよ。ただなぁ~……」
「ただ?」
「いやぁ~……まぁ、社長がね……」
「もう一度だけでいいんです。もうこれで最後にするので、もう一度だけ、社長の意向を確認してもらえませんか?」
これまでは、ただ泊さんから社長へ打診してもらうだけだった。
そして、「いや、片瀬さんは動かせない」という返事を受け取るだけだった。
でも、今回は違う。
この資料に、今の私が考え得る全てを込めた。
これでダメだったら、もう諦めもつく。
私は泊さんから目を逸らさずに返事を待った。
泊さんはもう一度資料をめくって目を通し、黙ったまま何度か小さく頷いて、
「わかった。そこまで言うなら、明日社長に話してみるよ」
「あ……ありがとうございます!」
「これ、なくしたらいけないから片瀬ちゃんが持ってて」
「ですね、泊さんすぐ資料なくすから」
「失礼な!」
「それじゃ、明日また渡しますね」
私は資料を受け取って、再び引き出しにしまった。
「嬉しそうだね」
「そりゃあ、泊さんが聞き入れてくれましたから」
そう言いながら顔を上げると、泊さんは淋しそうな顔でこちらを見ていた。
「片瀬ちゃんは秘書の仕事は……イヤ?」
その言葉に、胸がズキンと痛んだ。
泊さんからすれば、これまでずっとパートナーとしてやってきた相手が、同じほうを向くのを辞めようとしているのであって、それはつまりこれまでの日々――そして今この時間さえも、私が捨てたがっているように感じられるのかもしれない。
でも、そういうわけではないのだ。
「イヤじゃないです。……秘書の仕事は好きですよ。やりがいもあるし、泊さんや拓ちゃんや、信頼し合える人達と仕事ができて、本当に幸せです。ただ……、もう数年前から頭打ちというか……、私はこれより上には行けないんだなっていう限界は感じています」
「そんなこと無いと思うけど……」
「もちろん、女性秘書としてもっと仕事を突き詰めていくことはできると思うんです。そういう意味では、今もずっと日々模索しているというか……まだまだ未熟だと思っていて。でも、私が本当に目指したい方向って、そっちじゃないなって……。これを生涯の仕事として受け入れるには、まだ諦めがつかない部分があって……」
「もっと活躍できる場を求めてるってこと?」
「……そうですね、それもあるかもしれません。でも、もっと幅広く人の役に立てる仕事がしたいっていうか……。社長のためとか、限られた人達のサポートではなくて……、もっとお客さまとか、人々の生活そのものとか、外に目を向けていきたいんです」
「それじゃ、もし今回もダメだったら、どうするの?」
「とりあえずは、希望を持って社長の返事を待ちたいと思います。そのための、コレですから」
私は引き出しをポンポンと叩いた。
「……泊さんは、秘書が天職ですか?」
「どうかなぁ~。あんまりそういうこと考えたことないけど。普通に、やり慣れた仕事でメシ食って、家族養っていけるのなら、俺はそれでいいから」
「そうですよね……」
「片瀬ちゃんくらいの年になっても向上心を持ち続けられるのは、すごいと思うよ。でもやっぱり仕事って生活のためのものだし、そこそこ収入が安定してて、耐えられないほどのストレスが無ければ、現状維持を望むのが普通なんじゃないかなぁ」
「そうですか……」
「まあ、だからこそ片瀬ちゃんみたいな人が、貴重なのよ」
泊さんはPCに向き直った。
私はずっと、泊さんが羨ましかった。
社長に信頼されて、いつも同行して情報を共有して、場合によっては事業のことについても意見を求めてもらえて、社長と話し合うことのできる泊さんが。
でも女性秘書に同じ権利はない。
来客対応や、スケジュール調整、出張手配、それから社長の休息時間を作ってあげたり、身の回りの雑務を引き受けたり。そういうのが女性秘書の仕事。
社長のパートナーには、私はなれない。
泊さんのような、トップに頼られる理想の秘書には……。
外に出ると、もうすっかり暗くなっていて、春らしい生暖かい空気が漂っていた。
そろそろ桜も咲くだろう。
車のエンジン音、行き交う人の声、信号のメロディ、コツコツと体に響く自分の足音。
それらを感じながら、今日ここから自分の人生が動き始めるんだという実感を、心にじっくりと溜めていった。
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