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第10章

2 踏み出す一歩②

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 翌日、改めて泊さんに資料を渡した。
 夕方に一時間ほど社長の時間が空いていたので、そこを狙って泊さんが相談に入った。

 私は秘書室で仕事を進めながら、どこかソワソワ落ち着かない気持ちで、話が終わるのを待っていた。
 そんな時でもお構いなしに、机上のスマホは私を呼びつける。
「はい、秘書室片瀬です。あ、部長どうも。おつかれさまです。ふふ。……はい、今日は十七時半までなら大丈夫ですよ。時間どのくらい要ります? ……そうですか、それじゃ、今ちょっと塞がってるんで、空いたらご連絡しますけど、よろしいですか? はい、それじゃ後ほど。失礼いたします」
 スケジュールが空いていても、隙間を埋めるように当日の飛び込み案件が入ってくる。
 対外的なリミットに間に合うように社長への報告や確認をしないといけないけど、どうしても進捗はギリギリになりがちだ。
 だからこそ、双方のスケジュールに配慮した、秘書の的確な回しが必要とされる。
 会議や来客が長引いて、次の予定に差しつかえてしまうというケースもある。
 そういう時は、今の予定を切り上げてもらうか、後ろを調整するか、その判断と対処も素早く的確でないといけない。
 秘書のこまめな調整が活きて初めて、上司は障害なくスムーズに予定をこなすことができるのだ。
 その進路を整える作業は、正直楽しい。……楽しかった。

 時間にして五分も経たないうちだった。
 泊さんは社長との話を終えて戻ってきた。
「片瀬ちゃん、社長が来いって」
「えっ……」
 これまで、人事の話で社長に直接呼ばれたことはなかった。
 私は立ち上がり、泊さんはそれと入れ替わるようにデスクに収まった。
「どんな感触でした?」
「うーん、いやまあ、資料は全部読んだ。褒めてはいたよ。ただ……まあ、行ってみて」
 泊さんの歯切れの悪さに、少し嫌な予感がした。
 でも、とにかく結論は出るからと、私は強い気持ちで社長室に向かった。

 いつものようにノックをして、
「はーい」
「失礼いたします」
 扉を開けると、社長はデスクのところで立って、上着を脱いでいるところだった。
 六十代半ば。見た目はまだまだ若々しくて、PCなどの機器周りは少し苦手だけれど、頭が良く、精力的に仕事をこなしている。
「少し暑いですか? 窓を開けて風を通しましょうか」
「あ、いや、いいのいいの。これでちょうどいいから。ありがとう」
「そうですか。……あの、すみません社長、こんなお忙しい時期に個人的な話を持ち込んでしまって……」
「ああ、これね、読んだよ」
 私の資料を手に掲げ、
「これ片瀬さんが書いたの? 驚いたよ。こういうこと考えてるって知らなかったから」
「恐れ入ります……」
「秘書辞めたいって? 何か嫌なことでもあった?」
「いえ、そういうわけでは、決して」
「それじゃ、今までどおり続けてよ。僕ももうあと何年勤めるかわからないしね、最後まで片瀬さんにいてほしいんだよ。ああ、こっちはね、いい提案だと思うから、各部署に振っとくから。ありがとうね」
 そう言って、社長は資料を指でトントンと叩いた。
「そう、ですか……」

 私の心は複雑だった。
 社長が私の提案を認めてくれて、役立ててくれることは素直に嬉しかった。
 ずっと望んでいて叶わなかったことが、叶ったのだ。
 それに、私に側にいてほしいと言ってくれることも嬉しい。
 必要としてもらえるのは、ありがたいことだ。
 でも、それじゃ私の人生は、いったいどうなるのだろう?
 社長の退任まで秘書を務めたら、私はいったい何歳いくつになっているだろう?
 四五? 五十? そこから他部署に移る? それじゃあ遅い。

 それに、この判断の速さ。
 社長は三代目だ。
 祖父の代で事業を立ち上げ、息子である父親が継ぎ、そして社長が受け継いだ。
 それでも、元より用意されていた社長の椅子に甘んじることなく、幅広く勉強し、事業を改善・発展させてきた姿勢を、私は尊敬していた。
 何より、各所から提示された情報を受けて、最良の道を決める判断の速さと的確さは、側で見ていて感動するほどで、経営者として心から尊敬し、憧れてきた。
 だからこそ、社長のために尽くしてこられたのだ。
 でも、それとこれとは話が別だ。
 私の全てを込めた願いに対し、悩むことも熟慮することもなく、ものの数分で却下の結論を出してしまった。
 しかもその理由は、結局自分の都合によるもので、私の意志や人生は考慮に入っていない。

 ……わかっている。
 所詮他人だ。
 人間なんてそんなものだ。
 恋人でも、親兄弟でもそうなのだ。
 ましてや、会社の上司なんて。

「そうですか……、わかりました。提案のほうは、ぜひよろしくお願いします。あの、できれば出所がわからないように」
「あ、そう? じゃあ匿名で。それじゃ、引き続きよろしくね」
「……失礼いたします」
 私は社長室を出て、すぐに社用スマホを取り出した。
「あ、部長、片瀬です。すみませんお待たせしました~。これから入れます? はい、お待ちしています」
 そしてもう一度社長室をノックして、
「社長、澤口部長がお話があるそうで、これからいらっしゃるそうです」
「あ、そう、どうぞ」
「はい、お願いいたします」
 いつもどおりの明るい声と笑顔が自然に出る自分に、嫌気がさした。
 でも、これが私の仕事だ。

 秘書室に戻ると、今度は泊さんがソワソワした様子で待っていて、私を見ると立ち上がった。
「社長、なんて?」
「……まあ、有無を言わさずで」
「それで、受け入れたの?」
「……仕方ないじゃないですか。社長が嫌だって言うのなら……」
 そう、この会社にお世話になっている以上、社長の意志には従うしかない。
 私はため息とともに席についた。
「ごめんな、片瀬ちゃん……」
 申し訳なさそうな声に、私ははっとして泊さんを見上げた。
 また背負いこんだような顔をしているのを見ると、自分の落ち込んだ気持ちなんて後回しになる。
「ううん、泊さんのせいじゃないですよ。大丈夫です。むしろ巻き込んでしまってすみません。社長に話してくださってありがとうございました」
「片瀬ちゃん……」
 これは誰のせいでもない。
 私に定められたことなのだから、受け入れるしかないのだ。
「仕事終わったら、飲みに行くか?」
 泊さんが伺うように言う。
「ありがとうございます。でも、今日は遠慮しときます。近いうちに、拓ちゃんと三人で行きましょう」
 その時、澤口部長が秘書室を覗いた。
「あ、部長、どうぞ」
 手で促すと、澤口部長は片手を軽く上げて微笑んでから社長室へと進んでいった。
 その姿を見届けながら、改めて思う。
 私はこの仕事が嫌いじゃない。
 むしろ、目の前の人の役に立てているとはっきり実感できるこの仕事が、好きなのだ。
 ずっとずっと、好きだから続けてこられた。
 それだけは間違いなかったと、信じられる。
 
 仕事を終えて、泊さんと一緒に会社を後にした。
 二人で駅まで歩きながら、立ち並ぶビル群を見上げ、ひとつ大きく呼吸した。
 夜の色に変わろうとしている建物の表面には、四角い灯りが整然と並んでいる。
 ブラインドが開いた四角の中には、書類棚や人影が見えている。
 たくさんの人が、この四角の中で各々の思いを抱えながら忙しく働いている。
「暖かくなったなぁ」
「ですね。もうすぐコートも要らなくなりそう」
「片瀬ちゃんお花見するの?」
「まぁ……、宴会はしないですけど、見るには見ますよ。隅田川沿いを歩いたり、上野公園とか……」
「ああー、そっか隅田川ね! やっぱり綺麗なの?」
「来たことないんですか? 都民なのに」
「俺は西側だから」
「まぁ、桜はどこでも見られますしねぇ。でも墨田区側の堤防沿いはずーっと桜が並んでるので、晴れた日に歩きながら見ると気持ちいいですよ。私は宴会派じゃなくて桜を凝視する派なので、ああいうところだと一人でも浮かなくて好きです」
「凝視って」
 そうこう話してるうちに、駅の入口についた。
「それじゃ、おつかれさまでした」
 階段を下りる前に、泊さんを見送ろうと足を止めてお辞儀をすると、泊さんも立ち止まった。
「あ、片瀬ちゃん……」
「はい」
「あまり落ち込まないでね。俺は、片瀬ちゃんが留まってくれて、嬉しいから」
 それを聞いて、切なさに胸が痛んだ。
「大丈夫です。ありがとうございます」
 精いっぱいの微笑みを見せる。
 でも私の心は、もう決まっている。

 これは私にとって賭けだった。
 そして良くも悪くも、結果はもう出たのだ。
 ここに来るまで、長い時間を費やしてしまった。
 これまでの人生を踏まえて、これからの人生をどう生きるか。
 いよいよ私にとっての最善へ、一歩を踏み出す――。


〈続く〉

※引き続き、次ページより第3巻が始まります。
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