上 下
39 / 135
第四章

02.どうやら本当らしい

しおりを挟む
 驚いて上掛けを握りしめた手は小さく、アカギレだらけの手とギザギザの爪に、幼い頃の記憶が蘇った。

(そうそう、昔はいつもこんな手と爪してたわ。ペンナイフを使うと血だらけになるからって歯で噛み切ってたの。懐かしいわ⋯⋯て言うか、なんでわたくしは生きてるの? だって、バルコニーから突き落とされたはず。落ちていく時に、エドワードがその後ろで笑っていたのを覚えているもの。あれって夢だったってこと?)

 巨大なベッドに座り込んだまま見回した部屋には、不快感しか感じられない。夢の最後に見た狭くて粗末な部屋と同じで、エレーナを不安と焦燥感に駆り立てるだけ。

(急いで支度をして仕事をはじめなくちゃ間に合わない⋯⋯仕事⋯⋯仕事? まだ、子供なのに?)

 考え事をしながらベッドから降りようとして、足が届かず床に転げ落ちて⋯⋯おでこを強かに打ちつけた。

「い、いったーい! ううっ⋯⋯ベッドってこんなに高かったかしら」

(大人なら腕をついて頭を支えるけど、子供の運動神経では頭突きしてしまう⋯⋯って、わたくしは子供よね? このサイズだもの、多分子供のはず、うん。きっとまだ寝ぼけているだけだわ)

 子供がおかしなとこに怪我してたりするのは、多分こういうことなのねと感心しつつ、赤くなった額を抑えて部屋を見回した。

 とてつもなく高く見える天井には、豪華なシャンデリアがキラキラと輝き、型押しされた白い壁紙と明るい色味の床は少し古びて見える。部屋にあるのは巨大なベッド・ドレッサー・テーブルと椅子⋯⋯どれも大人サイズで、今のエレーナの身長だとよじ登らないと使えそうにない。

(アンティークの家具ばかりだけど⋯⋯艶がなくなって傷だらけだから、手入れされてないのね。部屋が埃っぽいから、あとで掃除しなくちゃ)

 なんとなく覚えている気がする部屋のしつらえに、益々不安が大きくなるが、取り敢えず現状確認が最優先だと、ドレッサーの前のスツールによじ登って、鏡を覗き込んだエレーナは、首を傾げたり顔を横向けたりして確認し⋯⋯結論を出した。

(うん、やっぱり子供だわ、間違いない⋯⋯つまり、あれは? 夢を見たんだわ。あんな嫌な夢を見るなんて、よほど寝苦しかったのね)

 すっきりしたわけではないが、クローゼットからチュニックを出して着替え、ベッドのシーツを新しい物と取り替えた。



(うーん、今何歳なのかしら⋯⋯夢と現実がごちゃ混ぜで、気味が悪いわ。あ、日記を見れば分かるはず⋯⋯子供の頃は確かこの辺に片付けてたと⋯⋯違う、今も子供だから⋯⋯えーっと、ああ、あった!)

 床に座り込んでページを捲ると、拙い文字が並んでいた。

『計算するのがおそすぎて、先生にたたかれた。おなかがすいた』

『ラテン語の文法をまちがえて、先生にむちでうたれた』

『カーテシーは難しい。1時間つづけられなくて、たたかれた。パンがたべたい』

(1時間カーテシーを続ける? そう! あれは大変だったわ。ちょっとでも身体が動いたりすると鉄扇で叩かれるから、立てなくなってまた叩かれるの繰り返しで。
歩く練習の時、頭に乗せる本が分厚くて、その上にどんどん本を積み上げられたり⋯⋯って事は、4歳だわ)



 時計を見ると朝の10時前で、アメリアは慌てて隣の勉強部屋に駆け込んだ。

(朝食はなしの日なのね。先生が来られる前に時間に気付いて良かったわ)

 家庭教師は3人いて、全員が別の教科を担当している。どの家庭教師が来るか分からないエレーナは、全ての教科書を並べて家庭教師を待った。

 家庭教師がドアから入って来た時、すぐにカーテシーができるように⋯⋯椅子の横に立って耳をすませ、ドアを見つめ続け⋯⋯ひたすら、見つめ続け。

(おかしい⋯⋯もうお昼が近いのに、家庭教師がこない日なんてなかったはず)

 音を立てないように、部屋のドアをそっと開けてみたが人の気配がしない。

(ちょっと聞きに行ってみようかしら。部屋を間違っていたら鞭が飛んでくるもの。ううん、もしそうなら、とっくに怒鳴られているはずだわ。
ここで待っていても、探しに行っても叱られる⋯⋯それなら聞きに行った方がマシかも)

 階段の上から覗いても誰もおらず、エレーナはそろそろと降りて、微かに音のする方に向かって行った。



「あの⋯⋯家庭教「きゃあぁぁぁぁ!」」

 ドシン⋯⋯

 声を掛けられたメイドが悲鳴をあげ、エレーナを突き飛ばした。あちこちから駆けつけて来た使用人が、尻餅をついているエレーナを睨みながら、メイドに声をかけた。

「大丈夫!?」

「こ、こ、こんなところで何をしてるんですか!」

 指を突きつけて来たのは、叫び声を上げたメイド⋯⋯名前は分からない。

「勉強部屋で待機しておりましたが⋯⋯先生がいらっしゃらなくて、探しにまいりましたの」

「はあ? 何言ってんの? アンタさあ、昨日までベッドで唸ってたじゃん」

(ふむ、それを知っていても、誰も様子を見にこなかったのよね。ええ、それが普通だと知ってますわ)



「何を騒いでいるのですか!」

 ジャラジャラと鍵の音を立てた家政婦長ミセス・ブラッツの耳障りな声が聞こえてきたが、いつもより益々甲高いので、かなり機嫌が悪いとすぐに分かった。

 メイド達が一斉に説明しはじめるとミセス・ブラッツは益々機嫌が悪くなり、眉間に皺が寄り⋯⋯。

「エレーナ様! 目が覚めたなら先ずわたくしに報告に来なさい。もうすぐ5歳になられると言うのに、その程度のことさえお分かりにならないのですか!?
こんなところに来て、忙しい使用人達の邪魔をしてはなりません。家庭教師には明日から来るよう連絡を入れますから、部屋に戻り大人しくしていなさい。
さあ、あなた達は仕事に戻りなさい」

(この台詞、聞いたことがあるわ。この後、夢の中では『あのご当主様のお子なのに嘆かわしい』って言うのよね)

「はぁ、あのご当主様のお子なのに嘆かわしい」

「⋯⋯(うそっ! 本当に言ったわ⋯⋯夢じゃなかったの? じゃあ、今夢を見てるとかかしら?)」



 部屋に戻ったエレーナは、ベッドによじ登って頭を抱えた。

(予知夢とか正夢とかかしら⋯⋯なんにしても気持ち悪い。もしこの状態が続くなら⋯⋯いえ、そんな事は絶対にありえないわ)

 エレーナの頭の中には、間違いなく沢山の地獄のような記憶が残っている。夢だと言い切るにはリアルすぎて、忘れられそうにない。

(どうしよう⋯⋯わたくし、おかしくなったのかも)





 自分の中に生まれた記憶が、夢ではないと信じざるを得なくなるのに、それほど時間はかからなかった。

『今日から各国の歴史について学びます。先ず、この国の周辺国について説明なさい』

『ビルワーツ公国の西にはアルムヘイル王国があり、東側にはディクセン・トリアリア連⋯⋯』

(これ、前にやったわ)


『ラテン語の動詞について説明しなさい』

『動詞の基本をおさえる為には直説法・能動態・現在の活用を覚えることが必⋯⋯』

(これも同じ、前にやった覚えがあるわ)


『今日一日でお茶会でのテーブルマナーを覚えていただきます。庭と応接室で複数回実習しますが、お花摘みには行けません。それも練習ですから我慢することを覚えなさい』

(これも同じで、前にやったわ。お漏らしして、動けなくなるほど鞭で叩かれたから忘れられないもの)



 エレーナの生活で唯一変化していく勉強の内容でしか確認できないが、あの記憶は夢ではなかったと思うしかない。

 夢が全て現実になるのと、時間が巻き戻ったのと、どちらの可能性が高いのか⋯⋯部屋の窓から庭を見つめ、悩んでいたエレーナが大きく目を見開いた。

(大変だわ!! 11月のアレ⋯⋯もし、もしもあの夢が本当になるとか、時間が巻き戻ったとかなら!
なんとかしなくちゃ。今が9月だから後2ヶ月しかないじゃない! あ、私の誕生日って今月末だから、もうすぐ5歳になるんだわ)

 エレーナの身体がブルブルと震えはじめ、立っていられなくなったのは、辛く苦しい時がはじまるのが5歳の11月からだから。



 11月の祖父母の命日に母が落馬事故で亡くなり、父が母屋に越して来た日からエレーナの凋落がはじまる。

(今はまだ、お腹が空いたとか、鞭で受けた傷が治らないとか⋯⋯11月以降に比べたら、天国みたいな暮らしだもの)

 アメリアから不当な扱いを受けていると思い不満を募らせていた父は、引っ越して来た日から豪勢な暮らしをはじめ、散財に明け暮れるようになり⋯⋯。

『エレーナは自由気儘で贅沢な暮らしをしていた』

『我儘な娘には躾をしなければならん』

 暴言や暴力を正当化した父は、エレーナを虐めることに無上の喜びを感じているようで、気が向くとエレーナを呼びつけては、理由もなく拳やベルトを振り下ろし、蹴りを入れては笑い転げた。

 その上、娘が痛めつけられるのを見たり聞いたりするとご機嫌になる父は、使用人にも『躾』を望み、怪我の度合いによって褒美を渡す鬼畜ぶりを発揮する。

 使用人達は褒美目当てと遊び感覚で、日を追うごとに過激で執拗な虐めを考えて実践し続け、見る影もなく痩せ細ったエレーナの身体には、青痣や生傷が絶えなくなった。



(これがはじまりだったわ。その後は、殺されたあの日までずっと⋯⋯夢じゃないなら、全部書き留めておかなきゃ)

 あの人生を回避するために、母アメリアの落馬事故を回避しなくては!

しおりを挟む
感想 103

あなたにおすすめの小説

【コミカライズ決定】地味令嬢は冤罪で処刑されて逆行転生したので、華麗な悪女を目指します!~目隠れ美形の天才王子に溺愛されまして~

胡蝶乃夢
恋愛
婚約者である王太子の望む通り『理想の淑女』として尽くしてきたにも関わらず、婚約破棄された挙句に冤罪で処刑されてしまった公爵令嬢ガーネット。 時間が遡り目覚めたガーネットは、二度と自分を犠牲にして尽くしたりしないと怒り、今度は自分勝手に生きる『華麗な悪女』になると決意する。 王太子の弟であるルベリウス王子にガーネットは留学をやめて傍にいて欲しいと願う。 処刑された時、留学中でいなかった彼がガーネットの傍にいることで運命は大きく変わっていく。 これは、不憫な地味令嬢が華麗な悪女へと変貌して周囲を魅了し、幼馴染の天才王子にも溺愛され、ざまぁして幸せになる物語です。

竜人王の伴侶

朧霧
恋愛
竜の血を継ぐ国王の物語 国王アルフレッドが伴侶に出会い主人公男性目線で話が進みます 作者独自の世界観ですのでご都合主義です 過去に作成したものを誤字などをチェックして投稿いたしますので不定期更新となります(誤字、脱字はできるだけ注意いたしますがご容赦ください) 40話前後で完結予定です 拙い文章ですが、お好みでしたらよろしければご覧ください 4/4にて完結しました ご覧いただきありがとうございました

幼馴染に奪われそうな王子と公爵令嬢

岡暁舟
恋愛
「王子様、本当に愛しているのは誰ですか???」 「私が愛しているのは君だけだ……」 「そんなウソ……これ以上は通用しませんよ???」 背後には幼馴染……どうして???

完結 喪失の花嫁 見知らぬ家族に囲まれて

音爽(ネソウ)
恋愛
ある日、目を覚ますと見知らぬ部屋にいて見覚えがない家族がいた。彼らは「貴女は記憶を失った」と言う。 しかし、本人はしっかり己の事を把握していたし本当の家族のことも覚えていた。 一体どういうことかと彼女は震える……

ずっと妹と比べられてきた壁顔令嬢ですが、幸せになってもいいですか?

ひるね@ピッコマノベルズ連載中
恋愛
 ルミシカは聖女の血を引くと言われるシェンブルク家の長女に生まれ、幼いころから将来は王太子に嫁ぐと言われながら育てられた。  しかし彼女よりはるかに優秀な妹ムールカは美しく、社交的な性格も相まって「彼女こそ王太子妃にふさわしい」という噂が後を絶たない。  約束された将来を重荷に感じ、家族からも冷遇され、追い詰められたルミシカは次第に自分を隠すように化粧が厚くなり、おしろいの塗りすぎでのっぺりした顔を周囲から「壁顔令嬢」と呼ばれて揶揄されるようになった。  未来の夫である王太子の態度も冷たく、このまま結婚したところでよい夫婦になるとは思えない。  運命に流されるままに生きて、お飾りの王妃として一生を送ろう、と決意していたルミシカをある日、城に滞在していた雑技団の道化師が呼び止めた。 「きったないメイクねえ! 化粧品がかわいそうだとは思わないの?」  ルールーと名乗った彼は、半ば強引にルミシカに化粧の指導をするようになり、そして提案する。 「二か月後の婚約披露宴で美しく生まれ変わったあなたを見せつけて、周囲を見返してやりましょう!」  彼の指導の下、ルミシカは周囲に「美しい」と思われるためのコツを学び、変化していく。  しかし周囲では、彼女を婚約者の座から外すために画策する者もいることに、ルミシカはまだ気づいていない。

【完結】私はいてもいなくても同じなのですね ~三人姉妹の中でハズレの私~

紺青
恋愛
マルティナはスコールズ伯爵家の三姉妹の中でハズレの存在だ。才媛で美人な姉と愛嬌があり可愛い妹に挟まれた地味で不器用な次女として、家族の世話やフォローに振り回される生活を送っている。そんな自分を諦めて受け入れているマルティナの前に、マルティナの思い込みや常識を覆す存在が現れて―――家族にめぐまれなかったマルティナが、強引だけど優しいブラッドリーと出会って、少しずつ成長し、別離を経て、再生していく物語。 ※三章まで上げて落とされる鬱展開続きます。 ※因果応報はありますが、痛快爽快なざまぁはありません。 ※なろうにも掲載しています。

完結 貴族生活を棄てたら王子が追って来てメンドクサイ。

音爽(ネソウ)
恋愛
王子の婚約者になってから様々な嫌がらせを受けるようになった侯爵令嬢。 王子は助けてくれないし、母親と妹まで嫉妬を向ける始末。 貴族社会が嫌になった彼女は家出を決行した。 だが、有能がゆえに王子妃に選ばれた彼女は追われることに……

妹に一度殺された。明日結婚するはずの死に戻り公爵令嬢は、もう二度と死にたくない。

たかたちひろ【令嬢節約ごはん23日発売】
恋愛
婚約者アルフレッドとの結婚を明日に控えた、公爵令嬢のバレッタ。 しかしその夜、無惨にも殺害されてしまう。 それを指示したのは、妹であるエライザであった。 姉が幸せになることを憎んだのだ。 容姿が整っていることから皆や父に気に入られてきた妹と、 顔が醜いことから蔑まされてきた自分。 やっとそのしがらみから逃れられる、そう思った矢先の突然の死だった。 しかし、バレッタは甦る。死に戻りにより、殺される数時間前へと時間を遡ったのだ。 幸せな結婚式を迎えるため、己のこれまでを精算するため、バレッタは妹、協力者である父を捕まえ処罰するべく動き出す。 もう二度と死なない。 そう、心に決めて。

処理中です...