Sub専門風俗店「キャバレー・ヴォルテール」

アル中お燗

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☆47.名前のない「彼」

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 Aは一等区にあるホテルの一室に来た。思っていた通り、三等区の人間でも名前を聞いたことがある高級ホテルだった。フロントで名前を告げると、スタッフが部屋に取り次いでくれた。おまけに部屋に直通らしいエレベーターのボタンすら押すというホスピタリティを受けた。
 笑顔をキープしたまま軽く会釈して踵を返したスタッフの背を見つめ、Aはほっと息を吐いた。丁寧に扱われると、かえって具合が悪くなるのは育ちのせいだろう。

「どうぞ」

 ドアをノックするなり、返事があった。
 部屋に一歩入ると、そこはリビングになっていた。そこから三つのドアがあり、それぞれベッドルームなどに通じているらしい。

 それよりもAの目を引いたのは、リビングに設えてあるローテーブルだった。
 そこは祭壇に捧げられたかのように、ひとりの男が仰向けに拘束されていた。視覚はアイマスク、聴覚はヘッドフォンで封じられている。髪はロマンスグレーでそれなりの年齢だと分かる。
 Aの知らない男だ。

 男は全裸で、乳首に針を右から左に貫通させられていた。親指と人差し指を開いた時の長さの針で、片側に鈴が付いている。男が身体を震わせるごとに鈴がチリン、チリンと音を発てた。

「何か月ぶりかな。随分と様変わりしたので、驚いた」

 共同経営者は、まるで目の前の男など存在しないかのように、鷹揚な態度でAを迎えた。黒い革のソファに座り、片手で針を弄びながら、座るよう促した。
 Aは彼と対面のソファに腰を下ろした。

 二人の間には、全裸で針責めを受けている男がいることになる。奇妙な光景だった。時々、男のヘッドフォンからクラシックミュージックのようなメロディの断片が音漏れする。

「レスターたちが教育熱心なので」

 苦しげに身悶える肢体がローテーブルの天板を叩くので、口を開くにもそれなりに思い切りが必要だった。
 Aの戸惑いも意に返さず、その返答自体は彼の機嫌を良くしたらしい。品の良い口角が持ち上がる。

 不意に、別の部屋に通じるドアが大きく震えた。あちら側から誰かが叩いたようだった。
 思わずそちらを見たAに、

「気にしなくて良い。Oだ。
 良い子なんだが、私のやることに興味を持ちすぎる」

 彼がそう声をかけて安心させようとした。
 どうやら愛犬にプレイを見られたくないらしい。

「今日くるのは、私にメッセージをくれた彼だと思っていたんだが?」

 彼は些か間延びした、ゆるくウェーブを描く前髪の奥からAを見た。初めて会った時と変わらない力のある眼だった。

「彼……、Eはトラブルがあって来られなくなりました。
 ここから出たい、というあなたの要望は聞いています」
「助かる。
 軟禁されてからというもの、一度もOを散歩に連れて行ってないんだ。全てスタッフに頼みっきりでね」

 うんざりだと言わんばかりに、彼は首を振った。

「ヒッ!」

 そう言うなり、彼は針を男に刺した。道端の石ころを蹴るように、あまりにも無造作なやり方だった。二本の針が交差するように、赤く充血した乳首を飾る。
 出血はなかった。素人目には無造作に見えても、技巧が冴えているのだろう。
 男の動揺を示すように鈴が何度も鳴った。緊張感が、息を吹きかけた粉のようにAにも降り掛かる。
 注視したせいか、彼が肩を竦めて断わりを入れた。

「私の後見人だった男だ。
 退屈しているのを見越して、レスターが寄越してきた」

 Aには情報が足りなさ過ぎて理解できないが、それは彼の中で、だからどう扱おうと構わないということになっているらしかった。

「……あの、自分が軟禁されている理由をご存じですか?」
「生きていることが知られたら、また借金返済に追われることになる、と聞いているが、まあ嘘だろうな」

 彼は新たな針を取り出して、湿ったコットンで拭った。消毒液の匂いがする。

「俺は、あなたを運命から隠してるんだと思っています」

 Aがフェーヴを取り出して見せると、彼は「ああ」と感嘆した。

「小夜啼鳥……、シラーか。
 運命というより、呪いみたいなものだ」
「でもクレハドールが」

 彼が「シィ」と唇の前に人差し指を立てたので、Aは言いかけた言葉を飲み込んだ。言葉だけではなく、乗り出しかけていた身体まで、後退させてしまった。
 彼の声色には出会った時と変わらず、不思議な揺らぎがあった。それはEの声と同じ効果を与えるが、性質としては全く逆のものだった。
 押し黙ったAを確認して、彼が再び口を開く。

「シラーとは子供の頃、ロワッシィで知り合った。
 だが、その年のクリスマスに小鳥小屋から出火してね。私はあの子が焼け死んだと思い、ずっと自責の念を背負ってきた。
 自分の手元に置いておけば死なせずに済んだとね」

 チリン、と鈴が鳴った。
 彼が話し中の手慰みに、男の喉元から臍まで針の先端で撫でたせいだ。

「それから十数年が経って、私に依頼が来た。
 シャム双生児の兄妹の調教だ。兄妹はこれまでいろんな場所で見せ物にされてきたらしく、精神は崩壊寸前だった。兄妹は私のことを神と呼び、人間のまま死なせて欲しいと祈ったよ。
 私はシラーの件以来、すっかり子供に甘くなっていた。出来ることはしてやらねばと思ったんだ。
 おかげで借金を負う羽目になった」

 彼は長く息を吐いた。だが、そこに陰りはない。
 フェーヴを見つめる視線が、言外にAに聞かせた以上の物語があったことを教えてくれる。
 愛しさも、厭わしさも同じ量だけ込められていた。

「あの子は私に勝手に呪いをかけ、勝手に解いていった」

 それが、クレハドールが見た「運命を見つけたみたいな顔」の正体らしかった。たしかに何も知らないままこんな表情をされたら、激しい嫉妬に駆られてしまうに違いない。
 感情の種類も濃度も、一個人に向けるには余りある。
 きっとNOと言われるだろうことは予想していたが、それでもAは尋ねずにはいられなかった。

「……シラーに会いたいですか」
「いや。生きていてくれれば、それでいい」

 微かな未練も感じられない声音だった。
 こうきっぱりと言い切られてしまっては、Aとしても振り上げた拳の行き場に困ってしまう。
 生きていてくれればなんて、とても言える境地に至れない。
 彼のシュゼーへの思慕は、殆ど親か兄弟のそれに近いように思われた。

 少しの間、沈黙が下りた。
 男の場違いな、切迫した息づかいだけがリビングに積もっていく。

「話は終わりかな?」

 彼がOのいる部屋の方へ視線を向けた。ドアの側に貼りついている気配が気になるのだろう。先ほどから手遊びが収まらないのも、Oを撫でてやりたいせいもあるかもしれない。
 それでもAは話を長引かせることを選んだ。

「ふたつ、お願いがあります」
「聞こう」

 Aはごくりと咽喉を鳴らせた。
 これから彼を相手に、身分不相応な願いをしようとしているのを、充分に理解していた。それだけに自分を鼓舞する間が必要だった。
 高鳴る心臓を見破られないよう、息を詰める。

「ヴォルテールにあるあなたの椅子、あれを俺に譲ってください。それから、あの椅子に座るに相応しい名前を付けて欲しいんです」
「椅子と名前か」

 あらゆるオーダーに答えてきただろう、ロワッシィの調教師にも突拍子もない望みだったらしい。彼は大きく瞬きをしてから、部屋の宙を仰いだ。
 すっきりとした顎と、鎖骨までを繋ぐ咽喉のラインが男らしく張り出し、洗練されていて美しかった。
 そうしてひとくさり考え事をして、彼はAに向き直った。
 意味深な笑みを浮かべていた。

「つまり君は私の上に立つことで、レスターたちを自分の配下にしようと考えているわけだ」

 針の先端を向けられて、発作的にAは腹を見せたくなってしまった。針への恐怖というよりは、彼の威厳に満ちた雰囲気に気圧されてしまった形だ。
 聴覚を遮断されている筈の、ローテーブルの男が小刻みに震え出した。Glareだ。

 しかしここで引くわけにはいかない。
 きっと今の自分は、唇を噛んで殴り合いでも挑むような顔をしているだろうな、とAの冷静な部分が思う。

「……まあ良い。
 そもそも、初めからそのつもりだった」

 彼は手にしていた針を、男の上唇と下唇を縫い合わせるようにして貫通させた。
 男の悲鳴が咽喉の奥だけで起こった。動揺の唾液が、合わさった唇の隙間から吹き上がる。
 しかし、Aには目の前でのたうつ身体より、話の内容の方がよっぽど衝撃的だった。思わず声が出た。

「初めから、」
「そう。君と初めて会った時から。
 レスターは私のように調教師を育てる方にステップアップする頃合いだし、ヴィクトルはたまに私を泣かせられれば文句は言わないだろう。
 セラフィムも、もう2年もすれば私を恨むようになる。離れた方があの子のためだ。クレハドールは素材はいいのに、私では巧く導けなくてね。
 不満か?」

 尋ねられて、Aは困惑した。
 思ってもみない申し出だ。こちらとしては、目の前の男と同じ目に合わされていても可笑しくないくらいのつもりでいた。
 肩透かし、拍子抜け。そんな言葉では足りないくらいだ。

「……いえ。
 あまりにも簡単に仰るので」
「考える時間はある。私も君の名前を今すぐには思いつかないから、
明後日の昼にくるといい。昼食をとりながら今後の話をしよう」
「Oのお散歩にバスケットを持って、公園でランチ?」
「それは素晴らしい! 楽しみにしている」

 Aとしては、お愛想ついでに口にした冗談だったが、彼はパっと表情を明るくした。それだけで十歳は若返ったように見えるのだから、想像以上の喜びようだ。
 とても眉ひとつ動かさずに、人間の身体に針を突き刺していた男と同じに思えない。
 興奮のあまり彼の手から針の一本が零れ、男の腹を転がって、金属の冷ややかさが狂気を帯びた悲鳴を上げさせた。

「あー……、最後にもう一つだけ、質問させてくれますか。
 その『まあ良い』って、口癖なんですか。いや、レスターたちが良く口にするんです。
 それからEも」

 彼は少し目を見開いた。それから薄く微笑んだ。
 その瞳の色はとても美しかったが、目覚めた時の夢の名残りのように幻覚めいていて、相対している今ですら、記憶には残らない色彩をしていた。

「いつの間にか移ったのかもしれないな。
 彼の方は偶然だろうが」

 口癖が移るほど、彼らは長い時間を共有していたのだ。
 Aは眼を閉じて、自分が受け取るものの重みを再確認した。それから部屋を出た。
 ドアを閉める間際、男のくぐもった悲鳴が耳を打った。
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