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2、石塔と緋色の魔女
スライムパラダイス
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「おい」
不機嫌極まりない低い声音でラウルが呼んだ。
「はい」
クリスティアナがしれっと答えた。
足を止め振り向くと、大柄で逞しく厳つい壮年の美丈夫、ラウルの頭の上に透明ぷるぷるヌラヌラの物体がぽてっと載っかっている。
クリスティアナは、あんまりなその眺めに思わず吊り上がりそうになる口角を引き締め、笑ってしまいそうになる目から表情を消すようにぼやかして、手にしていた採取専用ステックをスライムの魔核めがけて突き刺した。
そのままラウルの頭の上に乗っていたスライムをひょいっと持ち上げて、背負い籠に放り込む。
この地下水路入ってから、大ぶりでぷるっぷるの型のいい川スライムが、次々と吸い寄せられるようにラウルの上に落ちてくる。
素晴らしい。
鍛え抜かれた迫力の身体、鳶色の髪に甘さのかけらもない青緑色の瞳の主のラウル・グリンガルドは、前侯爵オーウェンの甥にあたる。グリンガルド侯爵家の自衛騎士団を預かる騎士団長で、領地侯爵代理にも指名されている。
次期侯爵のクリスティアナが失脚し王都侯爵代理のジョエルも消えれば、グリンガルドの侯爵位を継ぐことになるだろうと、周囲に目されている人物だった。
クリスティアナは、領地でストレス発散のため魔物討伐に明け暮れていると風の便りに聞いていた戦闘狂の身体には、屠ってきた魔物の魔力が纏わりついているはずだと考えた。
で、同じ魔物の端くれであるスライムにとってその魔力はとっても芳しいのではなかろうかと推測した。
ならば。そんなラウルをスライムパラダイスな地下水路に連れて行ったらば、素敵なスライムホイホイになるのでは、と思ったのだ。
目論み通りの成果に、思わず笑みが溢れそうになるが、絶対に笑ってはいけない。己を固く戒め、クリスティアナは何事もなかったように、再び前を向いて歩き出した。
グリンガルド最強の騎士ラウルと若き次期侯爵クリスティアナの2人は、薄暗い地下水道の中を絶賛移動中だ。
王宮対岸のアルライン川東岸に広がる低地は、古来より大規模な氾濫に悩まされ続けてきた。
その危険地帯を有効活用しようと整備を進めたのが、永久凍土の辣腕宰相オーウェン・グリンガルドだ。
東岸低地帯上流部分の肥沃な農耕地は堤で守り、下流部に広がっていた砂礫地帯を氾濫時に溢水を導き入れる遊水池公園として整備した。
平時公園は騎士団の訓練地として利用されるほか、王都民に解放されている区画はキャンプやピクニックを楽しむことができる憩いの場となっている。
その遊水池公園から少し下った位置に巨石が積み重なるように横たわる岩場があって、その岩陰に自然の造形である岩の割れ目のような装いで、グリンガルドの秘密の地下水路の入り口がひっそりと口を開けていた。
引き込む水量は多くない。農耕地に張り巡らされた水路の一番細い部分と同じ程度の水路で、両サイドには水路よりも幅広に設計された石畳の通路が走る。水道としての役割よりも王都邸からの脱出口としての役割の方が大きかったのかもしれない。
戦乱の時代には大いに活用されたであろう地下水路も、その存在が忘れられて久しかった。祖父オーウェンから直々に家の歴史を叩き込まれたクリスティアナでさえ、その存在を知らなかった。
侯爵代理となったジョエルに疎まれ石塔に放り込まれたことが、この地下水路再発見のきっかけを作るのだから、クリスティアナは笑いを禁じえない。
水路の壁面と天井部分の素掘りの岩肌には、長い年月を経て、びっしりと光苔が繁殖している。これが光源となって、陽光の届かない水路内での移動を容易にしていた。
地底の水辺は、川虫や、それを捕食する小さな魔性の昆虫や小型の爬虫類の生息地となっていて、さらにそれを捕食する川スライムの一大繁殖地を形成していた。
川スライムは、普通、山岳地帯の鍾乳洞や、清涼な地下水の滲み出る洞窟を棲家にする珍魔物だ。それが、王都のこんな場所に繁殖地を作っていようとは。誰が考え得たであろう。
この地下水路を見つけた時も嬉しかったけれど、川スライムと出会った時は胸が高鳴った。
ただ、透明で臆病で隠れるのがうまい川スライムの捕獲は容易ではなく。影の護衛で庭師に化けているジュードを脅迫、、、じゃなくて、えーっと、協力を懇願して? 、、、で、苦労した集めた個体を研究し、加工し、開発し、ロングギャラリーの寄木張りのメンテナンスで試用して、それを卒業研究のレポートにまとめて、なんとかギリギリ卒業検定を通った。
思えば長い道のりだった。
本当に、この4年は綱渡りだったなぁ、とクリスティアナは思う。
ジュードの協力と、クリスティアナの境遇を面白がる学友の協力がなければ、卒業は難しかった。
・・・かなり綱渡な状況でなんとか勝ち取ったアカデミックガウンも、背負い籠の荒い網目から漏れ出すスライムの粘液でてろてろになってしまってるけれど。
まぁ、しょうがないよね?
4年前の祖父の葬儀の日。
喪主として参列者を迎える準備をしていた14歳のクリスティアナは、王都邸侯爵代理となったジョエルの雇った傭兵に捕縛されて、鬱蒼と茂る木立の中の、開かずの石塔に監禁された。
参列者には「次期侯爵は気鬱が長じて体調を崩し、とても人前に出られる状態ではない」と説明されたようだ。
ジョエルは、子飼いの使用人に「偉大な前侯爵の葬儀を気鬱で仕切れないとは、跡取りとしてふさわしくないのでは」と囁かせた。
加えて、まだ籍も入れていなかった愛人のリリアとその娘アリスを喪主に成り代わった己の傍に立たせ、その麗しさと健気さをアピールした。
参列者の反応は微妙だったが、敏腕と名高いグリンガルドの忠臣モーリス・ファースがジョエルの背後に立って支持を表明していたこと、親族席の最上位に座っていた領地侯爵代理ラウル・グリンガルドも沈黙を守っていたことで、ジョエルの行動は容認された。
祖父が王家からもぎ取った誓約は強力なものだった。けれど、短慮で傲慢なジョエルが無茶をしないとは限らない。
現に、誓約を恐れることなく次期侯爵を傭兵を使って捕え、祖父の葬儀から排除するために、敷地の隅で放置されていた石塔に放り込んで監禁したのだから。
祖父の策だけに頼らず、自らも考え何かしら手を打つ必要があった。
とりあえず、クリスティアナは猫を被った。
祖父の絶大なる庇護を失い、侯爵代理である父に疎まれ、兄貴分の領地侯爵代理のラウルに見放され、母を失ったあと実の父親のように寄り添い導いてくれていた忠臣モーリスも傍から離れた。
その失望と絶望に打ちひしがれ立ち上がれない風情を全力で醸し出した。
そして、護衛だけでなく影武者としても優秀なジュードを最大限活用して、ジョエルの侯爵位横取りの野望を挫くため手を尽くし、ようやく今、目的を達成できそうなところまで来ている。
成人を迎える18歳の誕生日は、あと半月後に迫っていた。
ここで攻略の手を緩めるわけにはいかない。
————心を鬼にしてでも、やり遂げなければならない。
たとえ、敬愛する兄貴分の、誇り高きグリンガルド騎士団の団長をスライムの粘液まみれにしちゃったりなんかしても、だっ
クリスティアナの決心は、不眠不休でロングギャラリーの床を磨き上げた時のように、ダイヤモンドよりも硬いのだ。
「俺の記憶が確かなら、お前が指示したんだよな。4年、耐えろと。・・・ジョエルのゲス野郎の所業に耐えに耐え、ようやくお前を担ぎ出せると喜び勇んで駆けつけた俺に、この報いか? この報いなのか?」
地獄の底から響いてくるような低音ボイスが、黒い絹の分厚い生地に金糸の刺繍を散らしたアカデミックガウンを羽織った背中にじんわりと圧力をかけてくる。
うっかり揺らぎそうになる決心を、クリスティアナは気合で堪えて立て直した。
「仕方なかったんですよ。あの侯爵代理、すんなり私を貴族学園に入れて卒業資格を与えるなんて気はサラサラなさそうでしたから。とにかく、4年間、ラウル叔父とモーリスには耐えてもらって、こっそり魔術学院に潜り込んで卒業資格を取るしか道はなかったんですってば」
「おい!」
前を向いて振り向こうとしないクリスティアナをラウルが呼んだ。
背後にスライムが落ちてきた気配がする。
クリスティアナは努めて真面目な顔をして振り向くと、「はい」と応じて、ステックを突き出しスライムの魔核を破壊しつつ、背後の背負い籠に放り込んだ。
ラウルは、グリンガルド騎士団団長にだけ許された、黒に見紛う濃い緑のビロード生地に銀の刺繍飾りのある正装をビシっと着込んでいた。
宣言通り、魔術学院卒業資格を手にし当主継承を可能にした主を迎えに行くのだ。銀鼠色の地味なマントの下にこっそり正装を着込んで、校門の外の木陰に身を潜めてクリスティアナが出てくるのをじっと待っていた。
自分をめざとく見つけたクリスティアナが、陽光に虹色を帯びた黒いアカデミックガウンを靡かせ緩く一本に編んだ月色の髪を揺らしながら駆けてくるのを見たときには、思わず目頭が熱くなた。
腕の中に飛び込んできた体は、4年前とは違う。
成長途上だった少女の、くふっくらと柔らかった肢体は、硬く引き締まっていて、棒のような手足の細さが目についた。身長が随分と伸びていたせいもあっただろうが。
少女らしさと共に女性味までもが抜け落ちてしまっている。これではまるで、麗しく優美な令嬢というよりも、端正で淡麗怜悧な令息ではないかと、瞠目すればさらに目頭が熱くなった。
父親代わりだったモーリスからも兄貴分だった俺からも離れ、この4年、こいつは一体どうやって過ごしてきたのだろう。
決して容易な道ではなかったはずだ。
そう思うと、胸の内が焼けるように熱くなって、うっかり我が人生初の男泣きをしてしまったというのに、、、
こいつはぁっ!!!
誇り高きグリンガルド騎士団団長の正装が、その正装に相応しい鍛え上げられたド迫力の団長ボディが、スライムの粘液を浴びて、てりてりぬるぬると濡れていた。
「おかしいだろっ、これ! なんでこんなとこに川スライムがいるんだよっ!?」
一張羅をスライムの粘液でぬるぬるにされ、漢気までもぐちゃぐちゃに踏み躙られて、とうとうラウルがキレた。
「ええええー? それは、天の采配としか言いようがありません。奇跡かも? こんな王都のど真ん中の水路に秘境山奥キャラの川スライムが繁殖してるなんて、私だってそりゃーもう、びっくり仰天しましたって。はい。そしてですね、ここの川スライムのおかげで卒業できたんですよ? 感謝してもしきれませんね? ついでに、王家への献上も決まっているんですよ? 王太子殿下のお妃えらびの夜会の会場でお試しいただけるそうです。とっても名誉なことですよね?」
どこまでもしれっとしているクリスティアナだったが、キレたラウルにつられてうっかり振り向いてしまった。
そして、ぷっと小さく吹いてしまう。
火に油、である。
「この腹黒狸娘めっ そんなところばかり伯父貴ににやがって!!! 俺の涙を返しやがれっ!!!!」
ラウルの絶叫が、秘密の地下水路に轟いた。
不機嫌極まりない低い声音でラウルが呼んだ。
「はい」
クリスティアナがしれっと答えた。
足を止め振り向くと、大柄で逞しく厳つい壮年の美丈夫、ラウルの頭の上に透明ぷるぷるヌラヌラの物体がぽてっと載っかっている。
クリスティアナは、あんまりなその眺めに思わず吊り上がりそうになる口角を引き締め、笑ってしまいそうになる目から表情を消すようにぼやかして、手にしていた採取専用ステックをスライムの魔核めがけて突き刺した。
そのままラウルの頭の上に乗っていたスライムをひょいっと持ち上げて、背負い籠に放り込む。
この地下水路入ってから、大ぶりでぷるっぷるの型のいい川スライムが、次々と吸い寄せられるようにラウルの上に落ちてくる。
素晴らしい。
鍛え抜かれた迫力の身体、鳶色の髪に甘さのかけらもない青緑色の瞳の主のラウル・グリンガルドは、前侯爵オーウェンの甥にあたる。グリンガルド侯爵家の自衛騎士団を預かる騎士団長で、領地侯爵代理にも指名されている。
次期侯爵のクリスティアナが失脚し王都侯爵代理のジョエルも消えれば、グリンガルドの侯爵位を継ぐことになるだろうと、周囲に目されている人物だった。
クリスティアナは、領地でストレス発散のため魔物討伐に明け暮れていると風の便りに聞いていた戦闘狂の身体には、屠ってきた魔物の魔力が纏わりついているはずだと考えた。
で、同じ魔物の端くれであるスライムにとってその魔力はとっても芳しいのではなかろうかと推測した。
ならば。そんなラウルをスライムパラダイスな地下水路に連れて行ったらば、素敵なスライムホイホイになるのでは、と思ったのだ。
目論み通りの成果に、思わず笑みが溢れそうになるが、絶対に笑ってはいけない。己を固く戒め、クリスティアナは何事もなかったように、再び前を向いて歩き出した。
グリンガルド最強の騎士ラウルと若き次期侯爵クリスティアナの2人は、薄暗い地下水道の中を絶賛移動中だ。
王宮対岸のアルライン川東岸に広がる低地は、古来より大規模な氾濫に悩まされ続けてきた。
その危険地帯を有効活用しようと整備を進めたのが、永久凍土の辣腕宰相オーウェン・グリンガルドだ。
東岸低地帯上流部分の肥沃な農耕地は堤で守り、下流部に広がっていた砂礫地帯を氾濫時に溢水を導き入れる遊水池公園として整備した。
平時公園は騎士団の訓練地として利用されるほか、王都民に解放されている区画はキャンプやピクニックを楽しむことができる憩いの場となっている。
その遊水池公園から少し下った位置に巨石が積み重なるように横たわる岩場があって、その岩陰に自然の造形である岩の割れ目のような装いで、グリンガルドの秘密の地下水路の入り口がひっそりと口を開けていた。
引き込む水量は多くない。農耕地に張り巡らされた水路の一番細い部分と同じ程度の水路で、両サイドには水路よりも幅広に設計された石畳の通路が走る。水道としての役割よりも王都邸からの脱出口としての役割の方が大きかったのかもしれない。
戦乱の時代には大いに活用されたであろう地下水路も、その存在が忘れられて久しかった。祖父オーウェンから直々に家の歴史を叩き込まれたクリスティアナでさえ、その存在を知らなかった。
侯爵代理となったジョエルに疎まれ石塔に放り込まれたことが、この地下水路再発見のきっかけを作るのだから、クリスティアナは笑いを禁じえない。
水路の壁面と天井部分の素掘りの岩肌には、長い年月を経て、びっしりと光苔が繁殖している。これが光源となって、陽光の届かない水路内での移動を容易にしていた。
地底の水辺は、川虫や、それを捕食する小さな魔性の昆虫や小型の爬虫類の生息地となっていて、さらにそれを捕食する川スライムの一大繁殖地を形成していた。
川スライムは、普通、山岳地帯の鍾乳洞や、清涼な地下水の滲み出る洞窟を棲家にする珍魔物だ。それが、王都のこんな場所に繁殖地を作っていようとは。誰が考え得たであろう。
この地下水路を見つけた時も嬉しかったけれど、川スライムと出会った時は胸が高鳴った。
ただ、透明で臆病で隠れるのがうまい川スライムの捕獲は容易ではなく。影の護衛で庭師に化けているジュードを脅迫、、、じゃなくて、えーっと、協力を懇願して? 、、、で、苦労した集めた個体を研究し、加工し、開発し、ロングギャラリーの寄木張りのメンテナンスで試用して、それを卒業研究のレポートにまとめて、なんとかギリギリ卒業検定を通った。
思えば長い道のりだった。
本当に、この4年は綱渡りだったなぁ、とクリスティアナは思う。
ジュードの協力と、クリスティアナの境遇を面白がる学友の協力がなければ、卒業は難しかった。
・・・かなり綱渡な状況でなんとか勝ち取ったアカデミックガウンも、背負い籠の荒い網目から漏れ出すスライムの粘液でてろてろになってしまってるけれど。
まぁ、しょうがないよね?
4年前の祖父の葬儀の日。
喪主として参列者を迎える準備をしていた14歳のクリスティアナは、王都邸侯爵代理となったジョエルの雇った傭兵に捕縛されて、鬱蒼と茂る木立の中の、開かずの石塔に監禁された。
参列者には「次期侯爵は気鬱が長じて体調を崩し、とても人前に出られる状態ではない」と説明されたようだ。
ジョエルは、子飼いの使用人に「偉大な前侯爵の葬儀を気鬱で仕切れないとは、跡取りとしてふさわしくないのでは」と囁かせた。
加えて、まだ籍も入れていなかった愛人のリリアとその娘アリスを喪主に成り代わった己の傍に立たせ、その麗しさと健気さをアピールした。
参列者の反応は微妙だったが、敏腕と名高いグリンガルドの忠臣モーリス・ファースがジョエルの背後に立って支持を表明していたこと、親族席の最上位に座っていた領地侯爵代理ラウル・グリンガルドも沈黙を守っていたことで、ジョエルの行動は容認された。
祖父が王家からもぎ取った誓約は強力なものだった。けれど、短慮で傲慢なジョエルが無茶をしないとは限らない。
現に、誓約を恐れることなく次期侯爵を傭兵を使って捕え、祖父の葬儀から排除するために、敷地の隅で放置されていた石塔に放り込んで監禁したのだから。
祖父の策だけに頼らず、自らも考え何かしら手を打つ必要があった。
とりあえず、クリスティアナは猫を被った。
祖父の絶大なる庇護を失い、侯爵代理である父に疎まれ、兄貴分の領地侯爵代理のラウルに見放され、母を失ったあと実の父親のように寄り添い導いてくれていた忠臣モーリスも傍から離れた。
その失望と絶望に打ちひしがれ立ち上がれない風情を全力で醸し出した。
そして、護衛だけでなく影武者としても優秀なジュードを最大限活用して、ジョエルの侯爵位横取りの野望を挫くため手を尽くし、ようやく今、目的を達成できそうなところまで来ている。
成人を迎える18歳の誕生日は、あと半月後に迫っていた。
ここで攻略の手を緩めるわけにはいかない。
————心を鬼にしてでも、やり遂げなければならない。
たとえ、敬愛する兄貴分の、誇り高きグリンガルド騎士団の団長をスライムの粘液まみれにしちゃったりなんかしても、だっ
クリスティアナの決心は、不眠不休でロングギャラリーの床を磨き上げた時のように、ダイヤモンドよりも硬いのだ。
「俺の記憶が確かなら、お前が指示したんだよな。4年、耐えろと。・・・ジョエルのゲス野郎の所業に耐えに耐え、ようやくお前を担ぎ出せると喜び勇んで駆けつけた俺に、この報いか? この報いなのか?」
地獄の底から響いてくるような低音ボイスが、黒い絹の分厚い生地に金糸の刺繍を散らしたアカデミックガウンを羽織った背中にじんわりと圧力をかけてくる。
うっかり揺らぎそうになる決心を、クリスティアナは気合で堪えて立て直した。
「仕方なかったんですよ。あの侯爵代理、すんなり私を貴族学園に入れて卒業資格を与えるなんて気はサラサラなさそうでしたから。とにかく、4年間、ラウル叔父とモーリスには耐えてもらって、こっそり魔術学院に潜り込んで卒業資格を取るしか道はなかったんですってば」
「おい!」
前を向いて振り向こうとしないクリスティアナをラウルが呼んだ。
背後にスライムが落ちてきた気配がする。
クリスティアナは努めて真面目な顔をして振り向くと、「はい」と応じて、ステックを突き出しスライムの魔核を破壊しつつ、背後の背負い籠に放り込んだ。
ラウルは、グリンガルド騎士団団長にだけ許された、黒に見紛う濃い緑のビロード生地に銀の刺繍飾りのある正装をビシっと着込んでいた。
宣言通り、魔術学院卒業資格を手にし当主継承を可能にした主を迎えに行くのだ。銀鼠色の地味なマントの下にこっそり正装を着込んで、校門の外の木陰に身を潜めてクリスティアナが出てくるのをじっと待っていた。
自分をめざとく見つけたクリスティアナが、陽光に虹色を帯びた黒いアカデミックガウンを靡かせ緩く一本に編んだ月色の髪を揺らしながら駆けてくるのを見たときには、思わず目頭が熱くなた。
腕の中に飛び込んできた体は、4年前とは違う。
成長途上だった少女の、くふっくらと柔らかった肢体は、硬く引き締まっていて、棒のような手足の細さが目についた。身長が随分と伸びていたせいもあっただろうが。
少女らしさと共に女性味までもが抜け落ちてしまっている。これではまるで、麗しく優美な令嬢というよりも、端正で淡麗怜悧な令息ではないかと、瞠目すればさらに目頭が熱くなった。
父親代わりだったモーリスからも兄貴分だった俺からも離れ、この4年、こいつは一体どうやって過ごしてきたのだろう。
決して容易な道ではなかったはずだ。
そう思うと、胸の内が焼けるように熱くなって、うっかり我が人生初の男泣きをしてしまったというのに、、、
こいつはぁっ!!!
誇り高きグリンガルド騎士団団長の正装が、その正装に相応しい鍛え上げられたド迫力の団長ボディが、スライムの粘液を浴びて、てりてりぬるぬると濡れていた。
「おかしいだろっ、これ! なんでこんなとこに川スライムがいるんだよっ!?」
一張羅をスライムの粘液でぬるぬるにされ、漢気までもぐちゃぐちゃに踏み躙られて、とうとうラウルがキレた。
「ええええー? それは、天の采配としか言いようがありません。奇跡かも? こんな王都のど真ん中の水路に秘境山奥キャラの川スライムが繁殖してるなんて、私だってそりゃーもう、びっくり仰天しましたって。はい。そしてですね、ここの川スライムのおかげで卒業できたんですよ? 感謝してもしきれませんね? ついでに、王家への献上も決まっているんですよ? 王太子殿下のお妃えらびの夜会の会場でお試しいただけるそうです。とっても名誉なことですよね?」
どこまでもしれっとしているクリスティアナだったが、キレたラウルにつられてうっかり振り向いてしまった。
そして、ぷっと小さく吹いてしまう。
火に油、である。
「この腹黒狸娘めっ そんなところばかり伯父貴ににやがって!!! 俺の涙を返しやがれっ!!!!」
ラウルの絶叫が、秘密の地下水路に轟いた。
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