猫に生まれ変わったら憧れの上司に飼われることになりました

西羽咲 花月

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動物同士であれば会話できるという衝撃的事実がわかってから一週間ほどが経過していた。

その間散歩へ行くことは1度もなく、他の動物と会話するチャンスはまだ来ていなかった。

元々猫が外を散歩すること事態日本では珍しいことだし、そう何度も散歩へ行くことはないだろうと思っていたけれど、さすがに少し落ち込んだ。

時折ベランダにやってくる雀を見つけては話かけてみるけれど、彼らは他人に興味を示さないようで、群れでの会話だけに熱中して、窓の奥にいる尚美の存在に気がついてすらいなかった。

雀と猫はあまり相性も良くないだろうから、それも仕方のないことだった。

残念ではあるけれど、気がかりなことがもうひとつあった。
散歩へ行った翌日くらいからずっと健一の様子がおかしいのだ。

すぐに息切れしたり、顔色が悪い日が長く続いていて、本人も気にしてビタミン剤や風邪薬を飲んでみたりしているけれど、効果があったとはいいにくい。


早めに病院へ行ってほしいと思うけれど、平日は忙しくて思うように動けないのが現状だった。

「それじゃ、行ってくるよ」
そんな声が聞こてきて尚美はすぐに玄関先へかけつけた。

そして健一の顔を見上げる。
今日は一段と顔色が悪い気がする。

青ざめて、目の下のクマもくっきりと見える。
「ミャアミャア」
今日くらいは休んで病院へ行ったらどう?

「どうした? 寂しいのか?」
健一が尚美を抱き上げて頭を撫でる。

いつもと同じなのに、どこか違和感のある香りが尚美の鼻腔をくすぐった。

なにかおかしい。

すぐに気がついたけれど、その時にはすでに床に降ろされていて、健一はそのまま会社へ行ってしまったのだった。

☆☆☆

健一の異変を感じ取った日は1日がとても長く、居ても立っても居られない気持ちで室内をグルグルと歩き回った。

健一は今頃どうしているだろうかと考えると、昼寝もできない。
そんな長い長い1日が終わったのは午後6時を過ぎたところだった。

ほぼ1日中キャットタワーの最上部に登って健一の帰りを待っていた尚美は、ついにその車が車庫へ入っていくのを見届けた。

そしてすぐさまキャットタワーから下りると玄関へと駆け出した。
早く早く。


早く玄関を開けて、顔を見せて。
焦る気持ちとは裏腹に健一はなかなか部屋に戻ってこない。

まさかここへ上がってくるまでの途中でなにかあったんじゃないか。
途中で倒れたんじゃないか。

そんな不安が1分1秒が過ぎるたびに深くなる。
尚美の心臓はドクドクと嫌な汗をかきはじめて呼吸が乱れる。

そうしている間にどんどん健一の気配が強くなってきて、ついに玄関が開いた。
尚美は勢いよく健一に飛びついた。

驚いた健一が「ただいま。そんなに寂しかったのか?」と、声をかけながら抱き上げてくれる。

よかった。
帰ってきた。
無事だった。


ホッとしたら今度は涙が出てきた。
ボロボロとこぼれだして止まらない。

こんなに不安を感じたのは久しぶりの経験だった。
「どうしたんだよミーコ、そんなに泣いて」

猫が涙を流すのは珍しいことなのだろうか。
健一は困り顔でミーコを抱いたままソファに座り込んだ。

そのままふぅと大きくため息をつく。
その息に乗ってやはり妙な匂いを感じ取る。

甘いような少し苦いような、なんと表現すればいいかわからない匂い。
だけどどこかで嗅いだことのある匂いだ。

それがどこで、どんなときに嗅いだ匂いであるか、思い出した瞬間尚美はサッと血の気が引いていった。


あれは5年前。
尚美のおばあちゃんが入院したときのことだった。

ひとり暮らしをしていたおばあちゃんが家で倒れて救急搬送されたとき、すでに末期がんを患っていた。

家族でお見舞いへ行った時にかすかに感じたあの匂いとよく似ている。
これは……死の匂いなんじゃないか。

猫になった今、尚美はその匂いを敏感に感じ取っているんじゃないか。
「ミャアミャアミャア!」

火事のときと同様に激しく鳴いて健一に危険を知らせようとする。
けれど健一は今日は一段と疲れていてその声に反応してくれない。

「ごめんよミーコ。今日は疲れてるんだ。遊んでやれない」
「ミャアミャア!」


違う、そうじゃないの!
その疲れ方だって普通じゃないでしょう!

今すぐ病院へ行って!
「先に寝るよ。おやすみミーコ」

健一はそのまま1人で寝室へ向かい、ミーコが入れないようにドアを閉めてしまったのだった。


☆☆☆

気が気ではないままリビングで朝を迎えた尚美はすぐに寝室のドアへと駆け寄った。
ドアはしっかりと閉められていて中の様子は確認することができない。

でも、もう少しでアラームがなり始める時間だ。
尚美はドアの前に座って健一が出てくるのを待つことにした。

健一の起床時間までが永遠のように長く感じられる。
昨日、健一の帰宅を待っていたときと同じように1分1秒が遅く感じられてしまう。

ジリジリとしたなにもできない時間が5分ほど過ぎた時、ようやく寝室の中でアラームが聞こえ始めた。

尚美は両手をドアについて2本立ちをしてそれを聞く。
アラームはなり続けて、そして消えてしまった。

健一が消した様子は感じられない。
「ミャア!!」


甲高い声で鳴いてみても寝室から健一が出てくる気配はない。
ベッドからも下りていないのだろう、なんの物音も聞こえてこなくて怖いくらいだ。

「ミャアミャア!!」
立て続けに鳴いて健一を起こそうとするけれど、やはり寝室からは少しの物音も聞こえてこない。

あるいは、もうすでに健一は目覚めているけれど、ベッドから起きれない状態になるのかもしれない。

そう思うと昨日の顔色の悪さを思い出して焦り始める。
次のスヌーズでも目を覚まさなければどうにかして寝室に入らなきゃ。

ドアを爪で引っ掻いたりミャアミャア声を上げながら待っていると再びアラーム音が聞こえてきた。

スヌーズだ!

健一が起きてくることを期待して待っているけれど、やはり寝室から物音は聞こえてこない。


「ミャアミャア!!」
切羽詰まった声で鳴いても健一の声は聞こえない。

次第に焦りが全身を支配し始めて心臓が嫌な音を立てて跳ねる。

「ミャアミャア!」
起きて! 起きて!!
ドアの前で飛び跳ねて音を立てる。

キャットタワーから飛び降て音を立てる。
いつもよりも随分騒がしく動き回ってみても健一は出てこない。

物音に気がついた隣人や下の階の人が来てくれればいいのだけれど、高級マンションで子猫が飛び跳ねたところで大した音にはならない。

「ミャアミャア!!」
鳴きすぎて喉の奥がひりついてきた。

それでも鳴くことをやめない。


リビングを走り回って音を立てて、必死で健一を起こそうとする。
せめてリビングに入ることができれば状況を確認できるのに……!

歯がゆい気持ちになっていたとき、窓にハトが止まるのが見えた。
ハトは部屋の中にいるミーコに気がつくと「ポッポー」と挨拶してくる。

公園で出会ったあのハトだ!!
尚美はすぐに窓辺へと駆け寄った。

「ポッポー」
やっほー、約束通り遊びにきたぜー!

体を左右に揺らしながら言うハトに涙がでそうになった。
あぁ、言葉が通じるって素晴らしい!

「ミャアミャア!」
お願い、助けて!

「ポッポー」
どうしたどうした?


「ミャアミャア!ミャアミャア!」
田崎さ……ご主人が寝室から出てこないの!
たぶん、倒れているんだと思う!

「ポッポー」
なんだって!? それは大変! 誰か呼んできたほうがいいか?

「ミャアミャア!」
お願い!!

尚美の懇願を聞き入れるようにハトはそのまま飛び立っていった。
尚美は祈るような気持ちでハトを見送ったのだった。

☆☆☆

それからも尚美はドシンドシンと室内で暴れまわった。

だけど子猫の体重では大した音にはならなくて、どれだけ待っても誰も様子を見に来てくれなかった。

もう、ダメなのかもしれない。
私は所詮猫で、人間を助けることなんて……。

と、諦めかけたときだった。
突然玄関のチャイムが鳴って尚美は動きを止めた。

「関さん、管理人の渡部です」
その声にハッとして玄関へかけよった。


けれど鍵は遠くて開けられない。
「ミャアミャア!」

ほとんど枯れた声で必死に叫ぶ。
「猫はいるみたいだけど、関さんは留守なんじゃないですか?」

「そんなことはないはずだ。この子が緊急事態だって言ってるんだから」

管理人さんの他にもう1人男性がいるようで、玄関の向こうで話し合いをしているのが聞こえてくる。

きっとハトおじさんだ!
あのハトが教えに行ってくれたんだ!

パッと表情を明るくして尚美はまた声を上げた。

「ミャアミャア!」
早く助けて!
関さんを助けて!


「ほら、猫の鳴き声も切羽詰まってる。早く鍵を開けてください」

ハトおじさんの言葉に半信半疑そうな返事をしながらも、鍵が開く音が室内にも聞こえてきた。

そしてドアが開く。

思っていたとおり、そこには管理人さんと公園のハトおじさんが、ハトを肩に乗せて入ってきた。

「ポッポー」
おまたせ!

その言葉が嬉しくて涙が出そうになる。
「失礼しますよぉ? 関さん、いらっしゃいますかぁ?」


管理人さんが恐る恐るといった様子で部屋に入ってきたので尚美はすぐに寝室へと走っていった。

そしてドアをひっかく。
「そっちにいるらしいぞ」

すぐに気がついてくれたのはハトおじさんだ。
ハトおじさんは切羽詰まった様子で近づいてくると、寝室のドアを開けてくれた。

少し開いた隙間に体を滑り込ませてた尚美が見たのはベッドの上で苦しそうに呼吸を繰り返している健一の姿だった。

青ざめて脂汗をかいている。
「ミャア!!」

ベッドに飛び乗って一声かけるけれど健一は目を開けない。
相当苦しいのだろう。

「大丈夫ですか!?」
「救急車だ!」

後方から管理人さんとハトおじさんの声が聞こえてきたけれど、尚美の耳にはもうなにも聞こえてこなかったのだった。


☆☆☆

管理人さんが呼んでくれた救急車は15分後にはマンションの前に到着していた。
タンカーに乗せられた健一と一緒に尚美も部屋を出てエレベーターに乗り込んだ。

救急車に乗ることはできないと思っていたけれど、そこは子猫の特権だ。
身を隠して滑るこむことに成功した。

救急車がけたたましいサイレンを鳴らしながら一目散に病院へ向かう。

その間に健一は血圧を測ったり酸素濃度をチェックされたり、さまざまな処置が施されていく。

お願い、助かって……!
尚美はベッドの下に身を隠しながら必死にそう願ったのだった。
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