モノクロームの特異点

羽上帆樽

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第3章 不平等

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 布団の中で目を覚ました。すぐ傍に、フィルの体温がある。月夜は起き上がり、軽く伸びをしてから立ち上がった。カーテンを開き、シャッターを上げる。まだ日は昇っていない。枕もとのデジタル時計は、午前五時を示している。空気は鉛のように冷えていた。

 制服に着替えてから、フィルはそのままに、机に着いて勉強を始める。

 朝のこの時間に勉強すると、なぜか集中できることが多かった。しようと思って集中することはないが、不思議と、今、集中できている、と実感する。集中しているときには、どんな雑念があっても、継続的に集中できる。本当に脳がはたらいているときは、自分を俯瞰的に見られるようになるみたいだ。

 今日は数学の問題を解いた。月夜は、勉強を好きだと思ったことはないが、その中でも、数学は、まだ楽しい要素が多い、と感じる。覚えた方法を実際に使うのが、自分が成長しているみたいで面白いのかもしれない。実際に、それは成長できている証拠だし、勉強はそうやって進めていくものだ。けれど、古典とか、英語の勉強は、同じ性質を持っていながらも、いまいち面白さを感じにくい。この違いは、いったい何に起因するのだろうか。

 途中で計算に行き詰まって、月夜はシャープペンシルを口に咥えた。

 布団の方で気配がする。振り返ると、フィルが顔を上げてこちらを見ていた。

「やあ、今日も早いな、月夜」フィルが言った。

 月夜は頷く。

「どうした? お腹が空いて、ついにペンを齧るようになったか?」

 月夜は首を振った。

 フィルは薄く笑い、大きな欠伸をする。

 猫は、基本的に夜行性らしい。しかし、フィルは部分的には時間に束縛されていないから、どんな生活スタイルでも対応できる。もっとも、それは人間も同じだ。昼夜逆転生活を、逆転と認識していない人もいる。

 何度考えても分からなかったから、月夜は教科書を見た。分からないところは、何が何でも自分の力で考え抜く、といったプライドは彼女にはない。教科書で調べるのも、自分の力を発揮している内だ。そして、そんな拘りは、ただ時間を無駄にするだけだ、とも思う。さらにいえば、時間を無駄にしない拘りというのも存在しない気がする。

 解き方が分かって、なるほど、と彼女は思った。考えてみれば当たり前の話だった。しかし、それを当たり前と感じるのは、理論を逆に進んでいるからであり、正しい方向に進んだ場合は、こんなの分かるわけがない、と思うことが多い。

 現実の社会も、きっとそうだろう。人間は、創造と破壊の歴史を繰り返してきたが、それを愚かだと感じるのは、現在から過去を振り返っているからだ。自分がその時代の当事者だったら、そんなふうには考えられない。

 一時間が経過して、月夜は席を立った。

「もういいのか?」フィルが尋ねる。

「うん」リュックとブレザーを持って、月夜は部屋から出た。

 蛇口から出る水は冷たかった。顔の感覚がなくなるような感じがする。手の感覚も一時的になくなった。一応、毎朝肌の手入れはしている。自分の美しさなんて、他人からしたらどうでも良いだろうが、なんとなく、そうしておいた方が良い気がする、というのがその理由だが、やめようと思えばいつでもやめられそうだった(あえてやめる必要もないが)。髪も、寝ていたから、当然、乱れている。手櫛で解し、プラスチック製の櫛でさらに梳かして、なるべくストレートになるように工夫する。もっとも、月夜はそれほど髪は長くないから、平均よりは時間はかからなかった。

 リビングに入り、すべてのシャッターを上げる。

 すぐに踵を返し、靴を履いて、月夜は玄関の外に出た。

 途中までフィルも一緒だったが、散歩に出かけると言って、彼はどこかに行ってしまった。

 人気のない冬の道を、月夜は一人で歩く。マンホールを踏んでみたが、特に滑らなかった。

 寂れた駅舎に入り、改札を通って、ホームに立つ。

 背後に自動販売機。そのモーター音が、この静かな街に似合っているように思えた。

 空は、まだ滲むように明るくなり始めたばかりで、夜と朝の境界といえる。

 雲が浮かんでいた。

 間もなく、電車がやって来る。車内は空いており、月夜はいつもの席に腰かけた。たまに別の席を選ぶこともあるが、今日は意識的に昨日と同じ席を選んだ。そうすれば、囀に会える可能性が高い、と考えたからだ。

 そして、予想した通りに、いくつか先の駅で囀が乗車してきた。

「やあ、おはよう」にこにこしながら、囀が言った。

 月夜は軽く頷く。囀は月夜の右隣に腰かけ、鞄を膝の上に載せた。彼女はスカートを履いている。

「本は、面白かった?」月夜は尋ねた。

「ああ、うん、面白かったよ」囀は話す。「なかなかファンタジックで、うーん、最近読んだ中では、けっこう上位かな」

「最近は、ほかに、どんな本を読んだの?」

「色々とね」囀は身体を倒し、月夜の顔を下から覗き込む。「国語辞書とか、恋愛小説とか、子ども用の絵本とか、色々」

「本、好き?」

「好きだって、昨日言わなかったっけ?」

「うん、言った」

「好きという言葉を、聞きたいの?」

「うん、聞きたい」

「好きだよ、月夜」

「何が?」

「本が」

 いつもの駅で電車を降りる。人気はない。道路は、一部が凍っていた。昨日雨が降ったのか、それとも露が下りたのか、分からなかった。

「そういえば、囀は、どうして、今日も、こんなに早く学校に行くの?」

 道路を歩きながら月夜は尋ねた。

「月夜に、会えると思ったからだよ」囀は答える。「予想、当たってよかった」

 予想ではなく、予測ではないか、と月夜は思ったが、黙っていた。

「そういう月夜は、どうして? どうして、毎朝早く行くの?」

「遅れるよりは、いいから」

「遅刻は嫌い? 優等生なんだね、月夜って」

「遅刻は、好きではない。優等生というのは、違うと思う」

「夜遅くまで、学校に残っているからね」

「うん……」

 囀は楽しそうだ。

 月夜は、目だけで彼女の表情を確認した。

「今日さ、学校が終わったあと、出かけようよ」歩いていると、突然囀が提案した。「月夜さ、買い物とか、あまりしない方じゃない? 僕が案内するから、一緒に行こう」

「買いたいものは、ない」

「じゃあ、僕のショッピングに付き合って」

 月夜は頷く。

「分かった」

「やったね」

 学校の門が見える。隣の小さな扉から敷地内に入る。今日は、二人とも昇降口に向かった。ロッカータイプの下駄箱から上履きを取り出し、置いたままになっている教科書もリュックに入れる。反対に、今日使わない参考書は、下駄箱の中に仕舞っておいた。囀は、まだ教科書が届いていないようだ。

 階段を上り、教室に到着する。

「誰もいない教室って、最高だよね」自分の席に座りながら、囀が言った。

「いつも、自分がいる」

「それ、どういう意味?」

「自分をカウントするか、しないか、という問題」

「ああ、そういうこと」囀は頷く。「うんうん、たしかに、気づかなかったなあ……」

 基本的に、月夜の机の中には、何も入っていない。教科書の類は、すべてさっきの下駄箱に仕舞うようにしている。

「ねえ、月夜さ、ちょっと、学校を案内してよ」

「案内?」月夜は顔を上げる。

「そうそう」囀は言った。「まだ、慣れていないから、どこに何があるのか、教えて」

「いいよ」

 廊下に出ると、教室より寒かった。窓が所々開いているからだ。中庭の噴水は今日も凍っている。眼下に見える食堂の屋根には、薄く霜が貼り付いていた。

 廊下を進み、移動教室、音楽室、各科目の教員の部屋など、色々な場所を巡った。といっても、月夜もすべての部屋を知っているわけではない。自分とは関係のない科目の教室は知らないし、管理人室など、存在は知っていても、どこにあるのか分からない部屋もある。そういう意味では、学校探検は月夜も面白かった。途中で何人か教員とすれ違ったが、誰も二人を気に留めなかった。

 美術室の前にやって来たとき、囀がその中に入りたいと言い出した。

「鍵がかかっているから、開かないよ」月夜は言った。

「でも、入りたい」囀は催促する。「どんな感じか、見てみたい」

「どうして?」

「単純な興味だよ。月夜は、入ったことあるの?」

「一年生の頃に、何度か」

「気になる」囀は月夜の袖を掴む。「先生、呼んできてよ」

「まだ、来ていないよ」月夜は言った。「隣が、準備室だから、そこにいるはずだけど、まだ、電気が点いていない」

「じゃあ、ここで待っていよう」

「寒いけど、平気?」

「うん、全然大丈夫」

 そういうことで、二人で美術室の前に立ち尽くすことになった。

 月夜は正面を向いたまま固まり、囀は後ろを向いて窓の外を見ている。

 こんなふうに、二人で学校の中を歩き回るのは、久し振りだな、と月夜は思った。

 楽しくないわけではない。むしろ、心は躍っている。

 けれど……。

 心の底からは、楽しめなかった。

 心というものが自分にはあるのか、月夜は分からない。そして、何をやっても楽しめないのは、彼女の特徴だった。楽しい気はする。ただ、それが本当の意味で楽しいのか、分からない。楽しさの上澄みにだけ触れて、楽しんでいるふりをしているだけかもしれない。

 それは、楽しみだけでなく、悲しみも、寂しさも、すべてそうだった。美味しさだって、きっとその内の一つだろう。

 自分は、囀が死んでも、きっと悲しめないし、寂しさも感じられない、と月夜は思う。

 それは、いけないことか?

 世間的には、そうだろう。

 でも、人が死ぬのは、当たり前のことだ。

 それを、いちいち悲しんだり、寂しいと思うのは、なぜか?

 今日も酸素が存在しているのを確認して、喜ぶ人間がいるだろうか?

 両者は、当たり前という意味で、共通している。

 それなのに、どうして、違う問題として扱いたがるのか?

 不思議だった。

 二十分くらいしたところで、美術の教師がやって来た。まだ若い女性で、痩せている。月夜が事情を話すと、快く承諾してくれた。教師は準備室を通って教室に移動し、中から鍵を開ける。彼女は、これから職員会議があるといって、すぐにその場から立ち去った。見学が終わったら、そのままにして、戻って良いとのことだった。

 美術室には、木製の大きな机が六つ並んでいる。一つ一つの机には、周囲にそれぞれ六脚ずつ椅子が配置されている。六、という数字に、何か拘りがあるのかもしれない、と月夜は考えたが、教室の広さと、机の大きさを考えれば、その数が一番纏まりが良いのかもしれない。

 窓枠のちょっとしたスペースに、ほかの学年の生徒が作った工作が置かれていた。紙で作られているが、何か分からない。絵の具が塗られていて、奇妙な色彩だった。

 部屋は、どちらかというと、埃っぽい。しかし、汚いという印象は受けない。適度に汚れている。生活感がある、とでもいえば良いか。

 窓があるのとは反対側の壁には、硝子で覆われた棚があって、廊下から見ると、ショーウインドウのようになっているのが分かる。そこには、油絵が飾られていた。人の手を描いたものだ。

「なんか、いいなあ」教室の中をゆっくり歩き回りながら、囀が言った。

「囀は、美術が好きなの?」

「美術って、何だと思う?」

 月夜は考える。

「絵画や、彫刻」

「それだけ?」

「私には、分からない」

「実は、僕もだよ」囀は笑った。「でもね、美術、という言葉の響きが、好きなの」

「言葉?」

「うーん、それも、少し違うかな……。言葉、というか、美術、という概念が好き、の方が近いかな」

「なんとなく、分かるような、気が、しない、でもない」

 教室の後ろには、人物画のモデルにでもするのか、白い石材で作られた、上半身だけの人形が置かれている。西洋的な雰囲気だ。大半は布がかけられているが、いくつかは、それが剥がれて、生気のない目がこちらを見ていた。

「囀は、美術部に入るの?」

 月夜が尋ねると、囀は彼女の方を見た。

「入らないよ。月夜は?」

「部活?」

「そう」

「入っていない」

「ま、そうだよね」

「どうして?」

「なんとなく」囀は話す。「そんな感じがする」

 美術室の見学は、十五分ほどで終わった。廊下に出ると、もう生徒の声が溢れていた。階段を下り、教室に向かう。部屋に入り、それぞれ自分の席に着いた。

 月夜は、昨日日直だったから、今日の担当者に日誌を渡した。日誌は、何のためにあると思うか、とその生徒に訊いても良かったが、変な印象を抱かれると思って、やめておいた。

 担任が教室に入ってくる。しかし、まだホームルームが始まる時間ではない。

 教室は、魂が解放されたように騒がしい。大勢の笑い声が木霊して、ハウリングみたいになっている。何も、具体的な内容は聞き取れない。つまり、雑音でしかない。けれど、聞いていて不快ではなかった。そこには、すぐ傍に人がいる、友達でも、全然親しくもない、ただの知り合いにも関わらず、人の暖かさ、人が傍にいるという安心さが、確かに感じられる。

 結局、人は一人では生きていけない、という指摘は、間違えていないのだ、と月夜は思う。

 結局、と断る意味は何か?

 一人で生きていけないことはないと、抗おうとした爪痕か?

 では、どうして、一人で生きていこうとしたのか?

 どうして、そんなことを思ったのか?

 なぜか?

 抵抗こそが、生きるための活力だからか?

 チャイムが鳴り、ホームルームの時間になる。全員で起立し、礼をする。そして、また着席。

 教師が今日の連絡事項を伝え、それに少数の生徒が反応する。伝達がすべて終われば、受信する側は回線を断ち切る。

 一時限目の授業は、古典だった。教室を移動する必要はない。

 五分間だけ空き時間があるが、その間に、囀が月夜の傍にやって来た。

「何?」

 彼女が何も言わないから、月夜は囀に尋ねた。

「今日さ、お昼、一緒に食べようよ」

「お昼?」月夜は話す。「私は、ご飯は食べない」

「月夜の分まで作ってきたから、食べてよ」囀は言った。「僕が、そうしてほしいの。迷惑かもしれないけど、どうしても、食べてもらいたい」

 月夜は頷いた。

「分かった。じゃあ、食べる」

 囀は微笑んだ。

 古典の授業は、いつも通り退屈だった。退屈、というのは少し間違えている。内容が退屈なのではなく、やっていることがいつもと同じで、好い加減飽きてきた、というのが詳細な説明になる。

 文章を読んで、内容を理解する。

 しかし、それまでだ。

 それ以上続かない。

 そこから発展させて、何かを考えることは皆無に等しい。

 なぜ、こんなことをやらせるのか、という問いの答えは、大学受験で必要だから、というものになるのだろう。

 あまり、良くはない、と月夜は思う。

 良くない、というのは、いまいち分からない感情だが……。

 シャープペンシルを指で回して、空気を撹拌した。

 そんな調子で授業を受けて、あっという間に昼になった。囀に教室から連れ出され、彼女のあとをついていくと、屋上へと続く階段の踊り場に案内された。

「ここで、食べよう」囀は言った。「なんか、いい感じの雰囲気だし」

 月夜には、彼女の言う、良い感じの雰囲気、というのが分からなかった。

 囀は、本当に二人分の弁当を作ってきていた。そう言っていたのだから、当たり前だが、出任せの可能性も月夜は想定していた。しかし、それならそれでも良い、と彼女は考える。出任せを言ってまで、自分と一緒に昼食をとりたかったのだ、と思えば、嬉しくなるからだ。

 囀が作ってきたのは、サンドウィッチだった。玉子やレタス、ハムなどが挟まれた標準的なもので、少しスパイシーだった。調味料は、胡椒とマヨネーズらしい。不思議な組み合わせだったが、初めての味で、美味しかった。

「月夜はさ、どうして、いつも、お弁当食べないの?」

 口にパンを詰めながら、囀が質問した。

 月夜はお茶を飲み、彼女の質問に答える。

「食べたい、と思わないから」

「お腹、空かないの?」

「空くけど、それほど、空かない」

 囀は笑った。

「変なの。どっち? 食べられないわけじゃないんでしょう?」

「うん」

「食べたくないのは、ほかに理由があるの?」

「食べたくないわけじゃないよ。食べたい、と思わないだけ」月夜は説明する。「ほかには、死んだ生き物を、自分の身体に入れたくないから、というのもある」

 囀は、月夜をじっと見つめる。

「それ、冗談?」

「冗談?」

「いや、何でもないや」囀は言った。「そっか……。それは、うん、まあ……、分からなくはないよ。動物を殺すのって、可哀相だもんね」

「うん」

「でもさ、自分で取り込もうと思わなくても、たとえば、細菌とか、微生物は、身体の中に入ってくるよ」

「そう……。だから、矛盾している」

 そう言って、月夜は下を向く。パンを千切って口に入れ、ゆっくりと咀嚼した。

「そんなことを、考えているの?」

 月夜は顔を上げる。

「え?」

「なんか、月夜って、思っていた以上に深刻だね」

「そうかな」

「そうだよ、絶対」囀は笑顔で言った。「もう少し、自分に優しくしてもいいんじゃない?」

 自分に優しくするとは、どういう意味だろう、と月夜は考える。

「どうしたら、自分に優しくできるの?」

「え? うーん、それは……」囀は腕を組む。「自分が、本当にやりたいと思うことに、素直になる、とかかな」

 月夜は頷く。

「なるほど」

「月夜は、本当に、何も食べたくないと思うの?」

「たぶん」

「そっか……。……うーん、じゃあ、しょうがないなあ……」

 階段の踊り場は、薄暗くて、少し埃っぽかった。美術室よりは汚い。すぐ傍にドアがあり、その先には屋上が続いている。普通は、その先は生徒だけでは入れない。天文学部など、一部の部活動は利用しているらしいが、飛び降り自殺を防ぐためか、普段は鍵がかかっている。天文学部の人間は、飛び降りても良い、ということだろうか。ルールとしては、多少おかしいと思われるが……。

「月夜、今日の午後、付き合ってね」

 囀が二つ目のサンドウィッチを手に持って、月夜に話しかけた。

「買い物?」月夜は首を傾げる。

「うん、そう。きっと楽しいよ。色々、知らないものが見られて、感動するかも」

「最近、感動する経験をしていない」

「じゃあ、ちょうどいいじゃん。やっぱり、定期的に感動しないと、人に優しくできないもんね」

「そうなの?」

「僕の見解では」囀は頷く。

「囀は、人に優しくしたいの?」

「え? ああ、うん、どうかな……。……優しくして、損はないかな、という程度かな」

「今でも、平均的には、優しいと思うよ」

「それ、褒めているの?」囀は苦笑いする。

「特に、褒めてはいない。それが事実だと思った」

「そう言われると、なんだか嬉しいかも」

「あと、人にだけじゃなくて、自分にも、優しい、と思う」

「うーん、それはどうかなあ……」

「さっき、そう説明していなかった?」

「ああ、そういうこと? あ、そうか。じゃあ、さっきの説明は、なかったことにして」

「どうして?」

「いやあ、だってさあ……」囀は言った。「なんか、恥ずかしいから」

「分かった。なかったことにする」

「え、いや、それは、ちょっと、困る」

「何が?」

「説明するのが難しい」

「簡単な説明って、ある?」

「あるよ」

「たとえば?」

「たとえば……。……ジョン万次郎の本名が、意外と知られていない理由、とか」

 昼食をとり終え、二人は教室に戻った。午後の授業が始まるまで、あと二十分ほどある。囀は、自分の机に突っ伏して眠ってしまった。月夜は、次の英語の授業でテストがあるから、軽くその復習をした。

 長閑な昼休みだ。

 一生、このままでも良かった。

 午後の授業が始まり、テスト用紙が配られた。これは、いわゆる小テストと呼ばれるもので、定期的に行われ、僅かに成績に加算される。成績に加算されるというだけで、どういうわけか、生徒はやる気を出す。まるで、成績をとるために学校に来ているみたいだ。

 でも、自分のその内の一人だ、と月夜は思った。

 もちろん、それだけではないが、それを大切にしているのは確かだ。

 難なくテストが終わり、通常の授業に入る。ネイティブが話す音声を聞いて、教科書に書かれた内容を確認する。分からない単語があれば、その都度調べ、記憶しようと努力する。プリントが配られ、近所の生徒と、互いに発音し合ったり、問題を出し合ったりするパートもあった。どれも、事務的で、あまり面白くなかった。

 英文を一人で読んでいるときが、きっと一番面白い。

 今日は、冬休み明けだから、午後の授業はそれだけだった。

 他人の教師が教室に戻ってきて、ホームルームを行う。今日は、掃除がある日だが、月夜は担当ではなかった。机の上に椅子を載せて、前に移動させ、昇降口へ向かう。囀も掃除はなかったから、彼女と一緒に廊下を歩いた。

「学校って、楽しいね」囀が言った。

「どういうところが?」

「なんか、ほのぼのとしているところとか」

 月夜は、彼女が言った意味を考える。

「月夜は、どう? 学校は好き?」

「うん、少しは」

「あ、じゃあ、嫌いなところもあるの?」

「それは、どんなものでも、そう」

「まあ、そうだね」

 靴を履き替えて外に出る。月夜は、この時間帯に帰るのは久し振りだった。多くの生徒が、流れを作りながら、駅へと向かって歩いている。最寄り駅はその一つしかなく、そして、皆同じ路線だから、この集団が、車内まで続くことになる。上りと下りで二手に分かれるから、人数は半分になるが、空間が狭くなるせいで、密度はむしろ上がる。

 いつも通りの電車に乗って、月夜と囀は帰路についた。車内は混んでいたから、座ることはできなかった。

 囀は、いつも降りる駅を通り過ぎて、月夜の家がある方向にさらに進み、途中の駅で下車した。月夜も彼女に続く。

 都会とも、田舎ともいえない、そんな街だった。

 交通量は、多いともいえないし、少ないともいえない。

 景観も、良いともいえないし、悪いともいえそうにない。

 曖昧さを売りにしているような気さえする。

 囀のあとについて歩き、駅構内に築かれたデパートに入った。

「月夜は、何か、見たいものはある?」歩きながら、囀が尋ねた。

「ない」月夜は答える。

 混雑しているが、歩くのが困難なほどではない。

 某有名なブランドの洋服売り場に来て、二人はそこで衣服を見た。

「これ、似合いそうじゃない?」

 そう言って囀が持ってきたのは、黒いカーディガンだった。

 月夜は、それを受け取り、上半身に当てる。鏡の前に立ち、自分の姿を見た。

「自分では、分からない」

「似合っていると思うよ。僕が、プレゼントしようか?」

「いや、いいよ」

「いやいや、付き合ってもらっているんだし、遠慮することないって」

「カーディガンは、持っているから、いらない」

「じゃあ、何が欲しい?」

「うーん、何も……」

 そう言いかけたとき、ベージュ色のロングスカートが月夜の視界に入った。

「……そういえば、スカートは、あまり持っていなかった」

 囀は、月夜が見ているスカートを取り、彼女に当てる。

「うん、なかなかいいじゃん。じゃあ、それね」

「囀の方が、似合うんじゃない?」

「うーん、どうかなあ」

「何を着ても、似合うと思うよ」

 囀は、目を細めて、口もとを上げる。

「どうもありがとう」彼女は言った。「でも、それ、知っているよ」
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