モノクロームの特異点

羽上帆樽

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第2章 不自然

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 夜になった。

 当たり前だが、すでに生徒の姿はない。しかし、月夜は教室に残って、勉強をしていた。今日は本を持ってきていないから、必然的に勉強をするしかない。勉強といっても、試験のための勉強で、自分の能力を上げるのが目的ではなかった。そんなことには、彼女は魅力を感じない。そもそも、自分という人間に、魅力があるのかも疑わしい。そんなものは、むしろない方が安全だ。他人から相手にされない方が、ストレスも溜まりにくい。もっとも、そんなことでストレスが溜まるとも思えないが……。

 窓の外は寒そうだった。もう雪は降っていないが、校庭に少し残っている。

 前方を見る。真っ黒な黒板があった。真っ黒な、と断るということは、黒くない黒板もあるということか。

 月夜はシャープペンシルを机に置いて、軽く伸びをした。彼女は、今日、一度も食事をとっていない。別に、お腹は空かなかった。水筒にお茶を入れて持ってきたから、それは少し飲んだが、それも、喉が渇いたと感じたからではなかった。タイミングを見計らって、そろそろ水分補給をしておいた方が良いかな、と考えて実行したにすぎない。

 椅子から立ち上がり、身体を左右に倒す。

 掌が天井を向く。

 そのとき、窓の向こう側で、何かが光った気がした。

 彼女はそちらに近づき、眼下の校庭を見下ろす。

 誰かがいた。

 懐中電灯を持っているようだ。

 光は一瞬この教室を照らし、すぐに別の方を向いた。その人物は、月夜の存在には気づいていないようだ。

 懐中電灯の明かりは、校舎の中へと消えていった。

 こんなことは初めてだった。月夜は、ほとんど毎日夜まで学校に残るが、見知らぬ誰かと遭遇したことは一度もない。教師も全員帰るし、宿直という文化はこの学校にはない。しかし、どういうわけか、裏門は必ず開いていた。だから、学校から帰るときは、彼女はそこから外に出る。誰かが意図的に鍵を外しているのか、また、誰がその門を管理しているのか、彼女は知らなかった。

 教室から出て、先ほどの人物に会ってみよう、と月夜は思った。会ってみるというよりは、そっと観察してみる、といった方がニュアンスとしては近い。見知らぬ人間には、こんな夜中でなくても、会わない方が無難だ。突然殺されるかもしれない。

 しかし、月夜は、殺されても構わない、とも感じていた。

 薄暗い廊下を歩く。リノリウムの床と上履きが接触する。プラスチック製の鉛筆キャップが落ちていて、彼女はそれを蹴ってしまった。キャップは、ちゃちな音を立てながら、暗い廊下を転がっていく。壁に何度か当たり、弾かれて、床の上をバウンドした。動きが完全に静止したところで、彼女はそれを拾い、ブレザーのポケットに仕舞う。誰のものか分からないから、明日の朝、教室の教壇に置いておこう、と思った。

 校舎に入るには、昇降口を通るしかない。職員玄関は、この時間は閉まっている。廊下の角を曲がって、階段を下りれば、昇降口はすぐだ。

 しかし、昇降口に辿り着いても、誰もいなかった。

 すでにここを通過してしまったのかもしれない。となると、もうどこにいるか分からない。校舎はそれほど広くないが、隠れようと思えば、どこにでも隠れられる。けれど、相手は自分以外には誰もいないと思っているだろうから、特に隠れる意味はない。

 昇降口に立ち尽くし、どうしようか、と月夜は考える。

 すぐ傍に自習室があるが、今は鍵がかかっていて開かない。この時間帯でも、鍵が開いている部屋、つまり、もともと鍵が存在しない部屋は限られる。あの人物が何をしにここへ来たのか分からないが、学校には部屋と廊下しかないから、部屋にいるか、廊下を歩いているかの二つの可能性しか考えられない。前者なら、その部屋に用がある、後者なら、ただ探索しに来た、と考えるのが妥当だろう。

 情報が不足していて、これ以上は考えられそうにない。

 月夜は、とりあえず、階段を下りて、一階に移動した。

 目の前に、再び自習室。

 その右手に食堂。食堂にも鍵がかかっている。

 廊下を進む。

 食堂の向かいには、図書室がある。

 月夜は、その前で立ち止まった。

 鍵が開いている。

 普通なら、図書室の鍵は、司書が帰宅するタイミングでかけられる。

 つまり、司書がかけ忘れたか、そうでなければ、今開けられたかの二つの場合しか考えられない。

 そして……。

 月夜は、きっと、今開けられたのだろう、と思った。

 根拠はない。純粋に、そんな予感がした。

 長い把手がついた両開きの扉をこちらに引き、彼女は図書室に足を踏み入れる。そこに下駄箱があり、スリッパがいくつも並んでいた。月夜は上履きを脱ぎ、スリッパに履き替える。その先に、もう一枚の扉。しかし、そこにも鍵はかかっておらず、これで、司書がかけ忘れた可能性は一気に低くなった。

 二つ目の扉を開けて、月夜は中に入る。

 真っ暗だった。

 けれど……。

 天井に、懐中電灯の明かりが踊っているのが、瞬時に分かった。

 あの人物はここにいる。

 図書室の中央には、大きなテーブルがいくつか並べられており、そこは、集団で学習できるスペースになっている。その右手には個室のブースが存在する。それらのスペースを挟んで、書棚は左右に設置されているが、懐中電灯の明かりは、左側の天井に反射していた。足音は聞こえない。月夜は、スリッパに履き替えたから、静かに歩くのは難しい。なるべく音を立てないように扉を閉めたが、すでに相手に気づかれている可能性もある。

 誰もいないカウンターを通り過ぎて、左手に進む。書棚はそんなに高くないから、相手がどこにいるのか、すぐに分かった。

 人影が見える。

 その人物は、しゃがみ込んで、低い位置にある本を手に取って読んでいる。懐中電灯は膝の上に置かれているみたいで、だから、不安定で、光が揺れているようだった。

 月夜は、真っ直ぐ進んで、その人物の前に立つ。

 近くで見て、それが少年であることが分かった。

 彼はゆっくりと顔を上げ、彼女を見る。

 少年は笑った。

「君が、夜の万人?」

 月夜は首を傾げる。

「夜の、万人、とは?」

「噂で聞いたんだ」彼は立ち上がった。「こんなに遅くまで、学校に残っていたら駄目だよ、月夜」

 月夜は、自分の名前を呼ばれたから、驚いた。

「君は、誰?」

「僕?」少年は両手を広げる。「見て、分からない?」

 月夜は彼の姿を観察する。髪は程良い長さで、長すぎず、また短すぎもしなかった。黒いデニム生地のズボンに、黒いパーカーを身につけている。

「……囀?」

 月夜がそう言うと、少年は薄く微笑んだ。

「正解」

 彼は、その場で一回転し、正面に向き直って、深くお辞儀をする。

「どうぞ、よろしく」

「うん……」

「あれ、なんか、想像していたほど驚かないね」囀は月夜に顔を近づける。「君、ちゃんと、目、付いているよね?」

「どうして、こんな時間に、学校に来たの?」

「それ、僕も訊かなかったっけ?」

「訊いたかも」

「じゃあ、まず、月夜から教えてよ」そう言って、囀は再びその場にしゃがみ込む。「僕は、君の話が聞きたい」

「私は、なんとなく、夜の学校が好きだから」

「へえ、そうなの?」

「囀は、どうして?」

「うん、ちょっと、忘れ物をしたから」

「何を忘れたの?」月夜も、囀の傍にしゃがんだ。スカートが少し広がったが、気にしなかった。

「うん、あのね、本を借りようと思っていたんだけど、それを忘れたんだ」囀は月夜の足もとに目を向ける。それから、スカートを指でさして、直すように示した。「僕、夜は読書に時間を当てているんだけど、そのために、毎日、学校で本を借りるんだ。でもね、転校初日で色々と考え事をしていたのか、そんな肝心なことを忘れて、家に帰っちゃったんだ。だから、もう一回ここまで来て、読みたい本を探していた」

「そっか」

「そうだよ。どう? 納得した?」

「した」

「端的な回答だね、月夜」

「端的の意味が分からない」

 囀は笑った。

 囀には、どうやら、二つの人格があるようだ、と月夜は思った。いや、人格というのはおかしいかもしれない。意識、といった方が近いか。そして、人間は、普通、二つ以上の意識を備えているものだから、囀の場合だけそこにフォーカスするのも、やはりおかしいと感じた。

 ただ……。

 囀は、その二つの意識を、顕著な形で区別しているようだ。具体的には、服装の違いでそれを示す。日中、月夜は、囀の一方の姿を認識していた。そして、夜になったから、囀は趣向を百八十度転換した。そんな二面性を兼ね備える特異な存在と、初日から親しくなれたのは、もしかすると、運命かもしれない、という気がしないわけではない。けれど、運命などというものはない。少なくとも、月夜は信じていない。

 囀には、表と裏がある。いや、それら二つが、明確に区別されている。

 月夜は、そんな囀が、より一層好きになった。

 この感情は、確かだった。

 夜の学校より、囀の方が好きだ、と感じた。

 それは、束の間だとしても、素敵な感情に思えた。

 また、綺麗な感情にも思えた。

 いや、そう思いたかったのか……。

「月夜、そんな所にしゃがんで、何をしているのかな?」囀が顔を上げて、彼女を見た。

「囀が、本を探し終えるのを、待っている」

「どうして?」

「一緒に帰ろうかな、と思ったから」

「君さ、僕が好きでしょう?」

「うん。でも、どうして?」

「分かるんだ、そういうの」彼はウインクする。「勘なんだけど、これが、なかなか当たる」

「もう、帰る?」

「でも、君には、ほかに愛している人がいるね。それは誰?」

「それは、秘密」

「なるほど。だから、少し困っているわけだ」

「困る? どうして?」

「あれ、困っていない?」

「特には」

「へえ……。なかなか、フレキシブルだね」囀は頷く。「でも、一般的には、一人を好きにならないと、いけないらしいよ」

「なぜ?」

「さあ、知らない。そういう文化というか、風習なんだ、この国では」

「不思議だね」

「うん、まったく」

 本を一冊持って、囀は立ち上がった。小説ではない。図鑑のようだ。

「それを、読むの?」月夜は尋ねる。

「そう」彼は言った。「説明文を読んでいるだけで、面白い」

「何の図鑑?」

「小人」

「小人?」

 囀は月夜に本の表紙を見せる。『世界の小人名鑑』と書かれていた。

「たしかに、面白そう」

「君も読む?」

「囀が、返したあとで、借りに来る」

「三日くらいで読めるかな」

 二人で図書室を出た。

「そういえば、どうやって、この部屋に入ったの?」階段を上りながら、月夜は彼に質問した。

「鍵を借りたんだよ」

「どうやって?」

「借りたというよりは、持ち出した、の方が正しいかな」

「勝手に?」

「そう」

「なるほど」

「僕を咎めないの、月夜」

「どうして、咎めるの?」

「いけないことをしたんだよ。友人なら、注意するのが普通じゃない?」

「いけないことをしても、許容するのが、友人だと思う」

 昇降口に来て、上履きから外履きに履き替える。石造りの階段を下りて、裏門から学校の敷地の外に出た。すぐ傍に線路がある。

 朝来たのとは逆に道を進み、駅がある方へ向かっていった。月夜が、自分の腕時計で時刻を確認すると、もう日付けが変わっていた。まだ電車はあるが、高校生は、この時間には出歩いてはいけない。補導の対象になる。

「月夜は、いつもこんな感じなの?」

「そう」月夜は頷いた。「囀は、本を読むのが、好きなの?」

「まあ、好きといえば、好きかな。でも、特別好きじゃないよ。月夜は?」

「特別ではないけど、好き」

「じゃあ、僕と同じだ」

 駅の光が見える。近未来的な階段を上り、定期券をタッチして改札を抜ける。人の数は疎らだった。それでも、誰もいないわけではない。夜は人間の活動時間ではない、と定められているわけではないのに、多くの人間が、昼に活動し、夜は休養に当てる。そんな行動心理が月夜は不思議だった。夜の方が、素晴らしいではないか、というのが彼女の率直な体感で、こんな素晴らしい時間を、瞼を閉じて過ごす人々が、月夜には理解できない。

 エスカレーターで下に移動し、ホームで電車が来るのを待った。彼らがここにいることを、不思議に思う人はいない。いるかもしれないが、皆見て見ぬふりをする。あるいは、興味のない対象は、視界から自動的に除外するようにしている。

「月夜、驚いた?」

 立っていると、突然囀が訊いてきた。

 月夜は彼に顔を向ける。

「何が?」

「僕の、この格好」

「少し」

「どうしてって訊かないんだね」

「訊いた方がよかった?」

「うーん、それもありかな。そういうのって、訊かれると、嬉しいものだし」囀は目を細める。「あまりね、気にされすぎるのもよくないけど、うん、君みたいに、適度な距離感で触れられるのは、全然構わない、と思う」

「じゃあ、どうして、そんな格好をしているの?」

「これが、僕のデフォルトだからだよ」囀は話す。「似合っているでしょう?」

「うん、凄く」

「いつもと、どっちの方がいい?」

「いつも、が、まだ、私には分からない」

「そっか。じゃあ、もう少ししたら、同じ質問をしよう」

「ねえ、囀」

「何?」

「手、繋いでもいい?」

 囀は月夜を見る。

 彼は、そのとき、初めて月夜の瞳を真っ直ぐ見つめた。

 月夜は、そのとき、初めて彼に瞳を真っ直ぐ見つめられた。

「何か、寂しいことがあるの?」

 目を逸らさず、囀は尋ねる。

「寂しいとは、感じないけど、なんとなく」

「分かった。いいよ」

 腕を伸ばして、月夜は囀の手を握る。

 適度に温かかった。

 しかし、冷たいような気もする。

 不思議だ。

 まるで、風邪を引いているような感じがする。

 熱が出ていて、とても熱いのに、同時に寒気もする。

 そんな感じだった。

「手、冷たいね、月夜」囀は話す。「血液が足りていないんじゃない?」

「そうかも」

「分けてあげようか、僕のを」

「今はいらない」

「じゃあ、明日あげよう」

「明日も、いらない」

「吸血鬼だったら、素敵だよね、月夜が」

「月夜、だから?」

「そうそう」囀は笑う。「うーん、なんか、いい感じだ」

 アナウンスが響き、電車がホームに入ってきた。ここには、ホームドアは設置されていない。

 降りる人はいなかった。席も空いていた。

 月夜と、囀は、並んで座った。

 電車が走り出す。

 暫くの間、二人は無言。

 アナウンスだけが、自然音のように振る舞う。

 月夜は、手を持ち上げて、自分の掌と、囀の掌が、上手く結合している様を観察した。

「手を繋ぐのが、そんなに珍しい?」

 月夜は顔を上げる。

「うん、少し」

「繋いだこと、ない?」

「ある、少し」

「どう?」

「どうって?」

「その人と、僕の手は、違う?」

「違う、少し」

「もう、離したくないでしょう?」囀は月夜に顔を近づける。「いいよ、離さなくても。ずっと、このまま一緒にいよう」

「魅力的だけど、断る」

「うん、ストレートで、しかも、正しい回答」

「ごめんね」

「いいよ、謝らなくて」

 いくつか駅を通過して、囀は月夜より先に電車を降りた。別れ際に、彼はなぜかピースサインを月夜に向けてきたが、彼女にはその意味が分からなかったので、応じなかった。

 電車に乗り続け、間もなく月夜も下車する。改札を抜けて、駅舎を出ると、静かな街並みが目前に広がっていた。自動車の走行音が時折聞こえるだけで、人の気配、また動物の存在は、どこにも感じられない。

 空で星が輝いていた。オリオン座が見える。月は今日は見えなかった。

 駅舎から見て左右に別れる道を、月夜は左に向かって歩き出す。この一帯には、どういうわけか街灯が立っていない。だから、道は真っ暗だ。どこかに黒猫が隠れていても、きっと見つからない。

 だが、月夜は、彼がいるのに気づいた。

 彼女の知り合いの、黒猫のフィルが、道路の隅に行儀よく座ったまま、じっとこちらを見つめていた。

 傍に近づいて、月夜は彼を抱き上げる。

「ただいま」月夜は言った。「ずっと、待っていたの?」

 黄色い瞳をくりくりと動かして、フィルは答える。

「ずっとではないな。暫く、といえばいいか」

「なるほど」

「今日は、いつもより早かったな。何かあったのか?」

「何かは、あった」

「詳しく聞きたいところだが、寒いから、さっさと帰ろう」

「うん」

 月夜の肩に乗ったまま、フィルは自分の脚を舐める。彼は、歳の割には、身体は小さい。尻尾は適度に長く、今は先は丸まっていた。揺れていないところを見ると、それほど機嫌が良いわけではないらしい。

「今日は、誰かに会っていたみたいだな」フィルが言った。

「どうして、分かるの?」

「いつもと、違う匂いがする」

「どんな匂い?」

「分からない」フィルは答える。「ただ、お前の匂いでないことは、分かる」

「匂いで、人を判断しているの?」

「見た目で判断するよりは、悪くないだろう?」

「そうかも」

「学校で、そいつと一緒にいたのか?」

「うん、そう」

「何をしていた?」

「どうして、そんなに気になるの?」

「なんとなくな。別に、興味があるわけじゃないさ」

「フィルが、今、一番興味があるのは、どんなこと?」

「月夜に見つからないように、新しいガールフレンドを作ることか」

「それは、君の自由だから、私には関係ない」

 自宅に到着し、鍵を解錠してドアを開ける。閉めきっていたから、室内の空気は淀んでいる。洗面所で手を洗い、嗽をして、リビングに移動。リュックをソファに下ろし、カーテンを開け、シャッターを持ち上げて、外の空気を室内に取り込んだ。寒いが、暖房の人工的な空気に晒されるよりは良い。月夜がソファに座ると、彼女の膝にフィルが飛び乗ってきた。

「風呂に、入ろう」

 月夜は、フィルを見る。

「私と、一緒に、入りたいの?」

「一人じゃ入れないんだ。察してくれ」

「了解。察する」彼女は頷く。「でも、その前に、日記を書く」

「どうぞ、お好きに」

 リュックからノートを取り出して、月夜はそれを開く。シャープペンシルを持ち、今日経験したことをそこに記した。

 リビングの照明は灯っていない。

 真っ暗だが、何も見えないわけではなかった。

 フィルの瞳は、暗闇を照らすほど強い光を放っていない。

「月夜、外に出るときは、コートを着よう」

 月夜がノートを自分の膝に置いたから、フィルは今は床にいる。

 彼の方を見ないで、月夜は尋ねた。

「どうして?」

 フィルは、前脚を伸ばして、月夜の膝に触れ、体勢を維持し、彼女の手もとを覗き込む。

「寒いと、風邪を引くからに決まっているじゃないか」

「残念ながら、コートを持っていない」

「じゃあ、買いに行こう」

「どこに?」

「どこでも」彼は話す。「今の季節なら、どんな店でも売っているさ」

「何色が、似合うかな?」

「さあ、白とかじゃないか」

「白、とか、というのは、ほかに、どんな候補があることを示しているの?」

「ベージュや、黒」

「どちらも、似合わないと思う」

「何を着ても、似合うと思うがな、月夜は」

「うん……」

「集中しているな」

「何に?」

「日記の執筆に」

「集中は、していない」

「では、今は、何に集中しているんだ?」

「何にも、集中は、していない」

「嘘だな」

「どうして?」

「新参者に、集中しようとしているだろう?」

 月夜は顔を上げる。

「新参者?」

「今日、新しく会ったやつがいるんじゃないのか?」

「さっき言っていた、違う匂いがする人?」

「そうだ」

 月夜は、数秒間黙ってフィルを見つめた。

 それから、顔を下に戻しつつ、頷いた。

「そうかも、しれない」

「やっぱり」

「やっぱり、とは?」

「ある程度、予想していたんだ」

「何を?」

「そろそろ、目移りするんじゃないか、と」

「うん、ちょっと、言い方が、どうか、と思う」

「しかし、言っている内容は同じだろう?」

「さあ、どうだろう……」

 日記を書き終え、キッチンに入って、機器を操作して湯を沸かす。冷蔵庫を開け、買っておいたお茶を取り出し、コップに注いで飲んだ。相変わらず喉は渇いていないし、お腹も空いていない。

 リビングに戻ると、フィルがいなかった。

「フィル?」

 月夜は声をかける。

 見ると、硝子戸が開いていた。その向こうに、猫のシルエットが見える。

 戸を開けた先は、ウッドデッキになっており、その柵の上に、フィルはちょこんと座っていた。

「どうしたの?」月夜は彼に尋ねる。彼の横に並び、頭を撫でた。「もう少ししたら、お風呂に入るよ」

「静かだ」

 月夜は右手にある山を見る。

「うん、それは、いつもそうだよ」

「星が、綺麗だ」

「うん、それも、いつもそう」

 フィルは月夜を見る。

「いつもではないだろう」

「うん、そうかな」

 風が吹いた。

「これから、何が起きるんだろうな」フィルが言った。「地球は、どうなってしまうのか」

「……どういう意味?」

「何百億年か先の未来を、心配しているんだ」

「まだ、そんなに生きるつもりなの?」

「俺はもう死んでいるよ。そうではなく、ほかの種の心配をしている」

「フィルが、そんなことをする必要は、ない」

「それは、俺が決めることだ」

「そっか」

 周辺にある家々の窓に、もう明かりは灯っていない。皆、眠っている。それぞれの人間には、それぞれの生活があり、そして、それぞれの人生がある。普段あまり意識しないことだが、窓の明かりの数だけ、家族が存在する。明かりだけ灯ることはない。

 自分は、誰かと家族を作るだろうか、と月夜は考える。

 そんな価値はないと思った。

 価値がないというのは、自分に、家族を作るだけの存在意義がない、という意味ではない。そんな単純な話なら良いが、そうではなく、そもそも、家族というふうに、人の集まりを括る意味があるのかといった、根底を疑う思考といえる。

 フィルは、自分の家族ではない、と月夜は思う。彼は、あくまで知り合いだ。それは、きっと囀も同じだろう。月夜には、友人と呼べる者がいない。いや、いるといえばいるが、いないといえばいない。そんな、曖昧な関係ばかりだ。

 あと一年もすれば、高校を卒業して、新たな進路を歩むことになる。おそらく進学するだろうが、ほかの道もないわけではない。今まで基本路線に沿って生きてきたから、今後も、その方針に則るのが一番手っ取り早いだろう、と考えただけだ。その選択に拘っているわけではない。生きてさえいれば、あとは何でも良い、と月夜は思う。

 本当は、明日死んでしまっても良かった。

 一人で死ぬのは少し寂しいが、死んだら、そんな寂しさもどこかへと消える。

「お風呂に、入ろう」

 月夜は、フィルを抱えて言った。

「ああ、そうだな」フィルは応える。

 室内に戻り、硝子戸を閉めて、二人で浴室に向かった。服を脱ぎ、シャワーを浴びる。その間、フィルは一人で湯に浸かっていた。

「湯気が凄いな、月夜」水に浮かびながら、フィルが天井を見て言った。「まるで、揚げ物をしているみたいだ」

「揚げ物のときは、湯気ではなく、煙」

 月夜は応えたが、シャワーの音で声は掻き消される。

「え、なんだって?」

「揚げ物は、美味しい」

 しかし、なぜか、その言葉は伝わった。

「お前が、そんなことを言うはずがないね」

 月夜は、シャワーを止め、フィルを持ち上げる。

「都合の良いことばかり、言わないで」

 フィルは笑った。

「それは、こちらの台詞だ」
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