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第2章 不自然
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夜になった。
当たり前だが、すでに生徒の姿はない。しかし、月夜は教室に残って、勉強をしていた。今日は本を持ってきていないから、必然的に勉強をするしかない。勉強といっても、試験のための勉強で、自分の能力を上げるのが目的ではなかった。そんなことには、彼女は魅力を感じない。そもそも、自分という人間に、魅力があるのかも疑わしい。そんなものは、むしろない方が安全だ。他人から相手にされない方が、ストレスも溜まりにくい。もっとも、そんなことでストレスが溜まるとも思えないが……。
窓の外は寒そうだった。もう雪は降っていないが、校庭に少し残っている。
前方を見る。真っ黒な黒板があった。真っ黒な、と断るということは、黒くない黒板もあるということか。
月夜はシャープペンシルを机に置いて、軽く伸びをした。彼女は、今日、一度も食事をとっていない。別に、お腹は空かなかった。水筒にお茶を入れて持ってきたから、それは少し飲んだが、それも、喉が渇いたと感じたからではなかった。タイミングを見計らって、そろそろ水分補給をしておいた方が良いかな、と考えて実行したにすぎない。
椅子から立ち上がり、身体を左右に倒す。
掌が天井を向く。
そのとき、窓の向こう側で、何かが光った気がした。
彼女はそちらに近づき、眼下の校庭を見下ろす。
誰かがいた。
懐中電灯を持っているようだ。
光は一瞬この教室を照らし、すぐに別の方を向いた。その人物は、月夜の存在には気づいていないようだ。
懐中電灯の明かりは、校舎の中へと消えていった。
こんなことは初めてだった。月夜は、ほとんど毎日夜まで学校に残るが、見知らぬ誰かと遭遇したことは一度もない。教師も全員帰るし、宿直という文化はこの学校にはない。しかし、どういうわけか、裏門は必ず開いていた。だから、学校から帰るときは、彼女はそこから外に出る。誰かが意図的に鍵を外しているのか、また、誰がその門を管理しているのか、彼女は知らなかった。
教室から出て、先ほどの人物に会ってみよう、と月夜は思った。会ってみるというよりは、そっと観察してみる、といった方がニュアンスとしては近い。見知らぬ人間には、こんな夜中でなくても、会わない方が無難だ。突然殺されるかもしれない。
しかし、月夜は、殺されても構わない、とも感じていた。
薄暗い廊下を歩く。リノリウムの床と上履きが接触する。プラスチック製の鉛筆キャップが落ちていて、彼女はそれを蹴ってしまった。キャップは、ちゃちな音を立てながら、暗い廊下を転がっていく。壁に何度か当たり、弾かれて、床の上をバウンドした。動きが完全に静止したところで、彼女はそれを拾い、ブレザーのポケットに仕舞う。誰のものか分からないから、明日の朝、教室の教壇に置いておこう、と思った。
校舎に入るには、昇降口を通るしかない。職員玄関は、この時間は閉まっている。廊下の角を曲がって、階段を下りれば、昇降口はすぐだ。
しかし、昇降口に辿り着いても、誰もいなかった。
すでにここを通過してしまったのかもしれない。となると、もうどこにいるか分からない。校舎はそれほど広くないが、隠れようと思えば、どこにでも隠れられる。けれど、相手は自分以外には誰もいないと思っているだろうから、特に隠れる意味はない。
昇降口に立ち尽くし、どうしようか、と月夜は考える。
すぐ傍に自習室があるが、今は鍵がかかっていて開かない。この時間帯でも、鍵が開いている部屋、つまり、もともと鍵が存在しない部屋は限られる。あの人物が何をしにここへ来たのか分からないが、学校には部屋と廊下しかないから、部屋にいるか、廊下を歩いているかの二つの可能性しか考えられない。前者なら、その部屋に用がある、後者なら、ただ探索しに来た、と考えるのが妥当だろう。
情報が不足していて、これ以上は考えられそうにない。
月夜は、とりあえず、階段を下りて、一階に移動した。
目の前に、再び自習室。
その右手に食堂。食堂にも鍵がかかっている。
廊下を進む。
食堂の向かいには、図書室がある。
月夜は、その前で立ち止まった。
鍵が開いている。
普通なら、図書室の鍵は、司書が帰宅するタイミングでかけられる。
つまり、司書がかけ忘れたか、そうでなければ、今開けられたかの二つの場合しか考えられない。
そして……。
月夜は、きっと、今開けられたのだろう、と思った。
根拠はない。純粋に、そんな予感がした。
長い把手がついた両開きの扉をこちらに引き、彼女は図書室に足を踏み入れる。そこに下駄箱があり、スリッパがいくつも並んでいた。月夜は上履きを脱ぎ、スリッパに履き替える。その先に、もう一枚の扉。しかし、そこにも鍵はかかっておらず、これで、司書がかけ忘れた可能性は一気に低くなった。
二つ目の扉を開けて、月夜は中に入る。
真っ暗だった。
けれど……。
天井に、懐中電灯の明かりが踊っているのが、瞬時に分かった。
あの人物はここにいる。
図書室の中央には、大きなテーブルがいくつか並べられており、そこは、集団で学習できるスペースになっている。その右手には個室のブースが存在する。それらのスペースを挟んで、書棚は左右に設置されているが、懐中電灯の明かりは、左側の天井に反射していた。足音は聞こえない。月夜は、スリッパに履き替えたから、静かに歩くのは難しい。なるべく音を立てないように扉を閉めたが、すでに相手に気づかれている可能性もある。
誰もいないカウンターを通り過ぎて、左手に進む。書棚はそんなに高くないから、相手がどこにいるのか、すぐに分かった。
人影が見える。
その人物は、しゃがみ込んで、低い位置にある本を手に取って読んでいる。懐中電灯は膝の上に置かれているみたいで、だから、不安定で、光が揺れているようだった。
月夜は、真っ直ぐ進んで、その人物の前に立つ。
近くで見て、それが少年であることが分かった。
彼はゆっくりと顔を上げ、彼女を見る。
少年は笑った。
「君が、夜の万人?」
月夜は首を傾げる。
「夜の、万人、とは?」
「噂で聞いたんだ」彼は立ち上がった。「こんなに遅くまで、学校に残っていたら駄目だよ、月夜」
月夜は、自分の名前を呼ばれたから、驚いた。
「君は、誰?」
「僕?」少年は両手を広げる。「見て、分からない?」
月夜は彼の姿を観察する。髪は程良い長さで、長すぎず、また短すぎもしなかった。黒いデニム生地のズボンに、黒いパーカーを身につけている。
「……囀?」
月夜がそう言うと、少年は薄く微笑んだ。
「正解」
彼は、その場で一回転し、正面に向き直って、深くお辞儀をする。
「どうぞ、よろしく」
「うん……」
「あれ、なんか、想像していたほど驚かないね」囀は月夜に顔を近づける。「君、ちゃんと、目、付いているよね?」
「どうして、こんな時間に、学校に来たの?」
「それ、僕も訊かなかったっけ?」
「訊いたかも」
「じゃあ、まず、月夜から教えてよ」そう言って、囀は再びその場にしゃがみ込む。「僕は、君の話が聞きたい」
「私は、なんとなく、夜の学校が好きだから」
「へえ、そうなの?」
「囀は、どうして?」
「うん、ちょっと、忘れ物をしたから」
「何を忘れたの?」月夜も、囀の傍にしゃがんだ。スカートが少し広がったが、気にしなかった。
「うん、あのね、本を借りようと思っていたんだけど、それを忘れたんだ」囀は月夜の足もとに目を向ける。それから、スカートを指でさして、直すように示した。「僕、夜は読書に時間を当てているんだけど、そのために、毎日、学校で本を借りるんだ。でもね、転校初日で色々と考え事をしていたのか、そんな肝心なことを忘れて、家に帰っちゃったんだ。だから、もう一回ここまで来て、読みたい本を探していた」
「そっか」
「そうだよ。どう? 納得した?」
「した」
「端的な回答だね、月夜」
「端的の意味が分からない」
囀は笑った。
囀には、どうやら、二つの人格があるようだ、と月夜は思った。いや、人格というのはおかしいかもしれない。意識、といった方が近いか。そして、人間は、普通、二つ以上の意識を備えているものだから、囀の場合だけそこにフォーカスするのも、やはりおかしいと感じた。
ただ……。
囀は、その二つの意識を、顕著な形で区別しているようだ。具体的には、服装の違いでそれを示す。日中、月夜は、囀の一方の姿を認識していた。そして、夜になったから、囀は趣向を百八十度転換した。そんな二面性を兼ね備える特異な存在と、初日から親しくなれたのは、もしかすると、運命かもしれない、という気がしないわけではない。けれど、運命などというものはない。少なくとも、月夜は信じていない。
囀には、表と裏がある。いや、それら二つが、明確に区別されている。
月夜は、そんな囀が、より一層好きになった。
この感情は、確かだった。
夜の学校より、囀の方が好きだ、と感じた。
それは、束の間だとしても、素敵な感情に思えた。
また、綺麗な感情にも思えた。
いや、そう思いたかったのか……。
「月夜、そんな所にしゃがんで、何をしているのかな?」囀が顔を上げて、彼女を見た。
「囀が、本を探し終えるのを、待っている」
「どうして?」
「一緒に帰ろうかな、と思ったから」
「君さ、僕が好きでしょう?」
「うん。でも、どうして?」
「分かるんだ、そういうの」彼はウインクする。「勘なんだけど、これが、なかなか当たる」
「もう、帰る?」
「でも、君には、ほかに愛している人がいるね。それは誰?」
「それは、秘密」
「なるほど。だから、少し困っているわけだ」
「困る? どうして?」
「あれ、困っていない?」
「特には」
「へえ……。なかなか、フレキシブルだね」囀は頷く。「でも、一般的には、一人を好きにならないと、いけないらしいよ」
「なぜ?」
「さあ、知らない。そういう文化というか、風習なんだ、この国では」
「不思議だね」
「うん、まったく」
本を一冊持って、囀は立ち上がった。小説ではない。図鑑のようだ。
「それを、読むの?」月夜は尋ねる。
「そう」彼は言った。「説明文を読んでいるだけで、面白い」
「何の図鑑?」
「小人」
「小人?」
囀は月夜に本の表紙を見せる。『世界の小人名鑑』と書かれていた。
「たしかに、面白そう」
「君も読む?」
「囀が、返したあとで、借りに来る」
「三日くらいで読めるかな」
二人で図書室を出た。
「そういえば、どうやって、この部屋に入ったの?」階段を上りながら、月夜は彼に質問した。
「鍵を借りたんだよ」
「どうやって?」
「借りたというよりは、持ち出した、の方が正しいかな」
「勝手に?」
「そう」
「なるほど」
「僕を咎めないの、月夜」
「どうして、咎めるの?」
「いけないことをしたんだよ。友人なら、注意するのが普通じゃない?」
「いけないことをしても、許容するのが、友人だと思う」
昇降口に来て、上履きから外履きに履き替える。石造りの階段を下りて、裏門から学校の敷地の外に出た。すぐ傍に線路がある。
朝来たのとは逆に道を進み、駅がある方へ向かっていった。月夜が、自分の腕時計で時刻を確認すると、もう日付けが変わっていた。まだ電車はあるが、高校生は、この時間には出歩いてはいけない。補導の対象になる。
「月夜は、いつもこんな感じなの?」
「そう」月夜は頷いた。「囀は、本を読むのが、好きなの?」
「まあ、好きといえば、好きかな。でも、特別好きじゃないよ。月夜は?」
「特別ではないけど、好き」
「じゃあ、僕と同じだ」
駅の光が見える。近未来的な階段を上り、定期券をタッチして改札を抜ける。人の数は疎らだった。それでも、誰もいないわけではない。夜は人間の活動時間ではない、と定められているわけではないのに、多くの人間が、昼に活動し、夜は休養に当てる。そんな行動心理が月夜は不思議だった。夜の方が、素晴らしいではないか、というのが彼女の率直な体感で、こんな素晴らしい時間を、瞼を閉じて過ごす人々が、月夜には理解できない。
エスカレーターで下に移動し、ホームで電車が来るのを待った。彼らがここにいることを、不思議に思う人はいない。いるかもしれないが、皆見て見ぬふりをする。あるいは、興味のない対象は、視界から自動的に除外するようにしている。
「月夜、驚いた?」
立っていると、突然囀が訊いてきた。
月夜は彼に顔を向ける。
「何が?」
「僕の、この格好」
「少し」
「どうしてって訊かないんだね」
「訊いた方がよかった?」
「うーん、それもありかな。そういうのって、訊かれると、嬉しいものだし」囀は目を細める。「あまりね、気にされすぎるのもよくないけど、うん、君みたいに、適度な距離感で触れられるのは、全然構わない、と思う」
「じゃあ、どうして、そんな格好をしているの?」
「これが、僕のデフォルトだからだよ」囀は話す。「似合っているでしょう?」
「うん、凄く」
「いつもと、どっちの方がいい?」
「いつも、が、まだ、私には分からない」
「そっか。じゃあ、もう少ししたら、同じ質問をしよう」
「ねえ、囀」
「何?」
「手、繋いでもいい?」
囀は月夜を見る。
彼は、そのとき、初めて月夜の瞳を真っ直ぐ見つめた。
月夜は、そのとき、初めて彼に瞳を真っ直ぐ見つめられた。
「何か、寂しいことがあるの?」
目を逸らさず、囀は尋ねる。
「寂しいとは、感じないけど、なんとなく」
「分かった。いいよ」
腕を伸ばして、月夜は囀の手を握る。
適度に温かかった。
しかし、冷たいような気もする。
不思議だ。
まるで、風邪を引いているような感じがする。
熱が出ていて、とても熱いのに、同時に寒気もする。
そんな感じだった。
「手、冷たいね、月夜」囀は話す。「血液が足りていないんじゃない?」
「そうかも」
「分けてあげようか、僕のを」
「今はいらない」
「じゃあ、明日あげよう」
「明日も、いらない」
「吸血鬼だったら、素敵だよね、月夜が」
「月夜、だから?」
「そうそう」囀は笑う。「うーん、なんか、いい感じだ」
アナウンスが響き、電車がホームに入ってきた。ここには、ホームドアは設置されていない。
降りる人はいなかった。席も空いていた。
月夜と、囀は、並んで座った。
電車が走り出す。
暫くの間、二人は無言。
アナウンスだけが、自然音のように振る舞う。
月夜は、手を持ち上げて、自分の掌と、囀の掌が、上手く結合している様を観察した。
「手を繋ぐのが、そんなに珍しい?」
月夜は顔を上げる。
「うん、少し」
「繋いだこと、ない?」
「ある、少し」
「どう?」
「どうって?」
「その人と、僕の手は、違う?」
「違う、少し」
「もう、離したくないでしょう?」囀は月夜に顔を近づける。「いいよ、離さなくても。ずっと、このまま一緒にいよう」
「魅力的だけど、断る」
「うん、ストレートで、しかも、正しい回答」
「ごめんね」
「いいよ、謝らなくて」
いくつか駅を通過して、囀は月夜より先に電車を降りた。別れ際に、彼はなぜかピースサインを月夜に向けてきたが、彼女にはその意味が分からなかったので、応じなかった。
電車に乗り続け、間もなく月夜も下車する。改札を抜けて、駅舎を出ると、静かな街並みが目前に広がっていた。自動車の走行音が時折聞こえるだけで、人の気配、また動物の存在は、どこにも感じられない。
空で星が輝いていた。オリオン座が見える。月は今日は見えなかった。
駅舎から見て左右に別れる道を、月夜は左に向かって歩き出す。この一帯には、どういうわけか街灯が立っていない。だから、道は真っ暗だ。どこかに黒猫が隠れていても、きっと見つからない。
だが、月夜は、彼がいるのに気づいた。
彼女の知り合いの、黒猫のフィルが、道路の隅に行儀よく座ったまま、じっとこちらを見つめていた。
傍に近づいて、月夜は彼を抱き上げる。
「ただいま」月夜は言った。「ずっと、待っていたの?」
黄色い瞳をくりくりと動かして、フィルは答える。
「ずっとではないな。暫く、といえばいいか」
「なるほど」
「今日は、いつもより早かったな。何かあったのか?」
「何かは、あった」
「詳しく聞きたいところだが、寒いから、さっさと帰ろう」
「うん」
月夜の肩に乗ったまま、フィルは自分の脚を舐める。彼は、歳の割には、身体は小さい。尻尾は適度に長く、今は先は丸まっていた。揺れていないところを見ると、それほど機嫌が良いわけではないらしい。
「今日は、誰かに会っていたみたいだな」フィルが言った。
「どうして、分かるの?」
「いつもと、違う匂いがする」
「どんな匂い?」
「分からない」フィルは答える。「ただ、お前の匂いでないことは、分かる」
「匂いで、人を判断しているの?」
「見た目で判断するよりは、悪くないだろう?」
「そうかも」
「学校で、そいつと一緒にいたのか?」
「うん、そう」
「何をしていた?」
「どうして、そんなに気になるの?」
「なんとなくな。別に、興味があるわけじゃないさ」
「フィルが、今、一番興味があるのは、どんなこと?」
「月夜に見つからないように、新しいガールフレンドを作ることか」
「それは、君の自由だから、私には関係ない」
自宅に到着し、鍵を解錠してドアを開ける。閉めきっていたから、室内の空気は淀んでいる。洗面所で手を洗い、嗽をして、リビングに移動。リュックをソファに下ろし、カーテンを開け、シャッターを持ち上げて、外の空気を室内に取り込んだ。寒いが、暖房の人工的な空気に晒されるよりは良い。月夜がソファに座ると、彼女の膝にフィルが飛び乗ってきた。
「風呂に、入ろう」
月夜は、フィルを見る。
「私と、一緒に、入りたいの?」
「一人じゃ入れないんだ。察してくれ」
「了解。察する」彼女は頷く。「でも、その前に、日記を書く」
「どうぞ、お好きに」
リュックからノートを取り出して、月夜はそれを開く。シャープペンシルを持ち、今日経験したことをそこに記した。
リビングの照明は灯っていない。
真っ暗だが、何も見えないわけではなかった。
フィルの瞳は、暗闇を照らすほど強い光を放っていない。
「月夜、外に出るときは、コートを着よう」
月夜がノートを自分の膝に置いたから、フィルは今は床にいる。
彼の方を見ないで、月夜は尋ねた。
「どうして?」
フィルは、前脚を伸ばして、月夜の膝に触れ、体勢を維持し、彼女の手もとを覗き込む。
「寒いと、風邪を引くからに決まっているじゃないか」
「残念ながら、コートを持っていない」
「じゃあ、買いに行こう」
「どこに?」
「どこでも」彼は話す。「今の季節なら、どんな店でも売っているさ」
「何色が、似合うかな?」
「さあ、白とかじゃないか」
「白、とか、というのは、ほかに、どんな候補があることを示しているの?」
「ベージュや、黒」
「どちらも、似合わないと思う」
「何を着ても、似合うと思うがな、月夜は」
「うん……」
「集中しているな」
「何に?」
「日記の執筆に」
「集中は、していない」
「では、今は、何に集中しているんだ?」
「何にも、集中は、していない」
「嘘だな」
「どうして?」
「新参者に、集中しようとしているだろう?」
月夜は顔を上げる。
「新参者?」
「今日、新しく会ったやつがいるんじゃないのか?」
「さっき言っていた、違う匂いがする人?」
「そうだ」
月夜は、数秒間黙ってフィルを見つめた。
それから、顔を下に戻しつつ、頷いた。
「そうかも、しれない」
「やっぱり」
「やっぱり、とは?」
「ある程度、予想していたんだ」
「何を?」
「そろそろ、目移りするんじゃないか、と」
「うん、ちょっと、言い方が、どうか、と思う」
「しかし、言っている内容は同じだろう?」
「さあ、どうだろう……」
日記を書き終え、キッチンに入って、機器を操作して湯を沸かす。冷蔵庫を開け、買っておいたお茶を取り出し、コップに注いで飲んだ。相変わらず喉は渇いていないし、お腹も空いていない。
リビングに戻ると、フィルがいなかった。
「フィル?」
月夜は声をかける。
見ると、硝子戸が開いていた。その向こうに、猫のシルエットが見える。
戸を開けた先は、ウッドデッキになっており、その柵の上に、フィルはちょこんと座っていた。
「どうしたの?」月夜は彼に尋ねる。彼の横に並び、頭を撫でた。「もう少ししたら、お風呂に入るよ」
「静かだ」
月夜は右手にある山を見る。
「うん、それは、いつもそうだよ」
「星が、綺麗だ」
「うん、それも、いつもそう」
フィルは月夜を見る。
「いつもではないだろう」
「うん、そうかな」
風が吹いた。
「これから、何が起きるんだろうな」フィルが言った。「地球は、どうなってしまうのか」
「……どういう意味?」
「何百億年か先の未来を、心配しているんだ」
「まだ、そんなに生きるつもりなの?」
「俺はもう死んでいるよ。そうではなく、ほかの種の心配をしている」
「フィルが、そんなことをする必要は、ない」
「それは、俺が決めることだ」
「そっか」
周辺にある家々の窓に、もう明かりは灯っていない。皆、眠っている。それぞれの人間には、それぞれの生活があり、そして、それぞれの人生がある。普段あまり意識しないことだが、窓の明かりの数だけ、家族が存在する。明かりだけ灯ることはない。
自分は、誰かと家族を作るだろうか、と月夜は考える。
そんな価値はないと思った。
価値がないというのは、自分に、家族を作るだけの存在意義がない、という意味ではない。そんな単純な話なら良いが、そうではなく、そもそも、家族というふうに、人の集まりを括る意味があるのかといった、根底を疑う思考といえる。
フィルは、自分の家族ではない、と月夜は思う。彼は、あくまで知り合いだ。それは、きっと囀も同じだろう。月夜には、友人と呼べる者がいない。いや、いるといえばいるが、いないといえばいない。そんな、曖昧な関係ばかりだ。
あと一年もすれば、高校を卒業して、新たな進路を歩むことになる。おそらく進学するだろうが、ほかの道もないわけではない。今まで基本路線に沿って生きてきたから、今後も、その方針に則るのが一番手っ取り早いだろう、と考えただけだ。その選択に拘っているわけではない。生きてさえいれば、あとは何でも良い、と月夜は思う。
本当は、明日死んでしまっても良かった。
一人で死ぬのは少し寂しいが、死んだら、そんな寂しさもどこかへと消える。
「お風呂に、入ろう」
月夜は、フィルを抱えて言った。
「ああ、そうだな」フィルは応える。
室内に戻り、硝子戸を閉めて、二人で浴室に向かった。服を脱ぎ、シャワーを浴びる。その間、フィルは一人で湯に浸かっていた。
「湯気が凄いな、月夜」水に浮かびながら、フィルが天井を見て言った。「まるで、揚げ物をしているみたいだ」
「揚げ物のときは、湯気ではなく、煙」
月夜は応えたが、シャワーの音で声は掻き消される。
「え、なんだって?」
「揚げ物は、美味しい」
しかし、なぜか、その言葉は伝わった。
「お前が、そんなことを言うはずがないね」
月夜は、シャワーを止め、フィルを持ち上げる。
「都合の良いことばかり、言わないで」
フィルは笑った。
「それは、こちらの台詞だ」
当たり前だが、すでに生徒の姿はない。しかし、月夜は教室に残って、勉強をしていた。今日は本を持ってきていないから、必然的に勉強をするしかない。勉強といっても、試験のための勉強で、自分の能力を上げるのが目的ではなかった。そんなことには、彼女は魅力を感じない。そもそも、自分という人間に、魅力があるのかも疑わしい。そんなものは、むしろない方が安全だ。他人から相手にされない方が、ストレスも溜まりにくい。もっとも、そんなことでストレスが溜まるとも思えないが……。
窓の外は寒そうだった。もう雪は降っていないが、校庭に少し残っている。
前方を見る。真っ黒な黒板があった。真っ黒な、と断るということは、黒くない黒板もあるということか。
月夜はシャープペンシルを机に置いて、軽く伸びをした。彼女は、今日、一度も食事をとっていない。別に、お腹は空かなかった。水筒にお茶を入れて持ってきたから、それは少し飲んだが、それも、喉が渇いたと感じたからではなかった。タイミングを見計らって、そろそろ水分補給をしておいた方が良いかな、と考えて実行したにすぎない。
椅子から立ち上がり、身体を左右に倒す。
掌が天井を向く。
そのとき、窓の向こう側で、何かが光った気がした。
彼女はそちらに近づき、眼下の校庭を見下ろす。
誰かがいた。
懐中電灯を持っているようだ。
光は一瞬この教室を照らし、すぐに別の方を向いた。その人物は、月夜の存在には気づいていないようだ。
懐中電灯の明かりは、校舎の中へと消えていった。
こんなことは初めてだった。月夜は、ほとんど毎日夜まで学校に残るが、見知らぬ誰かと遭遇したことは一度もない。教師も全員帰るし、宿直という文化はこの学校にはない。しかし、どういうわけか、裏門は必ず開いていた。だから、学校から帰るときは、彼女はそこから外に出る。誰かが意図的に鍵を外しているのか、また、誰がその門を管理しているのか、彼女は知らなかった。
教室から出て、先ほどの人物に会ってみよう、と月夜は思った。会ってみるというよりは、そっと観察してみる、といった方がニュアンスとしては近い。見知らぬ人間には、こんな夜中でなくても、会わない方が無難だ。突然殺されるかもしれない。
しかし、月夜は、殺されても構わない、とも感じていた。
薄暗い廊下を歩く。リノリウムの床と上履きが接触する。プラスチック製の鉛筆キャップが落ちていて、彼女はそれを蹴ってしまった。キャップは、ちゃちな音を立てながら、暗い廊下を転がっていく。壁に何度か当たり、弾かれて、床の上をバウンドした。動きが完全に静止したところで、彼女はそれを拾い、ブレザーのポケットに仕舞う。誰のものか分からないから、明日の朝、教室の教壇に置いておこう、と思った。
校舎に入るには、昇降口を通るしかない。職員玄関は、この時間は閉まっている。廊下の角を曲がって、階段を下りれば、昇降口はすぐだ。
しかし、昇降口に辿り着いても、誰もいなかった。
すでにここを通過してしまったのかもしれない。となると、もうどこにいるか分からない。校舎はそれほど広くないが、隠れようと思えば、どこにでも隠れられる。けれど、相手は自分以外には誰もいないと思っているだろうから、特に隠れる意味はない。
昇降口に立ち尽くし、どうしようか、と月夜は考える。
すぐ傍に自習室があるが、今は鍵がかかっていて開かない。この時間帯でも、鍵が開いている部屋、つまり、もともと鍵が存在しない部屋は限られる。あの人物が何をしにここへ来たのか分からないが、学校には部屋と廊下しかないから、部屋にいるか、廊下を歩いているかの二つの可能性しか考えられない。前者なら、その部屋に用がある、後者なら、ただ探索しに来た、と考えるのが妥当だろう。
情報が不足していて、これ以上は考えられそうにない。
月夜は、とりあえず、階段を下りて、一階に移動した。
目の前に、再び自習室。
その右手に食堂。食堂にも鍵がかかっている。
廊下を進む。
食堂の向かいには、図書室がある。
月夜は、その前で立ち止まった。
鍵が開いている。
普通なら、図書室の鍵は、司書が帰宅するタイミングでかけられる。
つまり、司書がかけ忘れたか、そうでなければ、今開けられたかの二つの場合しか考えられない。
そして……。
月夜は、きっと、今開けられたのだろう、と思った。
根拠はない。純粋に、そんな予感がした。
長い把手がついた両開きの扉をこちらに引き、彼女は図書室に足を踏み入れる。そこに下駄箱があり、スリッパがいくつも並んでいた。月夜は上履きを脱ぎ、スリッパに履き替える。その先に、もう一枚の扉。しかし、そこにも鍵はかかっておらず、これで、司書がかけ忘れた可能性は一気に低くなった。
二つ目の扉を開けて、月夜は中に入る。
真っ暗だった。
けれど……。
天井に、懐中電灯の明かりが踊っているのが、瞬時に分かった。
あの人物はここにいる。
図書室の中央には、大きなテーブルがいくつか並べられており、そこは、集団で学習できるスペースになっている。その右手には個室のブースが存在する。それらのスペースを挟んで、書棚は左右に設置されているが、懐中電灯の明かりは、左側の天井に反射していた。足音は聞こえない。月夜は、スリッパに履き替えたから、静かに歩くのは難しい。なるべく音を立てないように扉を閉めたが、すでに相手に気づかれている可能性もある。
誰もいないカウンターを通り過ぎて、左手に進む。書棚はそんなに高くないから、相手がどこにいるのか、すぐに分かった。
人影が見える。
その人物は、しゃがみ込んで、低い位置にある本を手に取って読んでいる。懐中電灯は膝の上に置かれているみたいで、だから、不安定で、光が揺れているようだった。
月夜は、真っ直ぐ進んで、その人物の前に立つ。
近くで見て、それが少年であることが分かった。
彼はゆっくりと顔を上げ、彼女を見る。
少年は笑った。
「君が、夜の万人?」
月夜は首を傾げる。
「夜の、万人、とは?」
「噂で聞いたんだ」彼は立ち上がった。「こんなに遅くまで、学校に残っていたら駄目だよ、月夜」
月夜は、自分の名前を呼ばれたから、驚いた。
「君は、誰?」
「僕?」少年は両手を広げる。「見て、分からない?」
月夜は彼の姿を観察する。髪は程良い長さで、長すぎず、また短すぎもしなかった。黒いデニム生地のズボンに、黒いパーカーを身につけている。
「……囀?」
月夜がそう言うと、少年は薄く微笑んだ。
「正解」
彼は、その場で一回転し、正面に向き直って、深くお辞儀をする。
「どうぞ、よろしく」
「うん……」
「あれ、なんか、想像していたほど驚かないね」囀は月夜に顔を近づける。「君、ちゃんと、目、付いているよね?」
「どうして、こんな時間に、学校に来たの?」
「それ、僕も訊かなかったっけ?」
「訊いたかも」
「じゃあ、まず、月夜から教えてよ」そう言って、囀は再びその場にしゃがみ込む。「僕は、君の話が聞きたい」
「私は、なんとなく、夜の学校が好きだから」
「へえ、そうなの?」
「囀は、どうして?」
「うん、ちょっと、忘れ物をしたから」
「何を忘れたの?」月夜も、囀の傍にしゃがんだ。スカートが少し広がったが、気にしなかった。
「うん、あのね、本を借りようと思っていたんだけど、それを忘れたんだ」囀は月夜の足もとに目を向ける。それから、スカートを指でさして、直すように示した。「僕、夜は読書に時間を当てているんだけど、そのために、毎日、学校で本を借りるんだ。でもね、転校初日で色々と考え事をしていたのか、そんな肝心なことを忘れて、家に帰っちゃったんだ。だから、もう一回ここまで来て、読みたい本を探していた」
「そっか」
「そうだよ。どう? 納得した?」
「した」
「端的な回答だね、月夜」
「端的の意味が分からない」
囀は笑った。
囀には、どうやら、二つの人格があるようだ、と月夜は思った。いや、人格というのはおかしいかもしれない。意識、といった方が近いか。そして、人間は、普通、二つ以上の意識を備えているものだから、囀の場合だけそこにフォーカスするのも、やはりおかしいと感じた。
ただ……。
囀は、その二つの意識を、顕著な形で区別しているようだ。具体的には、服装の違いでそれを示す。日中、月夜は、囀の一方の姿を認識していた。そして、夜になったから、囀は趣向を百八十度転換した。そんな二面性を兼ね備える特異な存在と、初日から親しくなれたのは、もしかすると、運命かもしれない、という気がしないわけではない。けれど、運命などというものはない。少なくとも、月夜は信じていない。
囀には、表と裏がある。いや、それら二つが、明確に区別されている。
月夜は、そんな囀が、より一層好きになった。
この感情は、確かだった。
夜の学校より、囀の方が好きだ、と感じた。
それは、束の間だとしても、素敵な感情に思えた。
また、綺麗な感情にも思えた。
いや、そう思いたかったのか……。
「月夜、そんな所にしゃがんで、何をしているのかな?」囀が顔を上げて、彼女を見た。
「囀が、本を探し終えるのを、待っている」
「どうして?」
「一緒に帰ろうかな、と思ったから」
「君さ、僕が好きでしょう?」
「うん。でも、どうして?」
「分かるんだ、そういうの」彼はウインクする。「勘なんだけど、これが、なかなか当たる」
「もう、帰る?」
「でも、君には、ほかに愛している人がいるね。それは誰?」
「それは、秘密」
「なるほど。だから、少し困っているわけだ」
「困る? どうして?」
「あれ、困っていない?」
「特には」
「へえ……。なかなか、フレキシブルだね」囀は頷く。「でも、一般的には、一人を好きにならないと、いけないらしいよ」
「なぜ?」
「さあ、知らない。そういう文化というか、風習なんだ、この国では」
「不思議だね」
「うん、まったく」
本を一冊持って、囀は立ち上がった。小説ではない。図鑑のようだ。
「それを、読むの?」月夜は尋ねる。
「そう」彼は言った。「説明文を読んでいるだけで、面白い」
「何の図鑑?」
「小人」
「小人?」
囀は月夜に本の表紙を見せる。『世界の小人名鑑』と書かれていた。
「たしかに、面白そう」
「君も読む?」
「囀が、返したあとで、借りに来る」
「三日くらいで読めるかな」
二人で図書室を出た。
「そういえば、どうやって、この部屋に入ったの?」階段を上りながら、月夜は彼に質問した。
「鍵を借りたんだよ」
「どうやって?」
「借りたというよりは、持ち出した、の方が正しいかな」
「勝手に?」
「そう」
「なるほど」
「僕を咎めないの、月夜」
「どうして、咎めるの?」
「いけないことをしたんだよ。友人なら、注意するのが普通じゃない?」
「いけないことをしても、許容するのが、友人だと思う」
昇降口に来て、上履きから外履きに履き替える。石造りの階段を下りて、裏門から学校の敷地の外に出た。すぐ傍に線路がある。
朝来たのとは逆に道を進み、駅がある方へ向かっていった。月夜が、自分の腕時計で時刻を確認すると、もう日付けが変わっていた。まだ電車はあるが、高校生は、この時間には出歩いてはいけない。補導の対象になる。
「月夜は、いつもこんな感じなの?」
「そう」月夜は頷いた。「囀は、本を読むのが、好きなの?」
「まあ、好きといえば、好きかな。でも、特別好きじゃないよ。月夜は?」
「特別ではないけど、好き」
「じゃあ、僕と同じだ」
駅の光が見える。近未来的な階段を上り、定期券をタッチして改札を抜ける。人の数は疎らだった。それでも、誰もいないわけではない。夜は人間の活動時間ではない、と定められているわけではないのに、多くの人間が、昼に活動し、夜は休養に当てる。そんな行動心理が月夜は不思議だった。夜の方が、素晴らしいではないか、というのが彼女の率直な体感で、こんな素晴らしい時間を、瞼を閉じて過ごす人々が、月夜には理解できない。
エスカレーターで下に移動し、ホームで電車が来るのを待った。彼らがここにいることを、不思議に思う人はいない。いるかもしれないが、皆見て見ぬふりをする。あるいは、興味のない対象は、視界から自動的に除外するようにしている。
「月夜、驚いた?」
立っていると、突然囀が訊いてきた。
月夜は彼に顔を向ける。
「何が?」
「僕の、この格好」
「少し」
「どうしてって訊かないんだね」
「訊いた方がよかった?」
「うーん、それもありかな。そういうのって、訊かれると、嬉しいものだし」囀は目を細める。「あまりね、気にされすぎるのもよくないけど、うん、君みたいに、適度な距離感で触れられるのは、全然構わない、と思う」
「じゃあ、どうして、そんな格好をしているの?」
「これが、僕のデフォルトだからだよ」囀は話す。「似合っているでしょう?」
「うん、凄く」
「いつもと、どっちの方がいい?」
「いつも、が、まだ、私には分からない」
「そっか。じゃあ、もう少ししたら、同じ質問をしよう」
「ねえ、囀」
「何?」
「手、繋いでもいい?」
囀は月夜を見る。
彼は、そのとき、初めて月夜の瞳を真っ直ぐ見つめた。
月夜は、そのとき、初めて彼に瞳を真っ直ぐ見つめられた。
「何か、寂しいことがあるの?」
目を逸らさず、囀は尋ねる。
「寂しいとは、感じないけど、なんとなく」
「分かった。いいよ」
腕を伸ばして、月夜は囀の手を握る。
適度に温かかった。
しかし、冷たいような気もする。
不思議だ。
まるで、風邪を引いているような感じがする。
熱が出ていて、とても熱いのに、同時に寒気もする。
そんな感じだった。
「手、冷たいね、月夜」囀は話す。「血液が足りていないんじゃない?」
「そうかも」
「分けてあげようか、僕のを」
「今はいらない」
「じゃあ、明日あげよう」
「明日も、いらない」
「吸血鬼だったら、素敵だよね、月夜が」
「月夜、だから?」
「そうそう」囀は笑う。「うーん、なんか、いい感じだ」
アナウンスが響き、電車がホームに入ってきた。ここには、ホームドアは設置されていない。
降りる人はいなかった。席も空いていた。
月夜と、囀は、並んで座った。
電車が走り出す。
暫くの間、二人は無言。
アナウンスだけが、自然音のように振る舞う。
月夜は、手を持ち上げて、自分の掌と、囀の掌が、上手く結合している様を観察した。
「手を繋ぐのが、そんなに珍しい?」
月夜は顔を上げる。
「うん、少し」
「繋いだこと、ない?」
「ある、少し」
「どう?」
「どうって?」
「その人と、僕の手は、違う?」
「違う、少し」
「もう、離したくないでしょう?」囀は月夜に顔を近づける。「いいよ、離さなくても。ずっと、このまま一緒にいよう」
「魅力的だけど、断る」
「うん、ストレートで、しかも、正しい回答」
「ごめんね」
「いいよ、謝らなくて」
いくつか駅を通過して、囀は月夜より先に電車を降りた。別れ際に、彼はなぜかピースサインを月夜に向けてきたが、彼女にはその意味が分からなかったので、応じなかった。
電車に乗り続け、間もなく月夜も下車する。改札を抜けて、駅舎を出ると、静かな街並みが目前に広がっていた。自動車の走行音が時折聞こえるだけで、人の気配、また動物の存在は、どこにも感じられない。
空で星が輝いていた。オリオン座が見える。月は今日は見えなかった。
駅舎から見て左右に別れる道を、月夜は左に向かって歩き出す。この一帯には、どういうわけか街灯が立っていない。だから、道は真っ暗だ。どこかに黒猫が隠れていても、きっと見つからない。
だが、月夜は、彼がいるのに気づいた。
彼女の知り合いの、黒猫のフィルが、道路の隅に行儀よく座ったまま、じっとこちらを見つめていた。
傍に近づいて、月夜は彼を抱き上げる。
「ただいま」月夜は言った。「ずっと、待っていたの?」
黄色い瞳をくりくりと動かして、フィルは答える。
「ずっとではないな。暫く、といえばいいか」
「なるほど」
「今日は、いつもより早かったな。何かあったのか?」
「何かは、あった」
「詳しく聞きたいところだが、寒いから、さっさと帰ろう」
「うん」
月夜の肩に乗ったまま、フィルは自分の脚を舐める。彼は、歳の割には、身体は小さい。尻尾は適度に長く、今は先は丸まっていた。揺れていないところを見ると、それほど機嫌が良いわけではないらしい。
「今日は、誰かに会っていたみたいだな」フィルが言った。
「どうして、分かるの?」
「いつもと、違う匂いがする」
「どんな匂い?」
「分からない」フィルは答える。「ただ、お前の匂いでないことは、分かる」
「匂いで、人を判断しているの?」
「見た目で判断するよりは、悪くないだろう?」
「そうかも」
「学校で、そいつと一緒にいたのか?」
「うん、そう」
「何をしていた?」
「どうして、そんなに気になるの?」
「なんとなくな。別に、興味があるわけじゃないさ」
「フィルが、今、一番興味があるのは、どんなこと?」
「月夜に見つからないように、新しいガールフレンドを作ることか」
「それは、君の自由だから、私には関係ない」
自宅に到着し、鍵を解錠してドアを開ける。閉めきっていたから、室内の空気は淀んでいる。洗面所で手を洗い、嗽をして、リビングに移動。リュックをソファに下ろし、カーテンを開け、シャッターを持ち上げて、外の空気を室内に取り込んだ。寒いが、暖房の人工的な空気に晒されるよりは良い。月夜がソファに座ると、彼女の膝にフィルが飛び乗ってきた。
「風呂に、入ろう」
月夜は、フィルを見る。
「私と、一緒に、入りたいの?」
「一人じゃ入れないんだ。察してくれ」
「了解。察する」彼女は頷く。「でも、その前に、日記を書く」
「どうぞ、お好きに」
リュックからノートを取り出して、月夜はそれを開く。シャープペンシルを持ち、今日経験したことをそこに記した。
リビングの照明は灯っていない。
真っ暗だが、何も見えないわけではなかった。
フィルの瞳は、暗闇を照らすほど強い光を放っていない。
「月夜、外に出るときは、コートを着よう」
月夜がノートを自分の膝に置いたから、フィルは今は床にいる。
彼の方を見ないで、月夜は尋ねた。
「どうして?」
フィルは、前脚を伸ばして、月夜の膝に触れ、体勢を維持し、彼女の手もとを覗き込む。
「寒いと、風邪を引くからに決まっているじゃないか」
「残念ながら、コートを持っていない」
「じゃあ、買いに行こう」
「どこに?」
「どこでも」彼は話す。「今の季節なら、どんな店でも売っているさ」
「何色が、似合うかな?」
「さあ、白とかじゃないか」
「白、とか、というのは、ほかに、どんな候補があることを示しているの?」
「ベージュや、黒」
「どちらも、似合わないと思う」
「何を着ても、似合うと思うがな、月夜は」
「うん……」
「集中しているな」
「何に?」
「日記の執筆に」
「集中は、していない」
「では、今は、何に集中しているんだ?」
「何にも、集中は、していない」
「嘘だな」
「どうして?」
「新参者に、集中しようとしているだろう?」
月夜は顔を上げる。
「新参者?」
「今日、新しく会ったやつがいるんじゃないのか?」
「さっき言っていた、違う匂いがする人?」
「そうだ」
月夜は、数秒間黙ってフィルを見つめた。
それから、顔を下に戻しつつ、頷いた。
「そうかも、しれない」
「やっぱり」
「やっぱり、とは?」
「ある程度、予想していたんだ」
「何を?」
「そろそろ、目移りするんじゃないか、と」
「うん、ちょっと、言い方が、どうか、と思う」
「しかし、言っている内容は同じだろう?」
「さあ、どうだろう……」
日記を書き終え、キッチンに入って、機器を操作して湯を沸かす。冷蔵庫を開け、買っておいたお茶を取り出し、コップに注いで飲んだ。相変わらず喉は渇いていないし、お腹も空いていない。
リビングに戻ると、フィルがいなかった。
「フィル?」
月夜は声をかける。
見ると、硝子戸が開いていた。その向こうに、猫のシルエットが見える。
戸を開けた先は、ウッドデッキになっており、その柵の上に、フィルはちょこんと座っていた。
「どうしたの?」月夜は彼に尋ねる。彼の横に並び、頭を撫でた。「もう少ししたら、お風呂に入るよ」
「静かだ」
月夜は右手にある山を見る。
「うん、それは、いつもそうだよ」
「星が、綺麗だ」
「うん、それも、いつもそう」
フィルは月夜を見る。
「いつもではないだろう」
「うん、そうかな」
風が吹いた。
「これから、何が起きるんだろうな」フィルが言った。「地球は、どうなってしまうのか」
「……どういう意味?」
「何百億年か先の未来を、心配しているんだ」
「まだ、そんなに生きるつもりなの?」
「俺はもう死んでいるよ。そうではなく、ほかの種の心配をしている」
「フィルが、そんなことをする必要は、ない」
「それは、俺が決めることだ」
「そっか」
周辺にある家々の窓に、もう明かりは灯っていない。皆、眠っている。それぞれの人間には、それぞれの生活があり、そして、それぞれの人生がある。普段あまり意識しないことだが、窓の明かりの数だけ、家族が存在する。明かりだけ灯ることはない。
自分は、誰かと家族を作るだろうか、と月夜は考える。
そんな価値はないと思った。
価値がないというのは、自分に、家族を作るだけの存在意義がない、という意味ではない。そんな単純な話なら良いが、そうではなく、そもそも、家族というふうに、人の集まりを括る意味があるのかといった、根底を疑う思考といえる。
フィルは、自分の家族ではない、と月夜は思う。彼は、あくまで知り合いだ。それは、きっと囀も同じだろう。月夜には、友人と呼べる者がいない。いや、いるといえばいるが、いないといえばいない。そんな、曖昧な関係ばかりだ。
あと一年もすれば、高校を卒業して、新たな進路を歩むことになる。おそらく進学するだろうが、ほかの道もないわけではない。今まで基本路線に沿って生きてきたから、今後も、その方針に則るのが一番手っ取り早いだろう、と考えただけだ。その選択に拘っているわけではない。生きてさえいれば、あとは何でも良い、と月夜は思う。
本当は、明日死んでしまっても良かった。
一人で死ぬのは少し寂しいが、死んだら、そんな寂しさもどこかへと消える。
「お風呂に、入ろう」
月夜は、フィルを抱えて言った。
「ああ、そうだな」フィルは応える。
室内に戻り、硝子戸を閉めて、二人で浴室に向かった。服を脱ぎ、シャワーを浴びる。その間、フィルは一人で湯に浸かっていた。
「湯気が凄いな、月夜」水に浮かびながら、フィルが天井を見て言った。「まるで、揚げ物をしているみたいだ」
「揚げ物のときは、湯気ではなく、煙」
月夜は応えたが、シャワーの音で声は掻き消される。
「え、なんだって?」
「揚げ物は、美味しい」
しかし、なぜか、その言葉は伝わった。
「お前が、そんなことを言うはずがないね」
月夜は、シャワーを止め、フィルを持ち上げる。
「都合の良いことばかり、言わないで」
フィルは笑った。
「それは、こちらの台詞だ」
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