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8.16年目のKiss、あなたが私を選ぶ理由
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しおりを挟むぎゅうっと痛いほど強く抱きしめられた後で、解放される。
「とりあえず、話の前に実家に連絡とか必要ならやっちゃって」
匡が先に靴を脱ぎ、すぐ脇の扉の中からグレーのスリッパを二組取り出した。一組は自分で履き、もう一組を私の足元に置く。
「お邪魔します」と言いながら靴を脱ぎ、スリッパに足を入れた。
「コーヒーでいいか?」
「うん」
匡の後に続いて、廊下を進む。
「冷たいのがいいな」
正面の、ドアが開いていて冷たい空気が漂ってくる部屋はリビングで、大きな窓には小雨が吹きつけられている。
「そっち、座って」
匡はソファを指さし、キッチンに進む。
私は言われた通りに布張りのソファに座り、スマホを取り出した。
実家の母親に電話をして、湊が退院したことと、親権を移してもらうことになったと話した。
母は喜び、空いている部屋を片付けておくと言ってくれた。
「あと、柚葉にもな」
「やっぱり、柚葉から聞いてきたの?」
「ああ」
柚葉には、メッセージを送った。
〈匡に会えたよ。ありがとう。帰ったら会いに行くね〉
『匡』が誰だかわかるだろうかと思ったのは、送信のマークをタップした後だった。
「終わった?」
匡がキッチンから香ばしい匂いを漂わせた真っ白な無地のカップを二つ持って来て、ガラスのテーブルに置いた。
「食いもん、なんもなくて」
「ううん。ありがと」
目の前のカップを手に取り、一口飲む。
やっと、という表現が適切かはわからないけれど、私はほうっとひと息ついて、肩の力を抜いた。
やはり、気が張っていたのだと思う。
昨夜の寝不足もあり、なんだか身体が重い。
私の正面に座った匡も、コーヒーを一口すする。
「千恵、少し休むか?」
「ううん」
今目を閉じると眠ってしまいそうだし、眠ったらきっとすぐには起きられない。
子供たちが戻る連絡を受けたら、できるだけ早く帰りたい。
「千恵、これ」
匡がテーブルにカードを置き、私の前に滑らせる。
「この部屋の鍵」
「え? でも――」
「――ホントに気にしなくていいから、使って。俺も安心できるし。頼むよ」
匡の上目遣い。
そうだ。
いつもは横に座りたがる匡が正面に座る時は、こうして私より低い位置から上目遣いで困った表情して私に頼みごとをした。
そのどれも大したことではないけれど、その表情に、私はひどく弱かった。
癖なのか、昔を思い出してわざとなのか。
どちらにしても、匡の申し出がありがたいことは確かだった。
「ありがとう」
私が素直に受け入れると、匡はほっとしたように口角を上げた。
「それと、札幌で子供たちを受け入れる準備とか、手伝えることがあったら言って」
「そこまでは――」
「――千恵。さっきも言ったけど、俺は千恵とやり直したい。今度こそ結婚を前提に」
真剣な表情に、私も背筋が伸びる。
ちゃんと話をしなければいけない。
これまでは茶化してきたけれど、再会してからのたった数週間で、匡の本気が痛いほどわかった。
昨日、あんなわけのわからない一方的な別れの電話をしたのに、追いかけてきてくれた。
元旦那に頭を下げてくれた。
子供たちにも誤魔化さずに話してくれた。
「匡、私ね――」
次は私の番だ。
「――離婚する時、子供たちに父親と暮らすって言われて辛かったの。母親、頑張ってきたのに捨てられたって」
「……うん」
「ひとりでお酒飲んで、でも気が晴れなくて、帰ろうとした時に子供の声が聞こえたの。『お母さん』って、湊の声にそっくりだった」
「うん」
匡は相槌を打って、私の言葉を待つ。
「それでよそ見して階段を落ちるとか、死んでも死にきれないよね」
「……」
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