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5.笑顔の奥、彼の傷
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しおりを挟むさっきまで目尻を下げて私に口づけ、驚くほど甘い声で名前を呼び、熱い指先で私の膣内を弄っていたとは思えないほど、低く冷静な声。怒りを孕んでいるように聞こえたのは、私の罪悪感からか。
「俺以外の男と幸せになってても、そうじゃなくても、会いたかった。幸せなら幸せで、俺が別れてやったおかげで幸せになれたんだって自分を納得させてたと思う。だけど、もし幸せじゃなかったら、俺にもチャンスが残ってるんじゃないかって期待してた」
私は、噛みつく形相で顔を上げ、前のめりになった。
「なによ、エラそうに! 匡じゃなくたって、私――」
「――俺は千恵じゃなきゃイヤだ!」
匡がギリッと奥歯を嚙んだのがわかった。そのまま唇を結んで、ふぅっと鼻から息を吐く。
私まで、吐く息が震える。
数秒、お互いに呼吸を整えた後で、匡が私の肩から手を離した。
それでも、視線は互いに向けられたまま。
「別に、ずっと忘れられなかったわけじゃない。いや、そうなんだけど」
どっちよ、と言いかけて飲み込む。
どうせ、ずっと忘れられなかったといわれても、信じられない。
「結亜のこと、俺なりに大事にしてたつもりだし、時々千恵のことを思い出して懐かしく思うことはあっても、全部捨てて会いに行こうなんて思わなかった。だけど――」
ハッと小さく息を吸って、ごくっと飲み込む。
「――離婚して、無性に千恵に会いたくなった」
「結婚……を否定したくて?」
「否定……なのかな。千恵と別れてからの十年は何だったんだって、思ったのは」
それはそうだろう。
私と別れただけでない。
決まっていた就職を蹴った。
自分で手に入れるはずの未来を、捨てた。
そうまでして選んだ道の先が崖だったのだ。
あの頃に戻れたらと思うのは、無理もない。
「一人暮らしを始めて、愕然としたよ。無意識に、千恵と暮らした部屋を再現してて」
本当に無意識なのだろうか。
たとえ、意識的だったとしても、十年も前に暮らした、当時の恋人好みの部屋を覚えてるだろうか。
私だって、この部屋を見て思い出したくらいだ。
「病院で千恵を見かけた時、何でもないことのように素通りなんてできなかった。昔の恋人を見かけた、なんて何でもないことのようには、どうしても思えなかった」
「匡……」
「欲しくて欲しくてたまんねーよ」
そう言うなり、匡の大きな手が私の背中に回り、少し乱暴に私を抱き寄せた。
抱きしめてくれて、良かった。
涙を見られずに済んだ。
嬉しかったのか、苦しかったのか、自分でも意味の分からない涙を、匡に見られなくて良かった。
私もまた彼の背中に腕を回したのは、涙を見られたくなかったから。
ほかに理由なんてない。
私は自分にそう言い聞かせた。
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