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第一部

第三十二話 母斑(5)

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「母斑《あざ》がある以外は。紛うことなく僕の妻ですよ」

 ヒュルゼンベックは腕を組んだ。

「でも、こんな短時間で母斑《あざ》が出来る訳ないじゃないですか」

 ルナは言った。

「どこかで打ちでもしたんでしょう。記憶を失ったんだ。そうに違いない」

 ズデンカは顔を顰めた。普通、打ち身は時間が経って赤から紫に変わるものだ。

――常識を知らん訳じゃあるまい。妻を軽んじているのだろうな。

「あなたとエルフリーデさんの馴れ初めは?」

 ルナが訊いた。

「何でそんなこと、初対面のあなたにお教えしなければいけないんですか?」

 ヒュルゼンベックは気分を害したようだった。

「いえね、もしあなたの奥さんのエルフリーデさんと、ここにいるエルフリーデさん、その二人が同一人物か全くの別人かどうか、お話をして頂ければ何かしらヒントが見つかるかも知れないじゃないですか」

「確かに。仰る通りではありますね」

 ヒュルゼンベックは頷いた。

「妻との出逢いはちょっと風変わりだったんです」

「へえ、ぜひ教えてください!」

 ルナが言った。

「知人の催した園遊会でのことでした。舞踏室の壁に縁《ふち》に柊の葉を彫られた大鏡が設置してあったんですよ。あまりに綺麗だったんで、つい目が釘付けになりました。と、いつの間にかその鏡に僕以外の誰か――女性が映り込んでいました。視線が合いました。それがエルフリーデを知った最初です」

 渋っていた割に、ヒュルゼンベックは生き生きと語っていた。

「へえ、それは面白い。怪奇現象ではないですか」

 ルナは楽しそうだった。

「とんでもない。単に僕が気を取られていただけでしょう。実際、エルフリーデには両親がいて、友人たちもいるんです。ちゃんと顔も合わせましたよ。知人とは幼い頃からの顔見知りだと言うではないですか。そんなところから意気投合して結婚に到ったわけですよ」

「なるほど、鏡越しに眼が合ったのが馴れ初めなだけで、それ以外は普通と」

 ルナは再び取り出した手帳に書き留めた。

 だがズデンカは知っている。羽ペンはインクではなく話の中に含まれた――相手が見知った幻想によって文字が記されるのだと。

 つまり、この話がなにか綺譚の匂いを秘めた、怪しげなものであることは間違いないのだ。

「そういうことです。もし、鏡の精とかだったとしたら、僕は妻を年中怪しんでいなきゃならなくなる」

 ヒュルゼンベックは笑った。

「で、エルフリーデさんの方はこの話心当たりあります?」

「全く。そもそもヒュルゼンベックなんてお名前は存じ上げません。わたくし、両親の顔も知らないで育ったんですわ。色々理由は付けたようですが、結局薄気味悪がって手放したのでしょう。今どうやって暮らしているかも知りません。母斑《あざ》のある子供は不吉という言い伝えもありますので。伯父夫婦に預けられましたわ。家庭教師を付けて、恥ずかしくない程度の教育は施してくれましたけれど、それでも皆わたくしの顔を見て影で笑っていたんですわ」

「うーむ、なるほど。じゃあ気になるのは鏡だ。エルフリーデさん、例のお屋敷を訪ねた経験は?」

「お屋敷なんて幾つも訪ねていますから、記憶にあるかどうか」

 エルフリーデは困惑した。

 「じゃあ、お話に出てきた知人の方のお名前を伝えてください」

 ヒュルゼンベックは若干嫌そうな顔になりつつもその名を告げてください。

「あ、その方のお邸なら一度伺ったことがありますわ」

 「どんな理由からです?」

 ルナは目を細めながら訊いた。
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