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化生の群編

要求

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 雛祈ひなぎの意識が強制シャットダウンしてから数分後、雛祈はアテナの診察を受けていた。アテナは医術神アスクレーピオスほどではないが、医療も権能の一部として持っている。目蓋の裏と口の中を観察し、手首の脈を取り、肌つやの状態を確認していく様は、さながらオフの日の美人女医にも見える光景だった。
「どうですか、アテナ様?」
「極度のストレスによる失神……ですね、おそらく。何がストレスの原因になったかは分かりかねますが、少し静養すれば問題はありません」
 ソファに座る雛祈の前にしゃがんでいたアテナは、診断結果を告げると反対側のソファへ戻っていった。自身がストレスの一端となったことまでは、まるで知る由もなく。
 当の雛祈はとりあえず意識は戻っているが、まだショックが響いているのか、ぼんやりとした目で天井を見つめている。そんな状態の雛祈を、横に立つ桜一郎おういちろう千冬ちふゆが心配そうに見守っていた。
 山の中で偶然見かけ、古屋敷に案内したはいいが、結城ゆうきは目の前で脱力している客に困惑し始めていた。様子を窺うに、どうも依頼をしに来たわけではないらしい。
 まだ高校生ほどの年頃で、黒服の男とメイドを連れているあたり、どこかのご令嬢ではないかと推察していた。実際、お付きの二人も『お嬢』や『お嬢様』と呼んでいるのを聞いている。
 古屋敷に依頼に来る者は、割と切羽詰った事情を抱えている場合が多く、結城も何となくそういった雰囲気を覚る能力が付いてきているのだが、雛祈からそういったものは感じ取れない。
 ウォーキングウェアにヘアバンドで髪を結い上げ、いかにも山登り対策の格好をして来る依頼人というのは、これまでで一度もなかったことだ。もっとも、依頼人が人間でない場合の方が圧倒的に多いのだが。
 しかし、古屋敷に用があるということらしいので遇することにした結城も、さすがに相手の挙動不審ぶりに戸惑いつつあった。
(依頼しに来たわけじゃないっぽいけど、なんか変な人だな)
 結城が辟易しながらそんなことを考えていると、ようやく持ち直したのか、雛祈はもたれかかっていたソファから上体を起こした。
「う~……」
「その~……大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫……心配いらないわ」
 そうは答えるものの、まだ頭に手を当てて唸る雛祈を見ていては、結城も心配になってくる。
「もし急ぎの用でないなら、また日を改めるってことにしてはどうでしょう? 何だか体調が優れなさそうですし。ここは一応電話も繋がってますから、山に登る前に連絡をいただければ僕が迎えに―――」
「そんなわけにいかないわっ!」
 相手の様子を慮ってそう提案した結城だったが、その申し出を払いのけるように雛祈は勢いよく立ち上がって叫んだ。直後に『あう~』と情けない声を上げてよろよろとソファに腰を落としてしまったが。
「お嬢、ここは一旦出直さないか?」
「ここまで来て何も言わずにおめおめと引き下がるなんて、祀凰寺家しおうじけの者としてみっともなさ過ぎるわ」
「だがお嬢。さっきの二人を相手にするならまだしも、あの金髪の女もとなると、自分や千冬が本気になっても足止めがせいぜい。正直、お嬢まで守りきれるか……」
「~~!」
 結城やアテナに聞こえないよう小声で話しつつ、雛祈は目の前にいる二人を見て歯噛みした。
 完全な計算外だった。桜一郎の言うように、五百年物の付喪神つくもがみと太古の精霊なら、戦力的にまだ釣り合った。そこへ海外とはいえ最強と謳われる戦女神まで加わっては、どうやっても現状の勝ち目はない。
(もしも本気で正面から戦おうとするなら……いえ、たとえ奇襲でもかけようとするなら、祀凰寺家の持てる全ての力を投入して……それでも足りないかもしれない。他家の力も借りた上で外部の霊能者も雇ってようやく……かも)
 さらにもう一つ、雛祈には計算外があった。それは古屋敷に住む霊能者―結城は霊能者ではないが―の人となりについて、完全に見誤っていたことだ。
 付喪神なら人格がどうであれ、持ち主に義理立てする場合もある。しかし、精霊や、ましてや神が、人格や精神に問題のある人間に組することなど、文字通り天地がひっくり返ってもありえない。目の前にいる間抜けた男、小林結城にこれだけのありうべからざる存在が共にあるということは、小林結城という人間は悪徳も邪心も持っていないという何よりの証左だった。
(こんな男が付喪神と精霊と女神の目にかなうほどの大人物だとでも言うの!? 徳の高い僧侶や高位の神官でさえ、必ずしも神霊の寵愛を受けられるわけではないというのに!? こいつ、聖人か何か!?)
 まだ震える視線を結城に向ける雛祈。当の結城はさっき雛祈が勢いよく立ち上がったために、驚いて目を丸くしている。視線を右に移動させれば、ソファの空いたスペースに座るアテナがいる。こちらも雛祈の様子に少し首を傾げている。
(ギリシャ神話に語られる戦女神アテナは、思慮深いが気まぐれで奔放な面があり、敵対した者にはたとえ兄弟だとしても容赦しない。ここであの男に敵対を宣言しようものなら、女神アテナも敵に回すことになる。下手をすれば、女神アテナに縁故のあるギリシャの神々まで敵に回し、日本列島がラグナロク級の戦場になることも……ど、どうしよう……)
「あなたたちは何用でここを訪れたのですか? そのように内緒話だけをしていては、遅々として話が進みません。特にあなたは体調が優れない様子。早々に要件を話して帰宅することを薦めます」
 雛祈が話し出すのを躊躇っていると、アテナ自身が助け舟を出す形で発言を促してきた。
「い、戦女神であらせられるアテナ様に弓を引くことになるやも知れませんが……」
「それは内容に依ります。まずは話を始めなさい。ついでに、そこまで畏まる必要もありません。あまり畏敬を込められ過ぎるのも好きではありませんので」
 アテナはそう言いながら胸の前で腕を組み、優雅に脚を組み替えながらソファに背を預けた。
 この場で戦闘に入ることはない、という保障が成されたと見た雛祈は、言葉を選びながら結城にこちらの訴えを伝えることにした。
「コ、コホン。では……改めて名乗らせてもらうわ。私は祀凰寺雛祈しおうじひなぎ。祀凰寺家の次期当主となる者よ」
「はぁ……」
 雛祈が自己紹介をしても、結城には祀凰寺の家名についてはピンと来ていないようだった。本来の状態の雛祈なら、そんな結城の反応にイラッときているところだが、今はそんな余裕はないので話を続けることにする。
「小林結城、あなたには祓い屋まがいの活動を金輪際やめてもらうわ」
「えっ? 祓い屋まがいって……僕らが依頼を受けてやってること……でしょうか?」
「おそらく。ハライヤというのはよく分かりませんが」
 要求の内容がうまく飲み込めなかったので、結城は思わず横に座るアテナに確認を取ってしまった。アテナも要求が不可解なのか、解せない面持ちをしている。
「僕らが依頼を受けたりするのって、やっちゃダメなことだったんですか?」
「この谷崎町たにさきちょうを含む一帯は、祀凰寺家が管理する土地。そこで素人が鬼怪妖霊きかいようれいの関わる仕事を勝手に請け負うなど言語道断。即刻、手を引きなさい」
「……」
 そこまで言い終わって、雛祈は眉根を寄せた。可能な限り丁寧に、且つ穏便に要求を伝えたつもりだったが、当の結城は今もって理解を示したような表情を浮かべていない。アテナにしても、薄目を開けて何か考え込んでいるので、雛祈の要求に納得した様子は見られない。
 もしも、これが当初の雛祈が予想したように、モグリの霊能者相手だったなら、要求を受け入れる頭もないと断じて実力行使に出ただろう。しかし、イレギュラーな存在の登場が相次ぎ、戦いの女神さえ現れたとあっては、迂闊に手を出すわけにはいかない。
(女神アテナは知恵の権能も持っている。こっちのマヌケ男ならいざ知らず、女神アテナが今の要求を理解できないということはない。正当性はこちらにある。なら納得するしかないはず―――)
 雛祈は先の展開を予想しつつ、状況の変化を見守っていたが、アテナが急に目を開いてソファから立ち上がったのを見て、
「ひっ!」
 と小さく悲鳴を上げた。それに合わせ、桜一郎と千冬も携えていた武器を構えようとする。どちらも心なしか冷や汗をかいていた。
「ユウキ、少し電話をしてきます」
「電話? 分かりました」
 結城にそれだけ告げると、アテナは廊下側のドアをくぐって部屋を出て行った。
 あまりに拍子抜けしたのか、雛祈はソファから腰を浮かしたままで、桜一郎と千冬は武器を構える途中で固まっていた。
「え~と……さっき言われたことですけど、もう少しだけ待っててもらえますか? それまでお茶菓子でもつまんでてください」
 おそらくアテナが立ち上がったことに驚いたと察したので、結城は雛祈にテーブルの上に置かれた陶製のボウルに入ったミニクッキーを薦めた。シロガネがティーセットを運んできた時に置いていった物だ。
 雛祈も驚いて飛び跳ねそうになったことを誤魔化すように咳払いを一つすると、無言でボウルの中のミニクッキーを一個摘んで口に放り込んだ。
 本当は食欲も何もあったものではないが、ここで少しでも余裕を見せていなければ格好悪すぎるので、できうる限り動じていない様を見せようとした―――時だった。
「~~~!」
 口内のミニクッキーを租借しようと噛んだ瞬間、雛祈の口内、鼻腔、気管に絶対零度の空気が広がった。厳密には温度的な感覚ではなく、そう思えるほどの清涼感で余すことなく満たされた。
「お嬢!? どうした!?」
「お、お嬢様! お、お気を確かに!」
 いきなりソファから立ち上がり、口を押さえて体をくねらせる雛祈に、桜一郎と千冬が心配して横に付く。
(ハ、ハッカ!? ハッカ味のキャンディーを噛んじゃった!?)
 雛祈がクッキーだと思って噛み砕いたのは、ハッカ味のドロップスだった。ボウルの中になぜか紛れていたらしい。それを口内で噛み砕いたせいで、口も鼻も気道も爽快すぎる清涼感に襲われてしまった。
「は、早くこのお茶を飲んで!」
 雛祈が苦悶している原因がミニクッキーにあると思った結城は、テーブルに置かれていたティーカップを取って雛祈に差し出した。
 少しでも強烈なミントの清涼感を洗い流せるならと、雛祈は一も二もなくカップを奪い取り、中身を一気に飲み干した。
(な、なんでクッキーの中にキャンディーが紛れ込んでるのよ!? ハッカ味は好きじゃないの―――に!?)
「~~~!」
 カップの中のお茶を飲み下した途端、今度は気管から火が立ち昇ってくる感覚に襲われ跳び上がる雛祈。着地した後は口元を押さえながら部屋中を駆け巡る。
 これにはさすがに結城、桜一郎、千冬の三人も呆気に取られ、雛祈の時折奇抜なダンスを盛り込んだ迷走を見ていることしかできなかった。
(い、一体何が……)
 目の前で続く珍事の数々に思考が追いていけない中、結城は何か固い物同士がぶつかる小さな音を聞いた。音の発生源に目をやると、テーブルの上に小さな小瓶が転がっていた。『超刺激! 必殺辛味ラー油』の瓶である。
 さらによく見ると、テーブルの上にあったクッキーの入ったボウルが、テーブルの下にゆっくりと引き込まれていく最中だった。
 そこで全てが繋がった結城は、一連の珍事を起こした犯人を名指しした。
媛寿えんじゅ!」
 急いでテーブルの下を覗くが、そこにはもう誰もない。代わりに結城のソファの方から、美味しそうにお茶を啜る音が聞こえてきた。
「やっぱり……」
 テーブルの下からソファに目を移すと、そこには結城の予想した通りの犯人がちょこんと座っていた。
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