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化生の群編
雛祈、驚愕
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古屋敷の使用人―――と思われる不可解な男の案内により、雛祈たちは山の中に佇む建築物に到着した。
「さっ、どうぞ」
先行していた男が格子細工が施された鉄門を開き、雛祈たちを招き入れた。
「大正時代に建てられたものだな。多少補修が加えられてるが」
「ふ~ん……」
桜一郎がそう見立てた古屋敷を、雛祈はひどく据わった目で見渡してみた。
格子で仕切られた敷地に入れば、小さいながらも芝が整備された庭が屋敷を囲むように設えられていた。鉄門からは一直線に石畳が敷かれ、玄関口までの道として存在感を示している。そこを歩いていけば、数メートルで屋敷の前へと辿り着く。
ぱっと見は色レンガを用いた洋館かと思えるが、ところどころに木造建築の様式や日本瓦を使用している部分が散見され、一概に西洋風とはいえない造りになっている。それが元からなのか、新しい主によって改築された後なのかは雛祈には判断できなかったが、桜一郎がその辺りには言及していないので、おそらく元からの形を留めているのだろう。
とはいえ、雛祈にとって古屋敷がいつ頃に建てられ、どういう建築様式なのかは、この際ほとんど重要ではない。一番の問題はここを根城にして、モグリで祓い屋の真似事をやってのけている不届き者の方である。
(さぁ、早く私の前に現れなさい、モグリのド素人! 会ったら言葉と実力行使で二度とふざけた真似ができないようにメッタメタに―――)
屋敷の玄関に行き着くまでの間、雛祈はこれまでの鬱憤を爆発させるべく気合を溜め込んでいた。たとえ相手がどれほど霊能者としての素質に優れていようと、祀凰寺家の跡取りと鬼神の子孫二人を前にしては勝ち目はない。弁舌で負けるつもりなど微塵もなく、もし力に訴えてきたなら、それ相応の報いを受けさせようと考えていた。雛祈の脳裏には、今からボコボコになって泣いて許しを乞う敵の姿が容易に浮かんでいた。
もうすぐ男の手が扉のノブにかかろうとしていた時、屋敷の扉が内側から開いた。
「あっ、結城。いま、帰った?」
内側に開いた扉の先に立っていたのは、上から下まで純白で統一したエプロンドレスを着る少女だった。
「ただいま、シロガネ」
「おかえり、なさい。ん、そっちは?」
男への挨拶もそこそこに、真白い少女は雛祈たちの存在に気が付いた。
「お客さん……だと思うから、居間に案内してお茶を用意してくれる? 僕は着替えてくるから」
「分かった」
男は少女とそういったやり取りをすると、すぐに雛祈たちに向き直った。
「すみません、僕はちょっとこの場を離れます。後はこのシロガネが案内しますので」
そう告げると、男は少女の横をするりと抜けて屋敷の中へ消えていった。雛祈にしても、一使用人にまでこれ以上用はなかったので、それを黙って見送った。
「では、お客さん。こっちへ、どうぞ」
残った真白い少女は、雛祈たちが入れるように充分に扉を開け、お辞儀をしながら屋敷の中へ入るように促した。それに従い、雛祈を先頭に桜一郎、千冬も続いて屋敷に足を踏み入れる。
三人が屋敷内に入ると、少女は恭しく扉を閉めて歩き出した。
「居間は、こっち」
少女が三人の横を通り過ぎる際、雛祈はその少女の横顔を見て眉をぴくりと動かした。
使用人然としているが、その少女が人間でないことを、雛祈にはすぐに判別できた。
(物に魂が宿った付喪神、か。何が化けたか知らないけど、人間の姿にまでなれるなんて、結構な年数が経ってるようね)
付喪神が人間そっくりの肉体を形成したとしても、それは見る者が見れば明確な違和感を持っている。造形があまりにも『綺麗すぎる』からだ。言うなれば、とても精巧に作られた人形を見ているような感覚を覚えてしまうのだ。シロガネと呼ばれた少女も、肌や髪の雪のような白さ、透き通った瞳などは引き込まれるほど美しく感じるが、どことなく計算されて形作られた印象を受ける。普通の人間ならば気のせいで済ましてしまうところだが、霊能者である雛祈には少女の正体は簡単に見破れた。
(付喪神まで侍らせているなんて! けどモグリのド素人が連れてる付喪神なんて大したことは―――!?)
雛祈はほんのちょっとした気まぐれで、前を歩く少女を霊視してみたが、それは思わず目を見開くほどの驚愕をもたらした。
雛祈の霊視は、単に人ならざる存在を視るだけに留まらず、対象の霊格あるいは神格を測る力も持っている。簡単に言えば、幽霊、妖怪、神が持っている強さを正確に測れるというものだ。特別珍しい力ではないが、誰でも持ちえるものでもなく、雛祈はこの力を活用して裏の仕事をスムーズに進められることもあった。
だからこそ、目の前にいる付喪神の少女を霊視して仰天した。
(な、なにコイツ!? 尋常じゃない年数を経た付喪神だわ! 三百……四百……五百年以上!? こんなのが存在するの!?)
「? どうか、した?」
案内しようと歩き出したにもかかわらず、雛祈がついてきていないことに気付いた少女は、振り返って首を傾げた。そう問いかけられて、雛祈はようやく驚愕から我に返った。
「い、いえ。な、なんでもないわ!」
「?」
少女はほとんど表情が変わらなかったが、雛祈の反応を少し不審に思ったようだった。しかし、それほど気にすることではないと判断したのか、また前方に歩き始めた。
「お嬢、大丈夫か?」
「だ、大丈夫よ」
主の状態を気にかけた桜一郎にそう返し、雛祈は少女について歩き出した。
(おそらくあの付喪神、自分と同じ属性の物品はほとんど眷属として操ることができる。付喪神なんて大抵弱い力しか持たないのに、あんなの滅多にいるもんじゃない。世界中探したって何体見つかるか……)
そこまで考えて雛祈は心が乱れかかっていることに気付き、頭を振って思考をリセットした。
「ほ、ほんとに大丈夫ですか、お、お嬢様?」
「大丈夫よ、千冬。大丈夫」
千冬に応えつつも、微妙に自分自身にも言い聞かせ、雛祈は強引に冷静な心理状態に戻った。
(随分なものを飼ってるじゃない、モグリのド素人! けどいくら強い付喪神を連れてるからって、鬼神の子孫二人には適わないわ! この付喪神をけしかけてくるなら、桜一郎たちに足止めさせて、私がその横っ面に拳を叩き込んでやるんだから!)
敵に強力な側近がいると分かったところで、それに対応したシミュレーションをしておけば問題ない。雛祈は彼我の戦力を認識し直し、改めて屋敷の主に制裁を加えるイメージを浮かべて闘志を燃やした。
(変な、お客)
背中でメラメラと燃える雛祈の闘志を感じながら、真白い少女―シロガネは内心首を傾げていた。
雛祈たちが通されたのは、十二畳ほどの広さを持つ部屋だった。中央よりもややドアに近い位置に長方形のテーブルが置かれ、それを挟んで対になる形で革張りのソファが配置されている。雛祈は片方のソファに座り、桜一郎と千冬はその後ろに控え、いつでも武器を構えられるようにしていた。
雛祈は目だけを動かして室内を見渡した。床や壁は真新しさを感じられないが、軋みを上げるほどには傷んでいない。おそらくしっかりと補修しているものと思われる。そして天井にはLEDライトが室内を照らしていた。ほとんど存在が言い伝えのレベルになっている古屋敷に、なぜ電気が通っているのか甚だ疑問だったが、雛祈はそんなことまで掘り下げる気はない。
窓寄りの日当たりの良い位置には、横長のソファと壁掛けの薄型テレビが設置されている。年代物の建築物にはあまりにも不釣合いなため、そこだけはLEDライト以上に浮いていた。
あとは廊下に出るドアと別に、もう一つ部屋の壁にドアが設けられていることぐらいだった。
それらの様式的にも機能的にも整えられた内装を、一通り確認した雛祈は仏頂面でソファに背を預けていた。
(よくもまぁ、荒稼ぎでこれだけ堂々とした暮らしぶりをしているものね!)
件の霊能者が噂になり始めたのはそれほど最近ではないにしろ、とうの昔に忘れ去られた屋敷をここまで整備して生活している以上、少なくとも数年前から活動していたことは分かる。それなりの調度品を揃え、使用人まで雇っているなら、おそらく依頼解決時に暴利を要求しているに違いないと雛祈は睨んでいた。
(こちらの勧告に応じないようなら、やっぱり足腰立たなくして解らせてやるしかないようね!)
雛祈は後ろに控える桜一郎に目で合図し、桜一郎もそれを受けて小さく頷いた。相手がもし強硬手段を取ろうとすれば、遠慮なく実力行使に打って出ろという指示だ。
(いよいよご対面ね、モグリのド素人! あなたがあの付喪神をけしかけてきたとしても、桜一郎と千冬には勝てっこないわよ! せいぜい往生際を良くして足を洗いなさ―――)
雛祈が心の中でまだ見ぬ相手に宣告していると、不意に廊下側のドアが開かれた。
「いや~、どうもすみません。こんな急に『お客さん』が来るなんて思ってなくて」
入室してきた『男』は少し申し訳なさそうにしながら、早足で雛祈と向かい合うソファに腰掛けた。
「自己紹介が遅れましたが、小林結城と申します。よろしくお願いします」
名乗りながら恭しく頭を下げるその『男』、小林結城を前に、雛祈はポカンと肩透かしを食らったような顔をしていた。驚いたというよりは、目の前にあるものが何なのか理解できないといった心境の、思考が追いついていない状態だった。
「ふっ……ふっ……ふざけるなっ!」
結城が名乗って十秒ほど経った頃、雛祈は肩をわなわなと振るわせ始め、やがてバネ仕掛けの人形のように立ち上がって叫んだ。
「私への対応はあなたで充分だとでも言うの!? 使用人に用はないわ! 今すぐこの屋敷の主を連れてきなさい!」
雛祈と対面し、小林結城と名乗ったのは、先ほど雛祈を古屋敷まで案内した作業着姿の男だった。今は作業着から動きやすそうなフィットシャツとシンプルなデザインのズボンに着替えているが、刈り込んだ短髪と、人の良さを通り越してマヌケにも見えるその顔は、決して見間違えるものではなかった。
雛祈は率直に、自分への応対を使用人に丸投げして済まされた、と思った。
「使用人……って、誰のことですか?」
「あなたに決まってるでしょ! さっさとこの屋敷の主を呼んできて、あなたはとっとと奥に引っ込みなさい!」
今度は結城が訳が分からないという表情を浮かべ、雛祈はついにボルテージが最高潮に達し、指を突きつけてまくし立てる。あくまでとぼけるつもりだと感じたために、その怒りようには結城もわずかに身を縮こまらせた。
「結城は、使用人じゃない」
そう言いながら廊下側とは別に設置されたドアから出てきたのは、雛祈たちを部屋に案内した真白い少女姿の付喪神、シロガネだった。手にはティーセットを載せたお盆を持っている。
「使用人じゃないって……じゃあこのマヌケ男は何なのよ!」
「マ、マヌケ……」
指差しでマヌケ呼ばわりされて、結城も少しばかりショックを受けたようだった。
「マヌケでも、ない。結城はワタシの、ご主人様」
テーブルにティーセットを置いたシロガネは、手馴れた動きでカップにお茶を注ぎながら答えた。
「ご主人様って……」
シロガネの返答で何となく察した雛祈は、突きつけたままの指を震わせながら結城を見た。
「この古屋敷の、持ち主」
はっきりとそう告げたシロガネの言葉に、雛祈はここまでで一番の、雷に打たれたような衝撃を味わった。
「え~と……本当の持ち主は別にいるっていうか……とりあえず社会的には持ち主は僕ってことになりますけど……」
シロガネの言葉を補足するつもりで続いた結城だったが、目を思い切り見開いたまま固まる雛祈を前に、逆に結城の方が慄いていた。
「お嬢、大丈夫か?」
「お、お嬢様、お、お気をたしかに!」
「はっ!」
桜一郎と千冬の呼びかけで、ようやく雛祈は我に返った。こう短時間に度々驚かされては、耐性が付くのも早いらしい。軽く頭を振ってポーズを正すと、改めて結城に向き直った。
「じゃあ、あなたが巷で噂になってる古屋敷の霊能者……ってことなのね?」
(霊能者? 僕に霊能力の才能ないんだけど……)
「霊能者ってことになってるのかは知りませんけど、一応僕がこのお屋敷に住んでる者ですけど……」
「……」
雛祈はもう一度、結城の頭の先から爪先までをじっくりと眺めてみた。佇まいも雰囲気も表情も、どれを取っても一般人か、喋り方や性格も鑑みればそれ以下としか映らない。顔も特別不細工ではないが、特別整っているわけでもない。強いて評価するならば、桜一郎が目したとおり、フィットシャツで浮かび上がった体格はそこそこ鍛えられている。しかし、それでも結城が不意打ちで襲い掛かってきたとしても、雛祈には負けるイメージを思い浮かべることができなかった。それぐらい実力に差を生んでしまうほど、結城の才能は低いのだと、雛祈は確信した。
(コイツは単にクライアントとの交渉をしているだけで、実質的な仕事はこの付喪神がやってるってことね。どおりで霊能者の情報として、私のところに入ってこなかったわけだわ。付喪神を利用してモグリで商売してるなんて、見かけによらず図太い奴)
つまり、結城が格別優れているわけではなく、シロガネと呼ばれる付喪神の力に依るところが大きい。雛祈はそう結論付けた。
「そう……あなたが……なら話をつけるべき相手は最初から私の前にいたと……そういうことね……」
激昂したり驚愕したりと忙しかった雛祈だが、一周回って逆に冷静さを取り戻しつつあった。
ただし、ぶつけようとしていた鬱憤が晴れたという意味ではない。ようやく論破し、ねじ伏せ、屈服させて反省させるべき相手が明確に定まったのだ。
今こそ魂の奥底から湧き上がってくるものを解放すべく、雛祈は大きく息を吸い込んだ。
「いいこと! 私がここに来たのは―――」
雛祈が地をも震わせようかという怒号を放とうとした時、廊下側のドアが再び開かれた。
「WΠ3→(なんだ。客が来てたのかよ)」
ドアを開けた人物は、まったく聞き慣れない言語で喋ったはずだが、なぜか雛祈たちにはその意味が解った。
これから不届き者に天誅を下そうとしていたところを邪魔された雛祈は、ドアを開けて入ってきた人物を睨んだ―――が、目を向けた瞬間にそれまで沸き立っていた感情が一気に掻き消された。まるで火の着いた木片にいきなり大量の水をかけられたかのように。
「あっ、おかえり、マスクマン」
「OΞ(おう)」
結城がマスクマンと呼んだ人物は、まともな感性を持つ者なら、どう考えても人間には見えなかった。人の体を頭頂から鳩尾まですっぽり隠してしまえそうな楕円形の仮面。真一文字の切れ込みで表現された単眼と、乱杭歯が施された口の意匠は、赤や緑のペイントと相まって初見のインパクトは非常に強い。そして腰蓑だけを纏った身体は人型ではあるが、輪郭がぼやけて黒一色に塗りつぶされていた。雛祈でなくてもその容貌は、この世ならざる者であることは一目瞭然だった。
さらにインパクトを助長していたのは、マスクマンが肩に担いだ雄の鹿だった。よく見れば、大きなタンコブを作って、白目を剥いて痙攣している。
「また大きいの獲って来たね」
「YΣ1↑ST(ああ、なかなか手こずったぜ。それよりも人間の客なんて珍しいな)」
「うん。なんか依頼とは別の用事があるみたいで」
「F、AΨ5←(ふ~ん……じゃあコイツを土産に持たせてやるか)」
マスクマンは肩に載せた鹿を軽く揺さぶると、シロガネが出てきたドアに向かって歩いていった。
「HΛ8↓(シロガネ、コイツ捌くの手伝え)」
「分かった」
マスクマンにそう言われ、シロガネも一緒に付いていく。
部屋を後にしようとするマスクマンの背を、雛祈は信じられないものを見たという目で見つめていた。
雛祈はマスクマンの正体も霊視していた。だからこそ驚きは、一瞬身構えた桜一郎や千冬とは比べ物にならなかった。
(な、なにあれ!? 精霊!? あの仮面を媒介に人間界に顕現している!? でも何の精霊なの!? 属性が全く読めない!? まさか人間が精霊の属性を規定する前の、天地創造の時代の存在だとでも言うの!? なんでこんなところにいるの!?)
視線を感じたマスクマンは一度だけ振り返り、固まったままの雛祈を見たが、なぜ固まって自分を見ているのか解らなかったので、少し首を傾げてドアの向こうに消えていった。
(私たちを山の中で迷わせたのはあの精霊だったの!? いや、何か違う気がする。まさか、精霊がもう一体いるの!?)
「あの~……」
「はっ!」
「ごめんなさい。ちょっと驚かせちゃったみたいですね」
雛祈の様子を心配した結城が声をかけたおかげで、何とか我に返った雛祈は、よろよろとソファに腰を落ち着けた。
(な、なんで……五百年以上を生き残った付喪神に……天地創造の時代の精霊が……なんでこんなところに揃ってるのよ! いや、待って。それほど古い時代の精霊が必ずしも強いとは限らない。知りえる人間が少ない分、当時と比べれば力は弱体化しているはず。たとえ付喪神とタッグを組んで挑んできたとしても、私と桜一郎と千冬で対処できないレベルではない……はず。そうよ、大丈夫! まだ怯むような事態じゃない!)
半分近くは希望的観測ではあるが、その状況判断は雛祈の精神をあと一歩のところで踏みとどまらせ、まだ結城への攻勢を保つことに成功した。
「ところで、さっきのお話の続きですけど、ここへ来た理由って何ですか?」
「……そうね……ようやく……ようやく本題に入れるわね……入らなきゃいけないわよね……」
度重なるショックのせいで少しふらつきながら立ち上がる雛祈。その様子に結城も背中に冷たいものを感じていた。主に雛祈の危うい雰囲気で。
「私が……私が! わざわざ! こんなところに来たのは!」
「少し騒がしいですよ。これでは落ち着いて本が読めません」
今度こそ本来の目的を果たせると思いきや、雛祈は廊下側のドアを開けた人物に悉く妨げられてしまった。
もはやストレスで据わってきた目でドアの方を見ると、雛祈は冗談ではなく、本当に体が石になる思いをした。
「テレビの音かと思いましたが、お客人が来ていたのですね」
すらりとした長身に流れるような金髪をなびかせた、碧く輝く瞳を持つ美女。風通しの良さそうな薄手の白いブラウスに、タイトなジーンズという簡素なコーディネートだったが、素体となる美女の容姿と隙のない立ち振る舞いによって、その周りだけはまるでモデルショーの一場面を切り取ってきたかのようだった。
それだけでも人を釘付けにするには充分なのだが、雛祈が血の凍る思いをした理由は別にある。雛祈が霊視で感じ取った霊格、いや神格は完全にこれまでの予想を超えていた。
(な、な、なんで……神社でも仏閣でも神殿でもないこんなところに……なんで女神がいるのよ~! それも武神……いえ軍神……それ以上!? 戦闘が主な権能であるのは間違いないけど、それに留まらない相当数の権能を所有している!? 日本の神じゃないようだけど、いったい誰なの!?)
「あっ、アテナ様。ごめんなさい、読書中でした?」
突如居間に来訪した女神に対し、結城はあまりにも自然に、あまりにも普通に話しかけていた。それこそ常日頃から顔を合わせている間柄であると言わんばかりに。
そして結城が口にした女神の名を聞いて、雛祈は貧血を起こしかけた。
(アテナ!? ギリシャ最強の戦女神!? それが何で日本に!? いえ、日本の一部の風習はギリシャに類似したものがあるという説は聞いたことがあるけど、よりにもよってこんな所にいることないじゃない!)
「お客人が来ていたというなら仕方がありません。せっかくですので私もご挨拶させていただきましょう」
雛祈の困惑などまったく意に介することなく、アテナは結城の座るソファの横まで歩み寄ると、雛祈に向き直って右手を胸の前に置き、軽く頭を下げた。
「パラス・アテナです。以後、お見知りおきを」
神話に語り継がれる最強の戦女神からの自己紹介は、雛祈の精神に止めを刺すには充分すぎる威力だった。途端、雛祈の体から力が抜け、ソファに屍のようにもたれかかった。
「お嬢!」
「お、お嬢様、し、しっかり~!」
従者二人に呼びかけられながら、雛祈は魂が抜け出る感覚を初体験していた。
「……ユウキ、何なのですか、このお客人は?」
自己紹介をした直後に意識を失った雛祈に、アテナは少々不機嫌そうな顔をしていた。
「ぼ、僕もよく分からなくなってきました」
結城もまた、雛祈が何を目的で古屋敷にやってきたのか、いよいよ謎に思えてきた。
「さっ、どうぞ」
先行していた男が格子細工が施された鉄門を開き、雛祈たちを招き入れた。
「大正時代に建てられたものだな。多少補修が加えられてるが」
「ふ~ん……」
桜一郎がそう見立てた古屋敷を、雛祈はひどく据わった目で見渡してみた。
格子で仕切られた敷地に入れば、小さいながらも芝が整備された庭が屋敷を囲むように設えられていた。鉄門からは一直線に石畳が敷かれ、玄関口までの道として存在感を示している。そこを歩いていけば、数メートルで屋敷の前へと辿り着く。
ぱっと見は色レンガを用いた洋館かと思えるが、ところどころに木造建築の様式や日本瓦を使用している部分が散見され、一概に西洋風とはいえない造りになっている。それが元からなのか、新しい主によって改築された後なのかは雛祈には判断できなかったが、桜一郎がその辺りには言及していないので、おそらく元からの形を留めているのだろう。
とはいえ、雛祈にとって古屋敷がいつ頃に建てられ、どういう建築様式なのかは、この際ほとんど重要ではない。一番の問題はここを根城にして、モグリで祓い屋の真似事をやってのけている不届き者の方である。
(さぁ、早く私の前に現れなさい、モグリのド素人! 会ったら言葉と実力行使で二度とふざけた真似ができないようにメッタメタに―――)
屋敷の玄関に行き着くまでの間、雛祈はこれまでの鬱憤を爆発させるべく気合を溜め込んでいた。たとえ相手がどれほど霊能者としての素質に優れていようと、祀凰寺家の跡取りと鬼神の子孫二人を前にしては勝ち目はない。弁舌で負けるつもりなど微塵もなく、もし力に訴えてきたなら、それ相応の報いを受けさせようと考えていた。雛祈の脳裏には、今からボコボコになって泣いて許しを乞う敵の姿が容易に浮かんでいた。
もうすぐ男の手が扉のノブにかかろうとしていた時、屋敷の扉が内側から開いた。
「あっ、結城。いま、帰った?」
内側に開いた扉の先に立っていたのは、上から下まで純白で統一したエプロンドレスを着る少女だった。
「ただいま、シロガネ」
「おかえり、なさい。ん、そっちは?」
男への挨拶もそこそこに、真白い少女は雛祈たちの存在に気が付いた。
「お客さん……だと思うから、居間に案内してお茶を用意してくれる? 僕は着替えてくるから」
「分かった」
男は少女とそういったやり取りをすると、すぐに雛祈たちに向き直った。
「すみません、僕はちょっとこの場を離れます。後はこのシロガネが案内しますので」
そう告げると、男は少女の横をするりと抜けて屋敷の中へ消えていった。雛祈にしても、一使用人にまでこれ以上用はなかったので、それを黙って見送った。
「では、お客さん。こっちへ、どうぞ」
残った真白い少女は、雛祈たちが入れるように充分に扉を開け、お辞儀をしながら屋敷の中へ入るように促した。それに従い、雛祈を先頭に桜一郎、千冬も続いて屋敷に足を踏み入れる。
三人が屋敷内に入ると、少女は恭しく扉を閉めて歩き出した。
「居間は、こっち」
少女が三人の横を通り過ぎる際、雛祈はその少女の横顔を見て眉をぴくりと動かした。
使用人然としているが、その少女が人間でないことを、雛祈にはすぐに判別できた。
(物に魂が宿った付喪神、か。何が化けたか知らないけど、人間の姿にまでなれるなんて、結構な年数が経ってるようね)
付喪神が人間そっくりの肉体を形成したとしても、それは見る者が見れば明確な違和感を持っている。造形があまりにも『綺麗すぎる』からだ。言うなれば、とても精巧に作られた人形を見ているような感覚を覚えてしまうのだ。シロガネと呼ばれた少女も、肌や髪の雪のような白さ、透き通った瞳などは引き込まれるほど美しく感じるが、どことなく計算されて形作られた印象を受ける。普通の人間ならば気のせいで済ましてしまうところだが、霊能者である雛祈には少女の正体は簡単に見破れた。
(付喪神まで侍らせているなんて! けどモグリのド素人が連れてる付喪神なんて大したことは―――!?)
雛祈はほんのちょっとした気まぐれで、前を歩く少女を霊視してみたが、それは思わず目を見開くほどの驚愕をもたらした。
雛祈の霊視は、単に人ならざる存在を視るだけに留まらず、対象の霊格あるいは神格を測る力も持っている。簡単に言えば、幽霊、妖怪、神が持っている強さを正確に測れるというものだ。特別珍しい力ではないが、誰でも持ちえるものでもなく、雛祈はこの力を活用して裏の仕事をスムーズに進められることもあった。
だからこそ、目の前にいる付喪神の少女を霊視して仰天した。
(な、なにコイツ!? 尋常じゃない年数を経た付喪神だわ! 三百……四百……五百年以上!? こんなのが存在するの!?)
「? どうか、した?」
案内しようと歩き出したにもかかわらず、雛祈がついてきていないことに気付いた少女は、振り返って首を傾げた。そう問いかけられて、雛祈はようやく驚愕から我に返った。
「い、いえ。な、なんでもないわ!」
「?」
少女はほとんど表情が変わらなかったが、雛祈の反応を少し不審に思ったようだった。しかし、それほど気にすることではないと判断したのか、また前方に歩き始めた。
「お嬢、大丈夫か?」
「だ、大丈夫よ」
主の状態を気にかけた桜一郎にそう返し、雛祈は少女について歩き出した。
(おそらくあの付喪神、自分と同じ属性の物品はほとんど眷属として操ることができる。付喪神なんて大抵弱い力しか持たないのに、あんなの滅多にいるもんじゃない。世界中探したって何体見つかるか……)
そこまで考えて雛祈は心が乱れかかっていることに気付き、頭を振って思考をリセットした。
「ほ、ほんとに大丈夫ですか、お、お嬢様?」
「大丈夫よ、千冬。大丈夫」
千冬に応えつつも、微妙に自分自身にも言い聞かせ、雛祈は強引に冷静な心理状態に戻った。
(随分なものを飼ってるじゃない、モグリのド素人! けどいくら強い付喪神を連れてるからって、鬼神の子孫二人には適わないわ! この付喪神をけしかけてくるなら、桜一郎たちに足止めさせて、私がその横っ面に拳を叩き込んでやるんだから!)
敵に強力な側近がいると分かったところで、それに対応したシミュレーションをしておけば問題ない。雛祈は彼我の戦力を認識し直し、改めて屋敷の主に制裁を加えるイメージを浮かべて闘志を燃やした。
(変な、お客)
背中でメラメラと燃える雛祈の闘志を感じながら、真白い少女―シロガネは内心首を傾げていた。
雛祈たちが通されたのは、十二畳ほどの広さを持つ部屋だった。中央よりもややドアに近い位置に長方形のテーブルが置かれ、それを挟んで対になる形で革張りのソファが配置されている。雛祈は片方のソファに座り、桜一郎と千冬はその後ろに控え、いつでも武器を構えられるようにしていた。
雛祈は目だけを動かして室内を見渡した。床や壁は真新しさを感じられないが、軋みを上げるほどには傷んでいない。おそらくしっかりと補修しているものと思われる。そして天井にはLEDライトが室内を照らしていた。ほとんど存在が言い伝えのレベルになっている古屋敷に、なぜ電気が通っているのか甚だ疑問だったが、雛祈はそんなことまで掘り下げる気はない。
窓寄りの日当たりの良い位置には、横長のソファと壁掛けの薄型テレビが設置されている。年代物の建築物にはあまりにも不釣合いなため、そこだけはLEDライト以上に浮いていた。
あとは廊下に出るドアと別に、もう一つ部屋の壁にドアが設けられていることぐらいだった。
それらの様式的にも機能的にも整えられた内装を、一通り確認した雛祈は仏頂面でソファに背を預けていた。
(よくもまぁ、荒稼ぎでこれだけ堂々とした暮らしぶりをしているものね!)
件の霊能者が噂になり始めたのはそれほど最近ではないにしろ、とうの昔に忘れ去られた屋敷をここまで整備して生活している以上、少なくとも数年前から活動していたことは分かる。それなりの調度品を揃え、使用人まで雇っているなら、おそらく依頼解決時に暴利を要求しているに違いないと雛祈は睨んでいた。
(こちらの勧告に応じないようなら、やっぱり足腰立たなくして解らせてやるしかないようね!)
雛祈は後ろに控える桜一郎に目で合図し、桜一郎もそれを受けて小さく頷いた。相手がもし強硬手段を取ろうとすれば、遠慮なく実力行使に打って出ろという指示だ。
(いよいよご対面ね、モグリのド素人! あなたがあの付喪神をけしかけてきたとしても、桜一郎と千冬には勝てっこないわよ! せいぜい往生際を良くして足を洗いなさ―――)
雛祈が心の中でまだ見ぬ相手に宣告していると、不意に廊下側のドアが開かれた。
「いや~、どうもすみません。こんな急に『お客さん』が来るなんて思ってなくて」
入室してきた『男』は少し申し訳なさそうにしながら、早足で雛祈と向かい合うソファに腰掛けた。
「自己紹介が遅れましたが、小林結城と申します。よろしくお願いします」
名乗りながら恭しく頭を下げるその『男』、小林結城を前に、雛祈はポカンと肩透かしを食らったような顔をしていた。驚いたというよりは、目の前にあるものが何なのか理解できないといった心境の、思考が追いついていない状態だった。
「ふっ……ふっ……ふざけるなっ!」
結城が名乗って十秒ほど経った頃、雛祈は肩をわなわなと振るわせ始め、やがてバネ仕掛けの人形のように立ち上がって叫んだ。
「私への対応はあなたで充分だとでも言うの!? 使用人に用はないわ! 今すぐこの屋敷の主を連れてきなさい!」
雛祈と対面し、小林結城と名乗ったのは、先ほど雛祈を古屋敷まで案内した作業着姿の男だった。今は作業着から動きやすそうなフィットシャツとシンプルなデザインのズボンに着替えているが、刈り込んだ短髪と、人の良さを通り越してマヌケにも見えるその顔は、決して見間違えるものではなかった。
雛祈は率直に、自分への応対を使用人に丸投げして済まされた、と思った。
「使用人……って、誰のことですか?」
「あなたに決まってるでしょ! さっさとこの屋敷の主を呼んできて、あなたはとっとと奥に引っ込みなさい!」
今度は結城が訳が分からないという表情を浮かべ、雛祈はついにボルテージが最高潮に達し、指を突きつけてまくし立てる。あくまでとぼけるつもりだと感じたために、その怒りようには結城もわずかに身を縮こまらせた。
「結城は、使用人じゃない」
そう言いながら廊下側とは別に設置されたドアから出てきたのは、雛祈たちを部屋に案内した真白い少女姿の付喪神、シロガネだった。手にはティーセットを載せたお盆を持っている。
「使用人じゃないって……じゃあこのマヌケ男は何なのよ!」
「マ、マヌケ……」
指差しでマヌケ呼ばわりされて、結城も少しばかりショックを受けたようだった。
「マヌケでも、ない。結城はワタシの、ご主人様」
テーブルにティーセットを置いたシロガネは、手馴れた動きでカップにお茶を注ぎながら答えた。
「ご主人様って……」
シロガネの返答で何となく察した雛祈は、突きつけたままの指を震わせながら結城を見た。
「この古屋敷の、持ち主」
はっきりとそう告げたシロガネの言葉に、雛祈はここまでで一番の、雷に打たれたような衝撃を味わった。
「え~と……本当の持ち主は別にいるっていうか……とりあえず社会的には持ち主は僕ってことになりますけど……」
シロガネの言葉を補足するつもりで続いた結城だったが、目を思い切り見開いたまま固まる雛祈を前に、逆に結城の方が慄いていた。
「お嬢、大丈夫か?」
「お、お嬢様、お、お気をたしかに!」
「はっ!」
桜一郎と千冬の呼びかけで、ようやく雛祈は我に返った。こう短時間に度々驚かされては、耐性が付くのも早いらしい。軽く頭を振ってポーズを正すと、改めて結城に向き直った。
「じゃあ、あなたが巷で噂になってる古屋敷の霊能者……ってことなのね?」
(霊能者? 僕に霊能力の才能ないんだけど……)
「霊能者ってことになってるのかは知りませんけど、一応僕がこのお屋敷に住んでる者ですけど……」
「……」
雛祈はもう一度、結城の頭の先から爪先までをじっくりと眺めてみた。佇まいも雰囲気も表情も、どれを取っても一般人か、喋り方や性格も鑑みればそれ以下としか映らない。顔も特別不細工ではないが、特別整っているわけでもない。強いて評価するならば、桜一郎が目したとおり、フィットシャツで浮かび上がった体格はそこそこ鍛えられている。しかし、それでも結城が不意打ちで襲い掛かってきたとしても、雛祈には負けるイメージを思い浮かべることができなかった。それぐらい実力に差を生んでしまうほど、結城の才能は低いのだと、雛祈は確信した。
(コイツは単にクライアントとの交渉をしているだけで、実質的な仕事はこの付喪神がやってるってことね。どおりで霊能者の情報として、私のところに入ってこなかったわけだわ。付喪神を利用してモグリで商売してるなんて、見かけによらず図太い奴)
つまり、結城が格別優れているわけではなく、シロガネと呼ばれる付喪神の力に依るところが大きい。雛祈はそう結論付けた。
「そう……あなたが……なら話をつけるべき相手は最初から私の前にいたと……そういうことね……」
激昂したり驚愕したりと忙しかった雛祈だが、一周回って逆に冷静さを取り戻しつつあった。
ただし、ぶつけようとしていた鬱憤が晴れたという意味ではない。ようやく論破し、ねじ伏せ、屈服させて反省させるべき相手が明確に定まったのだ。
今こそ魂の奥底から湧き上がってくるものを解放すべく、雛祈は大きく息を吸い込んだ。
「いいこと! 私がここに来たのは―――」
雛祈が地をも震わせようかという怒号を放とうとした時、廊下側のドアが再び開かれた。
「WΠ3→(なんだ。客が来てたのかよ)」
ドアを開けた人物は、まったく聞き慣れない言語で喋ったはずだが、なぜか雛祈たちにはその意味が解った。
これから不届き者に天誅を下そうとしていたところを邪魔された雛祈は、ドアを開けて入ってきた人物を睨んだ―――が、目を向けた瞬間にそれまで沸き立っていた感情が一気に掻き消された。まるで火の着いた木片にいきなり大量の水をかけられたかのように。
「あっ、おかえり、マスクマン」
「OΞ(おう)」
結城がマスクマンと呼んだ人物は、まともな感性を持つ者なら、どう考えても人間には見えなかった。人の体を頭頂から鳩尾まですっぽり隠してしまえそうな楕円形の仮面。真一文字の切れ込みで表現された単眼と、乱杭歯が施された口の意匠は、赤や緑のペイントと相まって初見のインパクトは非常に強い。そして腰蓑だけを纏った身体は人型ではあるが、輪郭がぼやけて黒一色に塗りつぶされていた。雛祈でなくてもその容貌は、この世ならざる者であることは一目瞭然だった。
さらにインパクトを助長していたのは、マスクマンが肩に担いだ雄の鹿だった。よく見れば、大きなタンコブを作って、白目を剥いて痙攣している。
「また大きいの獲って来たね」
「YΣ1↑ST(ああ、なかなか手こずったぜ。それよりも人間の客なんて珍しいな)」
「うん。なんか依頼とは別の用事があるみたいで」
「F、AΨ5←(ふ~ん……じゃあコイツを土産に持たせてやるか)」
マスクマンは肩に載せた鹿を軽く揺さぶると、シロガネが出てきたドアに向かって歩いていった。
「HΛ8↓(シロガネ、コイツ捌くの手伝え)」
「分かった」
マスクマンにそう言われ、シロガネも一緒に付いていく。
部屋を後にしようとするマスクマンの背を、雛祈は信じられないものを見たという目で見つめていた。
雛祈はマスクマンの正体も霊視していた。だからこそ驚きは、一瞬身構えた桜一郎や千冬とは比べ物にならなかった。
(な、なにあれ!? 精霊!? あの仮面を媒介に人間界に顕現している!? でも何の精霊なの!? 属性が全く読めない!? まさか人間が精霊の属性を規定する前の、天地創造の時代の存在だとでも言うの!? なんでこんなところにいるの!?)
視線を感じたマスクマンは一度だけ振り返り、固まったままの雛祈を見たが、なぜ固まって自分を見ているのか解らなかったので、少し首を傾げてドアの向こうに消えていった。
(私たちを山の中で迷わせたのはあの精霊だったの!? いや、何か違う気がする。まさか、精霊がもう一体いるの!?)
「あの~……」
「はっ!」
「ごめんなさい。ちょっと驚かせちゃったみたいですね」
雛祈の様子を心配した結城が声をかけたおかげで、何とか我に返った雛祈は、よろよろとソファに腰を落ち着けた。
(な、なんで……五百年以上を生き残った付喪神に……天地創造の時代の精霊が……なんでこんなところに揃ってるのよ! いや、待って。それほど古い時代の精霊が必ずしも強いとは限らない。知りえる人間が少ない分、当時と比べれば力は弱体化しているはず。たとえ付喪神とタッグを組んで挑んできたとしても、私と桜一郎と千冬で対処できないレベルではない……はず。そうよ、大丈夫! まだ怯むような事態じゃない!)
半分近くは希望的観測ではあるが、その状況判断は雛祈の精神をあと一歩のところで踏みとどまらせ、まだ結城への攻勢を保つことに成功した。
「ところで、さっきのお話の続きですけど、ここへ来た理由って何ですか?」
「……そうね……ようやく……ようやく本題に入れるわね……入らなきゃいけないわよね……」
度重なるショックのせいで少しふらつきながら立ち上がる雛祈。その様子に結城も背中に冷たいものを感じていた。主に雛祈の危うい雰囲気で。
「私が……私が! わざわざ! こんなところに来たのは!」
「少し騒がしいですよ。これでは落ち着いて本が読めません」
今度こそ本来の目的を果たせると思いきや、雛祈は廊下側のドアを開けた人物に悉く妨げられてしまった。
もはやストレスで据わってきた目でドアの方を見ると、雛祈は冗談ではなく、本当に体が石になる思いをした。
「テレビの音かと思いましたが、お客人が来ていたのですね」
すらりとした長身に流れるような金髪をなびかせた、碧く輝く瞳を持つ美女。風通しの良さそうな薄手の白いブラウスに、タイトなジーンズという簡素なコーディネートだったが、素体となる美女の容姿と隙のない立ち振る舞いによって、その周りだけはまるでモデルショーの一場面を切り取ってきたかのようだった。
それだけでも人を釘付けにするには充分なのだが、雛祈が血の凍る思いをした理由は別にある。雛祈が霊視で感じ取った霊格、いや神格は完全にこれまでの予想を超えていた。
(な、な、なんで……神社でも仏閣でも神殿でもないこんなところに……なんで女神がいるのよ~! それも武神……いえ軍神……それ以上!? 戦闘が主な権能であるのは間違いないけど、それに留まらない相当数の権能を所有している!? 日本の神じゃないようだけど、いったい誰なの!?)
「あっ、アテナ様。ごめんなさい、読書中でした?」
突如居間に来訪した女神に対し、結城はあまりにも自然に、あまりにも普通に話しかけていた。それこそ常日頃から顔を合わせている間柄であると言わんばかりに。
そして結城が口にした女神の名を聞いて、雛祈は貧血を起こしかけた。
(アテナ!? ギリシャ最強の戦女神!? それが何で日本に!? いえ、日本の一部の風習はギリシャに類似したものがあるという説は聞いたことがあるけど、よりにもよってこんな所にいることないじゃない!)
「お客人が来ていたというなら仕方がありません。せっかくですので私もご挨拶させていただきましょう」
雛祈の困惑などまったく意に介することなく、アテナは結城の座るソファの横まで歩み寄ると、雛祈に向き直って右手を胸の前に置き、軽く頭を下げた。
「パラス・アテナです。以後、お見知りおきを」
神話に語り継がれる最強の戦女神からの自己紹介は、雛祈の精神に止めを刺すには充分すぎる威力だった。途端、雛祈の体から力が抜け、ソファに屍のようにもたれかかった。
「お嬢!」
「お、お嬢様、し、しっかり~!」
従者二人に呼びかけられながら、雛祈は魂が抜け出る感覚を初体験していた。
「……ユウキ、何なのですか、このお客人は?」
自己紹介をした直後に意識を失った雛祈に、アテナは少々不機嫌そうな顔をしていた。
「ぼ、僕もよく分からなくなってきました」
結城もまた、雛祈が何を目的で古屋敷にやってきたのか、いよいよ謎に思えてきた。
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