12 / 77
第一話 皐月
5-1
しおりを挟む
5-1
……夜に茶をがぶ飲みするのはよくない。夕食が早いので腹が減り、ここの飲み物といえば水が茶しかないので、茶を飲んでしのいでいた。茶葉は茶筒に入れてもらえるし、部屋には火鉢があって、その上に鉄瓶を載せて湯を沸かすことができる。茶葉は安いものなのかもしれないが言えばもらえるそうで、しかもふつうに美味いのでついつい飲んでしまうのだ。
……その結果。俺は真夜中に尿意を催して目が覚めた。いい年して洩らすわけにもいかないので、秋櫻を起こさないようにそっと起き上がった。
耳を澄ます。夜が稼ぎ時の妓楼も、しんとした静けさに包まれている。兄さん方も一通り仕事が終わって、客と共に眠りについているのだろう。
秋櫻はすうすうと心地よさそうな寝息を立てている。いびきも歯ぎしりもない、たいへん有難いルームメイトだ。起きていないことを確かめ、綿の入った外用の上着を羽織って立ち上がった。
建物の中とはいえ、廊下も、部屋の中も寒い。いまは3月で春に近づいているはずだが、足元から這いのぼる寒さに身を震わせつつ、俺は廊下を足早に進んだ。
従業員用の便所は一階の端にある。基本的に水場はすべて一階に集められている。客用の便所もあるが、それは我々とは反対の場所だ。客と従業員が行き会わぬように動線が作られているらしい。
廊下にはところどころに燭台があるが、頼りないわずかな灯りだ。それにしても火で灯りを取るのって不安だよな。火事を起こさないよう気を付けなくてはいけないし。
長い廊下の先の便所にたどり着いた。正直暗いし怖すぎる。早速木の扉を開いて中にはいり、燭台の明かりで慌てて用を足した。
尿意を解き放ち、ほう、と息をついて、目の上の位置にある、格子がはまった小窓から外を見ると……。
何かの影がよぎるのが、見えた。
思わずびく、と体を震わせ、後ろに一歩後ずさる。あわてて下半身を整え、再度窓の外を見た。
……何も見えない。しかし目の前を横切った影は確かに人のようだった……。
……まさか……幽霊?
ドキリと胸が跳ねた。ここでは無念のまま死を迎えた男妓たちもいるだろうし、もしかしたらそういうこともあるかもしれない。そもそもフィクションの世界なんだから、何がいたっておかしくないのだし。
……俺は正直怖がりだ。何も見なかった、俺は何も見なかった……。
しかし。好奇心が邪魔をした。幽霊の正体見たり枯れ尾花、ともいうし、このまま寝ようとしてもきっともやもやして眠れないだろうし。
俺は意を決して、人影の見えた裏庭に出ることにした。
裏庭に出るためには閂のついた扉を開けねばならないが、その閂が開いていた。やはり誰かが開けたらしい。俺はそっと扉を押して庭に出た。裸足の脚に、ひやりと冷たい土を感じる。
裏庭は廊下の窓から漏れ出る光と月明かりで、かろうじてものは見えた。足音を立てないようにそっと、人影が進んだと思われる方向へ進む。便所の前は建物の陰になるので何もなく、その奥には井戸と物干し場があるはず。そして井戸の前で俺は言葉を失った。そこにいたのは、薄い青色の衣を着た少年で。
……ばしゃっ!!
水がぶちまけられる音がした。
この寒空の下で、彼は水をかぶっていたのだ。吐く息も白い夜のさなかに。
眼をこらした。華奢な背中が闇に浮かびあがる。すらりとした首筋、まっすぐな黒髪の襟足に見覚えがあった。
「皐月……さん?」
声は震えた。俺が呼びかけると、皐月ははっとしたように顔を上げ、俺の方を振り向いた。
「雪柳……」
ぼんやりとした目が驚いたように見開かれる。暗い裏庭の中で浮かび上がる濡れた彼の姿は、まるで幽鬼のようだった。
「な、に、してるんですか…」
とっさに身体が動いて、彼に駆け寄った。羽織っていた上着を彼の肩にかける。
「……濡れるよ?」
「そんなこと! 風邪でもひいたら大変です!」
細い身体を上着でくるむ。ってかさむっ! なんだこの寒さ! 彼はこの中で水を浴びていたのか。
「放っておいてくれ。僕はたまにこうしているけど、風邪を引いたことはないよ」
「でも」
……体調崩して休みがちじゃないですか、というのはやめておいた。
「どうして……こんなこと」
「……沐浴だよ。気持ちが、おちつく」
その声は震えていた。唇も紫色になっている。それはそうだろう、こんなに寒いのに。俺は彼の肩を支え、立ちあがった。
「……帰りましょう。部屋に戻って、温まりましょう。お湯を沸かしますから」
「……放っておけと、言っただろ」
「そんなわけにはいきません。僕は兄さんたちの補佐なので」
「……好きにしろ」
そうして目を閉じた皐月を抱くようにして歩き始める。水に濡れた体から冷たさが伝染するようだ。なんでこんなことをしているんだろう。ゲームの中ではモブキャラだった皐月の物語は、俺には何もわからない。ただ、最後に死ぬということを除いては。
……夜に茶をがぶ飲みするのはよくない。夕食が早いので腹が減り、ここの飲み物といえば水が茶しかないので、茶を飲んでしのいでいた。茶葉は茶筒に入れてもらえるし、部屋には火鉢があって、その上に鉄瓶を載せて湯を沸かすことができる。茶葉は安いものなのかもしれないが言えばもらえるそうで、しかもふつうに美味いのでついつい飲んでしまうのだ。
……その結果。俺は真夜中に尿意を催して目が覚めた。いい年して洩らすわけにもいかないので、秋櫻を起こさないようにそっと起き上がった。
耳を澄ます。夜が稼ぎ時の妓楼も、しんとした静けさに包まれている。兄さん方も一通り仕事が終わって、客と共に眠りについているのだろう。
秋櫻はすうすうと心地よさそうな寝息を立てている。いびきも歯ぎしりもない、たいへん有難いルームメイトだ。起きていないことを確かめ、綿の入った外用の上着を羽織って立ち上がった。
建物の中とはいえ、廊下も、部屋の中も寒い。いまは3月で春に近づいているはずだが、足元から這いのぼる寒さに身を震わせつつ、俺は廊下を足早に進んだ。
従業員用の便所は一階の端にある。基本的に水場はすべて一階に集められている。客用の便所もあるが、それは我々とは反対の場所だ。客と従業員が行き会わぬように動線が作られているらしい。
廊下にはところどころに燭台があるが、頼りないわずかな灯りだ。それにしても火で灯りを取るのって不安だよな。火事を起こさないよう気を付けなくてはいけないし。
長い廊下の先の便所にたどり着いた。正直暗いし怖すぎる。早速木の扉を開いて中にはいり、燭台の明かりで慌てて用を足した。
尿意を解き放ち、ほう、と息をついて、目の上の位置にある、格子がはまった小窓から外を見ると……。
何かの影がよぎるのが、見えた。
思わずびく、と体を震わせ、後ろに一歩後ずさる。あわてて下半身を整え、再度窓の外を見た。
……何も見えない。しかし目の前を横切った影は確かに人のようだった……。
……まさか……幽霊?
ドキリと胸が跳ねた。ここでは無念のまま死を迎えた男妓たちもいるだろうし、もしかしたらそういうこともあるかもしれない。そもそもフィクションの世界なんだから、何がいたっておかしくないのだし。
……俺は正直怖がりだ。何も見なかった、俺は何も見なかった……。
しかし。好奇心が邪魔をした。幽霊の正体見たり枯れ尾花、ともいうし、このまま寝ようとしてもきっともやもやして眠れないだろうし。
俺は意を決して、人影の見えた裏庭に出ることにした。
裏庭に出るためには閂のついた扉を開けねばならないが、その閂が開いていた。やはり誰かが開けたらしい。俺はそっと扉を押して庭に出た。裸足の脚に、ひやりと冷たい土を感じる。
裏庭は廊下の窓から漏れ出る光と月明かりで、かろうじてものは見えた。足音を立てないようにそっと、人影が進んだと思われる方向へ進む。便所の前は建物の陰になるので何もなく、その奥には井戸と物干し場があるはず。そして井戸の前で俺は言葉を失った。そこにいたのは、薄い青色の衣を着た少年で。
……ばしゃっ!!
水がぶちまけられる音がした。
この寒空の下で、彼は水をかぶっていたのだ。吐く息も白い夜のさなかに。
眼をこらした。華奢な背中が闇に浮かびあがる。すらりとした首筋、まっすぐな黒髪の襟足に見覚えがあった。
「皐月……さん?」
声は震えた。俺が呼びかけると、皐月ははっとしたように顔を上げ、俺の方を振り向いた。
「雪柳……」
ぼんやりとした目が驚いたように見開かれる。暗い裏庭の中で浮かび上がる濡れた彼の姿は、まるで幽鬼のようだった。
「な、に、してるんですか…」
とっさに身体が動いて、彼に駆け寄った。羽織っていた上着を彼の肩にかける。
「……濡れるよ?」
「そんなこと! 風邪でもひいたら大変です!」
細い身体を上着でくるむ。ってかさむっ! なんだこの寒さ! 彼はこの中で水を浴びていたのか。
「放っておいてくれ。僕はたまにこうしているけど、風邪を引いたことはないよ」
「でも」
……体調崩して休みがちじゃないですか、というのはやめておいた。
「どうして……こんなこと」
「……沐浴だよ。気持ちが、おちつく」
その声は震えていた。唇も紫色になっている。それはそうだろう、こんなに寒いのに。俺は彼の肩を支え、立ちあがった。
「……帰りましょう。部屋に戻って、温まりましょう。お湯を沸かしますから」
「……放っておけと、言っただろ」
「そんなわけにはいきません。僕は兄さんたちの補佐なので」
「……好きにしろ」
そうして目を閉じた皐月を抱くようにして歩き始める。水に濡れた体から冷たさが伝染するようだ。なんでこんなことをしているんだろう。ゲームの中ではモブキャラだった皐月の物語は、俺には何もわからない。ただ、最後に死ぬということを除いては。
0
お気に入りに追加
58
あなたにおすすめの小説
チート魔王はつまらない。
碧月 晶
BL
お人好し真面目勇者×やる気皆無のチート魔王
───────────
~あらすじ~
優秀過ぎて毎日をつまらなく生きてきた雨(アメ)は卒業を目前に控えた高校三年の冬、突然異世界に召喚された。
その世界は勇者、魔王、魔法、魔族に魔物やモンスターが普通に存在する異世界ファンタジーRPGっぽい要素が盛り沢山な世界だった。
そんな世界にやって来たアメは、実は自分は数十年前勇者に敗れた先代魔王の息子だと聞かされる。
しかし取りあえず魔王になってみたものの、アメのつまらない日常は変わらなかった。
そんな日々を送っていたある日、やって来た勇者がアメに言った言葉とは──?
───────────
何だかんだで様々な事件(クエスト)をチートな魔王の力で(ちょいちょい腹黒もはさみながら)勇者と攻略していくお話(*´▽`*)
最終的にいちゃいちゃゴールデンコンビ?いやカップルにしたいなと思ってます( ´艸`)
※BLove様でも掲載中の作品です。
※感想、質問大歓迎です!!
マフィアのペットになりました。
かとらり。
BL
藤谷真緒はごく普通の日本人。
ある時中国に出張している父親に会いに行ったら、チャイニーズマフィアに誘拐されて次期トップの李颯凛(リ・ソンリェン)に飼われることになってしまう。
「お前は俺のペットだ」
真緒は颯凛に夜な夜な抱かれてー…
勇者の股間触ったらエライことになった
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
勇者さんが町にやってきた。
町の人は道の両脇で壁を作って、通り過ぎる勇者さんに手を振っていた。
オレは何となく勇者さんの股間を触ってみたんだけど、なんかヤバイことになっちゃったみたい。
異世界に転移したショタは森でスローライフ中
ミクリ21
BL
異世界に転移した小学生のヤマト。
ヤマトに一目惚れした森の主のハーメルンは、ヤマトを溺愛して求愛しての毎日です。
仲良しの二人のほのぼのストーリーです。
【完結】お嬢様の身代わりで冷酷公爵閣下とのお見合いに参加した僕だけど、公爵閣下は僕を離しません
八神紫音
BL
やりたい放題のわがままお嬢様。そんなお嬢様の付き人……いや、下僕をしている僕は、毎日お嬢様に虐げられる日々。
そんなお嬢様のために、旦那様は王族である公爵閣下との縁談を持ってくるが、それは初めから叶わない縁談。それに気付いたプライドの高いお嬢様は、振られるくらいなら、と僕に女装をしてお嬢様の代わりを果たすよう命令を下す。
敵国軍人に惚れられたんだけど、女装がばれたらやばい。
水瀬かずか
BL
ルカは、革命軍を支援していた父親が軍に捕まったせいで、軍から逃亡・潜伏中だった。
どうやって潜伏するかって? 女装である。
そしたら女装が美人過ぎて、イケオジの大佐にめちゃくちゃ口説かれるはめになった。
これってさぁ……、女装がバレたら、ヤバくない……?
ムーンライトノベルズさまにて公開中の物の加筆修正版(ただし性行為抜き)です。
表紙にR18表記がされていますが、作品はR15です。
illustration 吉杜玖美さま
光る穴に落ちたら、そこは異世界でした。
みぃ
BL
自宅マンションへ帰る途中の道に淡い光を見つけ、なに? と確かめるために近づいてみると気付けば落ちていて、ぽん、と異世界に放り出された大学生が、年下の騎士に拾われる話。
生活脳力のある主人公が、生活能力のない年下騎士の抜けてるとこや、美しく格好いいのにかわいいってなんだ!? とギャップにもだえながら、ゆるく仲良く暮らしていきます。
何もかも、ふわふわゆるゆる。ですが、描写はなくても主人公は受け、騎士は攻めです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる