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第一話 皐月

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 ……夜に茶をがぶ飲みするのはよくない。夕食が早いので腹が減り、ここの飲み物といえば水が茶しかないので、茶を飲んでしのいでいた。茶葉は茶筒に入れてもらえるし、部屋には火鉢があって、その上に鉄瓶を載せて湯を沸かすことができる。茶葉は安いものなのかもしれないが言えばもらえるそうで、しかもふつうに美味いのでついつい飲んでしまうのだ。
 ……その結果。俺は真夜中に尿意を催して目が覚めた。いい年して洩らすわけにもいかないので、秋櫻を起こさないようにそっと起き上がった。
 耳を澄ます。夜が稼ぎ時の妓楼も、しんとした静けさに包まれている。兄さん方も一通り仕事が終わって、客と共に眠りについているのだろう。
 秋櫻はすうすうと心地よさそうな寝息を立てている。いびきも歯ぎしりもない、たいへん有難いルームメイトだ。起きていないことを確かめ、綿の入った外用の上着を羽織って立ち上がった。
 建物の中とはいえ、廊下も、部屋の中も寒い。いまは3月で春に近づいているはずだが、足元から這いのぼる寒さに身を震わせつつ、俺は廊下を足早に進んだ。
 従業員用の便所は一階の端にある。基本的に水場はすべて一階に集められている。客用の便所もあるが、それは我々とは反対の場所だ。客と従業員が行き会わぬように動線が作られているらしい。
 廊下にはところどころに燭台があるが、頼りないわずかな灯りだ。それにしても火で灯りを取るのって不安だよな。火事を起こさないよう気を付けなくてはいけないし。
 長い廊下の先の便所にたどり着いた。正直暗いし怖すぎる。早速木の扉を開いて中にはいり、燭台の明かりで慌てて用を足した。
 尿意を解き放ち、ほう、と息をついて、目の上の位置にある、格子がはまった小窓から外を見ると……。
 何かの影がよぎるのが、見えた。
 思わずびく、と体を震わせ、後ろに一歩後ずさる。あわてて下半身を整え、再度窓の外を見た。
 ……何も見えない。しかし目の前を横切った影は確かに人のようだった……。
 ……まさか……幽霊?
 ドキリと胸が跳ねた。ここでは無念のまま死を迎えた男妓たちもいるだろうし、もしかしたらそういうこともあるかもしれない。そもそもフィクションの世界なんだから、何がいたっておかしくないのだし。
 ……俺は正直怖がりだ。何も見なかった、俺は何も見なかった……。
 しかし。好奇心が邪魔をした。幽霊の正体見たり枯れ尾花、ともいうし、このまま寝ようとしてもきっともやもやして眠れないだろうし。
 俺は意を決して、人影の見えた裏庭に出ることにした。

 裏庭に出るためには閂のついた扉を開けねばならないが、その閂が開いていた。やはり誰かが開けたらしい。俺はそっと扉を押して庭に出た。裸足の脚に、ひやりと冷たい土を感じる。
 裏庭は廊下の窓から漏れ出る光と月明かりで、かろうじてものは見えた。足音を立てないようにそっと、人影が進んだと思われる方向へ進む。便所の前は建物の陰になるので何もなく、その奥には井戸と物干し場があるはず。そして井戸の前で俺は言葉を失った。そこにいたのは、薄い青色の衣を着た少年で。
 ……ばしゃっ!! 
 水がぶちまけられる音がした。
 この寒空の下で、彼は水をかぶっていたのだ。吐く息も白い夜のさなかに。
 眼をこらした。華奢な背中が闇に浮かびあがる。すらりとした首筋、まっすぐな黒髪の襟足に見覚えがあった。
「皐月……さん?」
 声は震えた。俺が呼びかけると、皐月ははっとしたように顔を上げ、俺の方を振り向いた。
「雪柳……」
 ぼんやりとした目が驚いたように見開かれる。暗い裏庭の中で浮かび上がる濡れた彼の姿は、まるで幽鬼のようだった。
「な、に、してるんですか…」
 とっさに身体が動いて、彼に駆け寄った。羽織っていた上着を彼の肩にかける。
「……濡れるよ?」
「そんなこと! 風邪でもひいたら大変です!」
 細い身体を上着でくるむ。ってかさむっ! なんだこの寒さ! 彼はこの中で水を浴びていたのか。
「放っておいてくれ。僕はたまにこうしているけど、風邪を引いたことはないよ」
「でも」
 ……体調崩して休みがちじゃないですか、というのはやめておいた。
「どうして……こんなこと」
「……沐浴だよ。気持ちが、おちつく」
 その声は震えていた。唇も紫色になっている。それはそうだろう、こんなに寒いのに。俺は彼の肩を支え、立ちあがった。
「……帰りましょう。部屋に戻って、温まりましょう。お湯を沸かしますから」
「……放っておけと、言っただろ」
「そんなわけにはいきません。僕は兄さんたちの補佐なので」
「……好きにしろ」
 そうして目を閉じた皐月を抱くようにして歩き始める。水に濡れた体から冷たさが伝染するようだ。なんでこんなことをしているんだろう。ゲームの中ではモブキャラだった皐月の物語は、俺には何もわからない。ただ、最後に死ぬということを除いては。

 
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