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最終話
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◆◆◆◆◆
目を閉じた正美が苦しそうに顔を歪めた時、その声が俺の耳に届いた。
「正美ぃーーーーー正美いぃーーーーーーー!!」
白い世界を切り裂くように、誰かが弟を呼んだ。誰か?そうじゃない、俺は声の主を知っている。
俺に組み敷かれた正美が、その声に呼応するように目を見開く。困惑の表情を浮かべた正美が、顔を強張らせながらぱくぱくと口を開いている。
俺は震えを悟られないように、ゆっくりと正美の首に絡めた指を緩める。ひゅうと弟の喉から呼吸音が漏れた。正美は涙をぽろぽろ零しながら俺を見上げ口を開く。
「ごめん・・兄さん・・やだ、死にたくない。僕はまだ、僕はまだ死にたくない」
かすれた正美の声が白い世界に響いた。
視線を彷徨わせながら、正美が『深海の森』の世界から浮上する。その様子をじっと見つめながら、俺はそっと正美の首から手を離した。
今、俺は正美と共に逝く機会を失った。
同時に、共に生きる機会を得た。
その道がたとえ苦しくても、それがやはり正しい道なのだろう。そして、俺はやっぱり弟の前でやせ我慢を繰り返すんだろうな。俺は愚かだから。
でもそれでいいじゃないか?
正美が、笑って生きていけるなら。
笑えるさ。
笑え。笑って、正美を支えろ・・一生。
俺は泣き出した正美の額をこつんと小突くと、そっと笑って口を開いた。
「当たり前だ。そう簡単に死を決意するには・・お前も俺も俗人すぎるよ。世間に未練がないほど、俺たちは枯れてないだろ?」
「兄さん」
俺はそっと正美の頬を撫でた。
「まったく・・お前が、妙な提案をするから対処に困っただろ?いくら漫画家でオタクでも、『深海の森』の世界に嵌り込み過ぎだ、正美は!俺まで調子に乗ってつられたじゃないか。和樹が正美の事を心配するのも無理はないな」
「和樹が心配を。そうだ!今、和樹の声が聞こえた気がしたんだ!!あれは・・幻だったのかな?」
俺は正美を抱き起こすと岸辺を指差した。
「幻じゃないよ。あいつは、この湖に来ているんだ。霧が濃くて見えないけど、多分ボート乗り場の辺りで気を揉んでるんじゃないかな?」
「え?」
正美が驚いて目を見開く。俺はにやりと笑って口を開いた。
「種明かしをするとこうだ。あいつ、旅行の前日に俺のマンションを訪ねてきて、こう宣言していったんだ。『俺は正美のストーカーやから、二人の旅行にこっそりついて行くことにしました。別に危害は加えんので、気にせんといてください』ってね。実際、あいつはこの旅行にずっとついてきていたよ。まったく気が付かなかったのか、正美は?」
正美はぽかんとして俺を見つめていた。
「嘘・・だって、あいつは僕を信じてるから行ってこいって言ったのに」
「そういう文句は、本人に言えよ。本当にストーカー状態だったぞ、あいつ。ボート乗り場でもあいつは、背後から俺たちを見張っていたし。目が合うと睨みつけるし、殆ど変態だなって思ったよ。あいつには悪いけど。きっと、霧が濃くって俺たちの様子が見えないから、気が気じゃなかったんだろう。それで、お前の名前を呼んだんだろうな」
「そうなんだ」
正美はつき物が落ちたように、すっかり現実の世界に戻っていた。俺はボートを動かすためにオールを掴んだ。正美が俺を見つめ何か言いたげに口を開くが結局口を閉ざした。
俺はそっと正美に微笑み掛けた。
「それと・・正美」
「なに?」
「父さんを殺した時に・・俺が抱いた願望は、中学を卒業する頃にはちゃんと昇華されていたよ?さすがに、弱い俺も成長するさ。お前を巻き添えにして死にたいなんて今は思うはずもない。それに、妻の事もそれなりに‥‥頭の中で整理できてるんだ。俺はもう、子供じゃないからな。お前が悲しむ結論に達する事はないよ、正美」
「信じて・・いいの?」
「信じてくれよ。それに、俺はもうお前と秘密を共有したんだ。俺が死んだらその秘密をお前にだけ抱えさせる事になったしまう。そんなこと、俺ができるわけないだろ?」
「信じたいけど・・兄さんは、嘘が上手いから」
「もう自分の感情は偽らないよ、正美。俺は弱い人間だって認める。だから、正美・・俺を支えてくれ。これからは、はるかの代わりにお前が俺を支えてくれ」
俺の言葉に正美が目を見開きそして頷いた。
「支えるよ、兄さん!」
正美が照れくさそうに微笑む。俺もそっと笑った。
「正美、俺は生きていけそうだ。これからも」
俺たちが『深海の森』の世界から浮上するのとリンクするように、世界を覆っていた真っ白な霧が晴れてゆく。風に流され彼方に去ってゆく霧を俺たちは目を細めながら見つめていた。
白い世界が徐々に色を取り戻す。
空が青い。山々は緑に染まり、湖面には駒ケ岳の雄姿が映りこんでいた。湖畔に目をやると、ボート乗り場の位置が確認できた。
そして、男がひとり桟橋に立っている。
「和樹・・」
正美が愛おしいそうに彼の名を呼ぶ。少し胸が痛んだ。和樹の呼び声が、『深海の森』の世界に深く入り込んだ正美の精神を呼び起こした。その事実がひどく切ない。それでも、ボートは彼の元に向かう。
ぎしりと音を立てながらオールを漕ぐ。水面を滑り出したボートが俺たちを現実の世界に連れ戻していく。
◇◇◇◇◇◇
生きていた。あいつらが、生きていた。
正美が生きていた。
良かった。ほんまに。
桟橋に到着したボートを引き寄せながら、俺は心底ホッとしていた。霧で視界がまったくきかなくなったとき、俺の中にとてつもなく大きな不安がよぎった。そして思わず、正美の名を呼んでいた。夢中で、こいつの名を呼んだ。
その正美が、俺を見つめている。
その視線を意識しながらも、ボートをロープで岸辺に固定する。そして、俺は船に留まったままの兄弟をじっと見つめた。
それから、俺はにやりと笑って正美に手を差し伸べる。その手を取りながら、正美が俺に言葉を掛けた。
「和樹が僕のストーカーだとは思わなかったよ!大阪から、北海道までずっと後をつけていたの?ひょっとして、変態か・・お前??」
開口一番、そんな言葉かい!!
お前は俺がどんだけ心配したか、全然わかってないやろ。しかも・・なんや、その赤くなった首は!!
手形がくっきりやないかーーーーーーー??
俺は頭痛がして、その場に蹲りそうになった。なんとか体勢を保ったまま、正美を陸地に上げる。正美の兄貴の方は、さっさと桟橋に降り立っていた。俺は弘樹を思わず睨みつけてしまった。
「俺の変態具合に今頃気づくなやんて‥‥甘いで正美。俺は一生お前のストーカーとして生きるから覚悟しいや、正美」
「正美、気の毒だが・・一生、変態の餌食らしいぞ」
正美の兄貴が飄々と答える。
何が変態や!!
変態はお前の方やろ。弟の首に手を掛けて、何するつもりやったんや!!
言えるんやったら、言ってみい。
ああ・・あかん。
ホッとしたら怒りが沸いてきた。
「正美!俺はお前の兄貴と二人だけで話がある。そやから、先にコテージに帰っておいてくれるか?」
俺の言葉に正美が不審な顔をするが、それでも何かを感じたのか頷くと黙ってコテージに歩き出した。こういうところは素直やのに。なんで肝心なところが、ああも頑固なんやろうなぁ。ほんまに苦労する。正美の姿が見えなくなるのを確認してから口を開いた。
「聞いてもいいですか、弘樹さん?」
「何を?」
「正美の首が赤かったのは、なんでですか?」
「ああ、あれか。目ざといな、君は。あれは、俺が首を絞めたからだよ」
「っ!!あんたは!なんでそんなに、あっさり認めてるんや。少しは言い訳しろや!」
俺の反応に弘樹は、少し困ったように微笑む。
「君には信じてもらえないかもしれないけど、俺たちは本気で死ぬ気じゃなかったんだ。ただ、『深海の森』の雰囲気に呑まれてしまっただけだ」
本気じゃなくて、あんなにくっきりした手形が付くかってのか?しかも、雰囲気に呑まれて首を絞めて‥‥映画みたいに湖に沈むつもりやったんか??
あかん・・この兄弟は。
アホや
完全、アホやろ。
怒りを通り越して、呆れるだけやな。ほんまに、なんでこんな厄介な兄弟と知り合ってもうたんやろ。俺はため息を付きながら口を開いた。
「それで・・この旅はあんたら兄弟にとって、意味のあるものになったんですか?」
俺の質問に弘樹が頷く。
「秘密を共有したよ、正美と」
「秘密ねえ」
「それと・・あいつには、一生俺の支えになってもらうことにした」
「へぇーーー」
何や・・その支えって??
俺の不安を感じ取ったのか、正美の兄はそっと笑う。
「安心しろ。俺と正美は兄弟として支えあうって意味だよ。もう、あいつを抱く事もしない。正美はお前にやる。正美は本当にお前に惚れているんだ。幸せにしてやってくれ」
そこで、弘樹はいったん言葉を切る。そして、躊躇しながらも口を開く。
「それと・・約束をしてくれないか?」
「約束?」
「俺が東京に行っている間に、俺の身に何かあった時には‥‥あいつを、正美を一生支えてくれるか?」
「なにかあった時って。交通事故とか、そういう奴ですか?」
「まあ、そうだな」
交通事故ね・・ほんまにそれだけの意味か?
あんたは、東京で自分の身にあかんことをするつもりと違うやろうな?弟の首を絞めるくらいやから、完全に精神が回復してるとはいい難いし。
ほんまに・・ほんまに。
この兄弟は・・
「・・弘樹さん。たとえ、トラックに轢かれても飛行機が落ちても、意地でも生き残ってくださいよ!あんたは、正美の半身なんやから!!」
「半身?」
「そうです。もしあんたが死んだら・・正美はまともではおられへん」
「お前が傍にいるのに?」
「弘樹さんは‥‥自分の存在がどんだけ正美の中で大きいか、全く分かってない。俺はめちゃめちゃ感じてるのに。ほとんど、もう諦めの境地です」
弘樹は黙って俺を見つめていた。俺は思い切って口を開いた。
「悔しいけど、諦めて・・開き直って御釈迦さんの気分で、寛大に生きることにしたんです。俺は、正美の半身の弘樹さんもまとめて愛する事に決めたんです」
俺の言葉に弘樹が驚いたように目を見開く。
「二人とも、俺が愛します!!」
俺の宣言に、弘樹は苦笑いを浮かべる。
「心が広いというか・・もう、変態の境地だな」
弘樹の感想に脱力しそうになりながらも、俺はにやりと笑って答えた。
「変態ってゆうても、俺は弘樹さんにまで手を出すつもりはないですから。正美一筋なんで。だから、警戒せんでも大丈夫ですよ?」
「さすがに君と寝るのは俺も遠慮しておくよ。それにしても、君はやっぱり妻のはるかに似ていたな」
「え?」
「はるかも、俺に同じ事を言っていたから。俺の中の正美もまとめて愛してあげるってね」
弘樹がふわりと笑う。久々に見る穏やかな弘樹の笑顔に、俺は不覚にも目を奪われた。朝日を受けた駒ケ岳の景色にしっくりと馴染んで、弘樹が朗らかに笑う。
あかん。正美が兄貴から離れられへんのも分かるかも。この笑顔は、反則やろ。
くそ。まじで、これから永遠の三角関係が始まるわけか。自分で提案しといてなんやけど。なんとなく、俺は未練がましく別の提案もしてみた。
「まあ、俺としては‥‥できれば弘樹さんが東京に行ってる間に、いい人見つけて幸せになってもらえると嬉しいんですけどね?」
「諦めろ、和樹。それより、正美をひとりで待たせるのはどうかな。あいつは漫画家らしく妄想の塊らしいから、また『深海の森』に一人で沈んでいるかもしれないぞ?」
「そら、あかん。行きましょか?」
「ああ。」
「ところで、今日の観光は俺も一緒に行ってもかまいませんか?」
「ああ、いいよ」
歩き出した弘樹は、すでに俺を見ていなかった。足早に歩く俺たちの先では、コテージの前で所在無げに立っている正美が見えた。
朝日を受けた正美が妙に色っぽくて。
可愛くて、綺麗で。
抱きしめたい気分やったのに・・
なんで、弘樹が先に正美の傍に駆け寄るんや。ちゅうか・・なんや、その背中に回される手は。兄弟は背中に手を回したりせんやろ。つうか、俺の立場はぁーーーー??
不意に、正美が俺を見つめ微笑み口を開く。
「和樹」
「なんや」
「花畑と牧場を観光してアイスクリームが食べたい」
「それやったら、レンタカーでも借りよか?」
正美の無邪気な提案に、俺はもう微笑み返すしかなかった。少なくとも、その笑顔の中に俺への愛情を感じたから。自意識過剰やのうて、たぶん・・ほんまの愛やと思うから。
「三人でドライブだね!!」
正美が嬉しそうに微笑み言った。俺も弘樹も正美に微笑み返していた。
それぞれのコテージに戻り、準備を済ませ外に出ると既に正美と弘樹は湖の畔で待っていた。俺が二人に近づいた時、鳥の鳴き声が聞こえ俺たちは視線を湖に移す。
湖面を飛び立ってゆく鳥を目で追うと、雄大な自然が目に飛び込んできた。湖に映り込む駒ケ岳が、水面の中揺らいでいる。
もうそこに、『深海の森』の世界はなかった。
消え去った世界を惜しむように、正美が湖面を見つめていたので俺は正美に声をかけた。
「ほな、行こか?」
正美が頷き歩き出す。
これから俺たち三人の物語が始まる。そう思うとなんか複雑な気分になったが、正美が傍にいてくれるならそれだけで俺は幸せやと思う。
それってほんまに奇跡みたいな出逢いと違うやろか?
俺は、この兄弟に出逢えて幸せやと思う。
「あーー、俺は幸せやーーー!!」
「何だよ、いきなり和樹は?」
「正美、気をつけろよ。和樹は変態の傾向があるからな。兄として正美の事が心配だ」
「え、やっぱり変態なの‥‥和樹?」
「そんなん、あんたらに言われたくないわ!!」
(おわり)
◆◆◆◆◆
目を閉じた正美が苦しそうに顔を歪めた時、その声が俺の耳に届いた。
「正美ぃーーーーー正美いぃーーーーーーー!!」
白い世界を切り裂くように、誰かが弟を呼んだ。誰か?そうじゃない、俺は声の主を知っている。
俺に組み敷かれた正美が、その声に呼応するように目を見開く。困惑の表情を浮かべた正美が、顔を強張らせながらぱくぱくと口を開いている。
俺は震えを悟られないように、ゆっくりと正美の首に絡めた指を緩める。ひゅうと弟の喉から呼吸音が漏れた。正美は涙をぽろぽろ零しながら俺を見上げ口を開く。
「ごめん・・兄さん・・やだ、死にたくない。僕はまだ、僕はまだ死にたくない」
かすれた正美の声が白い世界に響いた。
視線を彷徨わせながら、正美が『深海の森』の世界から浮上する。その様子をじっと見つめながら、俺はそっと正美の首から手を離した。
今、俺は正美と共に逝く機会を失った。
同時に、共に生きる機会を得た。
その道がたとえ苦しくても、それがやはり正しい道なのだろう。そして、俺はやっぱり弟の前でやせ我慢を繰り返すんだろうな。俺は愚かだから。
でもそれでいいじゃないか?
正美が、笑って生きていけるなら。
笑えるさ。
笑え。笑って、正美を支えろ・・一生。
俺は泣き出した正美の額をこつんと小突くと、そっと笑って口を開いた。
「当たり前だ。そう簡単に死を決意するには・・お前も俺も俗人すぎるよ。世間に未練がないほど、俺たちは枯れてないだろ?」
「兄さん」
俺はそっと正美の頬を撫でた。
「まったく・・お前が、妙な提案をするから対処に困っただろ?いくら漫画家でオタクでも、『深海の森』の世界に嵌り込み過ぎだ、正美は!俺まで調子に乗ってつられたじゃないか。和樹が正美の事を心配するのも無理はないな」
「和樹が心配を。そうだ!今、和樹の声が聞こえた気がしたんだ!!あれは・・幻だったのかな?」
俺は正美を抱き起こすと岸辺を指差した。
「幻じゃないよ。あいつは、この湖に来ているんだ。霧が濃くて見えないけど、多分ボート乗り場の辺りで気を揉んでるんじゃないかな?」
「え?」
正美が驚いて目を見開く。俺はにやりと笑って口を開いた。
「種明かしをするとこうだ。あいつ、旅行の前日に俺のマンションを訪ねてきて、こう宣言していったんだ。『俺は正美のストーカーやから、二人の旅行にこっそりついて行くことにしました。別に危害は加えんので、気にせんといてください』ってね。実際、あいつはこの旅行にずっとついてきていたよ。まったく気が付かなかったのか、正美は?」
正美はぽかんとして俺を見つめていた。
「嘘・・だって、あいつは僕を信じてるから行ってこいって言ったのに」
「そういう文句は、本人に言えよ。本当にストーカー状態だったぞ、あいつ。ボート乗り場でもあいつは、背後から俺たちを見張っていたし。目が合うと睨みつけるし、殆ど変態だなって思ったよ。あいつには悪いけど。きっと、霧が濃くって俺たちの様子が見えないから、気が気じゃなかったんだろう。それで、お前の名前を呼んだんだろうな」
「そうなんだ」
正美はつき物が落ちたように、すっかり現実の世界に戻っていた。俺はボートを動かすためにオールを掴んだ。正美が俺を見つめ何か言いたげに口を開くが結局口を閉ざした。
俺はそっと正美に微笑み掛けた。
「それと・・正美」
「なに?」
「父さんを殺した時に・・俺が抱いた願望は、中学を卒業する頃にはちゃんと昇華されていたよ?さすがに、弱い俺も成長するさ。お前を巻き添えにして死にたいなんて今は思うはずもない。それに、妻の事もそれなりに‥‥頭の中で整理できてるんだ。俺はもう、子供じゃないからな。お前が悲しむ結論に達する事はないよ、正美」
「信じて・・いいの?」
「信じてくれよ。それに、俺はもうお前と秘密を共有したんだ。俺が死んだらその秘密をお前にだけ抱えさせる事になったしまう。そんなこと、俺ができるわけないだろ?」
「信じたいけど・・兄さんは、嘘が上手いから」
「もう自分の感情は偽らないよ、正美。俺は弱い人間だって認める。だから、正美・・俺を支えてくれ。これからは、はるかの代わりにお前が俺を支えてくれ」
俺の言葉に正美が目を見開きそして頷いた。
「支えるよ、兄さん!」
正美が照れくさそうに微笑む。俺もそっと笑った。
「正美、俺は生きていけそうだ。これからも」
俺たちが『深海の森』の世界から浮上するのとリンクするように、世界を覆っていた真っ白な霧が晴れてゆく。風に流され彼方に去ってゆく霧を俺たちは目を細めながら見つめていた。
白い世界が徐々に色を取り戻す。
空が青い。山々は緑に染まり、湖面には駒ケ岳の雄姿が映りこんでいた。湖畔に目をやると、ボート乗り場の位置が確認できた。
そして、男がひとり桟橋に立っている。
「和樹・・」
正美が愛おしいそうに彼の名を呼ぶ。少し胸が痛んだ。和樹の呼び声が、『深海の森』の世界に深く入り込んだ正美の精神を呼び起こした。その事実がひどく切ない。それでも、ボートは彼の元に向かう。
ぎしりと音を立てながらオールを漕ぐ。水面を滑り出したボートが俺たちを現実の世界に連れ戻していく。
◇◇◇◇◇◇
生きていた。あいつらが、生きていた。
正美が生きていた。
良かった。ほんまに。
桟橋に到着したボートを引き寄せながら、俺は心底ホッとしていた。霧で視界がまったくきかなくなったとき、俺の中にとてつもなく大きな不安がよぎった。そして思わず、正美の名を呼んでいた。夢中で、こいつの名を呼んだ。
その正美が、俺を見つめている。
その視線を意識しながらも、ボートをロープで岸辺に固定する。そして、俺は船に留まったままの兄弟をじっと見つめた。
それから、俺はにやりと笑って正美に手を差し伸べる。その手を取りながら、正美が俺に言葉を掛けた。
「和樹が僕のストーカーだとは思わなかったよ!大阪から、北海道までずっと後をつけていたの?ひょっとして、変態か・・お前??」
開口一番、そんな言葉かい!!
お前は俺がどんだけ心配したか、全然わかってないやろ。しかも・・なんや、その赤くなった首は!!
手形がくっきりやないかーーーーーーー??
俺は頭痛がして、その場に蹲りそうになった。なんとか体勢を保ったまま、正美を陸地に上げる。正美の兄貴の方は、さっさと桟橋に降り立っていた。俺は弘樹を思わず睨みつけてしまった。
「俺の変態具合に今頃気づくなやんて‥‥甘いで正美。俺は一生お前のストーカーとして生きるから覚悟しいや、正美」
「正美、気の毒だが・・一生、変態の餌食らしいぞ」
正美の兄貴が飄々と答える。
何が変態や!!
変態はお前の方やろ。弟の首に手を掛けて、何するつもりやったんや!!
言えるんやったら、言ってみい。
ああ・・あかん。
ホッとしたら怒りが沸いてきた。
「正美!俺はお前の兄貴と二人だけで話がある。そやから、先にコテージに帰っておいてくれるか?」
俺の言葉に正美が不審な顔をするが、それでも何かを感じたのか頷くと黙ってコテージに歩き出した。こういうところは素直やのに。なんで肝心なところが、ああも頑固なんやろうなぁ。ほんまに苦労する。正美の姿が見えなくなるのを確認してから口を開いた。
「聞いてもいいですか、弘樹さん?」
「何を?」
「正美の首が赤かったのは、なんでですか?」
「ああ、あれか。目ざといな、君は。あれは、俺が首を絞めたからだよ」
「っ!!あんたは!なんでそんなに、あっさり認めてるんや。少しは言い訳しろや!」
俺の反応に弘樹は、少し困ったように微笑む。
「君には信じてもらえないかもしれないけど、俺たちは本気で死ぬ気じゃなかったんだ。ただ、『深海の森』の雰囲気に呑まれてしまっただけだ」
本気じゃなくて、あんなにくっきりした手形が付くかってのか?しかも、雰囲気に呑まれて首を絞めて‥‥映画みたいに湖に沈むつもりやったんか??
あかん・・この兄弟は。
アホや
完全、アホやろ。
怒りを通り越して、呆れるだけやな。ほんまに、なんでこんな厄介な兄弟と知り合ってもうたんやろ。俺はため息を付きながら口を開いた。
「それで・・この旅はあんたら兄弟にとって、意味のあるものになったんですか?」
俺の質問に弘樹が頷く。
「秘密を共有したよ、正美と」
「秘密ねえ」
「それと・・あいつには、一生俺の支えになってもらうことにした」
「へぇーーー」
何や・・その支えって??
俺の不安を感じ取ったのか、正美の兄はそっと笑う。
「安心しろ。俺と正美は兄弟として支えあうって意味だよ。もう、あいつを抱く事もしない。正美はお前にやる。正美は本当にお前に惚れているんだ。幸せにしてやってくれ」
そこで、弘樹はいったん言葉を切る。そして、躊躇しながらも口を開く。
「それと・・約束をしてくれないか?」
「約束?」
「俺が東京に行っている間に、俺の身に何かあった時には‥‥あいつを、正美を一生支えてくれるか?」
「なにかあった時って。交通事故とか、そういう奴ですか?」
「まあ、そうだな」
交通事故ね・・ほんまにそれだけの意味か?
あんたは、東京で自分の身にあかんことをするつもりと違うやろうな?弟の首を絞めるくらいやから、完全に精神が回復してるとはいい難いし。
ほんまに・・ほんまに。
この兄弟は・・
「・・弘樹さん。たとえ、トラックに轢かれても飛行機が落ちても、意地でも生き残ってくださいよ!あんたは、正美の半身なんやから!!」
「半身?」
「そうです。もしあんたが死んだら・・正美はまともではおられへん」
「お前が傍にいるのに?」
「弘樹さんは‥‥自分の存在がどんだけ正美の中で大きいか、全く分かってない。俺はめちゃめちゃ感じてるのに。ほとんど、もう諦めの境地です」
弘樹は黙って俺を見つめていた。俺は思い切って口を開いた。
「悔しいけど、諦めて・・開き直って御釈迦さんの気分で、寛大に生きることにしたんです。俺は、正美の半身の弘樹さんもまとめて愛する事に決めたんです」
俺の言葉に弘樹が驚いたように目を見開く。
「二人とも、俺が愛します!!」
俺の宣言に、弘樹は苦笑いを浮かべる。
「心が広いというか・・もう、変態の境地だな」
弘樹の感想に脱力しそうになりながらも、俺はにやりと笑って答えた。
「変態ってゆうても、俺は弘樹さんにまで手を出すつもりはないですから。正美一筋なんで。だから、警戒せんでも大丈夫ですよ?」
「さすがに君と寝るのは俺も遠慮しておくよ。それにしても、君はやっぱり妻のはるかに似ていたな」
「え?」
「はるかも、俺に同じ事を言っていたから。俺の中の正美もまとめて愛してあげるってね」
弘樹がふわりと笑う。久々に見る穏やかな弘樹の笑顔に、俺は不覚にも目を奪われた。朝日を受けた駒ケ岳の景色にしっくりと馴染んで、弘樹が朗らかに笑う。
あかん。正美が兄貴から離れられへんのも分かるかも。この笑顔は、反則やろ。
くそ。まじで、これから永遠の三角関係が始まるわけか。自分で提案しといてなんやけど。なんとなく、俺は未練がましく別の提案もしてみた。
「まあ、俺としては‥‥できれば弘樹さんが東京に行ってる間に、いい人見つけて幸せになってもらえると嬉しいんですけどね?」
「諦めろ、和樹。それより、正美をひとりで待たせるのはどうかな。あいつは漫画家らしく妄想の塊らしいから、また『深海の森』に一人で沈んでいるかもしれないぞ?」
「そら、あかん。行きましょか?」
「ああ。」
「ところで、今日の観光は俺も一緒に行ってもかまいませんか?」
「ああ、いいよ」
歩き出した弘樹は、すでに俺を見ていなかった。足早に歩く俺たちの先では、コテージの前で所在無げに立っている正美が見えた。
朝日を受けた正美が妙に色っぽくて。
可愛くて、綺麗で。
抱きしめたい気分やったのに・・
なんで、弘樹が先に正美の傍に駆け寄るんや。ちゅうか・・なんや、その背中に回される手は。兄弟は背中に手を回したりせんやろ。つうか、俺の立場はぁーーーー??
不意に、正美が俺を見つめ微笑み口を開く。
「和樹」
「なんや」
「花畑と牧場を観光してアイスクリームが食べたい」
「それやったら、レンタカーでも借りよか?」
正美の無邪気な提案に、俺はもう微笑み返すしかなかった。少なくとも、その笑顔の中に俺への愛情を感じたから。自意識過剰やのうて、たぶん・・ほんまの愛やと思うから。
「三人でドライブだね!!」
正美が嬉しそうに微笑み言った。俺も弘樹も正美に微笑み返していた。
それぞれのコテージに戻り、準備を済ませ外に出ると既に正美と弘樹は湖の畔で待っていた。俺が二人に近づいた時、鳥の鳴き声が聞こえ俺たちは視線を湖に移す。
湖面を飛び立ってゆく鳥を目で追うと、雄大な自然が目に飛び込んできた。湖に映り込む駒ケ岳が、水面の中揺らいでいる。
もうそこに、『深海の森』の世界はなかった。
消え去った世界を惜しむように、正美が湖面を見つめていたので俺は正美に声をかけた。
「ほな、行こか?」
正美が頷き歩き出す。
これから俺たち三人の物語が始まる。そう思うとなんか複雑な気分になったが、正美が傍にいてくれるならそれだけで俺は幸せやと思う。
それってほんまに奇跡みたいな出逢いと違うやろか?
俺は、この兄弟に出逢えて幸せやと思う。
「あーー、俺は幸せやーーー!!」
「何だよ、いきなり和樹は?」
「正美、気をつけろよ。和樹は変態の傾向があるからな。兄として正美の事が心配だ」
「え、やっぱり変態なの‥‥和樹?」
「そんなん、あんたらに言われたくないわ!!」
(おわり)
◆◆◆◆◆
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精神的なグロテスクさの中に
非常に心打たれる何かがあります。
正美も含め登場人物が皆魅力的です。
しかし父親…凄まじい人物…。
感想コメントありがとうございます🌸精神的にグイグイ責めながら、救いのある話にしたいと思っています。コメントありがとうございました。
( ≧∀≦)ノ🌸
兄弟達の過去が本当に悲愴です。
苦しいです。
感想コメントありがとうございます。感情移入して読んで下さり嬉しいです。よろしくお願いします🌸
面白いです。
いいですね、こういう雰囲気嫌いじゃないですー!
続きが気になります。更新楽しみにしてます。
感想コメントありがとうございます。ブラックで切ない物語を目指して書いています。気に入っていただき嬉しいです。ありがとうございます🌸