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第52話

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しばらくの沈黙の後に、兄さんが岸辺を見つめながらぼそりと呟いた。

「霧が濃くなったな・・・・」

つられて僕も視線を移す。ボートに乗り込んだときより、霧が濃くなっている。ボート乗り場の位置も確認できない。ボートは少しの風でも大きく揺れる。

還る場所を見失った僕たちは、ただ白い世界の中抱きしめあっていた。

「・・これ以上、白を切ってもお前を苦しめるだけなのかもしれないな・・」

「兄さん」

兄さんが視線を僕に移す。まっすぐに僕を見つめるその瞳は、少し涙で滲んでいた。

「俺は父さんを殺した」

兄さんはそっと真実を告げると、僕をしっかりと抱きしめた。耳元に兄さんの吐息が漏れる。

「壊されると思ったんだ。俺も、お前も・・父さんの手で身も心も粉々にされるって思った。ただ、怖かったんだ。父さんの暴力も、それに従うしか能のない俺も・・消し去りたかった。この世界から」

兄さんが僕の頬を撫でる。

「それだけじゃない。父さんはお前を大人に抱かせた‥‥金の為に。あいつが生きていたら、ずっと俺たちを食いものにするつもりだって思った。許せるか、そんな事が?お前を穢し続けた俺に、そんな権利はないのかもしれないけど・・俺は、お前が誰かに抱かれて壊されるのが許せなかった。いや、単に独占欲だったのかもしれないな。今となっては分からないけど」

風に煽られボートが大きく揺れた。バランスを崩しかけた僕を兄さんが抱きしめる。そして、そのままボートの底に僕を組み敷いた。

僕が兄さんを見上げたまま黙っていると、涙がぽたりと僕の頬に落ちてきた。兄さんの涙。

「正美、俺は父さんを殺した時・・自分のもう一つの願望に気が付いたんだ。」

「願望?」

「中学生の時の俺は、毎日死にたがっていた。父さんの暴力に怯え、お前を傷つける自分自身に疲れてた。死にたかった。父さんとお前も巻き添えにして、死にたかったんだ‥‥俺は」

僕は目を見開いて兄さんを見つめた。

「兄さんはいつも僕を励ましてくれていたよ?一緒に生きていこうって、僕を何時も励ましてくれてた」

兄さんがそっと目を瞑る。

「全部嘘なんだ。俺は弱い人間で、何時も怯えていた。ただ正美の信頼を失いたくなくて、必死に強い人間を演じ続けていただけなんだよ」

「兄さん・・」

兄さんが僕の胸に頭をもたげる。体が合わさり、兄さんの激しい鼓動が聞こえた。

「苦しかった・・ずっと、苦しかったんだ。弱い人間が、強い人間を演じるのは辛いものだよ、正美」

震える兄さんを、僕は抱きしめていた。

「ごめんね、兄さん。僕が無理をさせていたんだね。ずっと、ずっと・・頼りっぱなしで。兄さんの気持ちに気づきもしないで・・」

僕は兄さんの何を見てきたのだろう? 何時も僕を励ましていた兄さんは虚像だったのか?精神をすり減らし疲弊した兄さんに、僕はしがみ付いて支えもしなかった。

僕は泣き出していた。涙がぽたぽた頬を流れて落ちてゆく。兄さんが僕の胸から顔をあげて、僕の顔を覗き込む。

「正美・・ごめん。俺はどうしてこんな話をしているんだろうな?お前を苦しめるつもりはないんだ。泣かなくていいから‥‥大丈夫だから‥‥」

兄さんが僕の頬をそっと撫でた。

「兄さん、もう無理をしなくていいよ。僕はもう弱い子供じゃないから」

こんな瞬間まで僕に気を使う兄さんの姿が切なくてたまらなかった。

「・・そうだな。正美は強い子だ。あんな過去があっても、まっすぐに成長したしな。夢を追って夢中で」

「兄さんが僕をずっと守り続けてくれたから。だから、今まで生きてこられたんだよ」

兄さんが切なげにそっと微笑む。 

「じゃあ、俺のやせ我慢も役に立ったってことだな」

「兄さん、もうやせ我慢なんてしなくていいんだよ。辛ければ泣いていいんだ。弱いなら弱いと認めてしまって、僕を頼ってよ。お願いだから、兄さん」

沈黙が落ちた。

「はるかと同じ事を俺に言ってくれるんだな、正美」
「はるかさんと?」

「あいつも俺は弱いと言ってたよ。それを認めてしまえって。私に頼っていいよって。そんな事を真正面から言ってくれる女は初めてだった。わがままで、俺の事を振り回すくせに、俺の弱い心を認めてくれていたんだ。でも、その妻ももういない」
「兄さん・・」
「きっと、はるかは和樹に似たタイプだな。おおらかで全てを包み込んでくれて、俺の中の正美の存在まで丸ごと愛してくれた。愚痴を言いながらもね。あんな女にはもう出逢えないだろうな、きっと‥‥」

兄さんは黙って、もう一度僕の胸に顔を埋めた。

「正美・・和樹と幸せになれ。お前はあいつを失ったりするな。正美はあいつと居れば大丈夫だから」

兄さんの背中は弱弱しく震えていた。切なくて、心が砕けそうだった。こんなに心を疲弊させているのに、兄さんはきっと独りで東京に行くんだ。どんなに、僕が引き止めても。

やせ我慢して、きっと僕に笑みを見せて。『大丈夫だよ』そんな言葉を、唇に乗せて。また、僕を守るために。

深い霧が、僕たちを包んでいた。僕はぼんやりと頭上に広がる白い世界を見つめていた。この霧の中なら、僕たちは世界に二人きりだと思えるのに。

なのに、僕には和樹がいて・・兄さんにはもう誰も傍にいない。そんなのは不公平だよね?同じ環境で生きてきたのに。父さんの暴力に耐えて、二人っきりで生きてきたのに。

僕はこの霧の世界を出てしまえば、また平穏な日常をむかえてしまう。和樹の元に戻ってしまう。

それで本当にいいのかな?

兄さんを独りにしてしまうくらいなら・・いっそ、ここで兄弟で終わりにしてもいいんじゃないか?

兄さんがそれを望むなら。

真っ白な世界が、僕の思考を『深海の森』に誘う。まるで白の世界に酔っているように思考が彷徨う。

僕の考えはおかしいのかもしれない。でも、世の中なんておかしなことで満ちているでしょ?兄さん、こんな終わり方も‥‥僕たち禁忌の関係の兄弟には相応しいんじゃないかな?

「兄さん・・一緒に行かない?」

兄さんが僕の言葉に顔をあげる。

「どこに、行くんだ?」
「二人だけのところに・・」

僕はそう言って、兄さんの両手にそっと触れた。兄さんが上体を起こして僕を見つめる。僕はゆっくりと兄さんの両手を掴み持ち上げて、僕の首に導いた。

兄さんが目を見開き、僕を見つめる。

「正美・・?」

「ねえ、兄さん。さっき、父さんを殺した時に気が付いた願望があるって言ってたよね?今も、その願望はあるの?」

「願望?」
「僕と一緒に死にたい?」  

兄さんが目を細めて僕を見つめる。 

「自分の言っていることが分かっているのか?」
「分かってるよ」
「お前は、『深海の森』の世界に酔っているんだよ」

「そうだね。でも、それで人生を終えても問題ないでしょ、兄さん?」
「問題大有りだろ」

兄さんの言葉がそっと途切れた。濃い霧が兄さんの姿さえ霞ませようとしている。長い沈黙。そして。

「兄さん・・」

僕の言葉が白い空気を動かす。不意に喉に圧迫が加わる。

「あ・・」

急激に苦しくなる呼吸に、僕は兄さんの服を掴んでいた。それでも、兄さんの手を振り払う事はしなかった。全てが幻想みたいで、死すら実感できない。

「正美・・」

兄さんの小さな囁きが耳に届いた。





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