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第32話 すれ違い

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◆◆◆◆◆


訪問者を知らせるインターフォンの呼び出し音に、俺は不審に思いながら玄関に向かった。妻は飛行機の遅れで、今日は帰っては来られないはず。

玄関ドアを開き俺は驚いた。扉の前に立っていたのは、ずぶ濡れの要だった。頭から足の先まで雨に濡れ、ポトポトと雫を廊下に落としていた。

「要、どうしたんだ!?」

「ごめんなさい、弘樹さん」

「とにかく、早く入れ。傘を持っていなかったのか。ずぶ濡れじゃないか?風呂に入った方がいい」

俺は要の腕を掴み玄関に引き込んだ。だが、彼は室内に入るのをためらう。

「どうした?」
「・・床が濡れちゃうから」

「馬鹿、そんな事気にしてる場合か!ひどい顔色をしているぞ、要」

「でも・・」

要が玄関でぐずぐずしているので、俺は強引に要を抱き寄せ脱衣室に連れ込む。要の体は酷く冷えていた。

「とにかく、シャワーを浴びろ。服は俺のものを用意しておくから。サイズは合わないだろうが、我慢してくれ」

「ごめんなさい・・」

要は雫を垂らしながら俯く。俺はぬれた彼の髪にそっと触れた。

「さっきから、謝ってばかりだな?謝るべきは俺の方なのに。俺からの電話を気にして、駆けつけてくれたんだろ?要、すまなかった」

俺が頭を下げると、要は慌てて頭を振った。

「弘樹さんは悪くないです!俺が勝手に来ただけですから!」

「とにかく、熱い湯を浴びてくれ。本当に顔色が悪いから」

俺はそう言うと脱衣室から出て扉を閉めた。しばらくすると、シャワー音が聞こえてきた。俺はホッとしてキッチンに向かう。

とにかく、熱いお茶でも飲ませないとまずい。酷い顔色で唇まで真っ青になっていた。それに、歩き方もぎこちなく見えた。

冬でもないので、そう冷たい雨が降っていたとは思えない。だが、傘を持たない要を雨の中俺の家に向かわせたのは、俺の電話が原因だ。本当は、正美に掛けるつもりだった電話・・。

早朝、俺は目覚めた正美を追い返すように帰宅させた。そうしないと、正美に酷い事をしてしまいそうだった。俺は一人で悶々と自宅で過ごしながら、妻の帰りを待っていた。少し、熱も出ていたようで、はるかに温かい粥を作ってもらうつもりだった。

だが、その予定は天候のせいで狂ってしまった。旅行先の妻から、天候悪化で今夜は帰れないと連絡があった。一人で夜を過ごすと考えると、俺の精神は途端に不安定になりだした。

そして、一番呼んではいけない弟に、電話を掛けそうになっていた。

『傍にいて欲しい、正美』

そう言いたかった。その気持ちを直前で何とか押さえ込み、その変わりとして要に電話を掛けていた。気が付くと要を選んで電話を掛けただけだったが、彼は駆けつけてくれた。

俺は申し訳ない気分になっていた。

脱衣室にまだ使っていない下着と適当に見繕った服を置く。そして、キッチンに戻り湯が沸いていたので火を止めた。しばらくすると、要が俺の服を来てリビングに現れた。彼は居心地悪そうに立っている。

「要、ソファーに座って待っていてくれ。今、お茶を持って行くから」

「あ、はい」

要は素直にソファーに腰を下ろす。俺もお茶を持ってリビングに向かう。テーブルにお茶を置くと、要の横に腰を下ろす。シャワーを浴びた要の顔色は良くなっていたが、それでも酷く疲れている様子だった。

「要は俺を心配して、来てくれたんだろ?悪かったね。お茶を飲んで体を暖めてくれ。落ち着いたら施設まで送っていくよ」

俺がそう言うと、要は驚いたように目を見開き見つめてきた。

「どうして?俺じゃ役に立たないですか?何かあったから、俺に電話を掛けたんでしょ!俺じゃ駄目ですか?俺、何でもします。話も聞きます。欲望のはけ口でもいい・・だから!!」

要が俺にしがみ付いてきた。肩を震わせながら、要がか細い声を出す。

「俺は、一日くらい施設に帰らなくても平気です。怒られるけど・・弘樹さんの役に立てるなら平気だよ?そうじゃないと、俺が生きてる意味なんてなくなっちゃうから・・」

要は体全体を震わせていた。

俺の役に立ちたいと要が強く願うのは、俺への依存を正当化する為だろう。そう思った。それでも、ひどく健気に思えた。俺は要の髪を優しく撫で頬に触れて、その肩を抱き寄せた。

懐かしい。

俺が結婚してはるかと住むようになるまでは、いつも俺の横には正美がいた。優しくて繊細な正美・・その弟をこの手で守るために何でもしてきた。そんな過去も、遠いものになりつつある。

正美は独り立ちしようとしている。

その手伝いをしたのは俺ではなく、藤村和樹だ。俺には分かる・・大事な弟だから分かる。

きっと、藤村は正美の特別な存在になる。同性の壁も越えて、二人は心を交わし愛し合う。俺の手の届かないところに、正美は行くんだ。それは兄として歓迎すべき事だ。正美には幸せになって欲しいと、願っている。なのに、どうして俺は・・。

「弘樹さん!!」

要が俺の頬を拭ってきた。その指が雫で濡れる。俺は泣いているのか?

「要、悪い。今夜は傍にいて欲しい」

俺がそう言って要をきつく抱き寄せると、彼はびくりと震えた。怯えた様子の要に言葉を続ける。

「お前を傷つける事はしない。ただ傍にいて、俺の話を聞いて欲しい。俺は気持ちを吐き出したい。それできっと、俺の心は落ち着くから。だから、俺の話を聞いて欲しい、要」


◇◇◇◇◇


弘樹さんが、俺の前で心をさらけ出している。追い詰められて傷ついた心を、俺にわけてくれようとしている。本当なら、この役目は奥さんなのかもしれない。でも、彼女は今日は帰ってこない。奥さんを北海道に足止めした天気に、俺は感謝したい。

風邪を引いて熱っぽい弘樹さんの体温が、衣服越しに感じる。ねえ、いいよ。俺は弘樹さんのためなら、何だって受け入れられる。傷つけてもいい。欲望のはけ口だって構わない。弘樹さんの役に立てるなら。

「俺は弱い人間なんだ・・昔から。父親から虐待を受けても、それから逃れるすべも考えられない弱い奴だった。その為に、俺は幼い弟を犠牲にしてしまった。俺の父親は・・父親は・・」

弘樹さんが言葉に詰まる。俺は弘樹さんの手をぎゅっと握った。それに反応した弘樹さんが、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「・・金の為に、父親は俺に弟を犯すように強要した。俺は無力で逆らえなかった。正美は何時も泣いて痛がって、やめて欲しいって叫んでいた。なのに・・無理やり何度も正美を陵辱したんだ・・俺は」

震える声で、弘樹さんが話し出す。

「俺は父親に暴力を振るわれていた。正美を抱かないと、父親は殴るんだ。腹や股間や色々・・外見から見えない所を、執拗に何度も何度も殴られた。怖かった。俺は父親が怖かったんだ。あいつの前では・・体が震えて動けなくなるんだ」

「弘樹さん!俺もそうだったよ!俺も怖かった。親父の前では、体が震えて何もできなかった」

弘樹さんは頷くと、俺の肩を優しく撫でてて口を開く。

「・・その内、俺は正美を抱きながら、快感を得るようになっていた。父親はそれを見抜いていたんだろうな。俺は共犯者だって、正美を虐待している張本人はお前だと、父親は言い出した。ことあるごとに、近親相姦野郎って俺を呼ぶんだ。警察に訴えれば俺も取調べを受けて、精神病院に入れられて・・二度と正美に会えないって。父親は俺を殴りながら、笑ってそう言っていた」

弘樹さんの目に怒りが溢れてくる。過去の怒りが今も生きているんだ。

「俺は警察には行かなかった。正美と離れたくなかったから。でも、父親に従属し続ける事も我慢できなかった。あんなゲスの言いなりなんてごめんだった!あいつは、幼い正美を知らない大人に抱かせたんだ!俺の目の前で。俺の正美を・・。今でも夢に見る。泥沼に浸かった俺の前で、正美が男に犯されるんだ。その時々で、男の顔は変わるんだけどな・・」

弘樹さんは俺を見つめ、少しため息を付き言葉を紡ぐ。

「許せなかった!だからアパートに火をつけて、父親を殺した。後悔は何もなかった。その話は、以前に要にも話したよな。俺は変態だよ・・父親が死んで性的な興奮を感じたんだから」

弘樹さんは少し笑って、ソファーに身を沈めた。

「俺と正美は施設に預けられた。だけど、母親は迎えには来てくれなかった。俺は寂しかった。それでも、俺には正美がいたから。弟を守る事が、俺の生きる意味になっていたんだ。父親を殺したのも何もかも、正美を守るためだって正当化して俺は生きてきたんだ」

「弘樹さんは何も悪くないよ!当然のことをしたんだよ。そんなやつ、死んで正解なんだ」

殺して正解なんだ。子供を食い物にする親なんて要らない。

「・・そう思っていた。実際そうだと思う。あいつを殺して後悔はなかった。でも、後悔と罪悪感は違うことに、俺は初めて気が付いた」

「罪悪感?」

「罪悪感ってのは厄介で、じわじわ俺の首を締め続けるんだ。それでも、正美が幼い頃は、罪悪感を感じずに済んだ。正美を守ることで必死だったからな。でも、弟は次第に成長して・・俺の助けを必要としなくなっていった。どうして、兄弟で一生支えあって生きていっては駄目なんだろうな?近づきすぎた兄弟は、世間には異様に映ったのかもしれない。もう体の関係はなかったのにな・・」

「・・弘樹さん」

「その世間の雰囲気を、正美は敏感に感じ取ったのかもしれない。正美は何時の頃からか、俺から離れる準備をし始めた。心の準備って奴をね。堪らなかった。そんな必要はないといいたかった。一生、傍にいて欲しかった。俺が守ってやるって、正美に言いたかった。でも、正美は世間に飛び出していった。きついバイトでも、愚痴一つ漏らさないで専門学校の学費を稼いだ。そして、あいつは自分の信じる世界に向かっていった。その専門学校で藤村という友を得て、生き生きとして見えたよ」

「正美さんは、弘樹さんの負担にはなりたくなかったんだと思うよ?別に、弘樹さんから離れたかったわけじゃないと思うよ?」

「きっと、そうなんだろうな。でも、俺は辛かった。寂しかった。守るべきものが離れていくんだ。俺の生きていく意義とか、理由とかがなくなっていくんだ。そうすると、また罪悪感が俺を苛み始めた」

弘樹さんが求めているのは正美さんだ。それが、愛なのか罪悪感からの逃避なのか分からない。だけど、やっぱり必要なのは正美さんなんだ。

すこし、胸が痛い。

「そんなときに、俺は妻のはるかに会ったんだ。あいつは、明るくて精神の強い女で。俺は、急激に彼女に惹かれた。俺は・・多分、離れてゆく弟から逃げたかったんだろうな。家庭を持つことで、俺の存在意義をまた得られると思った。だから、スピード婚をしたんだ。実際、正解だったと思った。弟と距離を置いて、見守る位置を手に入れたんだから」

不意に弘樹が顔をゆがめる。

「でも、それは正美の心を無視する結婚だった。あいつは、正美は、俺を愛していてくれたんだ。なのに、俺は突然あいつの腕を振りほどいて、女と結婚してしまった。正美が苦しんでいたって、藤村から聞かされて俺は動揺したよ。それどころか、過去の俺まで目覚めそうになっている。今の俺は、弟に欲情している。馬鹿なことだけど、それが真実なんだ」

「弘樹さんは、正美さんが欲しいんだね。正美さんを愛しているの?」

俺が聞くと弘樹さんが首を振る。

「どうかな・・俺は妻を愛していると思ってる。でも、心の底では誰を愛しているのか、自分でも分からない。それでも、俺は妻を裏切るつもりはない。それに、正美はもうすぐ俺を必要とはしなくなるはずだ。大丈夫なんだ。俺への愛はもう消えるはず。ただの兄弟の情愛に変わるんだ。藤村を愛して、あいつと支えあって、正美は生きていく。俺はもう必要ない。弟は幸せになる。俺は、嬉しいよ。喜ぶべきことなんだ・・」

違う。

弘樹さんが喜べるはずがない。
だって、弘樹さんが求めているのは奥さんじゃないよ?

分からないの?

酷く苦しそうに話しているのに、分からないの?涙が溢れているのに気が付かないの、弘樹さん?

弘樹さんに必要なのは正美さんだよ。

抱きしめたいんでしょ?
昔みたいに抱きしめて、その手で守ってあげたいんでしょ?誰にも渡したくないんでしょ?

だって、そうだよね?父親を殺してまで、正美さんを守って手に入れたんだもの。その大切な人を奪われるなんて、耐えられないよね。

俺分かるよ?

弘樹さんの心が見えるよ。弘樹さんが心の底で何を求めて泣いているのか。

正美さんも弘樹さんを愛してるのなら、何の問題もないんじゃない?世間なんて関係ないよ。二人が幸せならそれでいいじゃない。

ねえ、弘樹さんそうじゃない?

不意に、弘樹さんがそっと笑顔を見せて立ち上がった。

「ごめんな、要。こんな話を聞かせてしまって。今日は、もう遅いし泊まっていくか?施設には連絡しておくよ。君が怒られないような理由を、考えないとな。ご飯を食べていないなら、何か作ろうか?まあ、大したものはできないけどね」

そんな風に無理に笑顔を見せなくても大丈夫だよ、弘樹さん。大丈夫だよ、俺は受け取ったから。

弘樹さんは、正美さんが欲しいんだよね?そうだよね?俺はその手伝いをすればいいんだよね?

「要は、寝る時は俺の寝室を使ってくれ。俺はリビングで眠るから」

俺になんか、気を使わなくていいよ。
傷つけてくれても構わないのに、弘樹さんは優しいね。どうして、こんなに優しいのかな。

こんなに優しいから、弘樹さんは奥さんと別れられないんだね。正美さんが好きなら、彼女と別れて弟をその手に囲えばいいのに。

俺ならそうするのに。

同じ父親殺しなのに、どうして弘樹さんはこんなに優しいのかな?

「要、今日は・・来てくれてありがとう。助かった。少し落ち着いたよ、心が」

涙ぐんでるよ、弘樹さん。なんて、繊細な心なんだろう。

弘樹さんが優しすぎて奥さんと別れられないなら、俺がそうしてあげる。そうだ、正美さんから藤村さんを引き離す事もしないとね。

どうすれば、うまくいくかな?
どうすれば、弘樹さんは正美さんを手に入れられるんだろう?

考えないと。
考えないと。

「要、芋粥でもいいか?俺、好きなんだ。お前また顔色が悪くなってきたから、胃に優しいものの方がいいだろ」

俺は笑って返事する。

「それ、食べたい」

弘樹さん・・俺の弘樹さん。



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