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序章
10 初めての旅路
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シルヴァレートは馬舎亭で葦毛の馬を借りると、シリウスの体を撫でながらアトロポスに言った。
「この馬は、王宮で一番の駿馬だ。だから、お前の愛馬にしろ」
「え? でも、シリウスはシルヴァレートの馬なんでしょう?」
シルヴァレートの言葉に驚いて、アトロポスは彼の顔を見つめた。借りるならともかく、馬を買うとなると一般的には一頭で最低でも白金貨十枚はするはずだった。まして、この国随一の駿馬だとしたら、シリウスの価値は白金貨数百枚になるかもしれなかった。
「お前はまだ俺を信用していないみたいだからな。お前の信頼が買えるなら、シリウスを渡すくらい安いものだ。シリウスもお前のことが気に入ったみたいだしな」
シルヴァレートの言葉が分かったのか、シリウスがヒヒーンと嘶いた。
「信じられない……。あなた、馬鹿なの?」
シルヴァレートの気持ちは十分過ぎるほどアトロポスに伝わった。レウルキア王国一番の名馬を託されるなど、騎士にとって最高の名誉だった。
「ああ、馬鹿かもな。でも、俺にとってはシリウスよりもお前の方が価値があるのさ」
シルヴァレートの碧眼に思いも寄らない真剣な光が秘められていることに気づき、アトロポスはカアッと頬が染まり鼓動が速まった。
「し、シリウスは確かに素晴らしい馬だけど……。私があなたを信頼するかどうかは、別の話よ……」
「構わんさ。隣の店で旅に入り用な物を揃えてから出発するぞ」
アトロポスの頭にポンと手を乗せると、シルヴァレートは馬舎亭の隣りにある雑貨屋に向かって歩き出した。
(な、何なのよ、あいつ……。私はシルヴァレートのことを大っ嫌いなはずよ……)
シルヴァレートが触れた髪を左手で撫ぜながら、アトロポスは真っ赤に染まりながら立ち尽くした。ドクン、ドクンと激しく心臓が脈打っているのが自分でも分かった。アトロポスは気持ちを落ち着かせるように大きく深呼吸をすると、慌ててシルヴァレートの後を追いかけた。
飲み水を満たした水筒と三日分の携帯食、毛布と着替え、それらを入れるための重量軽減魔法付きの鞄を二人分ずつ買った。その他に、刃渡り十五セグメッツェほどの短刀を鞘付きで二本購入した。短刀は調理に使えるだけでなく、いざという時には武器にもなるので、一本持っていると便利なのだ。
全部で金貨十枚だった。十日間の馬代も含めると金貨十二枚になった。銀貨七枚しか持っていないアトロポスは焦ったが、すべてシルヴァレートが払ってくれた。
「さて、出発するぞ」
葦毛に跨がりながら、シルヴァレートがアトロポスに声を掛けた。
「あの……色々とありがとう、シルヴァレート」
「ん? 何がだ?」
「いえ、旅の準備とか……」
シルヴァレートの顔を見るだけで頬が熱くなり、アトロポスは下を向きながらボソリと言った。
「慌て者のお前のことだ。どうせ朱雀宮のあの部屋からナイフ一本しか持ち出してないんだろう? 倒れていた衛兵の側に果物ナイフが落ちていた。ああ、その衛兵は死んでないから安心しろ」
「そうなの?」
アトロポスは廊下で遭った衛兵の頸動脈を切ったのだ。重傷だったはずである。
「ああ。発見が早かったおかげで医療班のハイヒールが間に合った。剣を奪って売ったのか? その金で細短剣や革鎧、コートを買って宿に泊まったら、手元にはいくらも残っていないだろう? 文無しでレウルーラを出るつもりだったのか? 無計画にもほどがあるぞ、アトロポス」
シルヴァレートはアトロポスの行動を正確に読み取っていた。そして、呆れたように笑いながらそう告げた。
「し、失礼ね。文無しじゃないわよ。あと銀貨七枚あるわ」
「お前、思っていた以上に勇者だな。何の準備もなしで銀貨七枚で旅に出るつもりだったのか?」
「わ、悪い? いざとなれば冒険者にでもなって稼ぐつもりだったのよ」
シルヴァレートの指摘にバツが悪そうな表情を浮かべながら、アトロポスが弁明した。
「まあ、最低限の旅装は整えたが、旅先では何があるか分からない。これを鎧の隠しにでも入れておけ」
そう告げると、シルヴァレートは白金貨一枚を手に取ってアトロポスに渡した。
「え……、でも……」
白金貨一枚あれば、中級宿であれば十日間は食事付きで滞在できた。
「気にするな。一応、ある程度の金は持ってきている。収入の目処が立つまでは、当面は俺が全部払う。それは万一の時のためだ。持っていろ」
「うん。ありがとう、シルヴァレート」
白金貨を手に取ると、アトロポスは革鎧の内側にある隠しにしまいながらシルヴァレートに礼を言った。
「では、行くぞ。遅れるなよ、アトロポス。ハッ!」
そう告げると、シルヴァレートは横腹を蹴って葦毛を走らせた。
「シリウスはこの国で一番の駿馬なんでしょ? シルヴァレートこそ遅れないでね。ハッ!」
アトロポスはシルヴァレートに負けじと腹を蹴って、シリウスを走らせ始めた。
(まさか、シルヴァレートと一緒に旅に出るなんて……。でも、思っていたより悪い男じゃなさそうね……)
第一印象は最悪だったが、アトロポスは少しずつシルヴァレートに心を開き始めていた。
首都レウルーラの東大門から南東に走る街道に沿って、二人はおよそ三刻ほど馬を駆った。途中、食事や馬を休めるために休憩を三回取り、夜の四つ鐘を過ぎた頃に最初の目的地である街、ザルーエクに到着した。
ザルーエクは人口およそ千人と首都レウルーラ周辺では最も大きな街だった。各ギルドの支部も揃っており、中でも鍛治士ギルドは首都レウルーラを凌ぐ規模を誇っていた。
「今夜はここに泊まろう」
ザルーエクの入口にある馬繋場にシリウスと葦毛を預けると、シルヴァレートは街の中心部にある中級宿にアトロポスを伴った。中級宿にしては瀟洒な造りをした三階建ての宿だった。入口の看板には、白地に青い字で『雲雀亭』と書かれていた。
「部屋は別なんでしょうね?」
三日三晩シルヴァレートに抱かれたことを思い出すと、アトロポスは顔を赤らめながら訊ねた。
「何でだ?」
「何でって……当然でしょ?」
シルヴァレートはニヤリと笑みを浮かべると、小声でアトロポスに囁いた。
「俺はアルティシアを助けるという約束を守った。だから、あの契約はまだ有効だ。あの公文書に何て書かれていたか、忘れたとは言わせないぞ」
「そ、それは……」
『我シルヴァレート=フォン=アレキサンドルは、アルティシア=フォン=アレキサンドルの助命をここに約すものとする。その代償として、護衛騎士アトロポスの身を受けるものとする。以降、アトロポスはシルヴァレートの命に従うものとする』
アトロポスは契約書の内容を思い出して愕然とした。その様子を見つめると、シルヴァレートは宿の受付嬢に向かって告げた。
「できるだけいい二人部屋を……。特別室があれば、それでも構わない」
「かしこまりました。三階の三〇一号室が特別室となっております。そちらであればご用意できますが、いかがいたしますか?」
シルヴァレートが本物の王子だとは思ってもいないだろうが、上品で高級な衣服を身につけているためか、受付嬢の態度は慇懃だった。
「それでいい。案内を頼む」
「はい。かしこまりました。こちらへどうぞ」
受付カウンターから出てくると、受付嬢はシルヴァレートとアトロポスに丁寧に一礼をして二人を促すように歩き始めた。呆然としていたアトロポスは、シルヴァレートに背中を押されてハッと我に返った。
(そんな……。また、あんなことをされるの?)
あの時ほどシルヴァレートに対する嫌悪感はなくなったとは言え、それとこれとは話が別だった。一方的に蹂躙され、何度も望まない絶頂を極めされられたことを思い出し、アトロポスは恥ずかしさのあまり逃げ出したくなった。
「部屋に荷物を置いたら、夕食を食べに行こう。腹が減ったろう?」
「う、うん……」
シルヴァレートがすぐに自分を抱くつもりでないことを知り、アトロポスはホッと胸を撫で下ろすとゆっくりと歩き出した。
(そうだ。夕食の時、シルヴァレートを酔い潰せば……)
半日も馬を駆けさせたのだ。シルヴァレートも疲れていないはずはない。そこに強めの酒を勧めれば、自分を抱くどころではなくなるはずだとアトロポスは考えた。
だが、そんな考えなど手に取るように読み取り、シルヴァレートが面白そうな笑みを浮かべていることアトロポスは気づかなかった。
「この馬は、王宮で一番の駿馬だ。だから、お前の愛馬にしろ」
「え? でも、シリウスはシルヴァレートの馬なんでしょう?」
シルヴァレートの言葉に驚いて、アトロポスは彼の顔を見つめた。借りるならともかく、馬を買うとなると一般的には一頭で最低でも白金貨十枚はするはずだった。まして、この国随一の駿馬だとしたら、シリウスの価値は白金貨数百枚になるかもしれなかった。
「お前はまだ俺を信用していないみたいだからな。お前の信頼が買えるなら、シリウスを渡すくらい安いものだ。シリウスもお前のことが気に入ったみたいだしな」
シルヴァレートの言葉が分かったのか、シリウスがヒヒーンと嘶いた。
「信じられない……。あなた、馬鹿なの?」
シルヴァレートの気持ちは十分過ぎるほどアトロポスに伝わった。レウルキア王国一番の名馬を託されるなど、騎士にとって最高の名誉だった。
「ああ、馬鹿かもな。でも、俺にとってはシリウスよりもお前の方が価値があるのさ」
シルヴァレートの碧眼に思いも寄らない真剣な光が秘められていることに気づき、アトロポスはカアッと頬が染まり鼓動が速まった。
「し、シリウスは確かに素晴らしい馬だけど……。私があなたを信頼するかどうかは、別の話よ……」
「構わんさ。隣の店で旅に入り用な物を揃えてから出発するぞ」
アトロポスの頭にポンと手を乗せると、シルヴァレートは馬舎亭の隣りにある雑貨屋に向かって歩き出した。
(な、何なのよ、あいつ……。私はシルヴァレートのことを大っ嫌いなはずよ……)
シルヴァレートが触れた髪を左手で撫ぜながら、アトロポスは真っ赤に染まりながら立ち尽くした。ドクン、ドクンと激しく心臓が脈打っているのが自分でも分かった。アトロポスは気持ちを落ち着かせるように大きく深呼吸をすると、慌ててシルヴァレートの後を追いかけた。
飲み水を満たした水筒と三日分の携帯食、毛布と着替え、それらを入れるための重量軽減魔法付きの鞄を二人分ずつ買った。その他に、刃渡り十五セグメッツェほどの短刀を鞘付きで二本購入した。短刀は調理に使えるだけでなく、いざという時には武器にもなるので、一本持っていると便利なのだ。
全部で金貨十枚だった。十日間の馬代も含めると金貨十二枚になった。銀貨七枚しか持っていないアトロポスは焦ったが、すべてシルヴァレートが払ってくれた。
「さて、出発するぞ」
葦毛に跨がりながら、シルヴァレートがアトロポスに声を掛けた。
「あの……色々とありがとう、シルヴァレート」
「ん? 何がだ?」
「いえ、旅の準備とか……」
シルヴァレートの顔を見るだけで頬が熱くなり、アトロポスは下を向きながらボソリと言った。
「慌て者のお前のことだ。どうせ朱雀宮のあの部屋からナイフ一本しか持ち出してないんだろう? 倒れていた衛兵の側に果物ナイフが落ちていた。ああ、その衛兵は死んでないから安心しろ」
「そうなの?」
アトロポスは廊下で遭った衛兵の頸動脈を切ったのだ。重傷だったはずである。
「ああ。発見が早かったおかげで医療班のハイヒールが間に合った。剣を奪って売ったのか? その金で細短剣や革鎧、コートを買って宿に泊まったら、手元にはいくらも残っていないだろう? 文無しでレウルーラを出るつもりだったのか? 無計画にもほどがあるぞ、アトロポス」
シルヴァレートはアトロポスの行動を正確に読み取っていた。そして、呆れたように笑いながらそう告げた。
「し、失礼ね。文無しじゃないわよ。あと銀貨七枚あるわ」
「お前、思っていた以上に勇者だな。何の準備もなしで銀貨七枚で旅に出るつもりだったのか?」
「わ、悪い? いざとなれば冒険者にでもなって稼ぐつもりだったのよ」
シルヴァレートの指摘にバツが悪そうな表情を浮かべながら、アトロポスが弁明した。
「まあ、最低限の旅装は整えたが、旅先では何があるか分からない。これを鎧の隠しにでも入れておけ」
そう告げると、シルヴァレートは白金貨一枚を手に取ってアトロポスに渡した。
「え……、でも……」
白金貨一枚あれば、中級宿であれば十日間は食事付きで滞在できた。
「気にするな。一応、ある程度の金は持ってきている。収入の目処が立つまでは、当面は俺が全部払う。それは万一の時のためだ。持っていろ」
「うん。ありがとう、シルヴァレート」
白金貨を手に取ると、アトロポスは革鎧の内側にある隠しにしまいながらシルヴァレートに礼を言った。
「では、行くぞ。遅れるなよ、アトロポス。ハッ!」
そう告げると、シルヴァレートは横腹を蹴って葦毛を走らせた。
「シリウスはこの国で一番の駿馬なんでしょ? シルヴァレートこそ遅れないでね。ハッ!」
アトロポスはシルヴァレートに負けじと腹を蹴って、シリウスを走らせ始めた。
(まさか、シルヴァレートと一緒に旅に出るなんて……。でも、思っていたより悪い男じゃなさそうね……)
第一印象は最悪だったが、アトロポスは少しずつシルヴァレートに心を開き始めていた。
首都レウルーラの東大門から南東に走る街道に沿って、二人はおよそ三刻ほど馬を駆った。途中、食事や馬を休めるために休憩を三回取り、夜の四つ鐘を過ぎた頃に最初の目的地である街、ザルーエクに到着した。
ザルーエクは人口およそ千人と首都レウルーラ周辺では最も大きな街だった。各ギルドの支部も揃っており、中でも鍛治士ギルドは首都レウルーラを凌ぐ規模を誇っていた。
「今夜はここに泊まろう」
ザルーエクの入口にある馬繋場にシリウスと葦毛を預けると、シルヴァレートは街の中心部にある中級宿にアトロポスを伴った。中級宿にしては瀟洒な造りをした三階建ての宿だった。入口の看板には、白地に青い字で『雲雀亭』と書かれていた。
「部屋は別なんでしょうね?」
三日三晩シルヴァレートに抱かれたことを思い出すと、アトロポスは顔を赤らめながら訊ねた。
「何でだ?」
「何でって……当然でしょ?」
シルヴァレートはニヤリと笑みを浮かべると、小声でアトロポスに囁いた。
「俺はアルティシアを助けるという約束を守った。だから、あの契約はまだ有効だ。あの公文書に何て書かれていたか、忘れたとは言わせないぞ」
「そ、それは……」
『我シルヴァレート=フォン=アレキサンドルは、アルティシア=フォン=アレキサンドルの助命をここに約すものとする。その代償として、護衛騎士アトロポスの身を受けるものとする。以降、アトロポスはシルヴァレートの命に従うものとする』
アトロポスは契約書の内容を思い出して愕然とした。その様子を見つめると、シルヴァレートは宿の受付嬢に向かって告げた。
「できるだけいい二人部屋を……。特別室があれば、それでも構わない」
「かしこまりました。三階の三〇一号室が特別室となっております。そちらであればご用意できますが、いかがいたしますか?」
シルヴァレートが本物の王子だとは思ってもいないだろうが、上品で高級な衣服を身につけているためか、受付嬢の態度は慇懃だった。
「それでいい。案内を頼む」
「はい。かしこまりました。こちらへどうぞ」
受付カウンターから出てくると、受付嬢はシルヴァレートとアトロポスに丁寧に一礼をして二人を促すように歩き始めた。呆然としていたアトロポスは、シルヴァレートに背中を押されてハッと我に返った。
(そんな……。また、あんなことをされるの?)
あの時ほどシルヴァレートに対する嫌悪感はなくなったとは言え、それとこれとは話が別だった。一方的に蹂躙され、何度も望まない絶頂を極めされられたことを思い出し、アトロポスは恥ずかしさのあまり逃げ出したくなった。
「部屋に荷物を置いたら、夕食を食べに行こう。腹が減ったろう?」
「う、うん……」
シルヴァレートがすぐに自分を抱くつもりでないことを知り、アトロポスはホッと胸を撫で下ろすとゆっくりと歩き出した。
(そうだ。夕食の時、シルヴァレートを酔い潰せば……)
半日も馬を駆けさせたのだ。シルヴァレートも疲れていないはずはない。そこに強めの酒を勧めれば、自分を抱くどころではなくなるはずだとアトロポスは考えた。
だが、そんな考えなど手に取るように読み取り、シルヴァレートが面白そうな笑みを浮かべていることアトロポスは気づかなかった。
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