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序章
9 権威からの逃走
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「シルヴァレート、これは……」
遠目には分からなかったが、目の前の台座に置かれている女性の顔はアルティシアではなかった。確かに似てはいたが、十年もの年月を共に過ごしてきたアトロポスがアルティシアの顔を見違えるはずはなかった。
「もう一度言う。俺はお前との約束を破ってなどいない。このことは父であるアンドロゴラス王も知らない」
囁くような声でシルヴァレートが告げた。
「シルヴァレート、あなた……」
「アルティシアは生きている。心配するな、怪我一つしていない。だが、この国にはアルティシアの居場所はもうない。だから、国外に逃がした」
(姫様が生きている? この男の言葉を信じてもいいの?)
アトロポスは期待と不安を混在させた黒曜石の瞳でシルヴァレートを見つめた。彼の碧眼は真剣さとともに優しい光を浮かべていた。その眼差しをアトロポスは知っていた。
(あの時の眼と同じ……)
朱雀宮で抱きしめられ、口づけを交わしたときの眼だった。濃厚に舌を絡められながら彼に抱かれたことを思い出し、アトロポスの顔は赤く染まった。
「姫様はどこに……?」
「今はゆっくりと話している時間がない。お前はこのまま俺を人質にして馬を奪え。そして、二人でレウルーラを出るんだ」
シルヴァレートは真剣な眼差しでアトロポスを見つめたまま、彼女の耳元に口を寄せて囁いた。
「いくらお前でも、ダリウスが率いる近衛騎士団百人を相手にすることなどできまい。俺を信じて、一芝居打て」
(確かにシルヴァレートの言うとおりだけど……。彼を信じていいの?)
シルヴァレートの碧眼を見据えると、アトロポスは心を決めた。魂を揺さぶるような真摯な輝きがそこにはあった。
「……分かったわ」
小さく頷くと、アトロポスはシルヴァレートの喉元に細短剣の刃を当てながら叫んだ。
「馬を用意しなさい! 二人乗りでも走れる強い軍馬よ! シルヴァレートの首を落とされたくなかったら、さっさと用意しなさい!」
アトロポスの言葉に、ダリウスが歯ぎしりしながら部下に向かって怒鳴った。彼女と直接剣を交わしたダリウスは、アトロポスの剣技を十分すぎるほど知っていたのだ。
「言うとおりにしろ! 早く馬を曳いてこい!」
ダリウスの命令を受けて、一人の若い騎士が王宮の中に駆け込んでいった。
「馬を手に入れたら、東大門に向かえ。東大門の近くに馬舎亭がある。そこでもう一頭、馬を借りる。いくら軍馬と言っても、長時間二人を乗せて走ることはできない」
シルヴァレートがアトロポスの耳元で囁いた。
「どこに向かうの?」
「ユピテル皇国だ。これだけの騒ぎを起こしたんだ。この国にいたら、必ず捕まるぞ」
碧眼を面白そうに輝かせながら、シルヴァレートが言った。
「まさか、ユピテル皇国まで私と一緒に来るつもり?」
「公子ならまだしも、王子なんて堅苦しい身分は性に合わない。そんな物、マルキウスに任せて付き合ってやるよ」
シルヴァレートは片目を瞑りながらニヤリと笑った。
「マルキウス公子って、十四歳でしょ? あなた、何を考えて……」
マルキウスはアンドロゴラスが側室に産ませた息子で、シルヴァレートの母違いの弟だった。
「しっ! 馬が来たぞ。俺は後ろに乗るから、お前が前で手綱を持て」
驚きのあまり大声を出しそうになったアトロポスを眼で抑えると、シルヴァレートは真剣な表情に戻って若い騎士が曳いてきた馬を見つめた。
(信じられない! 政変までして手に入れた王子の地位を捨てるつもりなの?)
シルヴァレートの喉元に細短剣を突きつけながら、アトロポスは呆然として彼の横顔を見上げた。
「シリウスか。俺の馬の中では一番の駿馬だ」
堂々とした体躯の青鹿毛を見て、シルヴァレートが自慢そうに呟いた。その言葉で、アトロポスはハッと我に返った。
「シルヴァレート、先に乗って」
細短剣を彼の喉元から離すと、アトロポスが短く告げた。もちろん、いつでもシルヴァレートに斬りかかれる体勢は崩さなかった。
「いいぞ」
シリウスのやや後ろ側に騎乗すると、シルヴァレートはアトロポスに声を掛けた。それに頷くと、アトロポスは助走を付けてシルヴァレートの前に飛び乗った。
「ダリウス将軍、一ザンの間、私たちを追うことを禁じます! もし約束を違えたら、シルヴァレートを殺すわ」
鐙に足をかけ、手綱を握りながらアトロポスは馬上からダリウスを見下ろした。
「アトロポス、王子をどうするつもりだ?」
怒りと疑惑を混在させた眼でアトロポスを睨みながら、ダリウスが訊ねてきた。
「私が安全と判断できる場所に着いたら……」
「ダリウス、後は任せた」
アトロポスの言葉を遮るように、シルヴァレートが笑顔を浮かべながら告げた。
「え……?」
「王子……? どういう意味……?」
アトロポスとダリウスの驚きを無視して、シルヴァレートが左腰に差した長剣を鞘ごと引き抜き、シリウスの尻を叩いた。
ヒッヒーンっと嘶くと、シリウスが二人を乗せたまま走り出した。
「王子ッ!」
背後から聞こえてきたダリウスの叫びに、シルヴァレートが右手を上げて答えた。
「悪いな、ダリウス! これは俺がアトロポスに命じてやらせたことだ! 俺には王子など似合わん! 後のことはお前に任せるから、父上と相談してマルキウスを立てるかどうか決めてくれ!」
そう叫ぶと、シルヴァレートはピシリと剣鞘でシリウスの尻を再び叩いた。不当な仕打ちを受けたシリウスが、怒ったように速度を上げて疾駆し始めた。
アトロポスは驚き呆れながら、小さくなっていく後方の混乱の声を聞いていた。
「ちょっと、どこ触ってるのよ!」
アトロポスの腰に回されていたシルヴァラートの手が上に伸び、胸を弄り始めていた。
「鎧の上から触ってもつまらんな。柔らかくも何ともない」
「ふざけないで! それより本気なの、シルヴァレート?」
ピシャリとシルヴァレートの手を引っ叩くと、アトロポスはシリウスで西シドニア通りを走りながら訊ねた。
「一国の王子を呼び捨てにする騎士はお前くらいだな」
面白そうに笑いながら、シルヴァレートは再び両腕をアトロポスの腰に回した。
「もう王子じゃないじゃない。それより、そんなにピッタリとくっつかないで!」
「シリウスは王宮随一の駿馬だ。振り落とされたら嫌だからな。フゥ……」
アトロポスの左耳元で囁くように告げると、シルヴァレートは熱い息を吹きかけた。
「ひゃあッ!」
「おっ? 可愛い声だな。感じたか?」
「これ以上変なことしたら、ホントに振り落とすわよ!」
恥ずかしさと怒りのため、真っ赤に染まりながらアトロポスが怒鳴った。シルヴァレートに息を吹きかけられた瞬間、アトロポスはゾクリとした自分が許せなかったのだ。
「冗談だ。そんなに怒るな。でも、俺のおかげで犯罪者にならなかったんだから、少しくらいは感謝しろよ」
「よ、余計なことしないでよね」
アトロポスがあの場に乱入してシルヴァレートを拉致したことは、すべて彼の命令だということになった。王族の命令に従っただけなので、罪に問われることはないはずだった。
「相変わらず素直じゃないな、アトロポス。だが、そういうところが気に入っているんだが……。お、馬舎亭が見えてきたぞ。良い馬があるといいんだが……」
(気に入っているって、何よ……)
再び赤くなった顔を隠すように、アトロポスはフードを目深に被りながら前方を見た。シルヴァレートの言葉通り、東大門の左手前に馬舎亭が見えた。
「アトロポス、騎士証は持っているか?」
「あなたに渡した革袋に、第一騎士団の団服が入っているわ。その内ポケットにあるはずよ」
「えーと……。これか。馬を借りるのも、東大門を出るときも、お前の騎士証で手続きしてくれ」
右脇から手を廻し、シルヴァレートがアトロポスの騎士証を渡してきた。
「いいけど、何で? 王子の徽章の方が有効じゃないの?」
「俺がこの首都レウルーラから出たという痕跡を残したくない。時間稼ぎにしかならないかも知れないが、うまく行けばダリウスたちはまだ俺がこの街にいるという可能性を捨てきれないだろう」
「なるほど……。分かったわ」
(軽薄で強引だけど、やはり頭は切れるわね。でも、本当にどこまで彼の言葉を信じていいのかしら……?)
そう思いながらも、すでにシルヴァレートを信用し始めている自分にアトロポスは気づいていなかった。
(もし裏切ったら、今度こそ本当にただじゃおかないんだから!)
アトロポスは腰に回されたシルヴァレートの腕の熱さを感じながら、馬舎亭を目指してシリウスを駆った。
遠目には分からなかったが、目の前の台座に置かれている女性の顔はアルティシアではなかった。確かに似てはいたが、十年もの年月を共に過ごしてきたアトロポスがアルティシアの顔を見違えるはずはなかった。
「もう一度言う。俺はお前との約束を破ってなどいない。このことは父であるアンドロゴラス王も知らない」
囁くような声でシルヴァレートが告げた。
「シルヴァレート、あなた……」
「アルティシアは生きている。心配するな、怪我一つしていない。だが、この国にはアルティシアの居場所はもうない。だから、国外に逃がした」
(姫様が生きている? この男の言葉を信じてもいいの?)
アトロポスは期待と不安を混在させた黒曜石の瞳でシルヴァレートを見つめた。彼の碧眼は真剣さとともに優しい光を浮かべていた。その眼差しをアトロポスは知っていた。
(あの時の眼と同じ……)
朱雀宮で抱きしめられ、口づけを交わしたときの眼だった。濃厚に舌を絡められながら彼に抱かれたことを思い出し、アトロポスの顔は赤く染まった。
「姫様はどこに……?」
「今はゆっくりと話している時間がない。お前はこのまま俺を人質にして馬を奪え。そして、二人でレウルーラを出るんだ」
シルヴァレートは真剣な眼差しでアトロポスを見つめたまま、彼女の耳元に口を寄せて囁いた。
「いくらお前でも、ダリウスが率いる近衛騎士団百人を相手にすることなどできまい。俺を信じて、一芝居打て」
(確かにシルヴァレートの言うとおりだけど……。彼を信じていいの?)
シルヴァレートの碧眼を見据えると、アトロポスは心を決めた。魂を揺さぶるような真摯な輝きがそこにはあった。
「……分かったわ」
小さく頷くと、アトロポスはシルヴァレートの喉元に細短剣の刃を当てながら叫んだ。
「馬を用意しなさい! 二人乗りでも走れる強い軍馬よ! シルヴァレートの首を落とされたくなかったら、さっさと用意しなさい!」
アトロポスの言葉に、ダリウスが歯ぎしりしながら部下に向かって怒鳴った。彼女と直接剣を交わしたダリウスは、アトロポスの剣技を十分すぎるほど知っていたのだ。
「言うとおりにしろ! 早く馬を曳いてこい!」
ダリウスの命令を受けて、一人の若い騎士が王宮の中に駆け込んでいった。
「馬を手に入れたら、東大門に向かえ。東大門の近くに馬舎亭がある。そこでもう一頭、馬を借りる。いくら軍馬と言っても、長時間二人を乗せて走ることはできない」
シルヴァレートがアトロポスの耳元で囁いた。
「どこに向かうの?」
「ユピテル皇国だ。これだけの騒ぎを起こしたんだ。この国にいたら、必ず捕まるぞ」
碧眼を面白そうに輝かせながら、シルヴァレートが言った。
「まさか、ユピテル皇国まで私と一緒に来るつもり?」
「公子ならまだしも、王子なんて堅苦しい身分は性に合わない。そんな物、マルキウスに任せて付き合ってやるよ」
シルヴァレートは片目を瞑りながらニヤリと笑った。
「マルキウス公子って、十四歳でしょ? あなた、何を考えて……」
マルキウスはアンドロゴラスが側室に産ませた息子で、シルヴァレートの母違いの弟だった。
「しっ! 馬が来たぞ。俺は後ろに乗るから、お前が前で手綱を持て」
驚きのあまり大声を出しそうになったアトロポスを眼で抑えると、シルヴァレートは真剣な表情に戻って若い騎士が曳いてきた馬を見つめた。
(信じられない! 政変までして手に入れた王子の地位を捨てるつもりなの?)
シルヴァレートの喉元に細短剣を突きつけながら、アトロポスは呆然として彼の横顔を見上げた。
「シリウスか。俺の馬の中では一番の駿馬だ」
堂々とした体躯の青鹿毛を見て、シルヴァレートが自慢そうに呟いた。その言葉で、アトロポスはハッと我に返った。
「シルヴァレート、先に乗って」
細短剣を彼の喉元から離すと、アトロポスが短く告げた。もちろん、いつでもシルヴァレートに斬りかかれる体勢は崩さなかった。
「いいぞ」
シリウスのやや後ろ側に騎乗すると、シルヴァレートはアトロポスに声を掛けた。それに頷くと、アトロポスは助走を付けてシルヴァレートの前に飛び乗った。
「ダリウス将軍、一ザンの間、私たちを追うことを禁じます! もし約束を違えたら、シルヴァレートを殺すわ」
鐙に足をかけ、手綱を握りながらアトロポスは馬上からダリウスを見下ろした。
「アトロポス、王子をどうするつもりだ?」
怒りと疑惑を混在させた眼でアトロポスを睨みながら、ダリウスが訊ねてきた。
「私が安全と判断できる場所に着いたら……」
「ダリウス、後は任せた」
アトロポスの言葉を遮るように、シルヴァレートが笑顔を浮かべながら告げた。
「え……?」
「王子……? どういう意味……?」
アトロポスとダリウスの驚きを無視して、シルヴァレートが左腰に差した長剣を鞘ごと引き抜き、シリウスの尻を叩いた。
ヒッヒーンっと嘶くと、シリウスが二人を乗せたまま走り出した。
「王子ッ!」
背後から聞こえてきたダリウスの叫びに、シルヴァレートが右手を上げて答えた。
「悪いな、ダリウス! これは俺がアトロポスに命じてやらせたことだ! 俺には王子など似合わん! 後のことはお前に任せるから、父上と相談してマルキウスを立てるかどうか決めてくれ!」
そう叫ぶと、シルヴァレートはピシリと剣鞘でシリウスの尻を再び叩いた。不当な仕打ちを受けたシリウスが、怒ったように速度を上げて疾駆し始めた。
アトロポスは驚き呆れながら、小さくなっていく後方の混乱の声を聞いていた。
「ちょっと、どこ触ってるのよ!」
アトロポスの腰に回されていたシルヴァラートの手が上に伸び、胸を弄り始めていた。
「鎧の上から触ってもつまらんな。柔らかくも何ともない」
「ふざけないで! それより本気なの、シルヴァレート?」
ピシャリとシルヴァレートの手を引っ叩くと、アトロポスはシリウスで西シドニア通りを走りながら訊ねた。
「一国の王子を呼び捨てにする騎士はお前くらいだな」
面白そうに笑いながら、シルヴァレートは再び両腕をアトロポスの腰に回した。
「もう王子じゃないじゃない。それより、そんなにピッタリとくっつかないで!」
「シリウスは王宮随一の駿馬だ。振り落とされたら嫌だからな。フゥ……」
アトロポスの左耳元で囁くように告げると、シルヴァレートは熱い息を吹きかけた。
「ひゃあッ!」
「おっ? 可愛い声だな。感じたか?」
「これ以上変なことしたら、ホントに振り落とすわよ!」
恥ずかしさと怒りのため、真っ赤に染まりながらアトロポスが怒鳴った。シルヴァレートに息を吹きかけられた瞬間、アトロポスはゾクリとした自分が許せなかったのだ。
「冗談だ。そんなに怒るな。でも、俺のおかげで犯罪者にならなかったんだから、少しくらいは感謝しろよ」
「よ、余計なことしないでよね」
アトロポスがあの場に乱入してシルヴァレートを拉致したことは、すべて彼の命令だということになった。王族の命令に従っただけなので、罪に問われることはないはずだった。
「相変わらず素直じゃないな、アトロポス。だが、そういうところが気に入っているんだが……。お、馬舎亭が見えてきたぞ。良い馬があるといいんだが……」
(気に入っているって、何よ……)
再び赤くなった顔を隠すように、アトロポスはフードを目深に被りながら前方を見た。シルヴァレートの言葉通り、東大門の左手前に馬舎亭が見えた。
「アトロポス、騎士証は持っているか?」
「あなたに渡した革袋に、第一騎士団の団服が入っているわ。その内ポケットにあるはずよ」
「えーと……。これか。馬を借りるのも、東大門を出るときも、お前の騎士証で手続きしてくれ」
右脇から手を廻し、シルヴァレートがアトロポスの騎士証を渡してきた。
「いいけど、何で? 王子の徽章の方が有効じゃないの?」
「俺がこの首都レウルーラから出たという痕跡を残したくない。時間稼ぎにしかならないかも知れないが、うまく行けばダリウスたちはまだ俺がこの街にいるという可能性を捨てきれないだろう」
「なるほど……。分かったわ」
(軽薄で強引だけど、やはり頭は切れるわね。でも、本当にどこまで彼の言葉を信じていいのかしら……?)
そう思いながらも、すでにシルヴァレートを信用し始めている自分にアトロポスは気づいていなかった。
(もし裏切ったら、今度こそ本当にただじゃおかないんだから!)
アトロポスは腰に回されたシルヴァレートの腕の熱さを感じながら、馬舎亭を目指してシリウスを駆った。
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