今を春べと咲くや此の花 ~ 咲耶演武伝 ~

椎名 将也

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第4章 咲耶の軌跡

4.黒真珠の首飾り

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 建御雷神タケミカヅチの屋敷は広大だった。咲耶が住んでいる葦原中国あしはらのなかつくににある瓊瓊杵の宮殿の数倍の広さがあった。主殿は二階建てで、各階の部屋数はおそらく五十近くはありそうだった。
 門番の上官らしき男は西側の奥にある部屋に咲耶を案内すると、しばらくここで待つようにと告げて出て行った。物珍しげに広い部屋の中を探索していると、一人の侍女が着物を携えて入ってきた。それは咲耶が着たこともないような、豪華な刺繍が入った着物だった。

(さすがに建御雷神さまじゃ……。これほど見事な着物は見たことがないわ……)
 淡い紅色の地に美しい天女と白い鶴が描かれている着物を身につけると、咲耶は姿見の前で満足そうな笑みを浮かべた。まるで咲耶のためにあつらえたかのように、その着物は彼女によく似合っていた。

 着付けを手伝ってくれた侍女は、咲耶の髪を結髪ゆがみに変えると豪奢な髪飾りを付けてくれた。桜の花をかたどった純金の髪飾りは、薄紅色の着物とともに咲耶の美しさを一層際立たせた。
(こうしてみると、もなかなかのものじゃな……。この色香で建御雷神さまに迫れば、弟子入りも夢でないかも知れぬ……)
 秘策の失敗など忘却の彼方に追いやり、咲耶はニヤリと口元を綻ばせた。そして、侍女の案内で建御雷神の元へと向かっていった。


木花咲耶このはなさくやさまをお連れ致しました。建御雷神さまにお取り次ぎを……」
 黒檀でできた大きな観音扉の前に立つと、その左右にいる門番に侍女が咲耶の来訪を告げた。その言葉に頷くと、右側に立っていた門番が扉を叩いて、建御雷神に取り次ぐために中へと入っていった。

(女一人招き入れるだけじゃというのに、ずいぶんと仰々しいものじゃな……)
 だが、その感想でさえ控えめに過ぎたことを咲耶は思い知らされた。戻ってきた門番が観音扉を大きく開けた瞬間、咲耶は茫然とした表情で立ち竦んだ。十尺(三十三メートル)四方は十分にある広大な部屋の中に、二十人以上の男たちが二列に立ち並んでいたのだ。
 その男たちの間にある通路の正面には、まさしく玉座が据えられていた。そして、その玉座には、神々しい神気を纏った一人の男が腰を下ろしていた。

(建御雷神……さま……)
 その男……建御雷神が真っ直ぐに咲耶の顔を見据えていた。その金色に輝く瞳を見つめた瞬間、雷にでも打たれたかのように、咲耶はビクンッと全身を震わせて硬直した。
(何という……威圧じゃ……。これが、武神……)
 無意識に全身に鳥肌が沸き立ち、背筋を冷たい汗が流れ落ちた。静かに咲耶を見つめているだけにも拘わらず、その金色の瞳には圧倒的な闘気と超絶な覇気が秘められていた。

「そのまま進まれて、あの者の横で跪きなさい」
 門番が小声で咲耶に耳打ちしてきた。その言葉で、咲耶から見て建御雷神の左前に、後ろ手に縄掛けされた男が跪いている姿が眼に入った。咲耶が秘策で陥れた門番の青年だった。彼は咲耶を振り向くと、怨みのこもった凄まじい目つきで睨みつけてきた。

(これは不味いのう……。このままでは死刑は確実じゃ……。そうなるくらいならば、いっそ思い通りに暴れるか……)
 ゴクリと生唾を飲み込むと、咲耶は萎縮しそうになる気持ちを奮い立たせた。そして、昂然と顔を上げながらゆっくりと建御雷神に向かって歩き出した。

「無礼者ッ! 跪かぬかッ!」
 縄掛けされた青年の右横に立つと、咲耶の近くにいた武官が叱咤の声を上げた。それを無視して、咲耶は立ったまま建御雷神の顔を真っ直ぐに見つめた。

 建御雷神は、女の咲耶から見ても美しかった。長い金髪を腰まで真っ直ぐに伸ばし、整った容貌には切れ長の眼と金色の瞳が輝いていた。鼻梁は高く、口元は武神らしく引き締まっていた。座ったままであるため正確には分からなかったが、身長は六尺三寸(百九十センチ)前後だと思われた。衣服の上からでも、細身だがよく鍛えられた体躯であることが分かった。

「この者が貴女に無礼を働いたと聞いた。それに相違ないか……?」
 想像していたよりも高い声色で建御雷神が訊ねてきた。その貌に楽しげな色が浮かんでいることに咲耶は気づいた。
(建御雷神は嘘を見抜くと言っておった……。それが本当であれば、あれがの狂言であることに気づいておるはず……)
 咲耶は建御雷神の金色の瞳を真っ直ぐに見つめると、昂然と言い放った。

の名は木花咲耶と申します。天照皇大御神が嫡孫、瓊瓊杵尊ニニギのみことの妻でございます。言わば、は天照の血筋に連なる者です。それに対して、建御雷神さまは天照の臣下……。その臣下が玉座に座し、このに跪けと申すのですか?」
 咲耶の全身から紛れもない神気が舞い上がった。神としての力は建御雷神が遥かに上であるとは言え、彼に跪くことは瓊瓊杵を辱めることだった。

「ほう……。これは、失礼いたしました……」
 面白そうに微笑みを浮かべると、建御雷神は玉座から立ち上がった。そして、玉台を降りると咲耶の目の前に立ち、片膝をついて彼女に頭を下げた。それは紛れもない臣下の礼であった。その態度に、部屋の中にいた二十人以上の男たちが驚愕した。いまだかつて、この屋敷の中で建御雷神が頭を下げたところを誰も見たことがなかったのである。

(さすが、高天原随一と呼ばれる武神じゃ……。大勢の部下たちがいるにも拘わらず、何の躊躇ちゅうちょもなくこうべを垂れるとは、あっぱれな態度じゃ……。この分なら、上手くすれば弟子入りも可能かも知れぬ……)
 咲耶は内心でほくそ笑んだ。その邪心を見抜いたかのように、建御雷神が顔を上げて訊ねてきた。

「瓊瓊杵尊さまのご細君であられる木花咲耶殿にお訊ね申し上げる。何故、あのような狂言をして、将来有望な若者の生命を縮めんと計られる?」
(い、いきなり核心を突くかッ……!)
 建御雷神の金色の瞳が、真っ直ぐに咲耶の黒曜石の瞳を射抜いた。その視線が下手なごまかしなど許さぬと告げていることに気づき、咲耶は全身に冷や汗が流れ落ちた。

「そ、それは……」
 言葉に詰まって、咲耶はゴクリと生唾を飲み込んだ。思わず建御雷神の顔を見返すと、その口元に小さく笑いが浮かんでいることに気づいた。
(こ、こやつ、楽しんでおる……!)
 そう知った瞬間、咲耶は態度を決めた。当たって砕けろ……いや、とことん闘ってやろうと思ったのだ。

はこのお方のお命を取ろうなどとは考えてもおりません……」
 後ろ手に縄掛けされて左脇に跪いている青年を見つめながら、咲耶が言った。
があのような搦め手を使ったのは、建御雷神さまにお目に掛かるためでございます。建御雷神さまであれば、あのような狂言はすぐに見抜かれると考えておりました。また、もし見抜かれなかったとしても、を呼び寄せて真偽を訊ねられると思ったのです」
「つまり、私を試したと申すのですか……?」
 建御雷神の金色の瞳に、わずかな怒りの焔が燃えたことに咲耶は気づかなかった。

「はい、申し訳ございません。には建御雷神さまにお会いしなければならない理由わけがありましたので……」
「その理由とは何か、伺ってもよろしいでしょうか?」
 建御雷神が、真っ直ぐに咲耶の黒曜石の瞳を見つめながら訊ねた。

「はい……。先日、我が夫の瓊瓊杵が、夜叉ヤクシャと申す妖魔に殺されました……」
「瓊瓊杵尊さまが、夜叉ヤクシャにッ……!」
 その事実をまだ建御雷神は知らなかったようだった。そして、その言葉から、彼が夜叉ヤクシャを知っていることに咲耶は気づいた。
「建御雷神さまは、夜叉ヤクシャをご存じなのですか?」
 咲耶の質問に、建御雷神は大きく頷いた。

夜叉ヤクシャは異国から渡ってきた吸血鬼と呼ばれる妖魔です。人の精気をその血とともに啜り、己の力に変えると同時にその眷属を増やしているようです。高天原でも夜叉ヤクシャの存在は危険視されており、近々大規模な討伐軍が組まれる予定になっております」
「討伐軍……」
 その情報は有益ではあったが、咲耶にとっては絶対に歓迎できないことでもあった。愛する瓊瓊杵の仇は自分の手で討ちたかったからだ。そのために、咲耶は建御雷神に弟子入りをして厳しい修行を受けるつもりであった。

「その討伐軍の規模はおよそ二十万……。それを率いる大将軍の任を、天照さまは私に命じるお積もりのようです」
「建御雷神さまが、討伐軍の大将軍に……」
 素戔嗚尊スサノオのみことが行方不明である現在、その大任を任せられるのは建御雷神しかいないことは咲耶にも理解できた。

「その討伐軍の派遣、おとどめいただくことはできませぬかッ……?」
 黒曜石の瞳に真剣な光を映しながら、咲耶が叫んだ。
「討伐軍を止めよと申されるのか? 何故なにゆえ……?」
 咲耶の言葉に驚きの表情を浮かべて、建御雷神が訊ねた。瓊瓊杵を殺した相手が夜叉ヤクシャであるのならば、討伐軍を出すことに咲耶が反対する理由などないからだ。

「瓊瓊杵の仇は、私がこの手で討ちとうございますッ! そのために、は建御雷神さまの元を訪れたのですッ!」
「瓊瓊杵尊さまの仇を貴女が……?」
 金色の瞳に驚愕の色を映しながら、建御雷神が訊ねた。
「はいッ……! そのために、は建御雷神さまに師事して剣技を身につけとうございますッ!」
 咲耶の言葉に、建御雷神がしばらくの間、彼女の顔をジッと見つめた。その無言の威圧に、咲耶は身動き一つせずに堪えた。

「恐れながら、貴女の神気では夜叉ヤクシャに遠く及びませぬ。瓊瓊杵尊さまでさえ斃れたとなれば、夜叉ヤクシャに勝てる者はこの高天原でも五柱といないでしょう」
「その五柱の中に、建御雷神さまは入っておられるはずです。何年、何十年かかっても構いません。に剣技をご指導いただけませんか?」
 長い漆黒の黒髪を揺らしながら、咲耶が建御雷神に頭を下げた。その言葉を聞くと、建御雷神はニヤリと笑みを浮かべた。

「五十……いや、六十年、私の修行に耐えられますか?」
「六十年ッ……! も、もちろんですッ! 必ず耐えて見せますッ!」
 予想をはるかに上回る年数を告げられ、咲耶は顔を引き攣らせながら答えた。修行といっても、せいぜい数年のつもりでいたのだ。

「では、貴女は私の弟子ということになりますが、よろしいですか?」
「建御雷神さまのお弟子にしていただけるのですかッ? ありがとうございます、よろしくお願い致しますッ!」
(やったッ……! 一時はどうなるかと思ったが、取りあえずはこれで万々歳じゃッ! 六十年というのは大げさじゃろう? まあ、せいぜい五年か十年というところか……?)
 当初の予定通り建御雷神に弟子入りすることが叶って、咲耶は満面に笑みを浮かべた。

 その時、咲耶の前で臣下の礼を取っていた建御雷神が、スクッと立ち上がった。そして、その美貌に冷酷な笑みを浮かべると咲耶に向かって告げた。
「弟子となったからには、主筋であろうとも容赦はせぬッ! 下らぬ狂言を用いて私を試そうとし、あたら若者の生命を縮めんとした罪、断じて許しがたしッ! 本来であればその細首を斬り落とすところだが、師の情けとして一命は留め置いてやるッ! ひと月の間、反省房にて己の所業を悔い改めるがよいッ! 誰か、咲耶を引っ立ていッ!」
 建御雷神の命令を受けて、周囲の武官が一斉に咲耶を取り囲んだ。そして、咲耶の両腕を背中に回すと、あっという間に縄で縛り上げた。

「ち、ちょっとッ……! た、建御雷神さまッ……! 離してッ……! いやぁあッ……!」
 長い黒髪を振り乱しながら暴れる咲耶を、武官たちは引きずるように部屋から連れ出していった。
「こらぁあッ! 変なとこ触るなぁあッ! 建御雷神ーッ! 覚えておれぇえッ……!」
 廊下から聞こえてくる咲耶の絶叫を無視すると、建御雷神はゆったりとした足どりで玉台に上っていった。そして、何事もなかったかのように玉座に腰を下ろすと、夜叉ヤクシャの討伐軍を中止する理由を考え始めた。

(面白い娘が来たものだ……。だが、神気の質は悪くない。あとは私の修行に付いて来られるかどうかだが……)
 久しぶりに面白い玩具を見つけたように、建御雷神はその精悍な容貌にニヤリと微笑を浮かべた。


「まったくッ……! これが修行じゃと……! あの建御雷神キンキンあたまめッ!」
 長い廊下を雑巾掛けしながら、咲耶が文句を言った。一ヶ月間の反省房生活の後は、半年間の宮殿掃除を命じられたのだ。瓊瓊杵の宮殿の優に三倍はある広い屋敷を、一人・・で拭き掃除することが咲耶の日課であった。

「まずは体力をつけねば話にならぬ。単に走っても無駄な故、この屋敷を隅から隅まで磨き上げろ。塵一つ残っておれば、やり直しだと思え」
 楽しそうに命じた建御雷神の笑顔を、咲耶は怨みを込めて心に刻みつけた。

「それにしても、無駄に広すぎるのではないか、この屋敷は……?」
 明六つ(朝六時)から夜五つ(夜七時)までほぼ終日掃除しっぱなしであった。これを半年間も続けることを考えると、咲耶は建御雷神に殺意さえ覚えてきた。
「まあ、あの反省房に戻されるよりはまだマシか……。あそこにだけは二度と戻りたくないわ……」
 思い出しただけで、咲耶はブルッと体を震わせた。


 反省房とは名ばかりで、その実体は建御雷神の屋敷の裏山にある洞窟だった。その中は、入口を閉じられると一寸先さえ見えない漆黒の闇だった。
 そこに閉じ込められてすぐに、咲耶は全身の毛が逆立つのを感じた。

 シュル、シュル……。
 ガサ、ガサ……。
 バサ、バサ……。

(な、何がおるのじゃ……?)
 闇の中から何かが蠢く気配が咲耶の感覚を休むことなく刺激し続けた。それがおぞましいものであることは、全身に沸き立つ鳥肌が教えていた。咲耶は入口の扉を背に立ち竦み、ガクガクと総身を震わせた。

 その時、何かが咲耶の右脚を這い上がってきた。その正体を知った時、咲耶は絶叫を上げた。
「いやぁあッ……!」
 慌てて両手でそれを引き離すと、思いっきり遠くに投げ飛ばした。それは太さ二寸(六センチ)にも及ぶ蛇だったのだ。

「出してぇえッ……! 早くここから、出してぇえッ……!」
 暗闇に目が慣れてくると、目の前には何百匹という蛇が蠢いていたのだ。それだけでなく、バサバサという音は蝙蝠の羽撃きであり、ガサガサという異音は鼠のような小動物であった。
「お願いッ……! ここから、出してぇえッ! いやぁあッ……!」
 凄まじい嫌悪と恐怖に駆られて、咲耶は両手で力一杯木製の扉を叩いた。だが、すでに扉の前には人の気配がなく、咲耶の絶叫は誰にも届かなかった。

「ひぃいいッ……! 助けてぇえッ……! 誰かぁあッ……!」
 再び足に絡んできた蛇を引き剥がすと、咲耶は本気で泣き叫んだ。こんなおぞましい場所には一瞬でもいたくなかった。だが、咲耶の恐怖を嘲笑うかのように、シュルシュル、ガサガサ、バサバサという異音は途切れるどころかより激しくなってきた。

「建御雷神さまぁあッ……! 許してくださいッ……! 何でもしますッ……! お願い、出してぇえッ……!」
 美しい貌を激甚な恐怖に歪め、大粒の涙を流しながら咲耶が叫んだ。だが、その絶叫に応えるのは暗闇から聞こえてくる異音だけだった。

(こんなところにいたら、気が狂うッ! 何とかしないとッ……!)
 咲耶の全身から神気が溢れ出た。それは身を守る本能そのものだったのかも知れなかった。
「……ッ!」
 シュルシュルという音とともに、蛇たちが咲耶から離れ始めた。同時に鼠のような小動物や蝙蝠も、洞窟の奥へと逃げ出していった。

此奴こやつらは、神気を嫌うッ……?)
 試しに神気の放出を強めてみると、蛇や蝙蝠立ちはあっという間に洞窟の奥へと逃げていった。逆に神気を弱めると、再び異音を立てながら近づいてきた。
(間違いないッ……! 神気を出し続ければ、此奴らは近づいてこられぬッ……!)
 だが、強い神気を一日中出し続けることなど不可能だった。そんなことをしたら、すぐに神気が切れて意識を失ってしまうことは確実だった。

(もしかして、ここに閉じ込めたのは……?)
 神気の強さを調整しながら、建御雷神がこの反省房に閉じ込めた真の理由に咲耶は気づいた。
(ここは反省房などではなく、神気の修行をさせる場所なのかも知れぬ……)
 神気の放出量を自在に調整できるようにし、ずっと神気を纏わせてその総量を増やすことが目的なのだと咲耶は考えた。

「あのキンキン頭めッ! 何と性格が悪いのじゃッ! 修行なら修行と、最初から教えてくれればよいではないかッ!」
 建御雷神の顔を思い浮かべて文句を言うと、咲耶は蛇たちが襲いかかってこないギリギリの神気を探り始めた。神気が少なすぎれば蛇たちに囲まれ、多すぎれば神気切れを起こしてしまうのだ。眠っている間も神気を出し続ける必要があるため、絶妙な神気量を探り当てるのに苦労した。

 最初の数日は寝ている間に神気が途切れ、目を覚ますと蛇の集団に囲まれていた。着衣の中にも蛇が入り込んでいて、咲耶は絶叫しながら飛び起きた。
 また、ある時は神気を出し過ぎて意識を失い、全身に蛇が絡みついていた。蛇に顔を撫で回されて意識を取り戻した時には、咲耶は再び失神しそうになった。

 地獄のような恐怖を何度も乗り越えて一週間が過ぎる頃には、安定して終日神気を放出できるようになった。そして、実感できるほど神気の総量が増えてきたことが、自分でも分かった。
 一ヶ月後に反省房を出る頃には、かなり大量の神気を出し続けても神気切れを起こすことはなくなっていた。咲耶自身は気づかなかったが、この一ヶ月で神気の総量は十倍以上に増えていたのだ。


「そうじゃッ! せっかく使い方を覚えたのだから、掃除の時も神気を纏ったら早く終わるはずじゃッ!」
 自分のひらめきを褒め称えると、咲耶は早速全身に神気を流して床掃除を始めた。普通の十倍以上の速度で雑巾掛けをすると、長い廊下も一瞬で終わった。
「これは楽じゃッ! この調子なら、すぐに終わるはず……」
 調子に乗って掃除を続けると、廊下を二往復する途中で、バタンと咲耶は倒れ込んだ。

(何で……? こんなに早く神気が……?)
 反省房では終日保ったはずが、あっという間に神気切れを起こしたのだ。意識こそ失わなかったが、全身が極度に重くなり、指一本動かすのにも苦労した。
(もしかして、全力で動きながら大量の神気を出し続けると、神気の消耗が早い……?)
 咲耶の予想は正しかった。単に放出するだけよりも、全身の筋肉や骨、細胞などに行き渡らせる方が大量の神気が必要だったのだ。

「これが……掃除の目的……か……? キンキン頭……め……!」
 神気切れで全身に力が入らず、毒づく言葉も小さかった。両手を付いて体を起こそうとすると、四つん這いになるだけで全身の筋肉がプルプルと痙攣した。
「くッ……! こんなことで……」
 咲耶は歯を食いしばって雑巾掛けを続けたが、百尺(三十メートル)も行かないうちに再び倒れ込んだ。
(だめじゃ……。もう神気が……)
 その思考を最後に、咲耶の意識は闇の中に沈んでいった。

 その様子を廊下の片隅から見据えると、金色の長い髪を揺らしながら建御雷神は咲耶の元に歩み寄った。そして、咲耶のうなじと膝裏に両手を入れると、横抱きに抱き上げて自室へと運んでいった。
 広い寝室の中央にある豪華な天蓋付きの寝台に咲耶を寝かせると、建御雷神は彼女の額に右手を当てた。その手の平から神々しい神気が溢れ、咲耶の全身を光輝が包み込んだ。蒼白だった咲耶の顔色に、艶やかな生気が戻っていった。


「ここは……?」
 薄らと眼を開くと、咲耶は周囲を見渡した。見たこともない豪奢な部屋に寝かされていた。
「目が覚めたか……?」
 その聞き覚えがある声に、咲耶は飛び起きた。そして、慌てて着衣の乱れを確認した。
「弟子に手を出すほど落ちぶれてはいないつもりだが……」
 笑いを含んだ建御雷神の言葉に、咲耶はカアッと顔を赤らめた。

「キン……建御雷神さま……。何で、はここに……?」
 危うくキンキン頭と呼びそうになり、咲耶は慌てて言い直した。その様子を楽しそうに見つめながら、建御雷神が告げた。
「瓊瓊杵尊さまの仇を討つなどと大言を吐いておきながら、屋敷の掃除も満足にできぬとは……」
「そ、それは、少し神気の使い方を間違っただけじゃ……だけです……!」
 恥ずかしさのあまり、思わず咲耶が叫んだ。激しく動きながら神気を使ったことなど、今まで一度もなかったのだ。

「我々の闘いは、剣技よりも神気がものを言う。どれだけ強い神気を出せるか、どれだけ長い時間神気を維持できるか……? はっきり言って、今のお前では夜叉ヤクシャの前に立った瞬間に殺されるのがオチだ」
「くッ……! そんなこと、言われずとも分かっておりますッ! たしかに、今のの神気は、瓊瓊杵さまにも遠く及びませんッ! だからこそ、建御雷神さまに弟子入りしたのじゃッ!」
 悔しさに唇を噛みしめながら、咲耶が告げた。弟子入りして一ヶ月ちょっとで強くなどなれるはずなどなかろうと叫びたかった。

「神気というのは、使えば使うほどその強さも総量も増していく。私はお前に六十年の修行が必要だと告げた。私の修行に付いて来られれば、六十年後には今の夜叉ヤクシャを上回る神気を手にすることができるだろう」
「はいッ! 必ず建御雷神さまの修行に耐えて見せますッ!」
 夜叉ヤクシャを上回ると太鼓判を押してくれた建御雷神に、咲耶は嬉しそうな笑顔を見せながら答えた。

「何を勘違いしている? 私は、今の夜叉を・・・・・と言ったはずだ。六十年経てば、夜叉も同じようにその力を増しているぞ」
「夜叉もッ……!」
 建御雷神が言わんとしている意味を知ると、咲耶は茫然とした表情を浮かべた。夜叉も同様に強くなっていくのであれば、いつまで経ってもその差は縮まらないはずであった。

「そこで、お前にこの首飾りを渡しておく。これを今すぐに付けて、絶対に外してはならぬ」
「首飾り……?」
 建御雷神が差し出してきた首飾りを受け取って、それを見つめながら咲耶は首を傾げた。黒水晶が連なった何の変哲もない首飾りだった。黒水晶の質自体はそれなりに良さそうだが、この首飾りに何の意味があるのか咲耶には分からなかった。

「この首飾りは、お前の神気を半分に抑える呪詛がかけられている。そして、今の夜叉の妖気を超える神気を受けると、この首飾りは砕け散る」
「今の夜叉の妖気を……? それって……」
 黒曜石の瞳に驚愕を浮かべながら、咲耶が建御雷神を見つめた。
「そうだ……。この首飾りを砕くことができれば、お前の神気が今の夜叉の倍になったと言う証だ」
 咲耶が思ったとおりの答えを建御雷神が告げた。半分にされた神気でこの首飾りを破壊できれば、夜叉の倍の神気を発したことになるはずだった。

「建御雷神さま……!」
 美しい貌に満面の笑みを浮かべながら、咲耶が建御雷神を見上げた。それを見つめながら、建御雷神が厳しい表情で告げた。
「だが、はっきり言っておく。夜叉の妖気は、恐らく今のお前の五十倍はある。つまり、この首飾りを砕くためには、お前の神気を百倍にしなければならない」

「ひ、百倍……?」
 建御雷神の言葉に顔を引き攣らせながら、咲耶が茫然と呟いた。その様子を楽しそうに見つめながら、建御雷神が笑顔で告げた。
「そうだ。その首飾りを砕くことを、私の弟子を卒業する証としよう。それが六十年後か百年後かは知らぬがな……」
「た、建御雷神さま……」
 建御雷神の顔を愕然と見つめながら、咲耶が呟いた。

「それまではお前は私の弟子だ。二度と師匠に向かって、キンキン頭と呼ぶことは許さぬ。覚えておけ、咲耶……」
「……ッ! は、はい……」
(いつの間に聞いておったのじゃ、この地獄耳め……!)
 悔しさと恥ずかしさに真っ赤に顔を染めながら、咲耶は建御雷神を睨んだ。その様子を見つめて、建御雷神が楽しそうに笑い出した。
 咲耶はムッとしながら、両手を項に廻して首飾りを付けた。漆黒の黒真珠が咲耶の白い肌の上で陽光を反射し、美しい煌めきを放った。
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