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第4章 咲耶の軌跡
3.瓊瓊杵の最期
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「おはよう、咲耶……。体は大丈夫かい……?」
意識を取り戻すと、咲耶は瓊瓊杵の左腕を枕にしていたことに気づいた。そして、昨夜は瓊瓊杵に愛されて何度も快絶の頂点を極め、失神してしまったことを思い出した。恥ずかしさのあまりカアッと顔を赤く染めると、瓊瓊杵から眼を逸らして咲耶は俯いた。
「咲耶……、貴女が愛しくて堪らない。私は生涯をかけて、貴女だけを愛すると誓おう……」
「瓊瓊杵さま……」
瓊瓊杵が右手を咲耶の顎に添えて、顔を上げさせた。そして、咲耶の言葉を塞ぐように、唇を重ねてきた。濃厚に舌を絡められながら、咲耶は自分が瓊瓊杵を愛し始めていることを実感した。
白みかけた地平線に夜の青さと朝焼けが入り混じる頃、瓊瓊杵の広い背中に爪を立てながら咲耶は何度も歓悦の頂点を極めた。
その日、咲耶は瓊瓊杵と一緒に、昨日妖魔に襲われた場所を訪れた。咲耶を守るために殺された五人の青年の遺体を埋葬するためであった。本来であれば昨日のうちにしなければならないことだったが、気が動転していたこととその後の求婚という怒濤の展開によって、彼らを埋葬する時間がなかったのだ。
五人の青年を丁重に埋葬し終えると、咲耶は祝詞を詠んで彼らの冥福を祈った。そして、瓊瓊杵を連れて彼らの家を訪れ、遺族に謝罪をした。女神である咲耶だけでなく、天照皇大御神の嫡孫である瓊瓊杵がともに頭を下げてきたことで、遺族たちは恐縮し怨嗟の言葉一つ口にできなかった。彼ら普通の人間にとって、天界を統べる天照の存在はそれほどまでに偉大だったのだ。
五人の遺族を弔問した後、咲耶は大山祇神の屋敷に向かう途中で気分が悪くなった。道端にしゃがみ込んで嘔吐する咲耶の背中を撫ぜながら、瓊瓊杵が心配そうに訊ねた。
「大丈夫かい、咲耶……?」
「ええ……。何とか……」
微笑を浮かべながらそう告げた咲耶の顔色は、蒼白であった。これほど急に吐き気をもよおしたことなど、初めての経験だった。女神である咲耶は、今までに病気どころか風邪一つ引いたことがなかったのだ。
(何じゃろう……? 今朝から体の調子がおかしい。瓊瓊杵さまにあんなに激しく愛されたからか……?)
カアッと顔を赤らめながら、咲耶は両手で下腹を擦った。その時、信じられない違和感を感じた。
(まさか……? そんなこと、あるはずがない……)
自分の胎内に、別の誰かがいるような気がしたのだ。たとえ神々と言えども、愛し合った翌日に妊娠することなどあり得るはずはなかった。咲耶は自分の考えを振り払うように、大きく首を振った。だが、その違和感は消え去るどころか、はっきりとした実感を伴って咲耶に妊娠の事実を告げた。
(瓊瓊杵さまは、天照皇大御神さまのご嫡孫……。私たち国津神とは比べものにならないお力があるのかも知れない……)
茫然とした表情で自分を見つめている咲耶に気づき、瓊瓊杵が心配そうな表情を浮かべながら訊ねた。
「どうした、咲耶……? 何か気になることでもあるのかい?」
ゴクリと生唾を飲み込むと、咲耶は瓊瓊杵の優しい黒瞳を見つめながら告げた。
「瓊瓊杵さま……。私、貴方さまのお子を授かったようです……」
「えッ……? お子って……?」
咲耶の言葉に、瓊瓊杵が驚愕の表情を浮かべた。咲耶を愛したのは昨夜が初めてであり、その翌日に彼女が妊娠することなどあり得なかったのだ。
「何を言っているんだい、咲耶……? いかに私が天津神であるとはいえ、たった一夜で貴女が身篭る筈はない。それは国津神の子ではないのか?」
瓊瓊杵の言葉を聞いて、咲耶はカアッと顔を赤らめて激怒した。それは瓊瓊杵と契る前に、咲耶が他の神々に抱かれていたのではないかという意味だった。だから、妊娠したとすれば、その父親はそれらの神々の誰かだと瓊瓊杵は言っているのであった。
「分かりましたッ! 私はこの子を炎の中で産みますッ! これから、産屋を建てて中に入り、その入口を塞いで火を放ちますッ! この子が国津神の子であれば、私もろとも炎の中で焼け死ぬでしょう! もし無事に生まれてきたのであれば、それは天津神の子……貴方さまのお子でございますッ!」
そう告げると咲耶は瓊瓊杵をその場に残して、早足で屋敷に戻っていった。後には茫然として立ち竦む瓊瓊杵が一人残されていた。
瓊瓊杵に誓約を立てた咲耶は、その言葉通り大山祇神に頼み込んで産屋を建ててもらった。そして、一人で産屋の中に入ると、外から板を打ちつけて入口を塞いでもらい、自ら火を放った。
驚愕する瓊瓊杵の目の前で、産屋は瞬く間に劫火に包まれた。しばらくすると、パチパチと燃えさかる灼熱の炎の中から、元気な赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。そして、燃え落ちた産屋の跡から、生まれたばかりの三つ児を抱いている咲耶が姿を現した。
「このとおり、無事に生まれました。この子たちは紛れもなく貴方さまのお子でございます」
産褥の疲れを見せながらも、咲耶は見る者を惹きつける笑顔を浮かべて瓊瓊杵に告げた。
「疑って申し訳なかった……。許してくれ、咲耶……」
愛する妻に深く謝罪すると、瓊瓊杵は咲耶の腕から三つ児を受け取った。
「三人とも元気な男の子にございます。瓊瓊杵さまがお名前を付けてくださいませ……」
「分かった。炎の中から生まれた強い子たちだ。火照、火須勢理、火遠理と名付けよう」
嬉しそうな笑みを浮かべながら、瓊瓊杵が咲耶に告げた。そのうちの火遠理の孫が神武天皇となるのは、まだ先の話であった。
その後の十年あまりは、咲耶の長い生の中で最も倖せで充実した日々であった。健やかに育つ子供たちの成長を見守りながら、咲耶は毎晩のように瓊瓊杵に愛された。女の悦びと母親の倖せを噛みしめながら、咲耶はこの日々が永遠に続くものだと信じ切っていた。
だが、その訃報を受けた時、咲耶は茫然として自分がどこで何をしているのかさえも分からなかった。瓊瓊杵が殺されたのである。
葦原中国を治めるべく天照から神勅を受けた瓊瓊杵は、日向国に大きな宮殿を築いて咲耶と三人の息子たちとともに暮らしていた。瓊瓊杵の使命は、人々の争いを止めさせることであった。そのため、西に戦いが起これば西へ行き、東で戦争が勃発すれば東へと赴いた。瓊瓊杵の努力によって葦原中国から争いが減っていき、人々は平和を謳歌し始めた。
ある時、日向国から遠く離れた武蔵国で、強力な妖魔が人々を苦しめているという噂が入ってきた。
「心配はいらないよ、咲耶……。武蔵国は遠いから、今回は少し時間がかかる。だが、必ず無事に戻るので、待っていておくれ。火照たちをよろしく頼む……」
旅立ちの前の晩、寝台の中で瓊瓊杵は咲耶を抱き締めながらそう告げた。
「はい。ご無事のお帰りをお待ちして……あッ、だめです、瓊瓊杵さま……! まだ、お話しが……、あッ、いやッ……、あッ、あぁああッ……!」
快美の火柱に貫かれ、咲耶は大きく仰け反りながら瓊瓊杵にしがみついた。腰骨を灼き溶かす快絶が背筋を舐め上げ、脳天に雷撃が襲いかかって意識が真っ白に染まった。
粒だった入口を三度擦り上げられ、一気に最奥まで貫かれた。その女を狂わせる禁断の律動に、咲耶は随喜の涙を流しながら悶え啼いた。
「あッ、あッ、だめッ……、それッ……はげしッ……んくッ……!」
熱い喘ぎを放つ咲耶の唇を、瓊瓊杵が塞いできた。濃厚に舌を絡められながら三浅一深の動きで激しく責められ、咲耶は歓悦の頂点へと駆け上がった。
「んあッ……んッ……んくッ……ん、んぁああッ……!」
(だめッ……イってしまうッ……! あッ、いやッ……イクッ……イクぅうっ……!)
ビックンッビックンッと総身を痙攣させると、大きく裸身を仰け反らせながら咲耶は絶頂を極めた。そして、官能の愉悦を噛みしめながら硬直を解き放つと、グッタリと弛緩して寝台に沈み込んだ。
凄絶な官能に蕩けきった黒瞳で瓊瓊杵を見つめると、咲耶は魅惑的な唇を瓊瓊杵に重ねた。
(好きです、瓊瓊杵さま……。愛しています……)
その熱情をぶつけるように、咲耶は自ら濃厚に舌を絡めた。それが瓊瓊杵との最後の口づけになるなど、その時の咲耶は予想もしていなかった。
翌朝、瓊瓊杵は武蔵国に旅立ち、二度と咲耶の元に戻らなかった。
重傷を負いながらも辛うじて戻ってきた従者から、咲耶は瓊瓊杵の最期を聞いた。その従者は十四歳の少女だった。彼女を逃がすために、瓊瓊杵は盾となって妖魔に殺されたとのことだった。生命を賭けて主を守るのが従者の務めであるにも拘わらず、逆に主に守られて逃げ帰ってきた少女に咲耶は激怒した。
「主を見捨てておめおめと逃げ帰るとは何事かッ!」
左腰に佩いた宝刀を抜いて少女を斬り殺そうとした咲耶を、磐長姫が慌てて止めた。
「落ち着きなさい、咲耶ッ! 瓊瓊杵さまの最期を伝えるために命がけで戻ってきてくれた彼女に、何をするつもりですかッ!」
「しかし、姉上ッ……!」
「彼女の姿をよく見なさいッ!」
磐長姫の言葉に宝刀を下ろすと、咲耶は改めて少女の姿を見つめた。
美しかったであろう黒髪をざんばらに乱し、彼女は左眼を塞ぐように半顔を白い包帯で覆っていた。左腕は肘から先がなく、傷口を血まみれの包帯で強く結んでいた。着ている着物は泥だらけで、あちこちが擦り切れ破れていた。
左眼と左腕を失う重傷を負いながらも、遠い武蔵国から命がけで戻ってきたことはひと目で分かった。
「貴女のお名前は……?」
少女の前にしゃがみ込んで残された右手を両手で包み込みながら、磐長姫が優しく訊ねた。
「神樂と、申します……」
「神樂……ありがとうございます。傷の手当てをして、ゆっくりとお休みなさい」
「はい……申し訳ありま……」
その言葉を言い切る前に、神樂はガクリと首を折って磐長姫の胸の中で意識を失った。無事に使命を果たしたことにより、緊張の糸が切れたのだ。磐長姫は従者を呼んで、神樂の手当を命じた。
「姉上、私は……」
「気持ちは分かりますが、従者に当たるのは筋違いです。彼女の献身と忠誠は、私たちにとって何よりも大切なものです」
「はい……」
磐長姫の言葉は、失意の咲耶にも重くのしかかった。激情に任せて神樂を斬り殺していたら、咲耶は女神としての資格を失ってしまうところだった。
「瓊瓊杵さまの仇の名は、夜叉と言うそうです。お父上に申し上げて、討伐の軍を出して頂きましょう」
気落ちしている咲耶の左肩に右手を乗せながら、磐長姫が告げた。だが、咲耶は小さく首を振ると、彼女の言葉を拒んだ。
「それはお止めください、姉上……。瓊瓊杵さまは天照皇大御神さまのご嫡孫です。私たちでは及ばないお力をお持ちでした。その瓊瓊杵さまを殺した相手は、恐らく想像を絶する妖気を持つ存在です。討伐軍を出したとしても、全滅させられるに違いありません」
以前に鬼族を含む妖魔三体を瞬殺した瓊瓊杵を、咲耶は思い出していた。鬼族は妖魔の中でも恐ろしく強力な存在だったのだ。その瓊瓊杵を殺すほどの妖魔が、どれほどの力を持っているのか、咲耶には想像もつかなかった。
「しかし、それでは瓊瓊杵さまのご無念は……」
「私が晴らしますッ!」
磐長姫の言葉を遮るように、咲耶が叫んだ。その美しい黒曜石の瞳には、復讐の焔が燃えさかっていた。
「咲耶……。でも、あなたでは……」
礼儀作法よりも剣や馬の稽古を好むとは言え、咲耶の力は瓊瓊杵に大きく劣っていた。その咲耶に瓊瓊杵の仇討ちができるとは、磐長姫にはとても思えなかった。
「おっしゃるとおり、今の私では瓊瓊杵さまに遠く及びません。ですから、姉上に一つだけお願いがあります」
「お願い……?」
咲耶の言葉の意味が分からずに、磐長姫が首を傾げながら訊ねた。
「はい……。火照、火須勢理、火遠理の三人を育てて頂けませんか?」
咲耶は「預かって」と言わずに、「育てて」と告げた。その意味を磐長姫は真剣な表情で受け止めた。
「それは、つまり……」
「はい。私は瓊瓊杵さまの仇を討つまで、戻りません。そのために、あるお方に弟子入りをするつもりです」
黒曜石の瞳に真剣な光を映しながら、咲耶が真っ直ぐに磐長姫を見つめた。こういう時の咲耶は、何を言っても絶対に意思を変えないことを磐長姫は知っていた。
「弟子入りとは、どなたに……?」
「天照皇大御神さまを除けば、最強と呼ばれる武神が二人いらっしゃいます。そのうちのお一人は高天原を追放されて、今は行方知れずです。ですから、もう一人の武神に弟子入りをするつもりです」
二大武神の一人である素戔嗚尊は、姉である天照の怒りを買って高天原を追放されていた。葦原中国のどこかに身を潜めているとか、黄泉の国を訪れているとかいう噂があったが、その存在がどこにいるのか誰も知る者はいなかった。
「もう一人の武神といえば……」
「建御雷神さまですッ!」
素戔嗚尊と双璧を成す武神の名を、咲耶が告げた。だが、過去数百年の間に数え切れないほどの神々が建御雷神に教えを乞うたが、誰一人としてその凄まじい修行に耐えられた者はいなかった。
「無茶を言うのはやめなさいッ! 腕自慢の神々でさえ逃げ出す修行ですよッ! いかに剣を嗜んでいるとはいえ、女のあなたに務まるはずなどあり得ませんッ!」
驚愕に眼を見開きながら、磐長姫が叫んだ。彼女には、咲耶が自ら好んで地獄への扉を開こうとしているかに見えた。
「この十年あまり、瓊瓊杵さまは私を全身全霊を込めて愛してくださいました。そして、その想いに勝るとも劣らず、私も瓊瓊杵さまを愛しておりますッ! 瓊瓊杵さまはすでに私の半身なのですッ! その半身を奪った夜叉を、私は絶対に許せませんッ!」
壮絶な神気を全身に纏わせながら、咲耶が叫んだ。その黒曜石の瞳には、何者にも屈しない強固な意志の焔が燃えていた。
「ですから、討伐軍を……」
「十万、二十万の討伐軍と、瓊瓊杵さまお一人と、どちらが強いとお思いですかッ?」
磐長姫の言葉を遮るように、咲耶が訊ねた。その問いに、磐長姫は言葉を失って口をつぐんだ。太陽神である天照皇大御神の嫡孫が、どれ程の力を持つのか磐長姫も十分過ぎるほど知っていたのだ。
「しかし、建御雷神さまは滅多なことでは弟子入りを認めないと聞き及びます。どうするつもりですか……?」
「ご心配には及びません。私に秘策がございます」
ニッコリと微笑みを浮かべると、咲耶が自信を持って磐長姫に告げた。その様子を心配そうに、磐長姫が見つめた。こういう時の咲耶がとんでもないことをしでかすことを、磐長姫はよく知っていたのである。
高天原にある建御雷神の屋敷の前で、咲耶は門番から門前払いを受けた。高天原中で腕に自信のある神々が、有名な武神たちの紹介状を携えて日々建御雷神を訪ねてくるのだ。紹介状も何もない女の咲耶に、目通りなど叶うはずもなかった。
「帰れッ! よりにもよって、建御雷神さまに弟子入りだとッ……? 女の分際で、何を考えているッ!」
まだ若い門番が、持っていた長槍の石突で咲耶の胸を押した。その勢いで地面に倒されながら、咲耶はニヤリと微笑みを浮かべた。
(悪いが、貴方には私の秘策の餌食になってもらおうかッ!)
咲耶は立ち上がると、着ていた着物の襟元を大きく広げて叫んだ。
「きゃああッ……! 誰か、助けてぇえッ!」
「お、おいッ……! 何をッ……?」
自ら露出させた左乳房を右手で押さえながら、咲耶が慌てる門番の青年を左手で指差した。
「この人に襲われてますッ! 誰かぁッ……! 助けてぇえッ!」
咲耶の悲鳴を聞いて、周囲から男たちが駆けつけてきた。そして、茫然と立ち竦む門番の青年に次々と襲いかかった。
「貴様ッ……! 何をしているッ!」
「真っ昼間から女を襲うなんて、とんでもねえ野郎だッ!」
「ふん捕まえて、建御雷神さまの御前に引っ立てろッ!」
右腕を背中に捻じり上げられながら、門番の青年は地面に引き倒された。
「ま、待ってくれッ! 俺は何もやってないッ……! 痛ててッ……! 離せぇえッ……!」
両手を背中に拘束されながら、青年が無罪を叫び続けた。だが、白く豊かな左乳房を右手で隠しながら地面に座り込んでいる美女と、しがない門番の青年とでは初めから勝負にならなかった。
(すまぬな……。だが、最初に私を石突で小突いてきたのは貴方の方じゃ……)
「大丈夫ですか……?」
三十代半ばくらいの男が、左手を咲耶に差し出してきた。先ほどの青年と同じ長槍を持っていたことから同じ門番のようであったが、着ている衣服は明らかに上質な物だった。そのことから、咲耶は彼が青年の上官であると推測した。
「ありがとうございます……。助かりましたわ……」
見る者を魅了する素晴らしい微笑を浮かべながら、咲耶が男を見つめた。葦原中国随一と言われる咲耶の美貌に、男はカアッと赤面した。
「ああ見えて、真面目な奴なんだが……。貴女の美しさに我を忘れたようです。どうか、許してやってください……」
「いえ……。それよりも、着物の袖が破れてしまいました。できれば、着替えをお借りしたいのですが……」
内心の笑いを押し殺して、咲耶が恥ずかしそうに告げた。右手で隠している咲耶の左乳房に視線を這わせながら、男がゴクリと生唾を飲み込んだ。
「も、もちろんです……。どうぞ、屋敷の中へ……。女官の誰かに衣服を貸してもらいましょう。建御雷神さまからも直々に謝罪があるかと思いますので……」
「建御雷神さまから……?」
(やったッ! 思ったよりも簡単に建御雷神さまにお会いできそうじゃッ!)
だが、男の告げた次の言葉に、咲耶は顔を引き攣らせた。
「当然です。往来の激しい屋敷の正門で、部下が女性を襲ったのですから……。あいつもバカなことをしたものだ。こんな不祥事、建御雷神さまがお許しになるはずないだろうに……」
男の言葉から不吉な雰囲気を感じ取って、咲耶が訊ねた。
「あのお方は、どのような罰を受けられるのでしょうか?」
「建御雷神さまのお顔に泥を塗ったのですから、当然死刑でしょう……」
「し、死刑ッ……?」
建御雷神に会うために、咲耶は少し彼を利用させてもらっただけだった。その結果が、彼の生命を奪うことになるなど、咲耶は予想さえしていなかった。
(どうしよう……? いくら何でも、こんなことであの青年を殺したら目覚めが悪すぎる。どうにかして、建御雷神さまのお怒りを静めぬと……)
だが、本当のことを言うわけにはいかなかった。建御雷神に会いたいがために狂言を行ったなどということがバレたら、弟子入りなど許されるはずがなかったからだ。
「建御雷神さまは、不正や悪事を絶対に許さない高潔なお方です。また、建御雷神さまはその偉大なお力で、どんな嘘も瞬く間に見破られます。たとえ貴女を襲っていないなどと言っても、そんな嘘は建御雷神さまに通用しませんよ……」
そう告げると、男は咲耶を安心させるように笑った。だが、咲耶は彼に引き攣った笑顔を浮かべるのが精一杯だった。嘘を見破る力が建御雷神にあるとしたら、咲耶の狂言などすぐにバレてしまうことは明白だった。
(終わった……。これは弟子入りどころではないわ。下手をしたら、私が死刑になるかも知れぬ……)
杜撰すぎる秘策を、咲耶は早々に後悔した。屠殺場に引き立てられる家畜の気持ちを理解しながら、咲耶は建御雷神の屋敷の中に足を踏み入れていった。
意識を取り戻すと、咲耶は瓊瓊杵の左腕を枕にしていたことに気づいた。そして、昨夜は瓊瓊杵に愛されて何度も快絶の頂点を極め、失神してしまったことを思い出した。恥ずかしさのあまりカアッと顔を赤く染めると、瓊瓊杵から眼を逸らして咲耶は俯いた。
「咲耶……、貴女が愛しくて堪らない。私は生涯をかけて、貴女だけを愛すると誓おう……」
「瓊瓊杵さま……」
瓊瓊杵が右手を咲耶の顎に添えて、顔を上げさせた。そして、咲耶の言葉を塞ぐように、唇を重ねてきた。濃厚に舌を絡められながら、咲耶は自分が瓊瓊杵を愛し始めていることを実感した。
白みかけた地平線に夜の青さと朝焼けが入り混じる頃、瓊瓊杵の広い背中に爪を立てながら咲耶は何度も歓悦の頂点を極めた。
その日、咲耶は瓊瓊杵と一緒に、昨日妖魔に襲われた場所を訪れた。咲耶を守るために殺された五人の青年の遺体を埋葬するためであった。本来であれば昨日のうちにしなければならないことだったが、気が動転していたこととその後の求婚という怒濤の展開によって、彼らを埋葬する時間がなかったのだ。
五人の青年を丁重に埋葬し終えると、咲耶は祝詞を詠んで彼らの冥福を祈った。そして、瓊瓊杵を連れて彼らの家を訪れ、遺族に謝罪をした。女神である咲耶だけでなく、天照皇大御神の嫡孫である瓊瓊杵がともに頭を下げてきたことで、遺族たちは恐縮し怨嗟の言葉一つ口にできなかった。彼ら普通の人間にとって、天界を統べる天照の存在はそれほどまでに偉大だったのだ。
五人の遺族を弔問した後、咲耶は大山祇神の屋敷に向かう途中で気分が悪くなった。道端にしゃがみ込んで嘔吐する咲耶の背中を撫ぜながら、瓊瓊杵が心配そうに訊ねた。
「大丈夫かい、咲耶……?」
「ええ……。何とか……」
微笑を浮かべながらそう告げた咲耶の顔色は、蒼白であった。これほど急に吐き気をもよおしたことなど、初めての経験だった。女神である咲耶は、今までに病気どころか風邪一つ引いたことがなかったのだ。
(何じゃろう……? 今朝から体の調子がおかしい。瓊瓊杵さまにあんなに激しく愛されたからか……?)
カアッと顔を赤らめながら、咲耶は両手で下腹を擦った。その時、信じられない違和感を感じた。
(まさか……? そんなこと、あるはずがない……)
自分の胎内に、別の誰かがいるような気がしたのだ。たとえ神々と言えども、愛し合った翌日に妊娠することなどあり得るはずはなかった。咲耶は自分の考えを振り払うように、大きく首を振った。だが、その違和感は消え去るどころか、はっきりとした実感を伴って咲耶に妊娠の事実を告げた。
(瓊瓊杵さまは、天照皇大御神さまのご嫡孫……。私たち国津神とは比べものにならないお力があるのかも知れない……)
茫然とした表情で自分を見つめている咲耶に気づき、瓊瓊杵が心配そうな表情を浮かべながら訊ねた。
「どうした、咲耶……? 何か気になることでもあるのかい?」
ゴクリと生唾を飲み込むと、咲耶は瓊瓊杵の優しい黒瞳を見つめながら告げた。
「瓊瓊杵さま……。私、貴方さまのお子を授かったようです……」
「えッ……? お子って……?」
咲耶の言葉に、瓊瓊杵が驚愕の表情を浮かべた。咲耶を愛したのは昨夜が初めてであり、その翌日に彼女が妊娠することなどあり得なかったのだ。
「何を言っているんだい、咲耶……? いかに私が天津神であるとはいえ、たった一夜で貴女が身篭る筈はない。それは国津神の子ではないのか?」
瓊瓊杵の言葉を聞いて、咲耶はカアッと顔を赤らめて激怒した。それは瓊瓊杵と契る前に、咲耶が他の神々に抱かれていたのではないかという意味だった。だから、妊娠したとすれば、その父親はそれらの神々の誰かだと瓊瓊杵は言っているのであった。
「分かりましたッ! 私はこの子を炎の中で産みますッ! これから、産屋を建てて中に入り、その入口を塞いで火を放ちますッ! この子が国津神の子であれば、私もろとも炎の中で焼け死ぬでしょう! もし無事に生まれてきたのであれば、それは天津神の子……貴方さまのお子でございますッ!」
そう告げると咲耶は瓊瓊杵をその場に残して、早足で屋敷に戻っていった。後には茫然として立ち竦む瓊瓊杵が一人残されていた。
瓊瓊杵に誓約を立てた咲耶は、その言葉通り大山祇神に頼み込んで産屋を建ててもらった。そして、一人で産屋の中に入ると、外から板を打ちつけて入口を塞いでもらい、自ら火を放った。
驚愕する瓊瓊杵の目の前で、産屋は瞬く間に劫火に包まれた。しばらくすると、パチパチと燃えさかる灼熱の炎の中から、元気な赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。そして、燃え落ちた産屋の跡から、生まれたばかりの三つ児を抱いている咲耶が姿を現した。
「このとおり、無事に生まれました。この子たちは紛れもなく貴方さまのお子でございます」
産褥の疲れを見せながらも、咲耶は見る者を惹きつける笑顔を浮かべて瓊瓊杵に告げた。
「疑って申し訳なかった……。許してくれ、咲耶……」
愛する妻に深く謝罪すると、瓊瓊杵は咲耶の腕から三つ児を受け取った。
「三人とも元気な男の子にございます。瓊瓊杵さまがお名前を付けてくださいませ……」
「分かった。炎の中から生まれた強い子たちだ。火照、火須勢理、火遠理と名付けよう」
嬉しそうな笑みを浮かべながら、瓊瓊杵が咲耶に告げた。そのうちの火遠理の孫が神武天皇となるのは、まだ先の話であった。
その後の十年あまりは、咲耶の長い生の中で最も倖せで充実した日々であった。健やかに育つ子供たちの成長を見守りながら、咲耶は毎晩のように瓊瓊杵に愛された。女の悦びと母親の倖せを噛みしめながら、咲耶はこの日々が永遠に続くものだと信じ切っていた。
だが、その訃報を受けた時、咲耶は茫然として自分がどこで何をしているのかさえも分からなかった。瓊瓊杵が殺されたのである。
葦原中国を治めるべく天照から神勅を受けた瓊瓊杵は、日向国に大きな宮殿を築いて咲耶と三人の息子たちとともに暮らしていた。瓊瓊杵の使命は、人々の争いを止めさせることであった。そのため、西に戦いが起これば西へ行き、東で戦争が勃発すれば東へと赴いた。瓊瓊杵の努力によって葦原中国から争いが減っていき、人々は平和を謳歌し始めた。
ある時、日向国から遠く離れた武蔵国で、強力な妖魔が人々を苦しめているという噂が入ってきた。
「心配はいらないよ、咲耶……。武蔵国は遠いから、今回は少し時間がかかる。だが、必ず無事に戻るので、待っていておくれ。火照たちをよろしく頼む……」
旅立ちの前の晩、寝台の中で瓊瓊杵は咲耶を抱き締めながらそう告げた。
「はい。ご無事のお帰りをお待ちして……あッ、だめです、瓊瓊杵さま……! まだ、お話しが……、あッ、いやッ……、あッ、あぁああッ……!」
快美の火柱に貫かれ、咲耶は大きく仰け反りながら瓊瓊杵にしがみついた。腰骨を灼き溶かす快絶が背筋を舐め上げ、脳天に雷撃が襲いかかって意識が真っ白に染まった。
粒だった入口を三度擦り上げられ、一気に最奥まで貫かれた。その女を狂わせる禁断の律動に、咲耶は随喜の涙を流しながら悶え啼いた。
「あッ、あッ、だめッ……、それッ……はげしッ……んくッ……!」
熱い喘ぎを放つ咲耶の唇を、瓊瓊杵が塞いできた。濃厚に舌を絡められながら三浅一深の動きで激しく責められ、咲耶は歓悦の頂点へと駆け上がった。
「んあッ……んッ……んくッ……ん、んぁああッ……!」
(だめッ……イってしまうッ……! あッ、いやッ……イクッ……イクぅうっ……!)
ビックンッビックンッと総身を痙攣させると、大きく裸身を仰け反らせながら咲耶は絶頂を極めた。そして、官能の愉悦を噛みしめながら硬直を解き放つと、グッタリと弛緩して寝台に沈み込んだ。
凄絶な官能に蕩けきった黒瞳で瓊瓊杵を見つめると、咲耶は魅惑的な唇を瓊瓊杵に重ねた。
(好きです、瓊瓊杵さま……。愛しています……)
その熱情をぶつけるように、咲耶は自ら濃厚に舌を絡めた。それが瓊瓊杵との最後の口づけになるなど、その時の咲耶は予想もしていなかった。
翌朝、瓊瓊杵は武蔵国に旅立ち、二度と咲耶の元に戻らなかった。
重傷を負いながらも辛うじて戻ってきた従者から、咲耶は瓊瓊杵の最期を聞いた。その従者は十四歳の少女だった。彼女を逃がすために、瓊瓊杵は盾となって妖魔に殺されたとのことだった。生命を賭けて主を守るのが従者の務めであるにも拘わらず、逆に主に守られて逃げ帰ってきた少女に咲耶は激怒した。
「主を見捨てておめおめと逃げ帰るとは何事かッ!」
左腰に佩いた宝刀を抜いて少女を斬り殺そうとした咲耶を、磐長姫が慌てて止めた。
「落ち着きなさい、咲耶ッ! 瓊瓊杵さまの最期を伝えるために命がけで戻ってきてくれた彼女に、何をするつもりですかッ!」
「しかし、姉上ッ……!」
「彼女の姿をよく見なさいッ!」
磐長姫の言葉に宝刀を下ろすと、咲耶は改めて少女の姿を見つめた。
美しかったであろう黒髪をざんばらに乱し、彼女は左眼を塞ぐように半顔を白い包帯で覆っていた。左腕は肘から先がなく、傷口を血まみれの包帯で強く結んでいた。着ている着物は泥だらけで、あちこちが擦り切れ破れていた。
左眼と左腕を失う重傷を負いながらも、遠い武蔵国から命がけで戻ってきたことはひと目で分かった。
「貴女のお名前は……?」
少女の前にしゃがみ込んで残された右手を両手で包み込みながら、磐長姫が優しく訊ねた。
「神樂と、申します……」
「神樂……ありがとうございます。傷の手当てをして、ゆっくりとお休みなさい」
「はい……申し訳ありま……」
その言葉を言い切る前に、神樂はガクリと首を折って磐長姫の胸の中で意識を失った。無事に使命を果たしたことにより、緊張の糸が切れたのだ。磐長姫は従者を呼んで、神樂の手当を命じた。
「姉上、私は……」
「気持ちは分かりますが、従者に当たるのは筋違いです。彼女の献身と忠誠は、私たちにとって何よりも大切なものです」
「はい……」
磐長姫の言葉は、失意の咲耶にも重くのしかかった。激情に任せて神樂を斬り殺していたら、咲耶は女神としての資格を失ってしまうところだった。
「瓊瓊杵さまの仇の名は、夜叉と言うそうです。お父上に申し上げて、討伐の軍を出して頂きましょう」
気落ちしている咲耶の左肩に右手を乗せながら、磐長姫が告げた。だが、咲耶は小さく首を振ると、彼女の言葉を拒んだ。
「それはお止めください、姉上……。瓊瓊杵さまは天照皇大御神さまのご嫡孫です。私たちでは及ばないお力をお持ちでした。その瓊瓊杵さまを殺した相手は、恐らく想像を絶する妖気を持つ存在です。討伐軍を出したとしても、全滅させられるに違いありません」
以前に鬼族を含む妖魔三体を瞬殺した瓊瓊杵を、咲耶は思い出していた。鬼族は妖魔の中でも恐ろしく強力な存在だったのだ。その瓊瓊杵を殺すほどの妖魔が、どれほどの力を持っているのか、咲耶には想像もつかなかった。
「しかし、それでは瓊瓊杵さまのご無念は……」
「私が晴らしますッ!」
磐長姫の言葉を遮るように、咲耶が叫んだ。その美しい黒曜石の瞳には、復讐の焔が燃えさかっていた。
「咲耶……。でも、あなたでは……」
礼儀作法よりも剣や馬の稽古を好むとは言え、咲耶の力は瓊瓊杵に大きく劣っていた。その咲耶に瓊瓊杵の仇討ちができるとは、磐長姫にはとても思えなかった。
「おっしゃるとおり、今の私では瓊瓊杵さまに遠く及びません。ですから、姉上に一つだけお願いがあります」
「お願い……?」
咲耶の言葉の意味が分からずに、磐長姫が首を傾げながら訊ねた。
「はい……。火照、火須勢理、火遠理の三人を育てて頂けませんか?」
咲耶は「預かって」と言わずに、「育てて」と告げた。その意味を磐長姫は真剣な表情で受け止めた。
「それは、つまり……」
「はい。私は瓊瓊杵さまの仇を討つまで、戻りません。そのために、あるお方に弟子入りをするつもりです」
黒曜石の瞳に真剣な光を映しながら、咲耶が真っ直ぐに磐長姫を見つめた。こういう時の咲耶は、何を言っても絶対に意思を変えないことを磐長姫は知っていた。
「弟子入りとは、どなたに……?」
「天照皇大御神さまを除けば、最強と呼ばれる武神が二人いらっしゃいます。そのうちのお一人は高天原を追放されて、今は行方知れずです。ですから、もう一人の武神に弟子入りをするつもりです」
二大武神の一人である素戔嗚尊は、姉である天照の怒りを買って高天原を追放されていた。葦原中国のどこかに身を潜めているとか、黄泉の国を訪れているとかいう噂があったが、その存在がどこにいるのか誰も知る者はいなかった。
「もう一人の武神といえば……」
「建御雷神さまですッ!」
素戔嗚尊と双璧を成す武神の名を、咲耶が告げた。だが、過去数百年の間に数え切れないほどの神々が建御雷神に教えを乞うたが、誰一人としてその凄まじい修行に耐えられた者はいなかった。
「無茶を言うのはやめなさいッ! 腕自慢の神々でさえ逃げ出す修行ですよッ! いかに剣を嗜んでいるとはいえ、女のあなたに務まるはずなどあり得ませんッ!」
驚愕に眼を見開きながら、磐長姫が叫んだ。彼女には、咲耶が自ら好んで地獄への扉を開こうとしているかに見えた。
「この十年あまり、瓊瓊杵さまは私を全身全霊を込めて愛してくださいました。そして、その想いに勝るとも劣らず、私も瓊瓊杵さまを愛しておりますッ! 瓊瓊杵さまはすでに私の半身なのですッ! その半身を奪った夜叉を、私は絶対に許せませんッ!」
壮絶な神気を全身に纏わせながら、咲耶が叫んだ。その黒曜石の瞳には、何者にも屈しない強固な意志の焔が燃えていた。
「ですから、討伐軍を……」
「十万、二十万の討伐軍と、瓊瓊杵さまお一人と、どちらが強いとお思いですかッ?」
磐長姫の言葉を遮るように、咲耶が訊ねた。その問いに、磐長姫は言葉を失って口をつぐんだ。太陽神である天照皇大御神の嫡孫が、どれ程の力を持つのか磐長姫も十分過ぎるほど知っていたのだ。
「しかし、建御雷神さまは滅多なことでは弟子入りを認めないと聞き及びます。どうするつもりですか……?」
「ご心配には及びません。私に秘策がございます」
ニッコリと微笑みを浮かべると、咲耶が自信を持って磐長姫に告げた。その様子を心配そうに、磐長姫が見つめた。こういう時の咲耶がとんでもないことをしでかすことを、磐長姫はよく知っていたのである。
高天原にある建御雷神の屋敷の前で、咲耶は門番から門前払いを受けた。高天原中で腕に自信のある神々が、有名な武神たちの紹介状を携えて日々建御雷神を訪ねてくるのだ。紹介状も何もない女の咲耶に、目通りなど叶うはずもなかった。
「帰れッ! よりにもよって、建御雷神さまに弟子入りだとッ……? 女の分際で、何を考えているッ!」
まだ若い門番が、持っていた長槍の石突で咲耶の胸を押した。その勢いで地面に倒されながら、咲耶はニヤリと微笑みを浮かべた。
(悪いが、貴方には私の秘策の餌食になってもらおうかッ!)
咲耶は立ち上がると、着ていた着物の襟元を大きく広げて叫んだ。
「きゃああッ……! 誰か、助けてぇえッ!」
「お、おいッ……! 何をッ……?」
自ら露出させた左乳房を右手で押さえながら、咲耶が慌てる門番の青年を左手で指差した。
「この人に襲われてますッ! 誰かぁッ……! 助けてぇえッ!」
咲耶の悲鳴を聞いて、周囲から男たちが駆けつけてきた。そして、茫然と立ち竦む門番の青年に次々と襲いかかった。
「貴様ッ……! 何をしているッ!」
「真っ昼間から女を襲うなんて、とんでもねえ野郎だッ!」
「ふん捕まえて、建御雷神さまの御前に引っ立てろッ!」
右腕を背中に捻じり上げられながら、門番の青年は地面に引き倒された。
「ま、待ってくれッ! 俺は何もやってないッ……! 痛ててッ……! 離せぇえッ……!」
両手を背中に拘束されながら、青年が無罪を叫び続けた。だが、白く豊かな左乳房を右手で隠しながら地面に座り込んでいる美女と、しがない門番の青年とでは初めから勝負にならなかった。
(すまぬな……。だが、最初に私を石突で小突いてきたのは貴方の方じゃ……)
「大丈夫ですか……?」
三十代半ばくらいの男が、左手を咲耶に差し出してきた。先ほどの青年と同じ長槍を持っていたことから同じ門番のようであったが、着ている衣服は明らかに上質な物だった。そのことから、咲耶は彼が青年の上官であると推測した。
「ありがとうございます……。助かりましたわ……」
見る者を魅了する素晴らしい微笑を浮かべながら、咲耶が男を見つめた。葦原中国随一と言われる咲耶の美貌に、男はカアッと赤面した。
「ああ見えて、真面目な奴なんだが……。貴女の美しさに我を忘れたようです。どうか、許してやってください……」
「いえ……。それよりも、着物の袖が破れてしまいました。できれば、着替えをお借りしたいのですが……」
内心の笑いを押し殺して、咲耶が恥ずかしそうに告げた。右手で隠している咲耶の左乳房に視線を這わせながら、男がゴクリと生唾を飲み込んだ。
「も、もちろんです……。どうぞ、屋敷の中へ……。女官の誰かに衣服を貸してもらいましょう。建御雷神さまからも直々に謝罪があるかと思いますので……」
「建御雷神さまから……?」
(やったッ! 思ったよりも簡単に建御雷神さまにお会いできそうじゃッ!)
だが、男の告げた次の言葉に、咲耶は顔を引き攣らせた。
「当然です。往来の激しい屋敷の正門で、部下が女性を襲ったのですから……。あいつもバカなことをしたものだ。こんな不祥事、建御雷神さまがお許しになるはずないだろうに……」
男の言葉から不吉な雰囲気を感じ取って、咲耶が訊ねた。
「あのお方は、どのような罰を受けられるのでしょうか?」
「建御雷神さまのお顔に泥を塗ったのですから、当然死刑でしょう……」
「し、死刑ッ……?」
建御雷神に会うために、咲耶は少し彼を利用させてもらっただけだった。その結果が、彼の生命を奪うことになるなど、咲耶は予想さえしていなかった。
(どうしよう……? いくら何でも、こんなことであの青年を殺したら目覚めが悪すぎる。どうにかして、建御雷神さまのお怒りを静めぬと……)
だが、本当のことを言うわけにはいかなかった。建御雷神に会いたいがために狂言を行ったなどということがバレたら、弟子入りなど許されるはずがなかったからだ。
「建御雷神さまは、不正や悪事を絶対に許さない高潔なお方です。また、建御雷神さまはその偉大なお力で、どんな嘘も瞬く間に見破られます。たとえ貴女を襲っていないなどと言っても、そんな嘘は建御雷神さまに通用しませんよ……」
そう告げると、男は咲耶を安心させるように笑った。だが、咲耶は彼に引き攣った笑顔を浮かべるのが精一杯だった。嘘を見破る力が建御雷神にあるとしたら、咲耶の狂言などすぐにバレてしまうことは明白だった。
(終わった……。これは弟子入りどころではないわ。下手をしたら、私が死刑になるかも知れぬ……)
杜撰すぎる秘策を、咲耶は早々に後悔した。屠殺場に引き立てられる家畜の気持ちを理解しながら、咲耶は建御雷神の屋敷の中に足を踏み入れていった。
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