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神との接触編

不気味な影が伸びてきて

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『渋谷に神が現る』というニュースは世界各地を駆け巡っていく。
21世紀の時代であったのならば拡散に一ヶ月はなかったであろう情報も23世紀であるのならば1日で全て世界各地へと駆け回ったのであった。

君主国、共産主義国問わずに世界各国で神到来を告げるニュースは人々に多大なる衝撃を与えたのである。
君主国では神の代理人を称する国王や皇帝の元へと人々が救済を求めて訪れ、共産主義国家では指導者が直々に君主国による捏造だということを演説で力説し、そのプロパガンダを裏付ける“証拠”を用意しなくてはならなかった。

人々は共産主義や既存の宗教に頼り、滅亡が迫っているという現実からの逃避を図る羽目になった。
しかし、それはあくまでも目眩し。追い詰められた人間が現実からにがれるためにやけ酒を飲む心理に近いものであった。そのような無茶な現実逃避がいつまでも続くはずがない。

人々は一週間も経たないうちに大きな混乱へと陥った。共産主義国家、君主制国家問わずに大規模な暴動が発生し、教会や役所の前で強奪が行われた。
共産主義にしろ君主制にしろ人々の恐怖を抑えることは不可能であったといってもいい。

世界最後の民主主義国家である日本ですらも例外とはいえなかった。
ただでさえ普段から不可能犯罪に悩まされていた人々は渋谷での一件が引き金となり、政府に対する不信感を爆発させ、首都圏では機動隊や武装した人々がぶつかり合う羽目になっていた。

共和国の指導者である竹部大統領はこれに対する戒厳令並びに緊急事態宣言を発令。警察は治安維持のため市民と激突する羽目になってしまったのだ。
これらのニュースをまとめたインデックスを人差し指でなぞった後で大樹寺雫は小さく溜息を吐く。
民主主義国家の民衆とやらも大したことではないではないか。

一旦絶対的な恐怖に陥ってしまえば世界で唯一の民主主義国家とやらも機能しなくなってしまった。
やっていることは君主や共産主義と変わらないではないか。
やはり、人々を救うものは政治制度ではない。絶対的な救いを持った宗教であるべきなのだ。

以上の理由から大樹寺雫は部屋の中で一人、日本への帰還を決意していた。このまま一生をロシアでぬくぬくとして暮らすのもいいが、やはり日本には自分が必要なのだ。
不可能犯罪に人々が襲われる羽目になったのは神に仕える巫女である自分を迫害した罰であるのだ。
大樹寺は密かにそんな確信を得ていたのである。あの時は日本警察による弾圧を受けて自身の築き上げた宗教は霧散してしまうことになったが、今は違う。

今の状況に乗じれば全盛期と同等。もしくは全盛期以上の信者を獲得できるに違いない。
下手をすればあの昌原道明ですら成し得ることができなかった神聖教皇の道すら開かれるかもしれない。
日本をこの手に……。大樹寺の中で野望という名のドス黒い炎が燃え上がっていた。大樹寺の中に矛盾した思いが存在しているが、奇妙なことに彼女にとってはどちらも真実であったのだ。

大きな矛盾と志の両方を胸の内に秘めたかつての今日ははインターネットを閉じると、端末を取り出して自身の部屋へとイベリアを呼び出す。
お茶を5回ほどお代わりしたところでようやくイベリアが姿を見せた。

いつもならばワックスを使って丁寧に整っている髪も今日のところはワックスを使って整える余裕もないのかひどく乱れていた。
スーツも干す余裕がないのかヨレヨレである。ネクタイも曲がっている。
が、それ以上に目を引いたのは疲労し切った顔である。

イベリアは血走った目で大樹寺を睨みながら言った。

「何の用だ?貴様?オレは女王陛下に仇なす無礼者どもの検挙で忙しいんだ。貴様の戯言などに付き合う余裕はないぞ」

「そんなんじゃないよ」

大樹寺は六度目の紅茶を啜りながら言った。あくまでもその声は冷静だ。激務によって余裕を失ったイベリアとは対照的にその顔からは余裕が見えた。
態度もどこか行儀の悪い様子で椅子の上に腰を掛けるイベリアとは違い、相手にお茶を出す気遣いさえ見せていた。

イベリアは喉が渇いていたのか、カップを通してからも温度が伝わるまでに温かいお茶を一気に飲み干し、口元を拭うと、もう一度大樹寺を睨む。
充血した両目が大樹寺の体を射抜いていたが、彼女は意に返す様子すら見せずにお茶を啜っていた。
どうももったいぶっている。苛立ったイベリアはそんな態度の大樹寺に対して机を叩くことで自らの機嫌を表してみせた。

「貴様ッ!言いたいことがあるのならばさっさと言ったらいいだろうッ!それとも何か?オレなどとは口もききたくないというのか!?自分で呼び出したくせにッ!」

「……あたしを日本に戻してくれないかな?」

その言葉でイベリアの顔からは怒りが消え、代わりに一歩引いたような表情が浮かんでいた。
イベリアは両眉をひそめながら、

「どうかしたのか?貴様も不安でやられてしまったか?」

「どうもこうもしてないよ。それに不安にもやられてない。あなたが言えって言ったから答えただけだよ」

大樹寺の声はあくまでも冷ややかであった。イベリアは思わず生唾を飲み込む。
この時の大樹寺は誰よりも大きく見えたのであった。大樹寺は日本人で尚且つ女性ということもあり自分よりも小さな存在であったはずだ。
しかし、今の大樹寺は違った。圧というものが全身から漂い、有無を言わせない空気を部屋全体に作り上げていたのだ。
イベリアはこの時反論する言葉を失ってしまった。教師や親に叱られた後の子どものように小刻みにでも首を縦へと動かすより他になかったのだった。

イベリアの姿を見た大樹寺は満足気な笑顔を浮かべて首を縦に動かす。
かくして、大樹寺雫は強大な力を誇るロシア帝国の力を背景に日本へと凱旋帰国を果たすことになったのであった。
当然イベリアより大樹寺のことを伝えられたロシア皇帝並びにロシア政府は当初は日本との関係を憂慮し、大樹寺雫の凱旋帰国にいい顔をしなかった。

だが、大樹寺による敵を神と日本と扇動し、皇帝の支配を絶対的なものにするという計画を聞いてからは手放しで応援する羽目になった。ましてや最後に大樹寺が神聖教皇へと即位した暁にはロシア皇帝に絶対の忠誠を誓うということが伝われば協力しないわけにはいかなかった。
計画の立案には帝国諜報部が関わり、大樹寺と入念な計画を立てることになった。日本を極度に刺激し、ロシアを怒らせるための方法。

それはロシア軍艦を使って本土へと着地し、そこから大樹寺を降ろすというものであった。
そればかりではない。弾圧されている可憐な少女を助けるための護衛としてロシア軍の同行を求めたのである。
ただでさえ日本と緊張が絶えないロシア帝国である。そのロシアが軍艦で日本列島の北端へと接近し、そこにかつてテロリストとして指名手配されていた少女を降ろしたというのならば当然日本政府はいい顔をしない。ましてや軍の護衛付きなど論外だろう。

だが、今の日本政府にはロシアを非難する余裕などなかった。
国内の暴動を抑えるのに手一杯であったからだ。
日本政府と大樹寺雫並びにロシア帝国とでは後者の圧勝であった。

大樹寺は北端を新たな自らの拠点とし、ロシアの軍隊が守る中でバプテスト・アナベル教を再興したのであった。
再興されたバプテスト・アナベル教にはかつての信者やその子どもたちのみならず、現在の世界に不満を抱えている人々が救いを求めてやってきたのである。

北端がロシアとカルト教団によって乗っ取られるまで一ヶ月も掛からなかった。
後に人々はこの事件を『一ヶ月の変』と呼んだのであった。
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