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第二部『箱舟』

氷室零一の場合ーその②

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ウォルターは肩を貫かれて、恐慌状態に陥ったのか、急激に慌て始めていく。
だが、彼は容赦する事なく槍に込める力を強めていく。
氷室零一にとって、ウォルターを仕留める事はここ数週間の悲願であったのだ。
自身がマルフォスなる悪魔と新幹線の中で契約し、サタンの息子となってからは耳鳴りのたびに戦いへと駆り出されるので、彼からすれば気が休む暇がなかったのだ。お陰で彼は休暇できたはずの大阪に移住する羽目になってしまった。
頻繁に戦いが起こるのであればそれも仕方がないだろう。彼は上司に連絡を入れ、箱舟会の大阪支部を見張るという名目と大阪府警と合同でここ最近になって現れた暗黒街の大物を拿捕する手掛かりを手に入れるという名目で彼はアパートと偽の戸籍を手に入れたのだ。
彼は箱舟会や大阪府の暴力団と裏社会を牛耳る大物の調査を行っていた。

もう一つの任務である暗黒街の顔役についての情報に関しては時間がなかったために殆ど調べていなかったが、箱舟会に関しては潜入を行えるまでに情報を集めた。
盗聴器や内通者からの情報が正しければ、ウォルターは近々教団の拠点をこの大阪支部へと移すという目的があったらしい。勿論その目的は大阪にいる他の“サタンの息子”を抹消するためだろう。そのために教祖ウォルター・ビーデカーはしばしば大阪支部を極秘で訪れ、その下調べをしていたという。
最上志恩を誘拐する様にアルベルトなる幹部に指示を出したのは全てウォルターであった。その目的は志恩をダシに他のサタンの息子たちを捕縛するためにあった事だろう。

ウォルターはアルベルトに指示を出した上で同じくサタンの息子として始末するために或いはサタンの息子の処刑をこの目で確かめるためにこの街に来たのだと思われる。
だが、そんなウォルターからみても真紀子の誘拐は予想外であったに違いなかったし、恐らく迷惑極まりなく処分にも手こずったのだろうが、零一からすれば昨日仕掛けた盗聴器から教団と彼女とのやり取りを聴き取れた事によって、彼女こそが最近になって暗黒街を牛耳る黒幕であるという事実が判明したので感謝するしかあるまい。
彼女はそのまま教団に捕らえさせておけばいい。教団が始末するか、もし始末に失敗しとしてもそのまま警察に引っ張ればいいだけの話である。
零一はそう思っていたのだが、生憎とそうも上手くはいかなかったらしい。
真紀子はどうやら縄抜けの術というものを身に付けていたらしく、捕まえられて縄を打たれた瞬間から必死に縄抜けの術を試みようと試して、先程ようやく抜け出したのである。そのまま勢いに乗ってサタンの息子の武装を身に纏い、食糧庫を荒らし回っていたのだ。

食糧庫には彼女が食い散らかしたと思われるハムやベーコン、ソーセージなどの食品が散らばっていた。
潜入している間も真紀子が暴れ回っていた事は盗聴器のみならず近くの他の信者たちからの噂話からでも伝わった。
最上真紀子の恐ろしい点は必要に応じて様々な態度を見せる事やそれに伴う狡猾な知能もそうだが、なによりはその凶悪性である。食糧庫の例からもわかるように一度暴れれば野生の肉食獣の様な獰猛性を見せつけるのだ。
そして散々暴れ回りながらも、街の様子を観察しながら彼女は同じく三人のサタンの息子たちと共に町長こと教団支部長がホテルに入ったのを確認して、扉を開けたのだと思われる。
頭のいい彼女の事だからそのタイミングで扉を開けたのも計算であったかもしれない。恐らく血相を変えた信徒の一人がホテルに入るのを確認して、自身の話がヒートアップしたのを機に自身の退場を印象付ける様に扉を蹴破って入ったのだろう。
町長こと支部長に言い訳を防ぐのが目的だと思われ、零一は改めてその悪魔の様な頭脳を恐れたのである。

一方で疑念が残るのはウォルター・ビーデカーがこれまでの戦いに参加しなかった事である。勿論ウォルターがサタンの息子になったタイミングもあるだろうが、幾ら教団の情報網を得たとしても、サタンの息子たちを把握するためには一日や二日では足りないだろう。
零一が頭を悩ませていた時だ。改めて、カトラスの刃が彼の目の前に突き立てられた。
零一は慌てて距離を取り、もう一度三叉の槍を両手で強く握り締め、ウォルターに向かっていく。
零一は槍を突き、払ってウォルターを倒そうと試みたが、彼による全ての攻撃は難なく回避されてしまう。ウォルターは慌てて距離を取ろうとする零一を捕まえて、そのまま地面の上に叩き付けたのである。

「残念だったな。公安警察の犬くん。まぁ、我々のパラダイスを破壊しようとした罰だ。ここで死んでくれたまえ」

ウォルターは流暢な日本語で煽った。それから零一の首から強引に兜を剥ぎ取り、その素頭を露出させたのだった。
そして、首の上からカトラスの刃を振るっていく。このまま首と胴を強制的に泣き別れさせられてしまう。
零一が覚悟して両目を閉じた時の事である。彼の脳裏に『諦めるな!』という一言が思い浮かぶ。
それはかつての恩師の台詞であった。警察学校の恩師は自分が挫けそうになるたびにこの叱責を与えたものである。
零一は歯を食いしばりながら立ち上がり、そのまま手を使って兜が転がされた方角へと転がっていき、兜を拾い上げると、そのまま被り直す。
それからカトラスソードを振るうウォルターに向かってもう一度槍を構え直したのである。

「お、おい……あいつ止めた方がいいんじゃあねぇのか?」

地面に倒された秀明が真横に倒れていた友紀に向かって問い掛けた。
友紀も同感であったらしいが、蹴飛ばされた時の衝撃がまだ残っていたのか、体に力が入らないらしい。土の上で地面の土を握り締め、ウォルターを睨む。
だが、ウォルターは全員の憎悪を一心上に集めながらも平然とした態度のまま零一を待ち侘びていた。
あまつさえ手招きまでしているではないか。舐めているに違いない。

零一は兜の下で思わず下唇を噛み締めていたが、犯人と対峙する際にはあくまでも冷製を装っていなくてはならぬという警察学校の教えを思い出す。
だが、相手は幾ら待ってもこちらに攻撃を仕掛けてはこない。業を煮やした零一は槍を構えてウォルターの元へと突っ込んでいく。
結果として零一の槍はあっさりとウォルターのカトラスに防がれてしまう。零一は一度飛び上がり、ウォルターを真上から攻撃を仕掛けようとしたのだが、ウォルターがそれを許さない。ウォルターは零一に強い力でぶつかると、そのままウォルターを地面の上に落とし、そのままその足で零一の腹を踏み躙っていくのである。

「し、しまったッ!」

零一は慌てて抜け出そうとしたのだが、ウォルターが足に込める力は予想以上に強く簡単には振り解けそうにはなかったのだ。足によって零一はなす術もなく体を踏み躙られていく。この時彼は子供に遊びでなぶられて殺される小さな虫の様の心境を理解した。
ウォルターにとって零一は虫なのだ。その気になればいくらでも簡単に踏み潰せる虫だ。なんとかその場から動こうと試みたのだが、ウォルターはそれを許さない。足で腹と背中とを蹴り、零一を殺しかけていた。

いくらなんでも酷すぎる。例え勝てなくても、辛くても這って零一を助けるべきなのではないのか。
そんな考えが真紀子を除く全員の頭の中に浮かんでいた。そしてようやく美憂が零一の救出作戦を実行する事になったのである。
美憂はレイピアを構えながらウォルターに向かって近付いていく。
たとえ敵わないでも零一を助けられるのならばなんでもいい。
美憂は決死の覚悟だった。
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