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第二部『箱舟』

氷室零一の場合ーその①

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箱舟会の教祖を務めるウォルター・ビーデカーは1937年にアメリカの南部テキサス州にて、中流階級に属する両親からその生を受けたとされている。
兄弟はいたが、いずれも幼いうちに死亡し、一人残ったウォルターは両親の愛を一身に受けて育てられた。
1956年に地元のハイスクールを優秀な成績で卒業し、教師の勧めで、同年に西部でも有数の国立大学に進学したとされる。
大学の中では哲学と宗教を専攻にして学んだとされ、そこで学んだ事を彼の今の職に活かしていると推測された。
彼の趣味は音楽であるとされ、小学生の頃からカレッジにかけて、熱心にレコードを集めていたり、自身でもギターなどを弾いて歌を練習していたという。
四人組の女性コーラスの曲や世界的に有名なカントリー歌手の曲、ジャズなどを好んで聞いており、その音楽の趣味が現在の教団活動にも受け継がれていると推測される。
ここまできて彼は本部に向けて書き記していた報告書を打つ手を止める。
外部からわかる情報はこれだけしかない。やはり、直に接触を試みるか、はたまた信者として潜入捜査を行うかの二択しかないだろう。
報告書の題名の下に『氷室零一ひむろれいいち』と記載し、そのままインターネットのマウスを置く。
彼ーー氷室零一は公安警察に属する警察官であり、俗に言うキャリア組の彼は若くして警部の階級にあった。
無論キャリアという階級に胡座をかく零一ではない。彼は警察官として市民の安全を守るために危険な団体を監視していたのである。
外国の窃盗団やマフィア、国内の過激派や暴力団などが零一の手によって潰されてきた。中には過激派や暴力団が報復で彼の命を狙った事もあったが、それも難なく返り討ちにした。中には国内の大物政治家が関わる事件もあったが、圧力などにも負けずに彼は市民を守る警察官としての義務を優先した。
そのためかはわからないが、順調であった彼の出世は警部で止まってしまったのだ。
だが、それで構わないと零一は思っていた。市民の平和を守る警察官として当然の責務を果たしまでの事なのである。
それを咎められるのであれば一生警部でも構わない。零一はウォルター・ビーデカーと箱舟会の資料を纏めながらそんな事を考えていた。
零一が書類を提出した際に彼の上司である公安課長が難しい顔をしながら零一を見つめた。

「これまでのキミの活躍は十分理解しているつもりだ。だが、箱舟会の暗部を暴こうなんて正気かね?」

「……お言葉ですが、課長……私は公安の刑事として、或いは市民を守る警察官としてできる限りの事をやるまでの事です」

「……後悔はないのかね?」

その問い掛けに対して零一は迷う事なく首を縦に動かす。

「そうか、ならば頑張り給え」

課長はそれだけ告げると、すぐに自身の手元の書類に目を向けた。以降は零一には見向きもしない。
零一は上司に一瞥する事もなく部屋を後にした。大方上司はこのまま自分が殉職すればいいとでも考えているに違いない。あの無愛想な態度がそれを象徴していた。
零一はそれから今度の休日の予定を確認した。彼は休日には地元の東京から大阪に遊びに行く予定であったのだ。彼は東京都民であるにも関わらず、大阪で売っている粉物が幼い頃から好きだった。
お好み焼きもそうだが、なにより彼の心を掴んだのはたこ焼きであった。
たこ焼きは幼い頃からの彼の好物でもんじゃ焼きよりも多く食べていたもしれない。
大人になっても味覚の好みが変わらなかったので、いつの間にか彼の中で危険な任務の前には大阪に行って粉物を食べる事が流儀となっていた。

夜の新幹線の中で彼は一人夜景を見ながら考えていた。この灯りの下に生きている人々の平穏を必ず守らねばならぬ、と。零一は自分をヒーローなどと思った事はない。それでもここに生きる人たちを守るのは自身の義務だと信じてやまなかったのだ。
そんな事を考えていると、ふと新幹線の窓ガラスに鳥の影の様なものが見えた事に気がつく。それもただの鳥ではなく西洋においては不吉の象徴であるとされる烏であった。
初め零一はその影を無視していたが、無視できなくなっていったのはその影が窓ガラスの上で大きくなっていったからである。ガラスの中の影はすぐにガラスを占領する羽目になったのだ。
零一が慌てて駅員を呼ぼうとした時だ。不意に自分の耳に声が聞こえてきたのだ。

(お前だ。若者よ)

零一が慌てて振り返ると、窓ガラスの影が自分に対して話し掛けている事に気が付いた。零一は堂々と口に出して問い掛けようとしたのだが、ここは新幹線の車内。迂闊に大きな声を出すわけにもいかない。なので彼は心の中で窓ガラスの影に向かって念じかけたのである。

(我の名はマルファス。地獄の悪魔たちを操る大総統にして地獄の40番目のうち第39番の軍団を率いるものよ)

(地獄の軍団だと!?バカな!?そんな非科学的な……)

(驚くのも無理はあるまい。だが、実際にわしはこうしてお前と接触している。そうであろう?)

そう問われれば零一としても頷かざるを得ない。

(よし、流石は公安警察のキャリア組……理解が早くて助かる)

(それで、オレに何の用だ?生憎とうちはクリスチャンじゃないが、悪魔などという不誠実なものと関わるつもりもない)

(まぁ、聞け、今この世界では我々によるゲームが始まっている)

マルファスは一通りゲームのルールや、契約の内容を話した後に既に参加悪魔たちの大半が人間と契約を結び、殺し合いのゲームを行なっているという。
まだ13人には届いていないのだが、多数の悪魔たちの予想が正しければ、13人が集まるのは時間の問題であるという事であった。
零一からすれば聞き逃せない言葉ばかりであった。彼は市民を守るためにマルファスと契約を結ぶ事を了承した。
契約が完了するのと同時にマルファスは一筋の影となり、零一の口の中へと入っていく。瞬間零一は激しい違和感と嫌悪感に襲われて顔が青くなり、胸が締め付けられるほどに苦しくなっていく。
マルファスと自身の体が一致するまでの間彼は強烈な吐き気と痛みに苦しめられた。
だが、体が一致すると次第に違和感は消え、楽になっていく。

(これでいいのか?)

零一が心の中で問い掛けると、頭の中からマルファスが言葉を返したのである。

(問題はない。これでいつでもお前はオレの力を借りられるのだ)

零一は訝しんでいたが、予約していたビジネスホテルの一室、バスルームの鏡の前で彼が念じるのと同時に自身の姿が変わっていった事には驚きを隠しきれなかった。
というのも、そこに映るものはいつもの自身の顔ではなく、鳥を意識したと思われる中世の拷問器具のような形状をした兜に黒い羽毛が全身に生やした鎧に身を包んでいたのだから。
手に持っているのは三叉の槍であった。どうやらこれがマルファスから自身に与えられた武器であったらしい。

「これが今のオレの姿か?」

(その通り、この力でお前は戦いに参加するのだ)

零一は躊躇う事なく首を縦に動かす。改めて、自分の武器である槍を握り締めていると、自身の耳に金属と金属とが勢いよくぶつかり合う際に生じる音を聞いた。

「お、おいこれは!?」

(サタンの息子たちを集める召集の音である。この音が聞こえればすぐにでも行かなくてはなるまい)

零一は意を決してホテルの扉を開いて、音のする方向へと向かう。
ひたすらに走り続けていると、そこには自分と同じような格好をした5人ほどの男女が既に戦いを始めていた。
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