胡蝶の舞姫

深智

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真実の底

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 銀座七丁目の割烹欣蝶は、塀で囲まれ、一見お断りの閉ざされた空間の中にあった。暖簾を潜った石畳の向こう、建物奥の庭園に面した座敷では、御膳ではなく卓を囲む形式の会食が準備されていた。

 仲居に案内され周防茜が中に入ると、恵三と一人の男が向かい合う形で座に着いていた。卓には四人分の用意がされているが、今茜が入って来た事で三人。一つはまだ空いている。

 今夜最大の目当てはまだらしい。

「今夜はお招きいただき、光栄ですわ」

 皮肉を込めて手を突き挨拶をした茜に「うむ」とだけ応えた恵三は斜向かいの席を勧めた。

「久しぶりだね、茜さん。顔を合わせる事はあっても、こうして会うのは何年ぶりだろうか」

 茜が座椅子に着くと、隣の男が品の滲み出る神々しさすら感じさせる笑みを見せた。

「ええ、丁度二十年になりますわ」

 茜は一旦座りかけた座布団を外し、三つ指を突く挨拶をした。

 周防直也。穏やかな笑みが崩れるのを見た者はいない。非の打ちどころの無い容貌を持ちながら、隠し切れないお人好し人相が美貌の印象を薄くしてしまっている。

 今夜も、毒気の一切無いキリスト様のような笑みを持って茜を迎えた。

 私が二十年前あなたにした非道の所業を覚えていない筈ないのに。

「その節は、本当にお世話になりました」

 直也は恐縮し、茜に手を差し伸べる。

「いいんだよ、茜さん。もう過去の事だ。それに」
「今はそこまでにしてくれないか。後でゆっくり話せばいい。とりあえずは揃ったので始めよう」

 二人にやり取りを続けさせたら永遠に終わらないと踏んだ恵三が会話を遮り仲居に声を掛けた。

 恵三の指示を受けて仲居が去ると、茜は向かいの空いている席を恨めしげに眺めた。

「こんな、初めてお顔を合わせるような席に遅れていらっしゃるなんて」
「彼女には一時間遅く伝えてある」
「何故」

 怪訝な顔をした茜に恵三はククッと笑った。

「君たちの二十年ぶりの対面の場を先に作っておいてやらないといけないなと言う俺の気遣いだな」
「まあ、お気遣いありがとう」
「そうだったのか。恵三らしい気遣いだな。ありがとう」

 恵三と茜の皮肉の応酬に直也は一切気が付かず、心からの感心と感謝を述べる。

 内心で舌打ちする茜に対し、恵三は快活に笑って交わす。

「直也にそう言ってもらえれば、今夜の席を設けた甲斐があるってものだ」

 酒と料理が運ばれてくると色鮮やかな九谷焼の皿に盛った一品料理が並べられた。まだ突き出しだけであったが卓が一気に華やいだ。

 互いに酌をする。杯を交わして一口呑んだところで猪口を置いた直也が徐に口を開いた。

「その、恵三が僕に紹介したいと言う娘さんが来る前に、茜さんに話しておかなければいけない事だあるんだ」
「わたくしに?」

 茜が直也に向き直るのと、直也が座布団を外し土下座をするのはほぼ同時だった。

「な、直也さん!?」
「僕は、茜さんに謝らなければいけないんだ!」
「謝る?」

 茜は驚きたじろいだが、恵三は猪口を手に至って冷静に俯瞰の表情で眺めていた。




 午後七時五分前。割烹欣蝶の前で絵美子は肚を括る。

 無いものは無い。

 恵三さんに謝って、直也様に事情をお話しさせてもらおう。

 とは言っても、胸が塞がる。足が重い。絵美子の心は沈む一方だった。

 こんな事なら恵三さんに隠したりせずちゃんとお話ししておくべきだった。

 まさか、お母さんの形見を……、と思い出すと涙が込み上げる。

 お母さん、ごめんなさい。お母さん。

 絵美子は頭を振った。自分が甘かったのだ。自分の力で救えると思ったのは奢りだったのだ。

 グッと奥歯を噛み、鼻で息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

 もう、成るようにしか成らない。行くよ!

 紺地に蝶の染め抜きを施した暖簾を潜り、絵美子は中へと入っていった。

「あら、津田様のお連れの方はやっぱり姫花ちゃんだったの」

 店の名前通り、鳳蝶のように華やかで麗しい女将が出迎えた。

「今日はお座敷じゃなくて、客としてお呼ばれなのね」
「はい」

 絵美子が答えると、女将は恭しく礼をした。

「皆様お揃いでいらっしゃいます」
「え、嘘。恵三さんは七時と仰ったのに」
「ええ、何でも先にお話しがあるとかで、一時間ほど前から座敷に」
「そうだったの」
「お連れの方がみえたら迎えに上がると恵三さんから言伝されてるのよ。座敷にお声を掛けさせてもらいますから、姫花ちゃんちょっとここで待っていてくださる?」

 絵美子は少し考えて首を振った。

「いいわ、恵三さんに中座してもらったら申し訳ないから。座敷まで案内していただけますか」

 女将は、そうね、と快諾した。

 長い廊下を歩きながら絵美子はさり気なく

「お座敷には今お二人?」
「いえ、女の方が後からいらっしゃいました」
「女の方?」

 聞いてない。

「周防茜様ですよ」

 女将が述べた名前に記憶は無かった。

「どなた? 私、ちょっと存じ上げなくて」
「あら、私、口を滑らせてしまったかしら」
「大丈夫、これからお会いするのだから、問題ないと思う」

 口を滑らせた女将の罪悪感を和らげる為、絵美子はさり気なくフォローする。実際、前もって得ておく情報は邪魔にはならない筈だ。

 微笑む絵美子に女将も笑みを返した。声を落とし、続ける。

「津田様のお父様でいらっしゃる周防麟太郎氏の若き奥様」
「若き?」
「ええ、後妻さんでいらっしゃるせいもあるけれど、三十ほどお年が下なの」

 という事は、と絵美子は瞬時に判断する。周防麟太郎の年から三十引くと、ちょうど母と同じくらいと言うことか。

「しかもね、日系二世と言うお話しを、方々から聞くわ」

 日系二世で、母と同じ年の頃?

 絵美子の中で、何かが弾けた。

「ああ、ごめんなさい、姫花ちゃんだからつい話し過ぎてーー」

 気にしないで、と応えようとした時、廊下の奥の襖の向こうから声が聞こえた。

「すまない、茜さん。僕は預かったあの子を見捨ててしまった!」

 女将と絵美子の足が止まった。立ち聞きは良くないと思いながらも気配を消し、黙してしまう。

「見捨てたって?」

 女の声が聞こえて来たが、謝ったと思われる男の反応が聞こえない。少しの沈黙を経て、耳に馴染んだ声が聞こえた。

「直也は罪の意識が強過ぎる。俺が代わりに説明してやろう」

 恵三さん……。

 愛しい男の声は、聞くだけで胸を締め付ける。胸元を押さえ後退りし、そっと退散しようと思った絵美子だったが、固まる事になる。

「七年くらい前かな。父上が、茜さんが二十年前アメリカ人との間に出来てしまった赤ん坊を秘密裏に産み落とした事実を知ってしまったんだ。しかも、その子供は直也が引き取って育てている。父上が烈火の如く怒った、と言うのは想像に難く無いだろう」

 淡々と語られていく内容は、座敷の中は勿論、廊下の空気までもを凍らせていく。張り詰めた空気は微動も許さない。

 聞くうちに、絵美子の中に一人、思い当たる人物が浮かび上がって来た。心が冷たくなっていく。

「父上は今も昔も茜さんにゾッコンだ。怒りの矛先は茜さんではなく、その子供に向けられた」
「まさか」

 女の声が震えていた。

「父上は直也に『殺せ』と命じたんだろう」

 そんな……。

 これ以上は聞けない。聞いてはいけない。

 絵美子と女将は目配せし、床板の音すら立てぬよう、抜き足差し足で後ろに下がった。

「私は、恵三さんが迎えにいらっしゃるのを待ちますので、女将さんは素知らぬフリをして恵三さんに私が来た事を伝えてください」
「そうね、そうします」

 極限まで声を落とし、二人は頷き合ってその場を去った。

 絵美子の鼓動は早鐘のように打ち続けていた。

 自分の推測は恐らく正しい。

 マリーだ。マリーは周防直也を父と言っていた。育ての父だったのだ。

 実の母親は、今そこにいる周防茜。

 彼女はマリーを産んで直ぐに捨て、産んだ事実さえも隠していたのだ。

 どんな人なの。場合によっては、黙ってはいられない。
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