胡蝶の舞姫

深智

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 中央線信濃町駅から程近い線路沿いに建つ慶應大学病院の特別個室からは、走り抜けて行く列車が見えていた。

 目の端にオレンジ色の長い車両を映しながら恵三はベッドに座る男の話を聞いていた。

「お前のお気に入りの芸者な、何と言った」
「姫花ですね。新橋の」
「そうだ、その姫花という芸者。面白い女だな」

 恵三は苦笑いしてしまう。

 絵美子、あまり目立つ事をするな。

 目の前にいる尊大な男、蛭間元輔ひるまもとすけは世間に名前こそ知られていないが、政財界で知らぬ者はいない、怪物と畏れられている男だ。今年で御年八十八歳になる、表にも裏にも通ずる大物だった。

 白髪に白髭。恰幅の良い見た目は穏やかな老爺だが、その実は違う。指一本で幾人もの人間を動かす。彼の指示で消えた人間は数え切れぬとも言われていた。

 こんな男に恵三が気に入られたのは、シベリア抑留時代のある出来事からだった。

「姫花の何が蛭間さんのお耳に?」

 素知らぬふりで聞いた恵三に蛭間は豪快に笑いながら話し始めた。

「龍山会の金貸しの男のボヤいた話が俺の耳に入ってきたんだよ。高利貸しの餌食になっていたオカマがいたんだが、姫花が親友だったとかで事務所に現生持って単身で乗り込んで来たらしい。利息だけをずっと返済させていたんだが、違法の利子を突いて啖呵切ったそうだ。これで一括返済だ、法外な利息を払う義理はない、それどころか、一括で返したんだ利息を返せ、とさ。どっかの組の姐さんのようだったらしいぞ。お前、とんでもないぞ、あの女」

 親友の借金を返してやって、今その親友は花菱に世話になっている、と言うところまで女将から聞いて知ってはいたが、まさかそこまでの事をしていたとは。

 事務所に単身? 事前に知らされていたらそんな事は決してさせなかった。

 どれだけ心配させたら気が済むのだ。お前に何かあったら俺はーー。

 縦皺を寄せた眉間を押さる恵三に蛭間はハハハと笑う。

「枠に収まる女じゃなさそうだ」

 意味深な言葉だった。顔を上げた恵三の顔はいつもの涼しい表情に戻っていた。

「そうかもしれませんが、俺はもう決めてますから」
「そうか」

 明け放っていた窓から列車の通過する音と風が流れ込んできた。

「あら、恵三さん、いらしてくださってたの」

 ドアを開けて入ってきたのは、華やかな小花を散らした小紋を上品に着こなした清楚な雰囲気の女性だった。

 恵三が「こんにちは」と微笑と共に挨拶をすると彼女は頰を赤く染め嬉しそうに笑みを返した。

「わたくしは、花を換えてまいりますので、恵三さんはどうかごゆっくり父と話してらして」

 女性は手にしていた花と花瓶を持ち、そそくさと病室を出て行った。

「あれももう直ぐ三十になってしまう。お前以外の男とは結婚しないと言って利かないのだ。困ったものだ」

 今日呼んだのはそれを聞かせる為か。

 恵三はそっと肩を竦めた。

「ご期待に添えず申し訳ございません」

 そうとしか答えられない。譲れないものは譲れない。自分が考えられる相手は彼女しかいないのだから。

 豪傑と言われる男が僅かに見せる寂しそうな顔は、娘の想いが叶わぬ事を不憫に思うのか。

「お前くらいだよ、俺に思う事を正直に堂々と言うのは。どんな相手にも怯まないんだな。そうか、だから俺の息子を助けられたんだよな」

 蛭間が恵三を息子同然に可愛がるようになったのは、シベリア抑留時代、恵三が蛭間の実の息子を身を挺して守った事件がきっかけだった。

「お前の傷を見ると思い出すよ。息子はあの後帰国出来たが栄養失調で死んでしまったからな。お前が息子になってくれたら、といつも思っている。俺は諦めないぞ」
「出来得る限りの〝親孝行〟は致しますが、婿は諦めてください」

 恵三の冷静な微笑に蛭間は「いや」と意味深に口角を上げた。

「人の気持ちってのは、ほんの小さなきっかけで変わるものだぞ。気が変わった時は、直ぐに来るといい。俺は待っている。俺の跡を継がせられるのはお前だけだからな」



 いやに含みを持たせた言葉だった。

 恵三は蛭間の言葉に不気味な凶兆を感じずにはいられなかった。

 馬鹿げている。俺が絵美子を捨てるなど、あろう筈がない。

 エレベーターの扉が開き、一階に着くと恵三は大股で歩き出した。

 前髪を掻き上げた時、不意に耳に入ってきた会話に振り向く。

「ーーは心配し過ぎなんだよ。疲れているだけだから。休めば治る」
「またそんな事言って! 検査してもらって何でもなければそれだけで安心するんだから」

 ごねる患者を宥める連れ添い、といったところか。病院ではよく聞かれるなんて事ない会話だったが、恵三は振り向いた。

 混血児……。

 深い茶色の髪に白い肌。彫りの深い造作の欧州系に日本的要素の入った顔をした女性が連れの長身男性を気遣う光景が恵三の目に映り込んだ。

 何故か、二人の姿が目に焼き付いた。

 どこかで見たのだろうか。

 ふと過ぎる記憶があった。

 そう言えば、あの混血児のその後を追っていなかった。まだあそこに彼らといるだろうか。



 銀座八丁目、金春通りから路地に入った場所にある花菱は小春日の中にあった。

 絵美子がいた頃は賑やかだった花菱も、今は住み込みの半玉も居らず風に揺れる葉音が聞こえるくらい静かだった。

「お母さん」
「おや、姫花、いらっしゃい。今夜はお座敷は無かったよね」
「うん。でも銀ちゃんをお願いしてるから、毎日顔は出しますよ」

 花菱の女将がニコニコ顔で絵美子を出迎えた。

 土間から座敷に上がり縁側で足を投げ出した絵美子を女将は「こら」と嗜めた。

「少しはお淑やかになったかと思えば」
「だって、ここが一番落ち着くんだもの」

 ため息を吐きながらも女将は柔らかに笑った。

「ここは、ずっとあなたの帰る家だからね」
「ありがとう、お母さん。銀ちゃんの事も」
「いいんだよ」

 お茶を持ってきた女将は絵美子の隣に座り庭を眺めた。

「いい子だから、あの子。庭の手入れまでしてくれるの」

 アハハと絵美子は笑う。

「昔から器用だったの、銀ちゃん。私、何でも頼りっぱなしだった」
「そうでしょうね」
「えー」

 今、スミ子は蝶花に連れらて買い物に出ているとの事だった。

「蝶花が、いたく気に入ってね。もしかしたら、姫花以上に」
「あら、なんか妬けちゃう」

 女将はフフフと肩を竦めた。

「それは冗談にしても、何か深いところで通ずるものがあったんだろうね」
「うん、それはとっても分かる」

 良かった、銀ちゃんが心穏やかに過ごせて。

 ふう、とため息を吐いた絵美子に女将は心配そうに聞いた。

「姫花、それで、大丈夫かい? その質入れした大事な形見は。流れてないかい」

 どきっとした。

「あ、うん、大丈夫! だって蛭子屋のおじさんが『任せろ』って言ってくれたんだもん。流れる訳ない」
「そうかい、それならいいけど」

 お茶を啜る女将の横顔を見ながら絵美子は内心で、「流れてました」と嘆いていた。

 花菱に来る少し前の事だった。

 恵三の用意してくれた会席の為に一回だけ、ロザリオだけ質から出そうと蛭子屋を訪ねた。

 我が儘と分かっていたが、蛭子屋のご主人なら融通利かせてくれる、そう信じて行ったのだが、主人は今日は出張だった。

 代わりにいた若い丁稚に事情を話し、出してくれるよう頼んだところ、蔵を探してくれた。

 だが、返ってきたのは『そのようなものはない』と言う言葉だけだった。

 帳簿を確認したところ、どうやら短刀までもセットで誰かが買い取ったと言うのだ。

 誰が、と聞いてもご主人がいないので答えられない。信用問題なので教えられない。店番の丁稚はテコでも動かなかった。

 結局、絵美子の大事な形見は流れてしまったのだ。

 そんな。おじさん、そんな。

 絵美子の心がショックに砕ける寸前だった。雨を多く含んだ暗雲が押し寄せる。

 母の大切な形見を、本当に手放す事になってしまうなんて。

「今夜は恵三さんとの大事な会食と言っていたね」
「あ、うん」

 恵三さん、どうしよう。

 私、大事な物を失くしてしまいました。

 母の命の恩人という〝周防直也〟さんと、やっと会えるというのに。母が、あなたから頂いたものを娘に託してくれた事、伝えたかったのに。

 どうしよう!
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