胡蝶の舞姫

深智

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対峙

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「父上は直也に『その子を殺せ』と命じたのだろう」

 恵三は、土下座したままの直也が一瞬震えるのを見た。読み通りだった、と内心で呟いた恵三は廊下の気配も同時に感じ取っていた。

 絵美子だな。

 待っていろ、と言伝したが、絵美子の性格上迎えに上がる前にこちらに来る事は予測していた。このまま立ち聞きするのかと思ったが、静かに去っていったようだ。

 やはり賢い女だ。改めて、分別のある女だと感心する。

 俺を惚れさせた女だからな。

 恵三は息を吐き、凍りついた空気を解した。

「直也、男が易々と土下座なんてするものじゃ無い」
「し、しかし!」

 頭を下げない直也に肩を竦めた。黙っていた茜が口を開く。

「それで、直也さんはその子を?」

 直也は首を振った。

「〝逃した〟んだ」
「逃した?」
「そうするしか、なかった……」

 茜は怪訝な顔をした。

「ここからは俺の推測に過ぎないが、頭に血の上った父上の事だ。直也がいたあの小さな集落を〝人質〟に取ったんだろう。お前がその子を殺して単身でこちらに戻って来なければ、村を潰す、とでも。あそこは風光明媚な場所だ。父上の力を持ってすれば観光開発の名目で潰す事など造作もない事だ。どうだ、当たっているか」

 頭を下げたままの直也は咽び泣く。概ね当たりか、と恵三は茜を見た。そのまま美人画にでもなりそうな顔が蒼白に震えている。

「直也さん、もう分かったから顔を上げて」
「直也。直也が茜さんに謝る義理はない」

 バシッと言い放たれた言葉に茜はビクッと震えた。恵三を見ると、口角を上げた意味深な笑みを見せていた。

「そうだろう? あなたには直也を責める権利は一ミリもない」
「失礼します。津田様、お連れの方がお見えになりました」

 廊下から女将の声が聞こえ、時流が止まった。

 ちょうど良いタイミングで来たな。

 恵三は「迎えに上がります」とだけ返事をした。女将は障子を開ける事なく「お願いいたします」と言い残し立ち去った。

 直也がノロノロと顔を上げる。恵三は立ち上がった。

「恵三……」
「この話はここで終いだ。彼女を連れて戻って来るまでに気持ちの切り替えておいてくれ」



 入り口の脇にある待合に通され、椅子に座り待っていた絵美子の胸がまだバクバクと鳴っていた。

 とんでもない事を聞いてしまった。でも、話を聞いてしまった事は内緒にしなければいけない。顔を元に戻さなければ。

 頰を両手でパチパチと叩いて気持ちを入れ替えていると、向こうから声がした。

「津田様、お連れの方は待合でお待ちです」
「ありがとう」

 低く甘く柔らかな声の主が近づいて来た。

「絵美子」

 留紺色の三揃いのスーツ姿。スラックスのポケットに手を突っ込んで歩いて来た恵三に絵美子の胸が小さく跳ねた。

 あんな色のスーツ着られるのは恵三さんくらいだ。

 眩しげに目を細めた絵美子に恵三はクスリと笑う。

「絵美子、俺に何か隠し事をしていないか」
「え?」

 ドキッとした。隠し事、とは?

 一瞬にして幾つもの項目が頭を駆け抜けていった。心当たりがあり過ぎる。恵三は何を知っているのか。

 絵美子はドキドキしながら恵三の顔を見上げた。

「あ、あの?」

 カマをかけられているのかもしれない。下手な言葉は吐けない。恵三はクックと笑い、ポケットから何かを出し、絵美子に渡した。

 赤いビロード貼りに瀟洒な留め具の付いた小箱だった。

「これ、は?」

 胸の高鳴りが止まらない。

「開けてみろ。絵美子が今、一番欲しいものだ」

 私が一番欲しいもの。まさか!

 急いで箱を開けてみると、質で流れてしまったロザリオのペンダントだった。赤い石が上品に光っている。

「恵三さん、これ!」

 何故、恵三さんの手に!

 言葉が出て来ない絵美子の額を恵三が小突いた。

「俺にあまり心配かけないでくれ。これ以上心配させられたらハゲる」
「は、はげ?」

 ぽかんとした絵美子に恵三はハハハと笑った。

「お前、今夜はしっかりお仕置きしてやる。覚悟しておけ」

 胸の中で何かが弾ける音がした。真っ赤になってしまう。

「恵三さん、あのっ」

 やっぱりあなたには敵わない。

「行くぞ」

 手を引かれ、少し後ろを歩き出す。

 愛しくてたまらない背中に本当なら今すぐにでも抱き付きたい。

 絵美子はロザリオの入った小箱を胸に抱き、奥座敷へと向かった。



「待たせた」

 障子を開けて中へ入ると、二人の男女が卓に並んで座っていた。

 上品な雰囲気を纏う、恵三を少し柔らかくした容姿の男と、思わず背筋が伸びてしまいそうな美女。日本美人といった感じだが化粧が濃く、キツい印象だった。

「はじめまして、中丸絵美子と申します」

 座敷に入って直ぐ、絵美子は三つ指突いて挨拶をした。

「ああ、そんなにかしこまらなくていい。顔を上げて。僕らは、恵三の選んだお嬢さんに会えるのを楽しみにしていたんだよ」

 座敷の空気をたった一声で清浄化する声だった。澄んだテノールボイス。顔を上げた絵美子は、聖人君子の姿を見た気がした。

「僕は、周防直也だ。話は聞いているかな。恵三の兄だ」

 にっこりと微笑む直也からは、人間なら誰しもが少しは持つであろう〝邪〟の色が微塵も感じられなかった。

 この人が、周防直也。ずっと探していた人。母の恩人。

 魅入る絵美子の身体がヒヤッとした空気に包まれた。

「わたくしは、周防茜と申しますの。恵三さんとは、そうね、義理の母になるのかしら」

 隣の女が静かに自己紹介した。

「よろしく」

 水と油の関係になる者同士は、目を合わせた瞬間分かるのかもしれない。

 絵美子と茜はにこやかに視線を合わせながら、視線のぶつかる先に火花を見ていた。

 合わない。この人は絶対に。

 会った瞬間認識出来た。立ち聞きしてしまった〝前情報〟が無かったとしても、この女は一生分かり合えない場所に生きている。

 目だけが笑っていない笑みを交わし、静かに会食は始まった。

 絵美子が、芸を磨き披露する芯の通った芸者である事を恵三から聞き、直也は安心したようだった。

 話しをするうちに、直也が清く正しく生きる人間である事が見えて来た。ロザリオを持つ人とは、と改めて考えさせられた。

「茜さんは、お仕事を?」

 さり気なく聞いた。気になって仕方なかった。

 華やかな雰囲気だが、スーツを着ている。身に付けているアクセサリーもセンスが良く、主婦として収まっている女には見えなかった。

「通訳をしていますの」
「通訳?」
「茜さんの英語能力は折り紙付きでね」

 直也が付け加えた。

「英語は話せて当然です。元々はアメリカ人ですもの。日系ですけど」

 日系アメリカ人。絵美子の中に母の影が過ぎった。

 母だって、英語も日本語も堪能だった。本人は何も言わなかったけれど、ハイスクールも卒業した、相当な能力のあった人だ。

 目の前の煌びやかな女と、綺麗だったのにボロボロにやつれるまで働いていた母。運命の分かれ道はどこにあったのか。

 世の中の不条理を叩きつけられ、微笑を貼り付けたまま固まってしまった絵美子の手が、卓の下でそっと握られた。

 握る大きな手の温もりが、沈んでいく心をそっと掬い上げた。手から伝わる優しさに心が浮上した。

「直也、今夜この席を設けるきっかけになった事があるんだ」
「きっかけ?」

 麗しの顔で首を傾げた直也に恵三は「ああ」と応え、絵美子に合図を送る。

「絵美子が面白い物を持っていたんだ。不思議な縁というヤツを証明してくれる」

 絵美子は、恵三から渡された小箱からロザリオを出し、直也に渡した。

「これは……」

 手の中のロザリオを凝視する直也に、絵美子は静かに語りかける。

「母の形見です。母は『交換船の中で大事な恩人さんからいただいた物』と申しておりました。爪に火を灯すような生活をしながらも、決してお金に変えたりせず大切にしていました」

 交換船、という言葉で反応した茜が視界の端に映ったが気にせず続ける。

「その裏に彫られた名前の方をずっと探しておりました。直也様で、間違いありませんか」

 ロザリオを見つめ涙ぐむ顔が神々しかった。胸が詰まる。

「ああ、間違いない。僕の物だ。戦中、留学先から帰る交換船の船上で、短刀自殺をしようとしている女性を見つけて、必死に止めたんだ」

 ああ、だから、恩人。絵美子の胸が熱くなる。

「お腹に赤ちゃんがいて。でもお相手の男性は戦死。父と母は本土に残るのは辛かろうから、と日本の親戚にお願いしてくれた、と話してくれた。愛する夫の死は、自死を覚悟させるほど辛かったんだね。長旅の間、ずっと話しを聞いたよ。話し続けるうちに少し落ち着いてくれたから『お腹の赤ちゃんを殺してはいけない。きっと、お腹の赤ちゃんに彼の魂が宿っているよ』と話してこのロザリオを渡したんだ」

 この人は、命を守る人。母だけじゃない。私の命もこの人に救われた。

「ありがとうございます……ありがとう、ございます」

 母を救ってくれて、という言葉は声にならなかった。

 両手で顔を覆って嗚咽を漏らす絵美子の肩を恵三はそっと抱いた。

「こちらこそ、大事にしてくれていて嬉しいよ。ありがとう。このロザリオはこれからも君を守ってくれるよ」

 涙を拭う絵美子の手にロザリオが返ってきた。母の笑みが見えた気がした。

「ありがとうございます」

 ロザリオを胸に抱き締めた時、直也が「実は」と話し始めた。

「そのロザリオと同じ物がもう一つ、どこかにある筈なんだ。絵美子さんのお母さんと同じで、強く生き抜いて欲しいと願った人に渡したんだ」

 躊躇いがちに話す直也を見、絵美子の心が覚悟を決めた。

 話すなら今だ。

「私、知ってます。そのロザリオの持ち主を」

 座が、凍りつく。

「絵美子?」

 流石の恵三も予想外の展開だった。クールな切れ長の目が見開かれていた。何を言い出すのだ、と言わんばかりに。

 もう止められない。絵美子はキッパリと言い放った。

「直也さんがお見捨てになった、という周防万里子という女性が、今でも大事にロザリオを持っています。彼女は私の、大切な友人の一人です」
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