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ラクリモサ

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漆黒のヴェールを幾重にも織り込み、形成された一夜という現象の一刻は、それぞれが同じように見えるも、ひとつとして同じものなどない。

水面を照らす月の名を知らぬ。

五日目の月にはなぜそれに、上弦やら下弦、小望やら十六夜、立待やら寝待など、別の呼び名が無いのかと私は訝った。その月は荘厳なる闇を、湖畔の静寂をもって見事な迄に演出していた。

長い夜であった、眠れてはいない。が、疲れは一向に感じない。

雲の底辺を朱色に染めながら、静かに夜が明ける。生まれたての朝陽は、周辺の山々を神々しく照らし、瞬く間に、湖畔に揺れる水面を無数の宝石で敷き詰める。

     ―――― 新見啓一郎 ――――

♢ ♢ ♢


「警部おはようございます。知らずと眠ってしまいました。申し訳ありません」

「おはよう、交代の監視だ、構わない。結局恭平は現れなかったな」

「そうですね。やはり、教会に居るのでしょうか」

「解らない、葬儀と告別式は8時半からだったな。ぎりぎり迄待つことにしよう、それまでに現れなかったら教会に乗り込む」

 ・・・・

「やはり恭平は昨日から修道院に居たのでしょう。我々は今から教会に入ります。原田さんは万が一恭平が逃走した時の為に、外で待機をお願いします。大木は教会内の廊下で」

「はい、承知しました」

 ・・・・

「先生が危篤となり、わたくしが恭平くんに連絡しました。仰る通り、昨日よりここで祈りを捧げておりますが、殺人事件ですか……恭平くんが犯人だと……そんな恐ろしいこと、あの子に出来るわけがありません」

「シスター、胸中お察しします。しかし事実なのです。速やかに身柄をお引き渡し下さい」

「……わかりました、こちらにどうぞ。只今、椎名先生の、告別式が執り行われております」

 シスターに案内され聖堂に入ると、参列者の献花に合わせ、モーツァルト作曲レクイエム『ラクリモサ』のピアノ伴奏による四重合唱が、厳《おごそ》かに響き渡っていた。

 ラクリモサ……涙の日よ

『最後の審判の日は、涙の日。人は裁きを受ける為によみがえる……』

(この教会に彼が居る……)
 椅子に腰掛けながら新見は、そこはかとなく全身に震えを覚えた。

『神よ、彼らにゆるしをお与え下さい。慈悲深いイエズスよ……』

「彼が、恭平君です」
 シスターは、ピアノ伴奏をする男を指差しながら新見に告げる。

『永遠の安息を彼らにお与え下さい。アーメン……』

『ラクリモサ』の合唱が静かに幕を閉じ、暫くの沈黙の後、恭平による独奏が始った。
 演奏と共に恭平は、低いハミングで主旋律を歌いだす。

「この曲は確か、バッハ『フーガの技法 第1曲』……」

「その通り、よくご存知ですね。数あるバッハの作品の中で、恭平君が最も愛して止まない楽曲です。彼はピアノの才能をこの曲により見いだされた……椎名先生によって」

 前傾に背中を丸め、前髪を垂らし、心なしか体を揺らしながらの演奏に、新見はあるアーティストを思い出した。
「歌いながら弾いている……まるで、グレン・グールドのようだ」

「あぁ……」
 新見の言葉に感嘆し、シスターは目を閉じる。
「わたくしはあの時、恭平君の才能が、白日の下に晒された瞬間をこの目で見ました。8歳の、それはまるで、神が降りて来たかの如く……その時も彼は、歌いながら弾いていました」

 新見は目を閉じ、恭平の詩「朔月」を口ずさみながら、暫し幼少時代の彼に想いを馳せる。
「朔の夜に光はある、私には解る……流浪のさだめ、漂泊のみぎわに彷徨う魂……抜け殻のこころひとつ、ただ 波に消え行く。真実だけを照らし出す、見えない光が私を射ぬき其処に落ちる影、仄暗いその影が 私の、すべて……」
(どれほど苦悩に満ちた日々を過ごそうとも、人を殺めた事実を、どう雪《すす》ぐことが出来ようか)
 目を見開き、恭平を見据えたまま新見が椅子から立ち上がると、シスターは静かに、すがるように、新見の腕を掴んだ。

「どうか……この曲が終わるまで待ってやって下さい」

 演奏が終わるとシスターは、新見を制し恭平に近づくと、彼の耳元に話し掛けた。
 恭平はシスターの話に頷きゆっくり立ち上がりながら、歩み寄る新見を黙視すると、無表情のまま軽く頭を下げ、シスターの後について聖堂を出る。廊下には、恭平の逃走を防ぐ為大木が待機していた。

「こちらをお使い下さい」
 廊下突き当たりのドアを開け、三人を小部屋に案内すると、シスターは恭平を優しく見詰めた。そして、彼の両掌を握りしめ、
「良い演奏でした。椎名先生もさぞかし喜んでいることでしょう……」
 と、溢れる涙を拭うこと無く静かに告げ、恭平の胸元に十字を描くと、後退りしながらゆっくりとドアを閉めた。
 要人の為の控え室なのか、漆喰で塗り尽くされた横長八畳程の部屋の中央には、直径150㎝の木製楕円アンティークテーブルと、4脚の猫足椅子が配置されている。
 テーブルから2メートル奥の壁は、備え付けの本棚になっており、宗教に関する書物が多数並び、対面の壁には、金色のルイ式油額に納められたダ・ヴィンチ初期の名画『受胎告知』のレプリカが飾られている。
 南側面の壁はステンドグラスで細工の施された出窓になっている為、自然の陽光は、白い空間を更に明るく演出していた。
 新見は部屋全体を見渡した後に、恭平を、本棚の壁を背にするかたちで座らせ、大木には、恭平の視界に入らぬよう彼の後ろ、本棚のすぐ前に座らせた。即ち、恭平の視界には、新見とその奥壁にダ・ヴィンチの絵画、左側面に出窓が映るというレイアウトである。

 椅子に座ると恭平は、出窓から見える銀杏の木を、虚ろな目でぼんやりと眺めていた。

 胸ポケットに忍ばせたスマホの録音アプリを起動させ、ゆっくり対面に座りながら、
「素晴らしい演奏でした」
 と、新見は穏やかな声で切り出す。
 恭平の視線は変わらず窓の外にあった。
 風が出たのか、銀杏の葉とともに、まだ小振りのギンナンが小刻みに揺れている。

「静岡県警の新見です」

 恭平は新見をチラと見、直ぐに視線を逸らす。

「9月17日23時、三島駅前のビル屋上で天野 礼子さんが殺害されました。椎名 恭平さん、天野さんをご存知ですね」

 恭平は新見の問いを無視し、視線を動かそうとしない。ただ一瞬、閉じた口元が微かに動いた。南窓から差す陽は、恭平の細かな表情を鮮やかに浮き彫りにした。
 新見は続ける。
「その日は、Wolfgangコンサートが行われた夜です。天野さんはそのコンサートに行っている。男の同伴者と共に」

 男の同伴者との言葉に恭平が反応した。視線をテーブルに落とすと、自身の動揺を察知されるのを懸念するかのように、椅子の背に強くもたれかかり、両手を上げ気だるそうに背伸びをしたのだ。

「天野さんは、その夜殺されることを覚悟していました、と言うよりも……望んでいたのか。男の同伴者は、真犯人を警察の目から逸らす、ただその為だけに天野さんに誘われ、用意された捨て駒だったのです。そうまでして犯人をかばう理由とは何なのか……」

「…………」
 恭平は両腕をだらりと落とし、下を向く。

「山梨で、天野さんの過去を調べました。それと共に恭平さん、あなたのことも。御光の家、児童擁護施設での生活、養子に迎い入れた椎名先生のこと、そして、ヴィレッジヴァンガード出演の話……」

 恭平はうつ向いたまま黙っている。
 奥に座る大木は、目を見開いたまま握りこぶしを両膝に当て微動だにせず、ただ話の行方を見守っていた。
 枝のきしみ、葉擦《はす》れの音、不規則に踊るギンナン……風は強く吹いている。
 新見には、恭平の次の反応を待つこの時間が、永遠のようにながく感じられた。

 暫くして、おもむろに恭平は顔を上げた。その視線は新見を通り越し、奥の絵画に注がれている。
 ダ・ヴィンチ作『受胎告知』
 遠近法を用いて、写実的な正確さを追求したレオナルドのデビュー作。神から遣わされた大天使ガブリエルが処女マリアのもとを訪れ、マリアの対面に座り、イエスと名付けられた子どもを授かったことを告げる、「受胎告知」の場面を描いた傑作である。

 新見はこの機を逃さず口火を切る。
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