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流浪の運命 2

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 荷馬車の上に 子牛が一頭
 ロープにつながれ 横たわる
 高い空 ツバメが一羽
 楽しそうに 飛び回る

 笑い声が麦畑を吹き抜ける
 笑って 笑って 笑って
 一日中笑っていた
 夜の間でさえも

 ダナダナダナ(ドナドナドナ)......

 子牛は泣いている 農夫が言った
 牛になれと誰が言った?
 鳥になれなかったのか
 ツバメになれなかったのか

 つながれた哀れな子牛
 運ばれて屠畜《とちく》される
 翼を持つ者は高く飛び
 誰にも隷属しない

(イディッシュ語 原詞より)

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「シスター、本当にあの子は、今日初めてピアノを弾いたのですか」

「はい……わたくしも驚いてしまって。先生の演奏が終わって、お昼の休み時間から食事もとらずにずっとピアノで遊んでいたと思ったら、いきなり弾き始めるものですから……」

「左手は少しばかり遊んでいるが、私が演奏した『フーガの技法第一番』の主旋律を、これ程正確に弾けるとは……しかもフーガの技法、遁走《とんそう》そのものを、彼なりに理解している……」

「ほんとにびっくり、しかも椎名先生、実は、恭平くんは軽度の難聴で、低音障害型感音難聴といいまして……」

「メニエール病……ですか、低音が聞こえていない……耳鳴りや、めまいもあるのですか」

「いえ、めまいはないようで、蝸牛型メニエールだとか……」

「では彼は、バッハの低音部分を自身の感性で、予測しながら弾いているというわけですか……」

「難聴に気がついたのは、つい最近のことで……恭平くんがこの施設に来て三年になりますが、わたくしはバッハを演奏したことは一度もありません」

「バッハを初めて聴いた……では、今までシスターは、どんな曲を演奏していたのですか」

「はい、施設の子供達が一緒に歌える、童謡や民謡、サウンドオブミュージックのエーデルワイスや、メリーポピンズのチムチムチェリーなどです……恭平くんは特にドナドナや、カッチーニのアヴェマリアが大好きで、よくひとりで歌っていて……」

「ドナ ドナ……。本当に、ピアノに触ったのは今日が初めてなんですよね」

「あっ、はい……」

「これはまいった……彼の脳が瞬時に、聞こえていない旋律の低音部分を補っているのか。今日初めて聴いた曲の……」

(8歳。少々遅咲きだが……しかし……)

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 16時より山本 太一の二度目の取り調べが行われた。
「山本さんどうですか、休めましたか」
 大木が尋ねる。
 監視からの報告では、午前中は気が高ぶって眠れない様子であったが、午後はタオルケットにくるまり目を瞑っていたと言う。

「…………」
 山本は下を向いたまま、大木の問いに答えようとしない。

「山本さん、当日の天野さんの様子についてお聞きします」

 午前の取り調べとは違う大木の口調に気がつくと、山本は恐る恐る、ゆっくりと顔を上げた。
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